OLサクラ

第1話 ドキドキ☆パワーセクシャルハラスメント


「──やりなおし」


「ええっ!?」



 あまりにも予想外な出来事に、思わず声が裏返ってしまう。

 二秒。

 これは私の目の前でふんぞり返っている課長が、月毎の売上と仕入れ金額に齟齬がないかの確認に要した時間である。

 早い。あまりにも早すぎる。というか、見てすらいなかった気がするのは私だけだろうか。いや、見ていなかった。


 鈴木スズキ サクラ。二十七歳。お酒とプロレスがすこし好き。この春から部署が変わり、営業から事務……というより、会計の真似事のような業務を日々こなしている、ごく普通のオフィスレディだ。

 現在は新しい仕事を色々覚えながら、課長のデスクの前で奇声を発している。信じがたい事に、これ、私なのです。



「あ……あの、課長? その……どこがダメだったのでしょうか……?」



 すこし……かなり納得がいかなかった私は、せめてもの抵抗として、おそるおそる、這いつくばるように下から、課長に異議を申し立てた。

 課長はそんな無様な私をちらりと一瞥すると、なぜかゆらりとデスクから立ち上がり、私のすぐそばに立ってきた。

 近い近い。

 しかも課長の身長が私よりも頭ひとつ分低いため、ハゲた中年の脂ぎった頭皮の臭いが鼻につく。


『お風呂には毎日入っているのだろうか』

『頭はきちんと洗っているのだろうか』

『洗っているのだとしたら、それはボディソープなのか。それともただの石鹸なのだろうか』


 そんなどうでもいい思考を巡らし、私は自分の意識を嗅覚から遠い所へ追いやった。しかし、遠い所へ追いやったところで、今度は同僚たちが私をせせら笑う声が聞こえてくる。


「見て見て、鈴木さんまた怒られてる」

「いい気味。ちょっと可愛いからって男の人にちやほやされてるから……」

「顔で入社出来ただけなんだから、大人しくお茶くみだけしてればいいのに……」



 はぁ、言いたい放題言ってるよ。

 わざわざ私に聞こえるように、チラチラこっち見ながら言わなくても、十分凹んでるんだってば。



「──くん! さくらくん! ねえ、聞いてる!?」



 急に課長の顔がドアップになり、私は思わず「わっ」と漏らした。



「わって何? 聞いてなかったんでしょ?」


「す、すみません。ちょっとボーっとしてて……」


「怒られてるってのに、良いご身分だね。自覚も無いんでしょ? そういう所だよ」


「……返す言葉もないです」


「はぁ、それにね、話を戻すけど、わざわざどこが間違っていたのか、言葉にしないとわからないのかな? わかるよね、さすがに。わかろうね。さすがに。ガキじゃないんだから」



 あらやだ。

 なんて嫌味な尋ね方なのだろうか。

 私の上司でなければ、今すぐジャーマンスープレックスをキメて、課長の人生をスリーカウントのうちに終わらせてやりたいところだ。──が、しかし、それをやってしまえば即解雇。最悪の場合、警察沙汰、獄中生活、くさい飯。

 この就職氷河期で前科なんてつこうものなら、せっかく取得した大卒の資格が水の泡。いまも田舎で畑をザクザクやってくれている家族(犬を含め)を泣かせてしまう事になる。

 我慢。我慢。我慢。

 私はありったけの力を握りこぶしに込め、なるべく課長からは見えない角度で、ワナワナと震わせて、続けた。



「えっと……私としても、ダメだった原因をご指摘いただければ、次からはそういったミスはなくせると思うので……」


「はぁ……やれやれ、呆れた。いまの若い子って全ッ然自分で考えようとしないよね。すぐに他人に答えを求めたがる。何がダメだったかとか、そういうのって自分の行動を顧みれば、おのずと見えてくるものなんじゃないかな? 逆に見えて来なかったら、それはそれで救いようがないんだけど、さ」



