禍福はあざなえる縄のごとし

【1】

 二度三度と瞬きを差し入れ、典雅な羅列を追いかける。一糸乱れず整然と連なるのは、流麗な手跡で綴られた筆だ。


 時候の挨拶から始まる主文は美しい書体で纏められ、まるで詩編の一節を彷彿とさせる調べのようでもあった。


 横並びの章句に視線を据え、一文字一文字を注意深くなぞっていく。文末にたどり着けば再び冒頭まで戻り、些細な箇所も取りこぼさぬよう、臈長けたインクの行間を読むべく目を凝らした。


 当然ながら、いくら再読しようと語る内容に変わりはない。便箋を埋めるそれは自由闊達そのもので、浮き立つ好奇心と期待に胸を躍らせる心中を、赤裸々な言いまわしで読み手へとたたみかけていた。


 ここにはいない差出人を思い浮かべれば、あの方らしいと苦笑せずにはいられない。


 きっと持って生まれた性分なのだろう。実物ににじり寄られる錯覚を覚えるほど、一応の体裁を整えた文章からは、しっとりとした趣とは真逆の情熱が痛いくらいに感じられた。


「期せずして数日の猶予を与えられた僥倖を、天からの慈悲と喜ぶべきかしら」


 ぴしりと折り目がついた書簡箋を膝に乗せ、ため息を転がしつつ独りごちる。瞼を伏せた眼裏には、線を結んだ優美な像が、緩む頬を隠すように広げた扇を翻していた。


 勇往邁進ゆうおうまいしんのきらいがある送り主の気質を考えれば、間を置かずして連絡を取ってくるだろうことは想定の範囲内だ。ある意味、当然の結果と言える。ただ、昨日の今日で働きかけてくるとは、夢にも思わなかっただけで。


 そもそも、ちょっとした祭典と呼ぶに値する壮大な茶会は、惰弱で非主体的なわたしを案じた彼女が持ちかけてきた話だ。しかも参加者たる花婿候補は、人と獣の両面を共存させるローウッド人である。


 人種の坩堝に等しい王都でも、行商人や旅人ですら、見かける確率は格段に低い。苦もなくすれ違えれるようで、実際は不可能に近い現状だ。そんな隣国の男性が相手となれば、なおさら根ほり葉ほり詳細を訊き出したいと、気が逸るのは道理なのだろう。


 沸き立つ興味を鋼の理性で抑え込み、しばらく様子見に徹してほしいと願うのは、あの方にとって納得しがたい頼みなのかもしれない。


「社交界では淑女の鑑と誉れが高い方ですけれど、ああ見えてドレッセル侯爵夫人は少々せっかちなところがおありですから。ご親族のなかでも、とりわけ可愛がっていらっしゃるお嬢様の幸せに関わることです。冷静さをかなぐり捨ててしまわれるのは、自明の理でございましょう」


 馥郁ふくいくとした紅茶をティーカップに注ぎ入れたポーラは、忍び笑いをこぼしつつ、そつのない所作で温かな茶器をテーブルへと滑らせる。続けて白磁に三色の花弁が綻ぶ砂糖壺と、小皿に盛られたメレンゲ菓子を添えては、


「すぐにでもこちらに足を運ばれたかったでしょうに。喜び勇んで当家を訪おうにも、貴族としての務めにことごとく水をさされ、さぞ悔しがっておられるお姿が目に浮かぶようです」


 同情心を編み込む物言いで、うっすらと眉尻を下げた。


 ポーラの言は、まさしく核心を突いている。便箋にこめられた言葉の数々からも、悔しがるさまが容易に想像できるし、男女の交流を初めて体験してきた姪の反応を確認したいと、気がせく胸のうちがひしひしと伝わってくるのだから。


 つまり封書の発送者はポーラの元主人であり、懇親会を装った見合いへの出席を決定事項のように勧めてきた叔母。ドレッセル侯爵夫人アドリーヌ・シュリックその人だった。


 要約すると、手紙の内容はこうだ。


 壮麗で絢爛たるお茶会の一部始終を余さず語ってもらうつもりでいたけれど、身分に付随する過密な予定――養護施設の慰問や人脈がらみの集まりなどに妨げられ、遺憾千万ながら当分のあいだ都合がつかない。


