【11】

 ぴんと空気が張りつめる。緊迫した息苦しさは肌をあわ立たせ、立ち込める閉塞感が足下を這いのぼる。


 いくら声音に尖りがなくとも、あいだに割って入ったのは、隆然たる体格のローウッド男性だ。威厳ある外見もさることながら、醸し出す雰囲気も常人と一線を画している。穏やかな暮らしに慣れた令嬢には、たえがたいはずだ。


 見上げるほどの長躯に、覇気を帯びる雄々しい体つき。例え当人の内面や気質が温和だろうと、自国では稀な風采に気おされ、無意識のうちに怯えてしまっても仕方がない。けれど――。


「関わりのない殿方が淑女の会話に干渉するだなんて、誉められたおこないではありませんわね。無作法ですわよ」


 しっとりと凪いだ台詞が、物々しい気配をこともなげに振り払う。流暢に紡がれる抑揚はとても冷淡で、恐れもおののきも感じられない。むしろ、しらけた表情と不機嫌な指摘は、こちらが目を瞠るほど際立っていた。


 臆するでもないふるまいに驚きが禁じ得ず、瞬きを惜しむように目を凝らす。固唾を呑み、真紅の装いが映える人物を視界におさめる。


 たおやかに奏でられた音色は、優美な肉声。重く漂う空気を軽々とに打ち破った声の主は、ヒギンズ侯爵令嬢その人だった。


「非礼かどうかは、受け取る側の感性にもよるでしょう。どちらかといえば、見かねて介入せざるを得ないほど、あなたの言動は度を越していた――そう解釈するほうが妥当だと思いませんか」


 彼女の醒めた双眸が、流れるように背後へ移る。棘を含む批判を柔軟に切り返す男性は、年長者らしい貫禄をたたえて窘めた。


 看過するにも限度があると暗にほのめかしながら、強いて婉曲な言葉つきを選ぶあたり、きょくりょく怖がらせぬよう慎重に慮る彼なりの気づかいが察せられた。


「でしたら、あなた様も同罪ですわね。一面識もない女性への対応にしては、いささか不適切ではなくて?」


 伏した瞳をつっと滑らせ、自身の肩口を露骨に射貫く。凄然と細めた眼差しがねめつけるそれは、彼女の肩にかけられた男性の手だ。


 磨き抜かれた武器を薙ぎ、勇猛果敢に敵を討ち払う武人の手。今しがたの発言を制止するさい、とっさに置かれた武骨な左手だった。


「いいかげん離してほしいのだけど」と責める視線が美丈夫を見据えた瞬間、気まずげに眉間を絞った彼は「……失礼」と呟いたのち、肩を掴む指をやんわりと外した。


「それはそうと……一体どういうつもりですか。あなたは最初こそ頑なに拒否していましたが、最終的にはこちらのレディへ謝罪する件を聞き入れたはずです。だからこそ俺たちとともに来たのでしょう。にもかかわらず着いたそうそう約束をたがえ、詫びるどころが悪態まじりに突っかかるなど、人としてあるまじきことです」


 殿方たちがいかにして説き伏せたかなんて、未熟なわたしにはいっこうに見当もつかない。しかしながら、取り乱していただろう女性の心を鎮めんと、三人三様の配慮で宥めすかした苦労は想像に難くなかった。


 舌鋒鋭い先ほどの非難は、ひとまず脇に置くとして。約束を指す具体的な内容は不明だけれど、わたしを快く思わない彼女が男性陣に連れられてきた段階で、彼らの説得に応じた事実は覆しようがない。


「悪態だなんて、ずいぶんと人聞きの悪いことをおっしゃいますのね」


 だというのに、この方は登場してそうそうに態度を一転させた。


 ひょっとすると表面上は理解を示したふりであざむき、その実、初めから反故にするつもりだったのかもしれない。


 もしくは不承不承ながら詫びる意を決したけれど、こちらの顔を見るや否や心変わりした可能性も大いにある。


 いずれにせよ、中途半端な気持ちで愛するなど笑止千万と、あの人の機嫌を窺うだけのわたしを一蹴したくらいだ。受け身でいつづけた愚かな女への憤りが抑えられなかったのだろう。


