第2話 ボコボコ☆鉄拳制裁


 〝バチィィン!〟

 肌と肌とが激しくぶつかり合うような音がオフィスに響き、同時に戦慄も走り、その場にいた誰も彼もが呆気にとられたような顔で私たちを見ていた。


 というのも、それもそのはずで、私の平手打ちが課長の頭頂部で炸裂したからである。


「やってしまった……いや、これは……やってやった……?」


 そんなわけのわからないことを呟いている私の眼下には、真っ赤な手痕のついた頭を抱え、うずくまっている課長がいた。

 今の私の内に罪悪感というものはない。

 あるのは手のひらから伝わってくるじんじんとした感触と、この得も言われぬ達成感である。

 長い間内に抑え込まれていた負の感情が爆発したのである。


 それにしても、普段から外気に晒されていただけあって、なんて爽快な音が鳴るのだろうか、この頭は。もしかするとこの課長は人類ではない打楽器という括りなのかもしれない。


『な……!? な、なにをするんだね!? さくらくん!?』


 ようやっと課長の口から紡ぎ出された言葉は、なんとも悠長なものだった。


『〝さくらくん〟だあ~!? 馴れ馴れしいにも程があンだろ、課長さんよォ……』


 私は課長の頭をペしぺしと叩きながら続けた。


『普通、あまり親しくない間柄の場合は名前じゃなくて苗字のほうを呼ぶんじゃアねえのかあ? ああ? 苗字のほうをよォ!』

『そ、それは僕なりに部下きみと距離を縮めようと……』

『それでも苗字で呼べばいいだろうが』

『でも鈴木ってありふれてるし……』

『……ま、まぁ、百歩譲って名前を呼ぶのはいいとしよう』

『は?』


 たしかに課長憎しで、さらに馴れ馴れしく名前を呼ばれたくなかったからこう主張してみたものの、より仕事を円滑に進めるためにまずは名前から距離を詰めるという考えはわからなくはない。

 この主張は無理があり過ぎるか。ここは別の角度から攻めてみよう。


『……けどなあ、それなんだよ、それ』

『そ、それ……?』

『部下との距離の詰め方が根本的にどこかおかしンだよ!』

『ひぃぃぃぃいいいい!?』

『さっきもそうだろ! なんか急に乳触ろうとしてきたし、この前なんか尻触ってきてたよなあ!?』

『あ、あれはスキンシップのつもりで……』

『アホか! 部下の乳や尻を揉みしだく行為は立派なセクハラなんだよ! しかもなんなんだスキンシップって! 今時そんなの言い訳にもならんぞ!』


 私は課長の耳を掴んで捻り上げ、強引にその場に立たせた。


『いあだだだだだだだだだ!?』

『書類見ねえわ、話聞かねえわ、ヒトの尻触るわ……』


 私は人差し指をクの字に曲げると、課長の頭をノックするようにコンコンと叩いた。


『テメェのココに詰まってるのはなンだ? ああ!? 脳みそじゃねえ事は確かだなァ! 大抵の男は股間で物事を考えてるってよく聞くが、マジでなんも詰まってねえンじゃねえのか!? おお!?』

『つつつ、詰まってますゥゥ……!』

『何が詰まってンだ』

『の、脳ですゥゥゥ!』

『ほらみろNOじゃねえか!』


 私の発言により、オフィスの温度が急速に冷えていくのを感じる。

 課長もなにか、可哀想なモノを見るような目で私を見上げてくる。


『……テメェのせいでしょうもねえオヤジギャグ言うようになっちまったじゃねえか!』

『り、理不尽だっ!』

『理不尽なのはテメェもだろうが! そもそも課長の言動は前時代的すぎるんだよ! いまどき、こんなあからさまにパワハラ、セクハラを公然とやってくるやつなんていねえよ! 第一、この部署に来たばっかのときは普通に優しく接してくれてただろ! そりゃたしかにセクハラみたいなのは多かったけど……』

『あ、あれはさくらくんが……!』

『私がなんだってんだ』

『な、なんでもありましぇん……』

『ケッ! 根性ナシが……ンだよパッションって! ンだよハートって!! 笑わせンじゃねえ! そういう時だけ、無駄に世代を合わせようとしてくンじゃねえよ!』

『いや、でも私はあえて心を鬼にして、若い世代に世の中の厳しさを教えてあげようと──』

『厳しさを教えるもなにも、おまえはただ〝上司〟という立場にかこつけて、私の乳を触りたかっただけだろうが! この歩くセクシャルハラスメントが! 猛省しろ! それでなくてもこうべを垂れて、せめて申し訳なさそうにしろ!』