 課長はそう言うと、これ見よがしに肩をすくめてみせた。

 なんて不愉快なジェスチャーだろうか。私の上司でなければ、今すぐアルゼンチンバックブリーカーをキメて、その上半身と下半身を仕分けてやりたいところだ。──が、しかし、それをやってしまえば……以下略。



「す、すみません、なにぶん不勉強なもので……。以後、気をつけますので、後学のために……ご指導ご鞭撻のほうを……な、な~んて、でへへへ……」



 なんてみっともない。

 鈴木さくらはなぜか、この場面で三下の悪者みたいな笑い方をしてしまった。これが会社の歯車として生きてきた者の悲しい性というものなのだろう。



「だからさあ! 会社は利益を追求する場所なの! 会社員はその利益をもたらした見返りとして、お金をもらう! 学校みたいにお金を支払って勉強するところじゃないんだよ!! ……なのにお金をもらっておいて〝後学のため〟なぁんて……さくらさんちょっと社会を舐めてるんじゃないの? ねえ?」


「か、課長の言っている事はたしかに理解できます。でも、それは理不尽な事をしていい理由にはならないんじゃないかな、とも思ったり……」


「なに? 僕が理不尽な事をしたって言うの? ねー! みんな聞いてるー? この可哀想な子、こーんなバカな事言ってるよー?」



 バサバサと、課長が私の作成した書類を振り回しながら、オフィス中に響き渡る声で喚きながら、私をなじってくる。さっきの同期たちもこぞってそれに「えーさいてー」「しんじらんなーい」とか言って参加してくる。他の社員は基本見て見ぬふりだ。



「……あ、いえ、いちおう自分でもきちんと、何度も確認したうえで課長に提出したので見落としはないハズなのですが……。それに、つまりその……逆に課長が理不尽な事をしていないという確証が欲しいと言いますか……」


「ふぅん?」



 しどろもどろになりながらも、必死に言葉を紡いでる私を他所に、課長がさらに距離を詰めてくる。

 スーハースーハー。

 課長が鼻で大きく息を吸い、口から生ごみのような息を吐く。さらにカエルのようにねっとりとした視線で、私の体を上から下まで視姦してきた。

 ひょえええええ。

 スーツの上からではわからないけど、たぶん今、私の肌は大根をすり下ろせそうなくらい、逆立っていると思う。



「で、ですので、今回に限って、訂正箇所を教えて頂けたらな……なんて。次回以降はきちんと直しますので……し、質問も、しませんっ!」


「……全部だよ、全部」


「ぜ、全部……でやんすか……」


「そう。なんというかね、さくらくんの作成した書類にはね、心がこもってないんだよ。こ・こ・ろ」


「えっと……」



 何の話? 絵画?



「つまり情熱だよ、情熱。パァッション。ハアツ。さくらくんの作成してくれた、提出してくれたこの書類には、そういったものを感じなかったんだよねぇ……ぼかぁ、それが一瞬でわかっちゃったんだなぁ……。もう長いからね。あ、これテキトーにやってるなって。だから、見なくてもわかるのさ」



 何を言っているんだ、この中年は。私は間違った箇所を指摘しろと言ったのに、日本語が伝わらなかったのか?

 しかも見てないって白状してるし。

 ていうか、そんなに情熱が欲しいのなら、その残り少ない髪の毛に情熱という名のボヤ騒ぎを引き起こしてやろうか。



「あの……おっしゃっている意味が……」


「さくらさん、英語ダメ? パッションはハートだよ、ハート、ハアツ」


「でへへへ、ハアツっすか……そんなバカな……」


「あ、そう? わかんない? ハートって言ったらここらへんの……」



 そう言って、課長の手が不意に私の胸部へと伸びてくる。



「ちょ──」



 ──パッシィーン!

