OLサクラ
第1話 ドキドキ☆パワーセクシャルハラスメント
「──やりなおし」
「ええっ!?」
あまりにも予想外な出来事に、思わず声が裏返ってしまう。
二秒である。
この時間は、私の目の前でふんぞり返っている課長が、月毎の売上と仕入れ金額に齟齬がないかの確認に要した時間である。
早い。あまりにも早すぎる。書類は何ページにも及んでいるというのに。
というか、ページをめくってすらいなかったと思うのだが。
いや、そもそも見てすらいなかった。
お酒と塩味強めのおつまみと、プロレスをはじめ格闘技全般がほんのり好きな27歳。
この春から部署が変わり、営業から事務へ、会計の真似事のような業務を日々こなしている、ごく普通の
現在は新しい仕事を色々覚えながら、課長のデスクの前で……奇声を発している。
信じがたい事に、これが私なのだ。
「あ……あの、課長? その……どこがダメだったのでしょうか……?」
すこし……いや、かなり納得がいかなかった私は、せめてもの抵抗として、おそるおそる、這いつくばるように下から、課長に異議を申し立てた。
というのも、今日だけでかれこれ5回以上は突っぱねられているからだ。何度も目を通し計算もし直し、間違いがないのを確認したうえで提出しているのだが……。
「ふうん?」
課長はそんな無様な私をちらりと一瞥すると、なぜかゆらりと椅子から立ち上がり、デスクをぐるりと半周し、私のすぐそばに立ってきた。
近い近い。
しかも課長の身長が私よりも頭ひとつ分低いため、ハゲた中年の脂ぎった頭皮の臭いが鼻につく。
さらにそんな私に追い打ちをかけるように、今度は同僚たちが私をせせら笑う声が聞こえてくる。
「見て見て、鈴木さんまた怒られてる」
「いい気味。ちょっと顔が良いからって男の人にちやほやされて……恥ずかしいやつ」
「顔で入社出来ただけなんだから、大人しくお茶くみだけしてればいいのに……」
聞こえてるっての。……いやまあ、わざと聞こえるように言ってるんだろうけどさ。
でもぶっちゃけ、私がこうなってしまったのも身に覚えがないこともない。
始まりは……そう、今春だった。
◆◆◆
現在のオフィスに転属した私に最初に声をかけてきたのは、この部署でも有名な女ったらしのM先輩だった。
彼の
そして事件が起きたのは、二人で酒をしこたま飲んだ帰りの私のアパートだった。
いざ事に及ぼうと私に顔を近づけたM先輩は上気した顔で、急に私の顔をまじまじと見つめ、固まった。
「もしかして……」
「へ?」
「さくらちゃんってあの……さくら
「……どの?」
「へ、平凡中3年1組の……?」
「そうだけ――」
「ぴぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!!」
そう。世間というやつは、私が思ったよりも狭かったのだ。
私を手籠めにしようとしていたM先輩は、じつは同じ中学で、一個上の先輩で、手下だったのだ。
……いや、誤解しないでほしい。
別に私がやべえヤツだったとかそういうことじゃない。
M先輩はその頃から手癖が悪く、常に女性関係で問題を起こしていた。
その流れで彼は私に舐めた態度をとってきたため、軽くお灸をすえて、ほんのすこし言うことを聞かせていた過去があったというだけだ。
風の噂で何かから逃げるように街を去ったと聞いていたのだが、まさかこんなところで再会するなんて。
――なんて感傷に浸っていると、錯乱したM先輩は私の部屋の窓を突き破り、そのまま夜の街へと消えていったのだ。
それ以降、社内の誰もM先輩の消息は知らず、彼の熱心なファンが最後に私の家に上がり込んでいたことを広め、こうなってしまったのだ。
そして結局、窓の修理代は私のポケットマネーから捻出されることになった。
課長に関しては……ぶっちゃけよくわからん。
M先輩にムーヴをかけられる前までは、かなりセクハラまがいなことをされていたが、最近はセクハラよりもパワハラに重きを置いているようだ。
おそらく、知らず知らずのうちに恨みを買っていたのだろう。
……心当たりは全くないが。
◆◆◆
「──くん! さくらくん! ねえ、聞いてる!?」
急に課長の顔がドアップになり、私は思わず「わっ」と漏らした。
「〝わっ〟て何? 聞いてなかったんでしょ?」
「す、すみません。ちょっとボーっとしてて……」
「怒られてるってのに、良いご身分だね。自覚も無いんでしょ? そういう所だよ」
