【10】

 反感に満ちた痛烈な響きが、むき出しの鋭さで鼓膜を引っかく。一瞬、聞き間違いかと耳を疑ったけれど、彼女が放つ冷ややかさが、紛うことなき現実なのだと知らしめていた。


 不意打ちの台詞に困惑を隠せずにいるのは、どうやらわたしだけではないらしい。悟られないよう意識を割けば、テーブルに集まる殿方たちも同じく、驚愕と衝撃が混在する様相で息を呑んでいた。


「予定調和とばかりに与えられた縁も、恵まれた幸運の尊さも、天の恩寵すら味方につけたあなたが、心底憎らしくてたまらなかったわ」


 忌々しげに眉宇をゆがめた彼女は、押し殺した語調と握られた両こぶしに、怒りの発露を滲ませる。


 かすかな瞠目を伴う、こちらの反応に気をよくしたのか。紅を重ねた唇に皮肉めいた笑みを浮かべると、甲に飾りをあしらう靴先を一歩分こちらへせり出した。


「なにを指して責められているのか、まったく思い当たらないといった顔つきね。ようするに、わたくしが味わった身を切られるようなつらさは、あなたにとってその程度の出来事でしかなかった、ということかしら。……つくづく癇にさわる人だわ」


 対面したそうそう非難されるだなんて展開は、いささかも予測していなかった。それゆえ突然の糾弾に戸惑い、感情の綻びを取り繕うのが遅れてしまった失態は否定しない。しかし彼女があげつらったように、決して心当たりがないわけではなかった。


 いっさいの面識がない相手に絡まれたうえ、嫌味やあざけりを投げつけられたのだ。わたし個人に的を絞った動機は言わずもがなで、なにより嬉々として綴られる揶揄のなかに、この方を駆り立てた起因はひどく顕著だった。いくらなんでも察せられないはずがない。


 後を追わずにはいられないほどわたしに拘泥こうでいし、なおかつ面と向かって敵意を突きつけるくらい嫌悪感をいだく理由とは――。


 定められた相手がいようと華々しい徒名あだなを流しつづけ、ある日“真実の愛”に目覚めたとたん、すべてを切り捨てるように背中を向けて去っていった人。


 秀でた美貌と柔らかな物腰で異性を酔わせ、そしてこの方の心も等しく奪ってしまった、罪つくりな元婚約者についてだろう。


「可能性はきわめて低かったけれど、もしもこの先あなたと顔を合わせる機会が訪れたなら、その時は行き場のなかった苛立ちと腹立たしさを、思う存分ぶつけて差し上げるつもりでおりましたのよ」


 交差する視線を外さぬまま、率直な物言いで宣戦布告を匂わせる。彼女みずからわたしを捕まえにきた時点で十中八九そうだろうと推測していたし、人目を憚らないほどの私憤となればおおかたの予想はつく。


「失礼ながら、わたくしのなにがあなた様のご気分を害してしまったのでしょうか」


 婚約が成立していた頃はもちろん、それよりさかのぼった以前も、一度として彼女の存在を見聞きしたことはなかった。当然ながら直接会ったこともない。


 破談を余儀なくされて以来、社交界をはじめとした人との交流を遠ざけ、殻に閉じこもる籠居ろうきょ暮らしを送っていたわたしだ。接触が皆無の相手に、迷惑を及ぼせるはずもない。


 二年ものあいだ顧みられることがなかった、空疎な婚約期間はさておき。おそらく、この方が燻らせている憤りの根幹とは、取るに足らぬ女が見目麗しい彼の許婚だったおさまりの悪さに違いない。


 物語の王子に勝るとも劣らぬあの人は、突出した美貌の持ち主だった。老いも若きも微笑み一つで虜にしてしまう魅力を備え、また一部の同性から女たらしと陰口を囁かれる奔放な側面は、もはや天賦の才といっても過言ではなかった。


 まるで身につける衣装の如く、次々と女性を取り替える彼に、眉をひそめる者は少なくなかったと記憶している。己の所業を悔い改めよと、節操のなさに苦言を呈する良識者もいた。


 けれど想いを募らせるこの方は違う。熱しやすく冷めやすい性格と承知のうえで、あの人に恋い焦がれているのだろう。だからこそいっときとはいえ、器量不足なわたしが婚約者を名乗っていた痕跡が我慢ならないのかもしれない。