 今すぐ飛んでいけないわが身が口惜しいが、あなたの話はすべてを消化したあとの楽しみにとっておくことにする。


 なお、目付け役が顔を出さないからといって、くれぐれもガーデンパーティーへの出座を反故にせぬように――と釘を刺す一文の追記で締め括られていた。


 さすがは惜しみなく慈しんでくれる叔母だ。後ろ向きになりがちな、わたしの性格を熟知している。


 彼女にしてみれば、このタイミングで催される交流会は、失恋の痛手を上書きするには打ってつけの荒療治。かつ、勝算が不透明な賭けのようなものだったのだろう。


 王家が取り仕切る荘厳華麗な世界に触れることで、いっときでも過去の呪縛から解放される可能性に縋ったに違いない。つらい現実に蓋をして、苦痛と悲嘆を排するだけの行為は、必ずしも本人のためになるとはかぎらないから。


 もちろん優しいどなたかに見初められたなら万々歳と、決して小さくはない期待と意図を忍ばせて、二の足を踏むわたしの背を押した彼女の思いは、それとなく察していた。


 気晴らしという点においては、叔母の目論見は成功したと言えるだろう。


 料理人が腕によりをかけた豪勢なメニューや、目移りするそれらを引き立てる装花、有能な給仕による非の打ちどころがない接客。そして煌びやかな舞台に相応しい、両国の男女。


 出ばなをくじくようにぶつけられた中傷もひっくるめて、こうむった災難を帳消しにしてしまえるくらい、すべてを構成する要素は過不足なく調和し、主役の彼らを鮮やかに彩っていた。


 縁を結び、情を育む、恋物語に似た出会いの場景。

 女性ならば一度は心ときめかせる、理想へのきざはし


 けれど自分には遠くて儚い蜃気楼で、すり硝子越しに見つめるかできない、幻想の箱庭も同然だった。


 淑女の水準を満たす教養はあれど、異性を惹きつける秀でた魅力は欠片もない。加えて見栄えのしないこの容姿だ。比較されたとたん瞬く間に霞んでしまい、殿方の目に留まるのは難しい。


 なにしろ美しく着飾った色とりどりの花々が、至るところに咲き誇っているのだ。特筆に値する外的ななにかを備えているでもないわたしに、声をかけてくれる奇特な男性などいるはずもない。


 自嘲的で卑屈が過ぎると笑われても仕方がないけれど、本気でそう信じ込んでいたのだ。予期せぬ事故に見まわれる、あの時までは。


「王城を辞するさい、熱心にお申し出くださいましたローウッドのおふた方ですが、とても廉直で篤実なお人柄のようでございますね。官吏やご友人に制止されてなお、出会われて間もないお嬢様の身をひどく案じておられて……紳士とはこうあるべきと具現される男性にようやくお目にかかった気がいたします。おそらくドレッセル侯爵夫人もお聞きになれば、関心を示されるに違いありません」


 感嘆に染まるポーラの追想が呼び水となり、凪いだ記憶に波紋がたゆたう。さざ波立ちながら甦るのは、最後の最後まで護衛役を主張して譲らなかったワイズナー様と、確固たる口調で彼を擁護する同年らしき美丈夫の二人だ。


 連絡を受けて駆けつけた官吏は事情を把握するなり、当惑の面持ちで説得にかかったけれど、彼らは一歩も退くことなく護衛の重要性を滔々と教え諭していた。


 加勢にまわる友人たちの反対も作用しあい、押しつ押されつの拮抗は、とめどない膠着状態にいっそう拍車をかけた。


 いま思えば処理が追いつかない事態に、いつの間にか疲弊していたのだろう。固唾を呑んで見守るしかできないわたしは、かろうじて均衡を保っていた天秤を、徐々に観念へと傾けはじめていった。