「お言葉ですけれど、そもそもわたくしはひと言も同意などしておりませんし、頷いた記憶もありません」


 言下に、男性の整った眉がかすかに跳ね、涼やかな眦に釈然としない色が滲む。


 なにを言い出すのかと胡乱な面持ちを一過させた彼の後ろでは、「言うねえ。この期に及んでも一矢報いようとする、往生際の悪さとしたたかさは嫌いじゃねえな」と、ひりつく緊張感など一顧だにせぬ賛辞が小さく弾けては霧散した。


「リヴィエ伯爵令嬢に対しては、心情的に物申さずにはいられませんでしたから、謝罪を強要する皆様方にやむを得ずつき従っただけのこと。承知した覚えのない約束事について、なじられる謂れはありませんわね」

「……それは詭弁です」


 美丈夫の言うとおりだ。仮にうべないを明示していなくとも、ひとたび彼らの勧めに即した行動を取ってしまえば、合意を得たと見なされてあたり前だ。


 したがって彼女の言い分は詭弁であり、こじつけに他ならない。論点のすり替えとしか捉えられないそれは、誰の耳にもひどくいびつに響いたことだろう。都合よくねじ曲げられた理外の理だと。


 けれどこのなかで一番痛感している人物は、苦しまぎれと承知のうえで、主張をつま弾く彼女自身に違いない。


 おそらく侯爵令嬢として教育された矜持が、そしてあの人に手を伸ばしたわたしへの怒りが、頭を下げる屈辱を許さないのだろう。


 自省の念が伴わずとも、謝罪を口にするのは簡単だ。さらしてしまった醜態を揉み消すため、あるいは穏便な収拾をはかるため、形だけでも詫びればいい。必ずしも言葉に罪悪感を組み込む必要はないのだから。


 にもかかわらず、この方は最後の最後まで自尊心を貫く選択をした。


 傲慢もはなはだしいと理解していても、あえて高飛車な姿勢を突き通すより他なかったに違いない。


「あなた方の事情に、部外者の俺たちが口を挟むべきではないのだろうが」


 淀む空気をしりぞけるように、静かな口調が降り注ぐ。


 深みある低音の心地よさにそっと振り仰げば、難しい顔をしたワイズナー様が、硬質な眼光をヒギンズ侯爵令嬢に向けて投げかけていた。


よしみを通じていないのはもちろんのこと、いっさいの交流がない相手に対し、なにゆえそうまで貶める発言をするのか腑に落ちん。リヴィエ伯爵令嬢からは、相まみえたのはこの日が初めてだと聞いている。しかし彼女の素性を事前に把握していたあなたは違うらしい。もしや恨みでもあるのか」


 わたしにとって、彼女は見知らぬ人だ。この方の存在は寝耳に水の話であり、もしも園遊会に赴かなければ、かつての婚約者と噂になった女性の一人という認識で、漠然と処理されていただけだろう。


 対するこちらの名は、あの人の許婚として社交界に広く浸透していた。その関係からか、多数の貴族が集う夜会にもしばしば招かれていた過去がある。よそ行きの仮面が堂に入ったパートナーを立てるわたしを、彼女が偶然目にしていたとしても不思議ではない。


「まあ、心外ですわ。あの方と並び立つには多分に役不足だからといって、だたそれだけの理由で恨みをいだくほど、わたくしは品性が卑しい女ではありません。そうですわね……強いて挙げるとするなら、ささやかな八つ当たりといったところでしょうか」


 それにしても、この方には驚かされてばかりだ。


 傲然とした態度で呼び止めたかと思えば、不遜な言動を振りかざして絡んできたり。

 説得に尽力する彼らを曖昧な素振りで信じさせておきながら、いざわたしと対峙したとたん、激情を露わに噛みついてきたり。


 今もそうだ。威風堂々とした殿方二人を向こうにまわし、委縮する様子もなく、みずからの正当性をうそぶいている。


 それだけでも驚嘆のきわみだというのに、意外にも彼女は誰ひとり侍らせず、単独でわたしを追いかけてきていた。珍しいことこのうえない。


 権威ある家柄の娘はおうおうにして、巧言令色に長けた、取り巻きと呼ばれる自称友人たちを引き連れている。


 本人が望むと望まざるとにかかわらず、強者に迎合し、おこぼれにあずかろうとおもねる追従者は後を絶たない。とりわけパーティーなどの大規模な催しでは顕著だ。


 甘言を弄しておだて上げ、時には寵臣さながらの驕慢さで陰湿な中傷をまき散らす。まるで忖度を免罪符にした、意義のある遊びの延長のように。


 さも楽しげに後ろ指をさす人種が付随するなか、この方はたった一人でわたしを捕まえにきた。


 もしかすると彼女に纏わりついている“友人”は、園遊会に参加していないのかもしれない。あるいは臨場りんじょうしていても、花婿探しの語らいに忙しくて、つき合えなかっただけかもしれない。