「……返す言葉もないです」
「はぁ、それにね、話を戻すけど、わざわざどこが間違っていたのか、言葉にしないとわからないのかな? わかるよね、さすがに。わかろうね。さすがに。ガキじゃないんだから」
あらやだ。なんて嫌味な尋ね方ですこと。
私の上司でなければ、今すぐジャーマンスープレックスをキメて、課長の人生をスリーカウントのうちに終わらせてやりたいところだ。──が、しかし、それをやってしまえば即解雇。最悪の場合、警察沙汰、獄中生活、くさい飯。
この就職氷河期で前科なんてつこうものなら、せっかく取得した大卒の資格が水の泡。現在も田舎の畑でザクザクやってくれている家族(犬を含め)を泣かせてしまう事になる。
我慢。我慢。我慢。
私はありったけの力を握りこぶしに込め、なるべく課長からは見えない角度で、ワナワナと震わせて、答えた。
「えっと……私としても、ダメだった原因をご指摘いただければ、次からはそういったミスはなくせると思うので……」
そう。向くのだ。前を。
腐っていても仕方がない。
せめて課長好みのレイアウトに近づけよう。
「はぁ……やれやれ、呆れた。いまの若い子って、全ッ然自分で考えようとしないよね。すぐに他人に答えを求めたがる。何がダメだったかとか、そういうのって自分の行動を顧みれば、おのずと見えてくるものなんじゃないかな? ま、逆に見えて来なかったら、それはそれで救いようがないんだけど、さ」
課長はため息まじりにそう言うと、これ見よがしに肩をすくめてみせた。
なんと不愉快なジェスチャーか。
私の上司でなければ、今すぐアルゼンチンバックブリーカーをキメて、書類の表ではなくその薄汚れた上半身と下半身を仕分けてやりたいところだ。──が、しかし、それをやってしまえば……以下略。
「す、すみません、なにぶん不勉強なもので……。以後、気をつけますので、後学のために……ご指導ご鞭撻のほうを……な、な~んて、でへへへ……」
なんてみっともない。
願わくば何も言わないでほしい。
これが会社の歯車として生きてきた者の悲しい性というものなのだから。
「だからさあ! 会社は利益を追求する場所なの! 会社員はその利益をもたらした見返りとして、お金をもらう! 学校みたいにお金を支払って勉強するところじゃないんだよ!! ……なのにお金をもらっておいて〝後学のため〟なぁんて……さくらさんちょっと社会を舐めてるんじゃないの? ねえ?」
「か、課長の言っている事はたしかに理解できます。でも、それは理不尽な事をしていい理由にはならないんじゃないかな、とも思ったり……なあんて……」
「なに? 僕が理不尽な事をしたって言うの? ねー! みんな聞いてるー? この可哀想な子、こーんなバカな事言ってるよー?」
バサバサと、課長が私の作成した書類を振り回しながら、オフィス中に響き渡る声で私を
いや、いいんだ。
そんな申し訳なさそうな顔で俯かないでほしい。
もうある程度は慣れてるから。
「……あ、いえ、いちおう自分でもきちんと、何度も確認したうえで課長に提出したので見落としはないハズなのですが……それに、つまりその……逆に課長が理不尽な事をしていないという確証が欲しいと言いますか……」
私も私だ。なぜ今日に限ってこんなに突っかかってしまうのか。
いや……もしかすると私のメンタルももう限界に近いのかもしれない。
「ふぅん?」
課長が
「スゥ……ハァ……スゥ……ハァ……」
バレていないと思っているのか、課長は鼻で大きく息を吸い、口から生ごみのような臭い息を吐いている。さらにカエルのようにねっとりとした視線で、私の体を上から下まで視姦してきた。
気持ちが悪い。
「で、ですので、今回だけでいいので、訂正箇所を教えて頂けたらな……なんて。次回以降はきちんと直しますので……し、質問も、もうしません!」
「全部だよ、全部」
「ぜ、全部……?」
「そう。なんというかね、さくらくんの作成した書類にはね、心がこもってないんだよ。こ・こ・ろ」
「え、えっと……」
「つまり情熱だよ、情熱。
「は、はあつ……でやんすか……」
今たしか、書類の可否を見てもらってるんじゃなかったっけ。
「さくらくんの提出してくれたこの書類にはね、そういうのを感じなかったんだよねぇ。
一体何を言っているんだ、この中年は。私は間違った箇所を指摘しろと言ったのに、日本語が伝わらなかったのか?
