【2】
人が身に纏う彩りにおいて、黒という色調はさして珍しくない。イェルド国内はもちろんのこと、列国でもありふれた色合いなのだと思う。
事実、王都を活気づかせる賑わいのなかで、黒髪や黒瞳が占める密度はおよそ二割。地方も含めれば、さらに比率が高まるはずだ。
けれど、この方の色味はただの黒色と呼ぶにはあまりにおごそかで、惹きつけられずにはいられない崇高さが感じられた。
強いて表現するならば「神性」だろうか。光沢を孕む漆黒はどこまでも美しく、立ち尽くすわたしの意識を捉えて離さなかった。
深沈とした雰囲気に心が洗われるようだと、瞬きすら忘れ、銀輪をいだく虹彩にしばし魅入られていれば、
「お嬢様、どうかお声かけを。ワイズナー様がお困りでいらっしゃいます」
耳元でそよぐセオドアの小声が、わたしを現実へと引き戻した。
はっと我に返り、夢心地の感覚を即座に散らす。ほのかな吐息で気持ちを立てなおすと、峻険な面立ちに柔らかな眼差しを刻む彼へと足早に近づいた。
「ずいぶんとお待たせしてしまい、申し訳ありません。そのうえはしたなくも、お出迎えそうそう不躾な真似をいたしました。……あなた様には、淑女にあるまじき醜態をお見せしてばかりで……まことにお恥ずかしいかぎりです」
未婚の男女が集う園遊会は、言わずと知れた見合いの場だ。しかも招かれた花婿候補たちは皆、しがらみや思惑がいっさい介在せぬ隣国の殿方である。
例え相手が未知に等しい異国の男性だろうと、嫁ぎ先に困窮する女性にしてみれば、自分の意思で縁を結べるまたとない好機だ。いつになくめかし込み、磨き上げた社交術をここぞとばかりに発揮して、お互いの距離を縮めんと腐心するに違いない。
とびきりの笑顔を浮かべ、会話に弾みと広がりを持たせては、種族を分かつ壁を取り払っていく。あとは大きな粗相さえ回避できれば、手を伸ばしてもらえる可能性はぐんと強まるはずだ。
ところが、わたしは違う。悲しいかな、出だしからおおいにつまずいている。
ヒギンズ侯爵令嬢に絡まれたさい、派手なありさまで芝生に転倒した。のみならず、無様に倒れ伏した拍子にグラスの塔を崩壊させ、居合わせたワイズナー様を巻き込んでしまった。
心ならずも衆目の的になったかと思えば、時を置かずして、悋気を持て余す彼女から非難まじりの八つ当たりを受けた。
あげくにはお茶を濁すような抗弁をもちいて、燻る騒ぎに無理やり終止符を打った。
最後のくだりは一部の人――ワイズナー様の友人方しか知り得ぬことだが、一連の流れを顧みれば、わたしの不器用さや要領の悪さはごまかしようもないほど周囲に露呈している。
少々の揉め事くらい臨機応変に捌いてこその伯爵令嬢なのに、情けなくもこのていたらくだ。平凡な容姿に加え、機転や柔軟性が乏しいわたしでは、興味はおろか眼中にすら入れてもらえないだろう。
及び腰だった伴侶探しに関して、ようやく真摯に向き合おうと心を入れ替えたとたん、令嬢らしからぬ失態の連続である。
前途多難な運命に暗然たる心境だったけれど、誰とも縁づかぬ結末を想定して、今のうちから覚悟を決めておいたほうがいいかもしれない。
「あなたがなにを指して醜態と言っているのか思い当たらないのだが……そもそも先触れを省いた訪問で礼を失しているのはこちらだ。詫びならば、むしろ俺がすべきだろう」
すまなげにかぶりを振るワイズナー様だが、それこそ滞在中の立場を考えれば仕方ないと思う。
彼ら一団の逗留先は、王城にほど近い宿泊棟だと聞いている。すなわち丁重な優待を受ける賓客とはいえ、イェルドに在留している期間は王室の管轄下にあるということだ。
ゆえに各人がなにかしら行動を希望する場合、どれほどささやかであろうとパーティーを運営する官吏の許可を取らなければならない。
「いいえ。イェルドにお住まいの方ならいざ知らず、
どのような順序を経由するのかわからないが、外出一つとっても、煩雑な手続きが発生するだろうことは想像に難くない。もしかすると、つど申請せねばならない面倒は、宮仕えする廷臣の比ではないのかもしれない。
故国と同様にいかぬ環境だ。もどかしさや不自由さを感じている可能性はある。
なにしろワイズナー様の時間は有限だ。相手方に往訪を伝える先触れなど、まどろっこしい手間の最たる例に違いない。