 私はすばやく課長の手を払うことで、なんとか最悪の事態を回避することに成功した。


『白昼堂々、オフィスで人の乳にナニするつもりじゃ! この万年発情薄らハゲ! いますぐナニを引っこ抜いて去勢してやろうか!』


 口から出かかった言葉を飲み込み、私が恨めしそうに課長を見ると、課長もなぜか『フー! フー!』と息を荒げながら、涙目を浮かべながら、恨めしそうに私を見ていた。

 なんだこの状況。

 なんで乳を触られかけた私が、被害者になりかけた私が、この状況で罪悪感を覚えなければならないのだろうか。私の上司でなければ、今すぐダブルリストロックをキメて、その手首を腕ごと……以下略。


 ──しかし、とはいえ、だ。

 私ももう立派な社会人四年生。

 たしかに私の胸を触ろうとしてきた行為は許されるべき行為ではないが、オフィス中に響き渡るような音で、課長の手首がぽろりと取れちゃいそうな威力で、叩き落とすのもいかがなものだろうか。

 ここはお互い、この事は水に流して、事なきを得たほうが〝大人〟な対応なのではないだろうか。昨今パワハラ、セクハラ問題が取り沙汰されるこの世の中においては、このハゲ課長も部下と接する時は、それなりに危機感を持って接しているはずなのだ。手を叩かれたことに対して一瞬困惑はしたものの、今はたぶん、私のように『さくらくんには悪いことをしたなぁ』とか思っているのではないか?

 うん、きっとそうだ。そうであってほしい。



「す、すみません課長、ついヌッと手が伸びて来たからビビっちゃって。……ちょっと強くたたき過ぎました」



 悪びれるように前傾姿勢になり反省の弁を述べる私。しかし、それとは対照的に、課長の背はどんどん後ろへ逸れていく。



「いまのは痛かった……」


「……え?」


「上司に向かって暴力を振るうとは……まったく! 最近の若者は物事が思い通りにいかないとすぐに暴力を振るってくるんだね!」


「はい?」


「それにさ! 最近世間を騒がせているあの連続強姦殺人犯も、聞くところによるとまだ若い男二人組らしいじゃないか! 同類なんじゃないのかい? キミも!」


「……な、なにを?」


「〝なにを?〟じゃあないぞ! さくらくん! 本当に……反省してるの? 上司に暴力を振るったんだよ!? わかってるの!?」


「あ、あの……」


「〝反省〟してるのかって聞いてるんだよ! こっちは!」


「し、してます……反省……」



 あまりの出来事に二の句が継げない。理解が追い付かない。

 私が発言する前は、課長もどことなく〝やっちゃった〟感を醸し出してたのに、私が謝るや否や、鬼の首を取ったように責め立ててくる。まるで先に謝ったほうが負けだと言わんばかりに。そして、あまつさえ連続強姦殺人犯と同格にまで押し上げられてしまった。

 私は今、ほんとうに人間と会話しているのだろうか。



「ふん! ……ああ、そうそう。じつは鈴木くんにはまだまだやってほしい事があったんだよね」



 ──ドサッ。

 そう言って渡されたのは書類の山だった。

『なんでこのご時世に、この量の書類をデータ化してないんですか!』なんて気の利いたツッコミを出せる精神状態なわけもなく、私はただ茫然と、手元にある書類の山を眺めた。



「ペナルティだよ、ペナルティ! 上司に暴力を振るうなんて、本当なら上申してさくらくんを解雇してもらうことだって出来るんだよ!? でもね、ほら、ぼくって優しいから。それで許してあげるって言ってんの! わかってる!?」


「えっと……」


「あ・り・が・と・ご・ざ・い・ま・す! でしょ?!」


「あ、ありがとう……ございます……」


「ほら! ボーっと突っ立ってないで、悪いと思ってるのならさっさとそれ片づけて! ……あ、ちなみにそれ、今日中だからね! ヨロシク!」

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