 混沌と紛糾する空気が軋みを増してゆく傍らで、随伴の申し出を素直に受け入れたほうが賢明かもしれないと、ついに諦めの境地で途方に暮れかけたちょうどその時だった。


 果てなく続くかと思われた堂々めぐりに、突如として終止符が打たれたのは。


『失礼ながら、お嬢様の安全をご配慮くださるおふた方におかれましては、デュノア家を代表いたしまして厚く感謝申し上げます。ですが、はるばるイェルド王国にお越しいただきました賓客にご負担をおかけするなど恐れ多く……ただ、どうあっても憂惧ゆうぐが払拭されぬとおっしゃるならば、采配を振るわれる官吏方にお任せし、現在身軽でいらっしゃる騎士を数名手配していただければ万事解決と存じます』


 埒が明かないと判断したのだろう。つねに分を弁えているポーラが否やを許さぬ気迫で諌めた結果、周囲の苦言など意に介さなかった両雄は、ぐうの音も出ないとばかりにぴたりと口を噤んだ。


 鍔迫り合いに費やした時間は、おおよそ二十分。妥協もやむなしと、引き際を心得ている双方はしぶしぶといった風情で引き下がり、ひとまずの帰着を迎えた。


 帰るに帰れない状況にほとほと困り果ててしまったけれど、うわべを取り繕ったおためごかしではなく、純粋に相手を思いやる彼らの心づかいは本当に嬉しかった。


 だからこそ、礼を捧げる他になにも返せない自分が情けなく、大らかで人情豊かな彼らに寄り添う花嫁は幸せに違いないと、知らず知らずのうちにうらやむような想像を膨らませてしまったほどだ。


 しかしながら、つらつらと考えに耽っていられたのは自邸に着くまでで、予定より早く戻ってきたわたしを見た父は、案の定、眉根をゆがめた面相に戸惑いと憂色をよぎらせた。


 申し訳なさに悄々しょうしょうと肩をすぼめてしまったけれど、ばつの悪さにうな垂れる胸中を汲み取った父は、大仰な身振りで両腕を広げると、労わりと慰めに満ちた抱擁でおかえりと受け止めてくれた。


 その後、せっつかれるがまま小休止につき合い、紅茶で喉を潤しながら波乱の出来事を話して聞かせれば、「グラス倒壊の件も含めて、その方は降りかかる危険からお前を守ろうとしてくれたのだね。もしも叶うのならば、直接お会いして感謝を伝えたいものだ」と、愁眉をひらくかのように安堵の笑みを浮かべていた。


 封筒に戻した手紙をテーブルに置き、父をも凌ぐ積極性が油断ならない叔母を思う。


 ワイズナー様は名実ともに高潔な騎士だ。硝子片の雨から庇ってくれただけでなく、ヒギンズ侯爵令嬢との悶着を仲立ちしてくれたり、護衛を兼ねたつき添いを買って出てくれたりと、過分な配慮を惜しげもなく差し伸べてもらった。


 権利が制限される女性は守られるべき存在と、男性優位の風潮に否定的な叔母の感覚では、おそらく女冥利に尽きると身悶える場面なのだろう。


 実直で律義な男性に嫁ぎ、相応の年月を経た今でも、夫君を全身全霊で愛している彼女のことだ。先ほどポーラが告げたように、園遊会での出来事を知れば、ひと目ワイズナー様に会ってみたいと言い出すに違いない。


「兄とそろって謝辞を申し上げますから、ぜがひでもデュノア邸にお連れしなさい」と、迫る姿が現実のものになりそうで少し怖い。仮に推察どおりの指示を課されたとして、果たしてうまくかわせるだろうか。


 いずれにせよ、伴侶探しの交流に専念しなければならない彼らだ。忙しいあの方たちを、こちら本位の瑣事で振りまわしてはいけない。


 あくまで、ほんのひととき関わり合った縁に過ぎないのだから、花嫁選定の邪魔にならぬよう、ワイズナー様たちにはきょくりょく近づかないほうがいいかもしれない。


 むろんないにかぎるけれど、いざという時が訪れたなら、わたしが防波堤になって先走る叔母を止めるしかないだろう。――などと、重い吐息を紡ぎながら、避けては通れぬ彼女との対面をいったん棚上げにした。


 揺れる気持ちを静めんと、薫香が立ちのぼるカップをソーサーごと持ち上げる。引き寄せた器をのぞき込み、澄んだ赤褐色のみなもを瞳に映す。そこには十九年間つき合ってきた相貌が、おぼろな表情でこちらを見つめ返していた。