『ひ、ひィ……!?』


 すっかり縮こまってしまった課長を見下ろし、すこし言い過ぎたと思った私はその場の空気を変えるべく小さく咳払いをした。


『……あのですね課長。今の時代、私がもっと容赦なかったら……たとえば今までのやりとりを盗撮とか盗聴とかしてたら、課長なんてとっくに捕まってますからね? もう人生終わってますからね?』

『し、してたのかい!?』

『しませんよ……そんなこと……』

『よ、よかった……!』

『本当にもうこんなバカなことはやめてください。ただでさえ最近はこの世の中、色々と不寛容になって来てるんですから、課長だってご自分の行動にもっと自覚をもって──』

『い、いや、べつに……』

『……はい? 何か言いました?』

『お尻は……あれだけど、胸は別に……触ろうとしてなかったし……』

『は? いやでもさっき私の乳に手ぇ伸びてましたよね』

『いや、あれは本当にハアツの位置を示そうと……』

『はあ?』

『だってさくらくん、あんまり胸ないし……しょぼいし……触っても意味ないじゃない』



 〝ぷっちィーん☆〟

 その瞬間、私の中でなにかが切れた音がした。

 気が付くと私は左手で課長の腕を自分の肩に回して襟を掴み、そのまま懐に潜り込んで今度は腰の革ベルトを右手でがっしり掴んでいた。


『お、おいおい……さくらくん……一体何をおおおおおおぉぉぉ!?』

『ふんぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……ガァァァ!』


 私は、キョロキョロと鶏のように頭を忙しなく動かしている課長を無視し、その体が垂直になるよう持ち上げ――


『あの世で後悔しろ! こンの、ハラスメント野郎ォ!!』


 勢いよく後ろへ倒れ込み、渾身のブレインバスターをキメた。


 やってやった。


 おそらく課長は泡吹いて、白目を剥いて気絶しているはず。

 私はポケットからスマホを取り出すと、課長の無様な姿をカメラに収めるべく──収めるべく──



 ◆◆◆



「──あれ……?」


 気が付くと私はオフィスの床の上に寝転がり、椅子の裏側・・・・・を見つめていた。

 この惨状から察するに、どうやら寝落ちしてしまったようだ。

 いつの間にか椅子から滑り落ちてしまったため、後ろ髪がとんでもないことになっている。

 いや、そんなことよりも──


「電灯、切れかかってるな……」


 椅子の裏側で上手く隠れていたため、気づくのがすこし遅れてしまったが、この無様な私を嘲笑うかのように伝統がバチバチと明滅を繰り返していた。

 私は口から垂れていた涎を袖口で雑に拭うと、熊のようにのっそり立ち上がり、デスクについた。


「……すまほ」


 ポケットに入れていたはずのスマートフォンが消えている。

 私は立ち上がり、キョロキョロと周りを見回すと、床の上に転がっているスマホを発見した。

 おそらく、さっきこけた拍子にポケットから滑り落ちたのだろう。私はスマホを手に取ると、時刻は午前三時を過ぎていた。


『あ、ちなみにそれ、今日中だからね』


 脳内に課長の声が響き、デスクの上を見る。

 結構片づけたと思っていたのだが、まだまだ終わりが見えない。

 というかそもそも私ひとりでやるような内容でも量でもない。

 だってペナルティなんだもの。


「ふぅ、どうしよっかな……」


 私は5秒ほど思案を巡らせると、やがて両頬を叩いて気合を入れ直した。


「よし、帰ろう」


 私は帰宅の準備に取り掛かった。


「そもそもこの仕事って課長のだし、何か言われたらシラを切り通せばいいし、そのうえでもしうだうだ言ってきたら今度こそ課長の脳天をカチ割って永遠に黙らせてやればいい」


 ──ああ、ダメだ。

 完全に思考がおかしくなってきてる。

 頭が回っていない。


 ま、どのみちこの状況じゃ朝になっても終わらないだろう。

 この状態じゃ効率も何もない。

 どうせ叱られるのならせめて家に帰ろう。


「もういい。知らん。滅べ世界」


 私はそう吐き捨てると、書類の山を課長のデスクに戻し、フラフラと会社を後にした。




 でもまさか、本当に世界が滅ぶだなんて思わないじゃん。

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