「あらあら、まるで他人事のようにおっしゃるのね。それともあの方との結びつきはすでに過去のことと、たかが一年で気持ちを切り替えられて、次なる伴侶探しに精をお出しになっているのかしら?」


 ヒギンズ侯爵令嬢が振りかざした矛先は、いまだひりつく傷痕めがけて勢いよく打ち下ろされた。


 触れてほしくない領域に、不躾な当て擦りで踏み込まれたからか。地についているはずの足下はおぼつかなくなり、貫かれた箇所を基点にして、冷たい息苦しさが波紋を広げた。


「婚約者の地位を得たあなたが、どれほど妬ましかったことか。公的な場でのエスコートはもちろん、包み込むような眼差しに胸を高鳴らせる甘やかな声。……あの方に帰属するすべてを労せず手にしていた方には、遠くから眺めるしかできない者の気持ちなど一生わからないでしょうね」


 妬心、悋気、羨望。言い方はさまざまあるけれど、古今東西、好意という種子に根づく負の感情は一つ。嫉妬だ。


 つき合っていたらしい両者が真に心を通わせていたのか否か、こちらのあずかり知るところではない。それでもお互いが気持ちを傾け、親密になる要素をそれぞれのなかに見いだしたのだろう。


 対するわたしは路傍の石さながらで、差し出される対応は清々しいほど真逆と言ってよかった。あの人の隣に並び立つ姿が妬ましかったと彼女はこぼしたけれど、いつ破綻してもおかしくない二人の関係は、薄氷の上を進む危うさと同義だったのだから。


 そもそも、適切な距離しか与えられなかったわたしとは異なり、この方は界隈で噂が立つ程度には彼と懇意にしていはずだ。


 無味乾燥なこちらの実情を聞き知っていたかはともかく、粗略に扱われてきたわたしとしては、これ以上みじめな思い出を蒸し返さないでほしかった。


「確かに……わたくしは以前あの方と婚約しておりました。ですが、あなた様が考えていらっしゃるような、折り合いがよい関係ではありませんでした」


 婚約というより契約。愛情ではなく取引き。


 結婚は両家を縁づかせる形式に過ぎず、本来の目的はデュノア家の姻族になることで得られる利益そのものだ。むろん、そこにあの人の気持ちは一滴も含まれていない。


 だからなのだろう。期待していた良好な間柄はぎくしゃくした幕開けとなり、以後わたしへの興味はもとより、歩み寄りの気配すらなかったのは。


 わたしたちが公の場で寄り添うのは、体裁を整えるため。模範的なエスコートも然り。可もなく不可もないふるまいは無関心の表れで、会話やダンス、送り迎えのあいだでさえ、終始一貫してよそよそしい儀礼の枠を踏み越えることはなかった。


「むしろ政略的なしがらみと相まって、好みの範疇ではないわたくしは疎まれていたも同然で――」


 例えゆきずりの恋だったとしても、この方は彼に愛されていた。


 厳しい審美眼を持つあの人が、食指を動かした相手だ。仮に口づけ止まりの仲だったにしろ、男女の一線を越えた濃密な繋がりがあったにしろ、結果的に彼が納得して築いた相互関係のはずだ。きっと惹かれ合うなにかがあったのだろう。


