エレナ、ミルクちぎりパンを作る

 真夜中に目覚めたシャーロットの中の人は、トーラス家メイドに厨房まで案内される。

 五大貴族である辺境伯の厨房はクレイグ家の三倍以上の広さがあり、使い方のよく分からない最新魔法調理器具が並んでいた。


『僕が欲しいのはパンを焼く材料と、肉と根菜と調味料。ああ、果物も何種類か持ってきてくれ』


 食材集めをメイドに任せると、シャーロットの中の人は両手にフライパン、エレナは大きな両手鍋を抱えて部屋に戻る。

 アザレアの眠るベッドの側に置かれた三人掛けソファーで仮眠をとっていたダニエル王子は、椅子から立ち上がりシャーロットの中の人に話しかける。


「フライパンは俺が持とう。ゲームオ、ずいぶんと簡単に料理の準備を済ませたな」

『パンを焼くから厨房のオーブンを確認したかったんだ。《腐敗》呪い持ちのシャロちゃんは、長時間厨房に入らない方がいい』

「シャーロット嬢が厨房で作業すると、保存している他の食材が《腐敗》する恐れがある」

『それと厨房に罠を仕掛けているかもしれないし、運ばせた食材に毒が含まれているかも。ダニエル王子に食材を鑑定してもらう』


 中の人が説明している間に、メイドたちは運んできた食材をテーブルの上に並べると部屋を出て行く。

 部屋の右側にアザレアの眠るベッド、左側にシャーロットのベッドが置かれ、中央に洒落た白いテーブルと椅子が四脚。

 四隅と扉の前とテーブルの上には、マーガレットが貴重品だと言った小さな鳥籠形の魔法砂時計が六個も置かれている。


『アザレア様のリクエストは、じっくりコトコト煮込んだお肉のスープ。それから柔らかくて食べやすい、ちぎりミルクパンを焼こう』

「ゲームオ様、一晩でパンを焼くなんて無理です。パンをこねて発酵させるだけで半日、焼き上がるまで一日かかります」


 エレナの家は貧しい下級騎士で、節約のため母親が家でパンを焼き、エレナもそれを手伝っていた。


『こっちの世界は天然酵母のパンだから、発酵に時間がかかるのか。でも大丈夫、僕の言う通りにすれば、朝にはふっくらしっとりのミルクパンが焼き上がる。パンを捏ねるのはエレナに任せた』


 テーブルの上に置かれた大きな小魔麦袋を見て、ダニエル王子がたずねる。


「ゲームオ、鑑定を済ませた。それにしても粉の量が多い。何個パンを焼くつもりだ」

『とりあえずアザレア様とシャロちゃんの食べるパンを三日分。作るのは僕じゃなく、エレナだけど』

「でも辺境伯令嬢の召し上がるパンを、料理人でない私が作っても良いのですか」

「俺も姉上も毒入りパンじゃなければ、不味くても気にしない」


 エレナは「不味くても」の言葉に少し眉を寄せ、そうですかと素っ気なく答えると長袖のメイド服を腕まくりをする。

 すると隣に立っていたシャーロットの中の人は、部屋の端に置かれた自分のベッドに戻ってゆく。 


「ゲームオ様、これからパンを作るのに、どうして私から離れるのですか」

『エレナ、僕は部屋の端から指示を出す。食材に《腐敗》の影響が及ばないように、常にテーブルの上の魔法砂時計を確認しろ。衰弱したアザレア様に痛んだ料理を食べさせたら大変だ』


 なるほど。と呟いて、エレナは大きな袋から小魔麦粉を取り出すと、それを見て思わず溜息を漏らす。


「ああっ、なんて綺麗。全く混じりけの無い真っ白な小魔麦粉。細かくてサラサラとして、まるでシルクのような手触り。私の家のパンは、小魔麦粉を節約して鳥の食べる雑穀を混ぜていたの」


 ボウルに黄色い木の実の天然酵母液と砂糖と塩、少し粘度のある濃厚なミルクを加えると大きなへらを使って混ぜ合わせた。

 材料が充分混ざると、エレナは大きなまな板の上にパン生地を乗せて、伸ばして練って丸めてを何度も繰り返す。

 ひとかたまりになったパン生地に、雪のように真っ白な北深雪山羊のバターを練り込む。


『よしエレナ、ここからは一次発酵。シャロちゃんのベッドの側のサイドテーブルに、パン生地を置いてくれ』

「でもシャーロット様の側にパン生地を置いたら、呪いで腐ってしまいます」


 言われてみればその通りで、エレナに天然酵母が発酵する仕組みを、どうやって説明すればいい?