 平俗、凡常、十人並み。イェルドでは珍しい寒々とした髪色を別にすれば、記憶に残りにくいだろう可もなく不可もない中分の造作。人の価値は容姿で決まるわけではないけれど、それでも男性の関心をくすぐる要素の一つになるのは確かだ。


 そういえば、慎ましいふるまいに垣間見える無邪気さは、心象との差異が大きいほど、興味や好感が刺激されると聞いたことがある。もしもその心理分析が本当ならば、雰囲気を明るくする愛嬌や天真爛漫な一面でもあれば、鳴かず飛ばずの自己評価は違ったものになっていただろうか。


 可愛げを足した自身を想像してみるけれど、先天的な気質はそう簡単に変わらないと内心で首を振る。成長する過程で形成される人格も然りだ。人懐こさや朗らかさに乏しく、陽気な性格からかけ離れているわたしでは、どう頑張っても前途多難な運命しか描けそうになかった。


 落胆を帯びる冴えない陰影をぼんやり眺めていれば、よたび礼儀正しいノックが鳴らされた。次いで「お寛ぎのところ失礼いたします。少々よろしいでしょうか」と年輪を重ねた声が、隔てるドアの向こうで入室を求めて控えめに響いた。


 思い耽っていたわたしは、瞬きとともにはっと我に返る。同時にティーカップを下ろして目配せを投げると、意図を察したポーラがすみやかに扉をひらき、声の主を招き入れた。


 しなやかな足つきで戸枠をくぐるのは、総身を燕尾服で装う男性だ。堂に入った姿勢と上品な所作はじつに模範的で、無駄のない身のこなしが積年の努力と研鑽けんさんを如実に物語っている。


 見習い時代を含めて三十七年。陰になり日向になってデュノア家を支えてくれるその人物は、使用人全体を統括する家令のセオドアだ。


 父を補佐する片腕として、またはよき理解者として、伯爵家を宰領さいりょうする壮年期の彼は、何事かと身構えるわたしに双眸をあてがうと、


「王室主催の宴に参加なさっているお方と思われますが、つい先ほどお嬢様を訪ねて、ワイズナー様とおっしゃる男性のお客様がお見えになっております」


 銀ぶち眼鏡を透かした眼差しに敬愛と慈しみをたたえながら、お約束のない訪客でございますが、お会いになりますか? と判断を仰ぐ物腰でうやうやしく一礼をした。


 え? と瞠目した瞬間、固まった。口元も半端に緩んだままだ。きっと、みっともないほうけた表情をさらしていることだろう。


 素の顔を露わに、しばし言葉を失うわたしは明らかに挙動がおかしい。自覚はある。けれど信じがたさが大きすぎて、平静を繕うそばから思考が散漫になって仕方がない。


 ちょうど彼を思い出していたせいでうっかり聞き間違えたのかと、とっさにポーラへと視線を転じた。


 かすかな動揺を走らせた彼女も、困惑は同じのようだ。驚愕半分、得心半分といった面持ちで頷き返す様子を見るに、わたしの早とちりでも誤聞でもなかったらしい。


 だがしかし、本音としては複雑だ。勘違いでないことに胸を撫で下ろせばいいのか、あの方の来駕らいがに狼狽すればいいのか、まったくもって反応に窮するところではある。


 青天の霹靂といっても過言ではない取次ぎに、いまだ胸の動悸がおさまらない。


「セオドアが対応したその方は……わたしより年嵩の異国人で、とてもご立派な体格をしていらして、しかも見上げるほどの長身で、艶やかな黒髪と黒瞳をお持ちの――」

「ええ、ええ。軍神もかくやという雄々しさは我がイェルドでも稀有ゆえに、おいでになった御仁は、アニエスお嬢様が思い描かれた紳士で間違いございませんでしょう」


 いつになく、あたふたした物言いがおかしかったのか。笑いをこらえる唇は慇懃な旋律をつま弾くけれど、ところどころ奇妙に震える声までは完璧に隠しきれなかったようだ。


 苦笑を一閃させた彼の返答を受け、壁沿いに設置されている大型置き時計を凝視した。


 胡桃材の外観に精緻な彫刻がほどこされた、振り子式のそれ。古色蒼然とした時間の番人が指す現時刻は、午後二時五十分。言わずもがな、ガーデンパーティーの最中で、本来ならば親睦を深める交歓会にいそしんでいる時間帯だ。