 憧れの男性から大切にされ、望外の喜びに耽溺していた時期があるのなら、相手の移り気な性分ごと清濁併せ呑もうとしてしまうのは道理だ。


 わたしの恋心は手ひどい裏切りで散り落ちてしまったけれど、だからこそ彼女のつらさも苦しさもわがごとのように理解できる。


 想い人が他の女性に憂き身をやつす現実は気持ちをすり減らし、胸をかきむしりたくなるほどの絶望感に蝕まれるものなのだと。


「ええ、そうね。あの方は婚姻締結の流れが家同士の紐帯ちゅうたいと把握していて、色恋に溺れるご自分の我が儘を優先させ」


 制する素振りで緩く手をかざした彼女は、釈明の続きを遮るように後を引き取るや、


「愚かなあなたは一方的に切り捨てられたにもかかわらず、抵抗することなく唯々諾々と先方の要求を受け入れた」


 哀れな過去を暴く台詞が、癒えきらぬ傷にさらなる鞭を振るった。


「どうしてなのッ、リヴィエ伯爵令嬢!」


 手袋に覆われた繊手せんしゅが、胸元のレースを握り締める。かすかに伏せた睫毛は陰影を描き、鮮やかな印象のおもてにもどかしげな煩いが混ざり込んだ。


 出会いがしらの横柄さから一転。熾火を煽るような面持ちに、心が削られる疼痛を忘れて目が釘づけになる。


 爆ぜる激情を瞳の奥に認めた瞬間、彼女は咎める眼差しでわたしを射竦めた。


「勝手な言い分だと一蹴するでも、理不尽な破棄を不服として抗議するでもなく、どうして物わかりがいい令嬢を演じて承諾してしまったの!」


 悔しいと憤る叫びが耳介を叩く。しわを刻む眉間は歯がゆさに染まり、真紅の衣装を掴むたおやかな指は、昂ぶる衝動のためか小刻みに震えていた。


 ねめつける双眸。強張る頬。噛み締められた唇。

 鬱積した感情が捌け口を求めている様子から、ああそうかと腑に落ちるものがあった。


 ここにいる彼女は、“品位に富む淑女たれ”と教育された侯爵令嬢ではない。ましてや嘲笑や毒舌で八つ当たりしていた、居丈高な貴婦人でもない。


 昇華できないやるせなさをかかえ、いまだ忘れ得ぬ人への未練にあえぐ、一人の女性だった。


「わたくしがあなたの立場だったなら、絶対に了承なんてしなかった」


 苛烈な性格を体現するこの方ならば、渇望する男性を掌中におさめるため、今なお色褪せぬ恋情を貫き通しそうだ。


 移ろいやすいあの人の唯一になれなくても、奔逸な恋愛遍歴が進行形でも、法的効力を持つ妻の座に手が届くのなら、矜持も自尊心もかなぐり捨てるくらい、難なくやってのけるのだろう。


 なぜなら彼女がはぐくんだ想いは、あらゆる不純物をろ過した、混じりけのない純粋な愛だからだ。


「見苦しく泣いて縋って……それこそ情に訴えかけてでも、必死になってつなぎ止めようとしたわ」


 穢れも濁りも含まない、ひたむきな恋心。彼女の透徹した愛し方は、まるで灼熱の炎のようだ。


 あの人に捧げる想いが一途なぶん、一つ間違えば果てなく燃え盛る愛情で、好いた相手ごと自身をも焼き尽くしてしまう。


 思慕する男性は、多くの女性にうつつを抜かす不誠実な人。正常な感覚の持ち主ならば恥ずべき淫蕩さに匙を投げ、愛想も小想こそも尽き果てているところだ。


 けれど、すでに割りきっているらしいこの方は、それでも構わないと言外にほのめかす。


 貴族の娘として生まれたからには、相思相愛の婚姻は望むべくもない。暗黙的に定着した不義など瑣末なことで、ひとまず体面が保たれればそれでいい。


 一方通行の夫婦関係なんてありふれているのだから、せめて伴侶という枷であの人を縛りつけられるのなら本望なのだと。


 成就が叶わぬ恋の末路は、ただ消えゆくのみだ。往生際が悪いとわかっていながら、片恋を引きずる彼女は覆らぬゆくすえから目をそむけてきたのだろう。


 悪びれもせず恋愛遊戯に興じる艶福家の不評だが、後を絶たぬ醜聞すら凌駕するほど、こいねがう彼女の気持ちは真剣で重い。


「下賤な身分の女性と楽しそうに腕を組まれていても、容姿の冴えない地味な令嬢と口づけをしていても、わたくしはあの方を心から愛していた。悋気と独占欲が混沌とすれど、一瞬たりとも気持ちが冷めたことなんてなかったわ」


 同じ人に恋をした。失恋の残骸に埋もれる結末も一緒で、心情的に共感もできる。しかしながら、冷遇される寂しさを知ったわたしにはもう、彼女のような盲目的な愛し方はできない。


 いくら政略結婚なのだと理性が諭そうと、夫の愛を請う心が、冷えきった環境を受け入れられずにいる。


 両親のように睦まじく寄り添う夫婦を理想としてきたからこそ、自分を犠牲にする代償の虚しさに、頭をもたげる躊躇と葛藤をぬぐえなかった。


「遊び半分の気まぐれで始まった関係ではあったけれど、もしもあの方の妻になれる好機がめぐってきていたなら、きっとなりふり構わず手を伸ばしていたでしょうね」


 婚約期間などどこ吹く風と、不特定多数の女性と浮き名を流してきた放蕩者。噂というかたちで親密さを当てつけられるたび、わたしは機嫌をそこねぬよう控えめに問い質すのがやっとだった。