 どちらにせよ、取り巻きがいようがいまいが意に介すでもなく行動し、かつ厚顔な一挙一動で激しくも切ない心のうちを吐露する豪胆さは、いっそ清々しいと称賛に値するほどだ。


 苛烈な印象そのままの性格ゆえに鵜呑みにしてしまいそうだが、おそらく彼女が秘める本質はまっすぐで、自身を曲げられない程度には潔いのではないだろうか。


「わざわざご足労くださいましたのに申し訳ありませんが、このたびの件に関するわたくしへの謝罪でしたらお気になさらないでください」


 気持ちを整え、言葉を紡ぐ。するとヒギンズ侯爵令嬢を含む男性方も、いっせいに訝しがる気配を漂わせた。


 無理もない。詫びを受け取るべき被害者が、いきなり謝罪は不要と突っぱねたのだ。皆一様に困惑して当然だろう。


「なぜです、レディ!? グレアムが……そこの彼が間に合わなければ、医師の世話になるほどの怪我を負っていたかもしれないのですよ。大ごとにならずに済んだとはいえ、うやむやにしていい問題ではありません」


 彼女の脇をすり抜け、広い歩幅で距離を縮めてきたのは、端整な輪郭をまばゆい髪色に縁取られた美丈夫だ。真摯な口振りを携えながら、伸ばした手のひらでわたしの肩を優しく覆った。


 視線をのぼらせた位置には、竜人の特徴である縦長の瞳孔。こちらを見つめる特異な双眸は、まるで愛おしむ対象を守るかのように深い包容力をたたえていた。


「大切なお時間を費やしてまで、わたくしを案じてくださるあなた様のお気持ちはとても嬉しく思います。……ですが、もうよいのです。幸いにもワイズナー様に守っていただきましたおかげで、ごらんのようにかすり傷一つありません。実際には由々しき事態は回避できましたし……ならばこのあたりで終止符を打つべきではないかと、そう判断いたしました」


 決して投げやりになったからでも、不毛な応酬に倦んだからでもない。こうでも言わないかぎり落着は望めず、延々と平行線を辿るかもしれないと危惧したからだ。


 突き飛ばした事実がある以上、加害者は被害者へ謝意を示すのが筋だと唱える彼。上流階級者の選民意識が邪魔をするせいで、許しを請うことをよしとできない彼女。


 譲歩は言うに及ばず、落としどころが難しい現状では、円満な解決は見込めそうにない。ならば当事者のわたしが妥結の道を模索し、埒が明かない連鎖を断ち切らねばならない。


 彼らのやり取りを見守る傍ら、せわしなく頭を働かせたすえに導き出した結論が、内済ないさいという幕引きである。


「今回の災難はグラスの落下という不運が重なった小事。言うなれば、ただの衝突事故です。しかも男女の親睦を主体とする宴は始まったばかりなのですから、幸先さいさきをくじくような出来事は忘却してしまうにかぎると思うのです」


 諭す言葉を嚥下した男性から瞳をずらし、無表情を貼りつけた彼女へと眼差しを転じる。


 矛をおさめる結びつけにしてはどこもかしこも綻びだらけで、稚拙な筋書きはこの方の苦しいこじつけといい勝負だ。


 げんに、ぬくもりに満ちた手のひらをわたしの背にあてがったワイズナー様が、「あなたはこの件を不問に付すつもりなのか」と、不満そうに囁いてきたとなればなおさらである。


 降り落ちる硝子の雨から身を挺して庇ってくれた彼にしてみれば、なかったことにされるのは納得しかねるだろうし、異存が顔をのぞかせるのも仕方ないことだ。あまり考えたくはないけれど、もしかすると胸中では、事なかれ主義の臆病者かと落胆しているかもしれない。


 心根の優しいこの方に見放されるのは、鉛を飲んだように胸がつかえて苦しい。失望の眼差しで刺し貫かれるさまを想像しただけで、言い訳じみた台詞が喉元までせり上がる。不安と葛藤に唇がわななくけれど、それでも撤回する気にはなれなかった。