自由が利かぬ状況を斟酌するなら、送る報せを割愛し、直接足を運ばざるを得なかったのも頷ける。
「恐れながら、腰を落ち着ける椅子もなく、しばしば使用人が行き交う玄関ホールは、談話をされるに大変不向きでございます。ただいまべリンダが準備を急いでおりますから、よろしければ応接室にてごゆるりとお話されてはいかがでしょう」
やんわりとした進言が、傍らから差し挟まれた。
肩を捻って背後を見やる。場所の移動を勧めるセオドアのそばには、二歩分の間隔をあけて控えるポーラのみ。来客時には必ずと言っていいほど、家令と足並みを揃える侍女頭べリンダの姿はなかった。
つまりセオドアが示したとおり、彼女は数人の侍女を従え、
多くの侍女を束ね、円滑な家政の一端を担う、有能な筆頭者だけのことはある。いつもながら、舵取りが巧みな家令との連携に抜かりはない。
「そうね。広間で立ち話なんて、お客様に失礼ですものね。わたくしとしたことが、不調法で申し訳ありません。応接室にご案内いたします」
首肯する口調でひとりごち、淡い笑みを添えつつ、上背があるワイズナー様を仰ぎ見る。どうぞと踵を返し、回廊の奥へといざなえば、「リヴィエ伯爵令嬢」と決まりが悪そうな声がわたしを引き止めた。
呼応する素振りでゆったりと向きなおり、いかがなさいました? と窺いを乗せて小首をかしげる。すると艶やかな瞳にかすかな逡巡をよぎらせた彼は、
「いきなり門を叩いておいて今さらなのだが……迷惑ではないか? 勝手がわからぬまま軽率に動くなど、自重が足りんと反省している。むろん、衝動的なおこないへの甘さも然りだ。もしも俺の訪問があなたを困らせているのならば、正直に言ってくれて構わない」
先走った行動を悔いる物言いで、許しを請うた。
予想外の告白に目を丸くしたうえ、舌の根も乾かぬうちに、神妙な顔つきの偉丈夫をまたもやとっくりと見つめてしまった。
つかの間、視線を注いだあと、そういうことかと腑に落ちた。
気持ちが昂ぶるに任せて訪ねたはいいけれど、いざ招き入れられる段になって二の足を踏んでいる。憩いの時間に割って入る臆面のなさに、この方は後ろめたい躊躇を感じている。
煩わせてしまわないか、支障を及ぼすことになりはしないか。わたしの都合を最優先に慮ったがゆえ、誠実な態度で許しを請うているのだ。
生まれ育った国が異なるのだから、文化や習慣の隔たりはあって当然だ。価値観も違えば、物の捉え方も違う。
けれどワイズナー様は、独自の様式を面倒がるでも、おざなりにするでも、ましてや無視するでもなく、彼なりの努力で準じようと手さぐりしている。
優しくて律義なローウッドの騎士。おおらかで実直なこの方らしいと、頬笑ましいさが緩む心をじわりと温めた。
静かなホールに奇妙な
面映ゆい空気を瞬きで散らした次の瞬間、注がれる視線と無言の緊張感に根負けしたのは、意外にも彼のほうだった。
きりりとした眉に降参の色を滲ませるや、「まるで沙汰を待つ咎人のような気分だ」と、ほんの少し口角を持ち上げながら肩を竦めた。
鋭利で硬質な風采とは真逆の――と言っては失礼かもしれないが、愛嬌を帯びる仕草と台詞が凝り固まる心をくすぐり、自然と沸き立つような笑みを誘われた。
弧を描く唇に、くすくすと忍び笑いが咲き綻ぶ。憂いを含まぬ晴れやかな笑顔は、本当に久しぶりだ。かつて婚約していたあの人の、聞くにたえぬ浮き名を耳にして以来ではないだろうか。
「迷惑だなんて……むしろその逆です」
口元を和らげつつ、遠慮なさらないでと先を促せば、意を酌んだワイズナー様が、歩き出したわたしの隣に並び立つ。
歩調を揃えてくれる彼と眼差しを絡めては、途切れた話の接ぎ穂を思いめぐらせるように拾い上げた。
「折悪しく父は留守なのですが、仮に在邸しておりましたら、娘の恩人たるワイズナー様のご来訪にさぞ喜んだことでしょう。しかしながら、現実にお越しくださるだなんて夢にも思わず……運に恵まれぬ父には同情を禁じ得ません」
身を挺してわたしを庇ってくれた異国の殿方には、いたく感謝していた心配性の父。機会はないだろうが、子を助けられた親としてじかに礼を述べたかったと、ワイズナー様の勇敢さやさりげない配慮を反芻するように噛みしめていた。