 なぜなら不和が漂う仲ゆえに、迂闊にもなじるような物言いをして、さらなる悪化を招くのが怖かったから。


「それなのに事実上のご婚約者でいらしたあなたは、あの方をふり向かせる努力はもとより、よそ見をさせないための奮闘すらなく、耐え忍ぶ悲劇の主人公ぶって不当な仕打ちに甘んじるのみ。あげくの果てには、決定事項の如く言い渡された別れの言葉におとなしく従ったのだったわね」


 もはや限界だったのだ。どれほどあの人が好きでも。取ってつけたような配慮にさえ喜びを感じても。気分しだいの言動に一喜一憂する心は悲鳴を上げていた。


 最後の逢瀬となったあの時。半年後に予定されていた婚儀を惜しむ気持ちがよぎったけれど、それでも諦念と悲嘆に塗りつぶされた精神は、捨て置かれる苦しみから解放されたいと血を滲ませながら叫んでいた。


 彼女が吐露した、赤裸々な激情に触れた今だからこそわかる。


 わたしは逃げたのだ。不幸しか描けない未来から。


 逆境に負けぬ想いの強さもなく、軽んじられるだけの侘しい人生に怖気づいてしまった。


 だからあの人への恋心を奥深くに沈め、告げられるままに周知されていた婚約を白紙に戻した。


「あの方は、甘い蜜を求めて翩々へんぺんと飛びまわる鱗翅類りんしるい。鱗粉を纏うその美しさで、見る者をことごとく惑わせる罪深い蝶。誰にも捕まえることはできないわ」


 あまたの花を愛でる彼は、自分だけの蝶にはならない。わたしも、おそらくこの方も、頭の片隅では正しく理解していた。自由を謳歌する蝶は、束縛を厭う生き物だと。


 それなのに淡い期待にしがみつくあまり、いつの間にか冷静さを欠いてしまった。


 翅を広げた造形美は非の打ちどころがなく、追いかけるだけ無駄だとわかっていても、この手に閉じ込めてみたいと強く魅せられてしまったから。


「一般的な貴族令嬢らしく、受け身がお得意のリヴィエ伯爵令嬢。あの方を愛し抜く覚悟がないにもかかわらず、分を弁えず欲をかいて判断を誤るものだから、こうして傷物の烙印を押される羽目になるのよ。無様すぎてかける言葉もないわ」


 受け身――さげすみを含んだ響きに胸を穿たれる。とっさに唇をわななかせるものの、反論の言葉が出てこない。代わりに波打つ喉はいびつに引きつれ、嗄れた吐息が塞ぐようにわだかまった。


 そんなつもりはなかったけれど、冷静な目で客観視してみれば、わたしの従順な態度は受動的としか言いようがないのだろう。


 ふられた女と嗤笑されるのは、身から出た錆。蠱惑的な完成美に眩惑され、あまつさえ嫌われたくないがために、恥ずべき不行状に目をつぶっていたわたしの弱さが原因だ。


 傷物呼ばわりされる立場は自業自得と、辛辣に示唆する彼女の意見はもっともだと思う。


 図星を指された動揺から、ふらふらと定まらぬ視線を俯かせ「わたくしは……」と掠れたつぶやきを絞り出した次の刹那、


「レディ!」

「そこまでだ」


 制止を促す異口同音が、間髪入れずに割り入った。


 瞬きを挟んだ双眸をゆるりと戻し、対峙するヒギンズ侯爵令嬢をなにげに見つめる。


 すると彼女の細い肩には筋張った指がかかっており、驚いたことに金褐色を髪に宿す美丈夫が、険を帯びた形相で背後から掣肘せいちゅうを加えていた。


 驚愕したのは、思わぬ構図だけはない。ふと、傍らに人の気配を感じて瞳を転じれば、視界の下方に黒衣の腕が映り込んでいたからだ。


 慌てて首をのけぞらせる。仰のくように辿った先には、渋面を露わにしたワイズナー様が、わたしを庇う格好で隣に佇んでいた。

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