 なぜなら殿方たちにつき添われてきた彼女はわたしの全身をつぶさに確認するなり、安堵とも悔悟ともつかぬ儚げな表情をよぎらせたからだ。


 おそらく来賓方に宥められているさなかも、わたしに怪我はないか、無事でいるのかと、焦慮に駆られていたに違いない。


 芝生に倒れた直後、卓布を翻して覆い被さるワイズナー様に間一髪で助けられた。むろん、彼女も目撃しているはずだ。しかし頭では大丈夫だと理解していても、罪悪感に苛まれる気持ちは別だったのだろう。


 疑いなく、後悔と呼べる自責の念は本物だ。ならばこれ以上、大きなしこりを残さないために、傷を抉るだけの揉め事は終わりにすべきだと思う。


 上体を屈めるワイズナー様と瞳を重ねながら、「申し訳ありません」と小さく頭を下げる。ためらいのない様相から、美丈夫の彼も意思の固さを悟ったのだろう。わたしの両肩を優しく拘束しながら、しょうがない人だと苦笑する吐息を頭上で溶かした。


 そうして惜しむ素振りで肩の縛めをほどいた彼は、「レディ、すべての主導権はあなたの掌中にあります。したがって無関係も同然の俺たちは、どのような考えであろうと尊重するだけです」と甘やかに相好を和らげるや、腕を伝い下りた指で帽子を握る手の甲をするりと撫でた。


「あなた、本気でおっしゃっているの……?」


 心もとなく揺れる声音が、空気を震わせる。ハッと視線を戻せば、混迷と当惑にあえぐ彼女がこちらを睨みつけていた。疎む相手から逃げ道を用意されたと、不快に感じたのだろうか。


「はい、いたって真剣です」


 わたしも負けじと見つめ返す。すでにあの人がらみの嫉妬に加え、鬱憤晴らしの八つ当たりをされている身だ。格下の女に温情をほどこされたと柳眉を逆立て、なおいっそう嫌われてしまっても構わない。


 もともと縁もゆかりもない者同士なのだ。二人を繋ぐ接点はこの場かぎり。それでいいと思う。


「でしたら、ぶつかった罪はお互い様と、このまま立ち去ってもよろしいのね」

「もちろんです。わたくしたちは不測の事態に見まわれただけですもの。少々、注目を集めてしまいましたが、現在では先刻の騒動もすっかり収束しておりますし、殿方との交流を憂いなく楽しまれるためにも、ここでお気持ちを一新しておかれるほうがよほど建設的ではないでしょうか」


 きっとこの方は自覚していないだろう。


 激昂した弾みで、わたしを突き飛ばしたあの時。

 瞠目した視界が真っ青な天穹に取って代わる間際、彼女を染め上げた波紋はいまなお脳裏に焼きついたままだ。


 愕然と青ざめる頬。

 頼りなげに強張る口元。

 震えていたとおぼしき腕。


 反射的に体が動いたのだとわかるその怯えようは、ひと言で表すならば聳動しょうどうだろうか。


 つり上がりぎみの瞳を限界まで見ひらき、しでかした行為がにわかには信じられないと、色を失ったおもては恐怖と罪の意識に埋め尽くされていた。


 令嬢の鎧を脱ぎ捨てた彼女の素顔は、本心をおくびにも出さない唇よりも雄弁だ。刹那に捉えた面持ちはどこか弱々しく、今にも泣き崩れてしまいそうなほど不安定だった。


「……あなたがそう望むのなら、目的を果たしたわたくしが、針のむしろのような場に長居する理由はありませんわね」


 きっとこの瞬間も、高飛車なふるまいの陰で、衝動的な暴挙に走ってしまった自身を悔いているのだろう。矜持と良心の板挟みに苦しむ彼女を慮れば、強引な和解に持ち込んだ判断はことのほか賢明だったのかもしれない。


 かすかに眉根を寄せた彼女は、女性らしい曲線を描く肢体をゆったりと反転させる。そうして流麗な所作でドレスの裳裾を捌きながら、軽やかな足運びで芝生を踏み締めた。


 淑女然とした後ろ姿は紛れもなく高位の貴族令嬢で、金切り声で威嚇してきた方と同一人物だなんて思えない品格と優雅さがあった。


「リヴィエ伯爵令嬢……やはりわたくしは、あなたが嫌いよ」


 ふいに足を止めたヒギンズ侯爵令嬢ブリジット様は、静やかな旋律にすげない呟きを織り交ぜると、今度こそ男女がひしめく波間へとその身を沈めていった。

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