伴侶を求めて国境を跨いで来ている彼だ。父が個人的に対面するには、わたしが見初められるという奇跡が第一条件になる。もっとも、凡庸な女の身に幸運が舞い降りるはずはないだろうし、仮定することさえ分不相応だと思う。
親切にも庭園では始終つききりだったけれど、しかしそれは、か弱き女性への庇護欲が理由だったからかもしれない。あるいは乗りかかった船と同義だったからかもしれない。
ともあれ、面倒見がよいワイズナー様のことだから、きっと危なっかしく見えた女を放っておけなかっただけなのだろう。
もちろん、そのあたりは父も心得ているはずだ。だからこそ万に一つもない望みと承知で、口ずさんでいたに過ぎない。
だというのに、皮肉にも父の願いはすれ違いという形で叶えられてしまった。しかもパーティーが封切りされた翌日にだ。
額面どおりに解釈すれば、願ったり叶ったりなのだろう。されども、時間の前後差という悪戯つきでは落胆は否めないし、客観的に考えても気の毒すぎる。よりによって自分が不在の時にと、ひどく残念がる姿が目に浮かぶようだ。
「母君もご夫君に随行しておられるのか」
「いいえ、母はわたくしが幼い頃に他界しておりますので、家族は当主の父と二人の兄だけなのです」
女主人の影が見当たらないことに訝しんだのだろう。出迎えた娘のそばにいて然るべき人物の欠落に、疑問を覚えるのはあたり前だと思う。
余談だが、王都に居を構える邸宅の住人は、住み込みの使用人を除けば父とわたしだけだ。
まず、爵位の継承が義務づけられている長兄だが、リヴィエ領に根差す叔父一家のもとで精魂を傾ける日々を送っている。
将来的には自身が差配する領地だからと、領主代行を務める叔父に教示を仰いだ結果が、管轄地での実地修得なのだとか。
手ほどきだなんて生やさしい指導ではなく、もはや鬼のしごきだ――などと、定期的に届く書簡には、鬱憤晴らしと紙一重の近況報告がしたためられている。
あちらに赴いて、はや二年。ぼやきに似た筆致をなぞるにつけ、元気でやっている様子に胸を撫で下ろしていた。
そして騎士団に籍を置く次兄については、縛りが多い軍規に従い、官舎暮らしを強いられて久しい。とはいえ、単騎で駆ければ道のりなどたかが知れているので、数えるほどしかない休みのたび、手みやげを片手に足しげく帰参している。
妹を可愛がってやまない兄の行動原理など筒抜けだ。疲労を物ともせず、毎回顔を出すのは父に会う目的ではなく、おもにわたしを愛でるためなのだから。
「どうぞ、召し上がってください」
会話を挟みながら応接室に移動すると、もてなしの態勢を整えたべリンダに迎えられ、向かい合う構図で革張りのソファーに腰かけた。
それぞれが着席したタイミングを見計らい、風味が豊かな紅茶と、こうばしい香り漂う焼き菓子が、無駄のない給仕で並べ置かれた。
「約束もなく押しかけた俺が言うのもなんだが、さぞ慌てたことだろう。迅速な対応とそつのない配慮で応じてくれた奉仕精神に、心から礼を言う」
わたしを見据える双眸が、立ち上がりかけたべリンダへと向けられる。彼の言動があまりにも自然体だったからか。優秀な彼女らしくなく、きょとんとしたまま中腰の格好で動きを止めた。
お茶を用意しただけで、ねぎらわれるとは思っていなかったのだろう。数拍、声をかけたワイズナー様と目線を交差させると、
「身に余るお言葉、恐縮でございます。しかしながら、私どもはデュノア家に仕える使用人。なすべきことをなしただけでございますゆえ、どうぞお気兼ねなくお寛ぎくださいませ」
背筋を伸ばした佇まいに、破顔一笑を重ね合わせた。
「お嬢様を訪ってくださる殿方のお客様……待ち侘びておりました福音に、万感胸に迫る思いでございます」と眦を染める朗色は、わたしの勘違いでなければ、ワイズナー様という存在への期待ではないだろうか。
なにやら大いなる誤解をいだいていそうなべリンダだったが、手際よくティーワゴンの上を片づけると、ポーラやセオドアにあとを託すように、嬉々とした足取りで扉の外へと退室してしまった。
閉扉と同時に、苦みを孕む吐息が霧消する。ひそかに溶かしたため息は、背後に立つセオドアがこぼしたものだ。
察するに、不用意な発言をしたべリンダへの叱責が、嘆息となって滲み出てしまったのだろう。