しかも見てないって堂々と白状してるし。
「あの……いまいち仰っている意味が……」
「さくらさん、英語ダメ? それとも発音がちょっとネイティブ過ぎたかな? パッションはハートだよ、ハート、ハアツ」
「でへへへ、英語っすか……んなアホな……」
なんなんだこの時間は。もう勘弁してほしい。
「あ、そう? わかんない? ハアツって言ったらここらへんの……」
そう言って、不意に課長の手が私の胸部へと伸びてくる。
「は? ちょ──」
〝パッシィーン!〟
私はすばやく課長の手を叩き落すことで、なんとか最悪の事態を回避することに成功した。
『おどれはその汚ぇ手で人の乳にナニするつもりだったんじゃ! この万年発情期薄らハゲ! いますぐナニをブッこ抜いて万年賢者薄らハゲにしてやろうか!』
……そう、口から出かかった言葉を飲み込み、私が恨めしそうに課長を見ると、課長もなぜか「フー! フー!」と猫のように息を荒げながら、涙目を浮かべ、恨めしそうに私を見ていた。
なんだこの状況。
なんで乳を触られかけた私が、罪悪感を覚えなければならないのだろうか。私の上司でなければ、今すぐダブルリストロックをキメて、その手首を腕ごと……以下略。
しかし、とはいえ、だ。
私ももう立派な社会人四年生。
たしかに私の胸を触ろうとしてきた行為は許されるべき行為ではないが、オフィス中に響き渡るような音で、課長の手首がぽろりと取れちゃいそうな威力で叩き落とすのもいかがなものだろうか。
ここはお互い、この事は水に流して、事なきを得たほうが〝大人〟な対応なのではないだろうか。昨今パワハラ、セクハラ問題が取り沙汰されるこの世の中においては、このハゲ課長も部下と接する時は、それなりに危機感を持って接しているはずなのだ。手を叩かれたことに対して一瞬困惑はしたものの、今はたぶん、私のように『さくらくんには悪いことをしたなぁ』とか、さすがに頭は冷えているのではないだろうか。
うん、きっとそうだ。そうであってほしい。
「えーっと、す、すみません課長、ついヌッと手が伸びて来たからビビっちゃって。……ちょっと強くたたき過ぎました」
悪びれるように前傾姿勢になって反省の弁を述べる私。しかし、それとは対照的に、課長の背は、胸はどんどん後ろへ逸れていく。
「いまのは痛かった……」
「へ?」
「上司に向かって暴力を振るうとは……」
「……はい?」
「まったく! 最近の若者は物事が思い通りにいかないとすぐに暴力を振るってくるんだね!」
「いえ、ですが――」
「そんなんだから彼に捨てられるんだよ」
「は、はあ!? それは今は関係ない……というか、べつに私は彼とそんなんじゃ――」
「それにさ! 最近世間を騒がせているあの連続強姦殺人犯も、聞くところによるとまだ若い男二人組らしいじゃないか! 同類なんじゃないのかい? キミも!」
「……な、なにを?」
何を言い出しているんだ、この人は。
「〝なにを?〟じゃあないぞ! さくらくん! 本当に……反省してるの? 上司に暴力を振るったんだよ!? わかってるの!?」
「で、ですから――」
「〝反省〟してるのかって訊いてるんだよ! こっちは!」
「し、してます……反省……」
あまりの出来事に二の句が継げない。理解が追い付かない。追いつかせたくない。
私が発言する前は、課長もどことなく〝やっちゃった〟感を醸し出していたのに、私が謝るや否や、鬼の首を取ったように責め立ててくる。
まるで先に謝ったほうが負けだと言わんばかりに。
そして、あまつさえ連続強姦殺人犯と同格にまで押し上げられてしまった。
私は今、ほんとうに
「ふん! ……ああ、そうそう。じつは鈴木くんにはまだまだやってほしい事があったんだよね!」
そう言って渡されたのは書類の山だった。
『なんでこのご時世に、この量の書類をデータ化してないんですか!』なんて気の利いたツッコミを出せる精神状態なわけもなく、私はただ茫然と、手元にある書類の山を眺めた。
「ペェナァルティだよ、ペェナァルティ! 上司に暴力を振るうなんて、本当なら上申してさくらくんを解雇してもらうことだって出来るんだよ!?」
「いや、それはちょっと……」
「でもね、ほら、僕ぁ優しいからさ、それで許してあげるって言ってんの! わかってる!?」
「えっと……」
「〝えっと〟じゃなくて、あ・り・が・と・ご・ざ・い・ま・す! でしょ?!」
「あ、ありがとう……ございます……」
「ほら! ボーっと突っ立ってないで、悪いと思ってるのならさっさとそれ片づけて! ……あ、ちなみにそれ、今日中だからね! ヨロシク!」
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