 そうだ、あっちの世界には『戦うあんこパン』のアニメがあった。


『エレナ、パンは生きているんだ!! 鉢植えの花と同じように、パンは成長する』

「ええっ、パンって生き物なんですか?」


 突然中の人が予想外なことを言い出して、驚いたエレナは光の無い黒い瞳を瞬かせる。


『パンを作るエレナなら知っているはずだ。捏ねると人肌みたいにもちもちして、パン生地を寝かせると成長して大きく膨れる』

「確かに……ゲームオ様の言う通りです。ゴクリッ、このパン生地は生きている」


 最近はシャーロット信者と化したエレナは、ゲームオの言葉をあっさり信じて、シャーロットのベッドサイトにパン生地が置かれた。

 天然酵母の発酵はドライイーストより遅く、普通なら一次発酵に二時間以上かかるはずだが……。


『よし、パン生地が二倍に膨らんだ。一次発酵終わり』

「まだ二十分しか経っていません。えっ、本当だ。パン生地が大きくなっている」

『シャロちゃんの《腐敗・成長》は八倍速だから、生きているパンは二十分の八倍、二時間四十分ぶんも成長したんだ』

「パンがこんなに短時間で膨れるなら、いくつもパンが焼けます」


 パン生地を再び捏ねるエレナを見て、ゲームオはふとイタズラが思い浮かぶ。


『エレナ、パンは生きているから、捏ねながら「美味しくな~れ、美味しくな~れ」と優しく語りかければ、パンも喜ぶぞ』

「ゲームオ様、こうですか。おいしくなぁれ、おいしくなぁれ」

『いいぞエレナ。トーラス家の洗練されたお洒落メイド服を着て、額に汗を浮かべながら「美味しくな~れ」とささやく美女を眺める、これぞオタクの夢!!」


 興奮して思わずエレナに駆け寄ろうとしたシャーロットの頭を、大きな手のひらが鷲掴みホールドする。


「ゲームオ、欲望にまみれた禍々しい色のオーラがただ漏れだ。エレナ、パンを捏ねるのを替わろう。おいしくなれおいしくなれ、と言えばいいのだな」

「ダニエル殿下、とても慣れた手つきです。野営訓練で調理経験があるのでしょう」

『はぁ、男が美味しくな~れと言っても、全然萌えない』


 エレナはパン生地を小分けに形成して二次発酵させるため、シャーロットの中の人の隣にパン生地を置く。

 イタズラを邪魔された中の人は、ふてくされながらサイドテーブルを調理台にして、肉の塊にナイフを入れる。

 山脈の麓に生息する赤鼻イノシシ肉は、弾力のある赤身部分と白い脂が交互に混じっている。

 赤鼻イノシシ肉をこぶし大に切り分け、油を敷いたフライパンの上に肉の塊を乗せると、赤々と炎が燃える暖炉の中に突っ込む。


「ただ肉を焼くだけか? 姉上は硬い肉は食べないぞ」

『肉の表面をこんがり焼いて余分な脂を落とし、中に旨味を閉じ込める。そして焼いた肉を野菜と一緒に煮込みスープを作る』


 フライパンの上に置かれた赤鼻イノシシ肉は炙られた脂がジュワジュワと音を立て、香ばしいかおりが部屋の中に充満する。

 ほどよく肉が焼け、暖炉からフライパンを取り出すと、続いて中の人は大鍋を運んできて、暖炉の前に置いた。


『それじゃあダニエル王子、魔法で鍋に水を入れてくれ。王子には大鍋の番をしてもらおう。暖炉はシャロちゃんの《腐敗》呪いの範囲内だから、鍋の肉と野菜は一時間で八時間煮込んだくらい柔らかくなる』

「スープなら、姉上の好きな魔緑葡萄を多めに入れてくれ。少しの酸味と旨みのあるスープができる」


 中の人は、マスカットより一回り大きい魔緑葡萄を摘まんで食べると、どこか懐かしい酸味のある味が口いっぱいに広がった。


『酸味と旨味があってジューシー、甘みより青臭さが強い。これは葡萄じゃなくてトマト味!! トマトのスープならミネストローネ風に色々作れる。ダニエル王子に味見をしてもらえば、アザレア様の食べ慣れたスープの味に近づくだろう』


 エレナがパン担当で、ダニエル王子がスープ担当。

 シャーロットの中の人は部屋を駆けずり回りながら、ふたりにアレコレ指示を出す。

 とても騒がしくて賑やかな話し声に、アザレアは深い眠りから目を覚まし、部屋中に漂う香ばしいかおりに思わず身体を起こす。

 従弟のダニエルが暖炉の前で大鍋をかき混ぜ、テーブルの上でエレナがなにかを捏ねて、小柄なシャーロットがサイドテーブルで大きなナイフを振り上げて大量の野菜を切っている。 


「肉の焼ける、美味しそうな匂いがするわ。あなたたち、楽しそうに何をしているの?」


 

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