 だというのに、あろうことか彼は大切な茶会を抜け出し、さらにはデュノア家の敷居を跨いでわたしを指名している。一体どういうことなのだろう。


「さて、お嬢様。目下ワイズナー様には玄関ホールにてお待ちいただいておりますが、いかがなさいますか」

「……あ」


 もしかすると遠目に見かけることはあっても、親しげに言葉を交わす機会はないだろう。少しの衝撃でたやすくほどける結び目は、一期一会というに似つかわしいわたしたちの関係そのもので、次に行き合った時はただの顔見知り。


 ひたむきで雄弁な眼差しも。心地よく響く低音も。硬くて厚みがある武骨な手のひらも。すべてがたまゆらの泡沫夢幻――そう思っていた。心根がまっすぐな彼の所願成就を応援するなら、そうであるべきだった。


 けれど、あの方はここにいる。

 他の誰でもない、わたし自身を訪ねてここに来ているのだ。


「きっと、大事なご用がおありなのでしょう」


 セオドアの口振りから察するに、どうやらワイズナー様は友人を同伴することなく、わが家に来られたようだ。連れ立つ余人がいない単独での訪い――それはすなわち、きわめて個人的な用件を意味する。


 前日のわたしたちは紛れもなく、保護する者とされる者だった。お互いの来歴に触れる会話をしたわけでも、私的な情報をつまびらかにしたわけでも、ましてや婚姻を前提とした交流を持ったわけでもない。


 どれほど首をひねっても、彼が面会を希望する理由については、皆目見当がつかなかった。


「お会いするわ」


 腰を上げ、衣装の裾を払いつつ、先導する家令のあとに従う。


 わたしが羽を伸ばしていた部屋は、一階に位置する団らん用の居間だ。エントランスまでの距離は目と鼻の先。移動と呼ぶほどの時間はかからない。


 とはいえ、ぐずぐずしていたせいで、彼には待機を強いるかたちになってしまった。取次ぎに要する時間が長すぎて、気分をそこねていないだろうか。もしくはわたしが面会を躊躇していると、あらぬ誤解が頭をもたげていないだろうか。


 悲観的な発想や焦慮に突き動かされ、交互に繰り出す足さばきが心持ち性急になる。


 落ち着かせるように呼吸を意識し、アイボリーの壁に挟まれる回廊を、見苦しくない歩速で先へと進む。


 先頭を行くセオドアが、ちらりとわたしを振り返る。いざなう彼の肩越しに見えたのは、玄関ホールに繋がる曲がり角。我知らず安堵した直後、焦りと強張りが解け、ほっと吐息がまろび出た。


 家令に続き、回廊を抜ける。到着したとたん、降り注ぐ自然光があたりを染め上げ、開放感あふれる吹き抜けが、限られた空間をより広大に演出していた。


 小さく息を呑む。


 重厚さと静謐さがない交ぜるなか、採光の小窓から射し込む輝きを背に、美しい佇まいの人影が豪儀な存在感を放ってそこにいた。


 暗色で統一された礼装は、ひざ丈の上着とズボンを組み合わせたフロックコート。


 すらりと伸びた四肢に加え、戦闘に特化した逞しい体つきをしているからだろうか。頭髪と虹彩の相乗効果も手伝って、仰ぐほどの長躯を誇る彼にとても似合っている。


 包装された小荷物を脇にかかえたその方は、わたしの気配に呼応するかのように、引き締まった顎を上げてこちらを向いた。


 ひたと重なる双眸に搦め捕られた刹那、裳裾もすそをあしらう歩が鈍る。のろのろと押し出す足はどこかおぼつかず、ついには数メートルを設けたまま立ち止まってしまった。


「リヴィエ伯爵令嬢」


 意思の強さを帯びる唇が淡く弧を引き、わたしを表す儀礼称号を、舌先で溶かすように甘く口ずさむ。


 一歩、磨かれた靴先をせり出したワイズナー様は、銀が縁取る瞳孔をかすかに絞ると、闇夜さえ凌駕する漆黒の瞳を眩しげに和らげた。

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