あいにく後ろで待機しているため、様子を窺い知ることはできない。けれど鉄壁を誇る仮面の裏では、盛大な渋面をつくっているのは確かだ。
彼は奉公人をまとめる責任者であり、また教育者でもある。したがって管理する職業柄、所作やふるまいの評価が手厳しくなるのはしょうがない。古参の域に達しているべリンダとて、十二分にわかっているはずだ。
けれど彼女は、ただの使用人ではない。つき合いも長く、家族も同然の存在だった。
有名無実な婚約者に、ないがしろにされていた時も。もはや用済みと、あっけなく打ち捨てられた時も。つかず離れずの距離感で、辛抱づよく見守っていてくれた。
感情が理性を凌駕する瞬間は多々ある。べリンダの場合もそうだ。涙に暮れるわたしの幸せを願い、傷痕を引きずる心に寄り添ってくれていたぶん、客人の前で迂闊な一面をのぞかせてしまったのだ。
すべてはわたしを思えばこそ。だから、きつく咎めないでやってほしい。
「ところで、先ほど渡しそびれてしまったのだが、受け取ってくれるか」
心地よく響くワイズナー様の声が、話の矛先を転換する。威厳ある音色につられて襟を正すと、彼は脇にかかえていた小荷物をことんとテーブルに据えた。
さほど大きくないわりに着地音は固く、そこそこ重さがあるようだ。ひょっとして部屋に飾る置物だろうか。隈なく眺めてみたものの、残念ながら中身が透けて見えるでもない。
しゃれた色彩の包装物を両手で挟むと、関心を露わにするこちらへと緩やかに差し出した。受け取ってくれるかと口にするからには、紛れもなくわたし宛てなのだろう。
男性が女性を訪ねるさい、花束の類いやら評判のお菓子やら、なにがしかの贈り物を携えるのが一般的だ。
よって礼式の一環である挨拶がわりの品は、特別な事情がないかぎり省略化する人はいないだろう。であるならば、ワイズナー様が持参した謎の包みも、それに該当する進物なのかもしれない。
「わたくしに?」
「ああ、気に入ってもらえるといいのだが」
薄紅色の柔らかな素材にくるまれた贈り物は、二十五センチから三十センチほどの高さがあった。上端部分を絞る、レースのリボンが可愛らしい。
ためらいがちに引き寄せる。疼く喜びと相まって、弾む心がいっそう高らかに乱舞した。身内以外の――しかも異性から贈り物をされるだなんて、女性のあしらいに長けたあの人を除けば初めてだった。
矯めつ眇めつ観察したのち「包みを解いても?」と、こちらの反応をつぶさに追うワイズナー様に許可を取った。
結び目をほどいた拍子に、梱包用の薄布がはらりと広がる。逸る気持ちを宥めながら、瞳を凝らしてのぞき込む。
「……え?」
それが視界いっぱいに映り込んだとたん、素っ頓狂な声を伴い、わたしの思考は固まった。
なぜなら紗の中から現れたのは、素焼きの鉢におさまる、植物とおぼしき緑色の異形だったのだから。
輪郭を辿るように視線を這わせる。何度確かめても、普通の括りにおさまらぬ変種が鎮座していた。さすがに異形は誇張しすぎかもしれないけれど、衝撃のあまりしっくりくる例えが思い浮かばない。
どう切り返すべきか判断に窮する一方、怖いもの見たさも手伝って、奇妙なそれから目が離せない。
元来、好奇心は強いほうなのだ。ひょっとすると物珍しい植物の登場に、殻に閉じこもっていた逞しさが刺激されたのかもしれない。
馴染みのない外観はつやつやした表皮に覆われ、丸みを帯びたその全容には、威嚇するが如くびっしりと棘が生えている。先端は鋭く尖り、触れればちくりと皮膚が穿たれそうだ。
よく言えば個性的。悪く言えば奇怪。見る者によって、受ける印象が二極化する形容だろう。
草花や作物に造詣が深いわけではないので、見慣れぬ植物を前に戸惑いを隠せない。にょきりと縦に伸びた、摩訶不思議な緑。このような品種があるだなんて、今の今まで知らなかった。
「イェルドには生息しない種類だからな。あなたが驚くのも無理はない。これは乾燥地帯に生育する多肉植物で、サボテンという」
「サボテン……?」
風変わりな植物からそっと視線を引きはがし、聞いたことがない呼称を咀嚼するように、贈り主であるワイズナー様へと眼差しを滑らせた。
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