【9】

 そよ風が柔らかく頬を撫でる。その心地よさに視線を上向ければ、瑞々しい緑は嬉しげに戯れ、淡く射し入る木漏れ日が、樹陰で憩う二人に降り注いでいた。


 庭園という、視覚効果もあるのだろう。自然美の演出はのどかな趣を漂わせ、肩ひじ張る必要はないのだと、かしこまるわたしを労わってくれるかのようだ。


 自己紹介を済ませて以降、話題が尽きたせいでお互い口が重くなってしまっている。けれど開放的な景観も手伝って、不思議と気まずさや居心地の悪さなどは感じない。むしろ窮屈どころか、楽に呼吸できていると思う。


 そんなふうに気持ちが穏やかでいられるのは、無愛想でとっつきにくい外見に反して、目の前の方がとても温かな人となりなのだと知ったからだろう。


 されど、重厚な暗色の相乗作用か。堂々たる体格とそこはかとない凄みが、近寄りがたさにさらなる拍車をかけていた。


 ある種、包容力と同義の頼もしい印象だけれど、一方では当人のあずかり知らぬ迫力が、異性のなかに怯えや恐れを植えつけてしまっているようだった。


 戦場を駆ける騎士には有利な貫録だ。しかし残念ながら、女性と交流するお茶会においてまったくの逆効果でしかない。


 この方が纏う厳格さは頬の傷も相まって、かなりの威圧感がある。箱入りの令嬢には目を合わせることさえ困難なほど、緊張と怖気おじけに雁字搦めになってしまうのかもしれない。


 きっと多くの淑女は彼の硬質な容姿を個の人格と結びつけ、男女の縁どころか、なるべく関わり合わぬよう距離を置こうとするのだろう。


 悲しいかな、初見の判断材料は姿かたちや人当たりのよさなどに集中し、どうあっても内面が二の次になってしまいがちである。


 仕方がないとはいえ、見た目やふるまいが優先されるのは非常に残念なことだ。不可視である無形の部分にこそ、人の本質が隠れているというのに。


 研ぎ澄まされた威厳があだとなっている、この方の清高な心根はさておき。しんしんと降り積もる沈黙が苦でなくても、さすがにまともな会話もせず終始このままでいいわけがない。


 相手は隣国の賓客だ。二人で寛いでいる現況が本来の趣旨である“伴侶探しの交流”ではないにしろ、彼とともにテーブルを囲んでいる相手は他ならぬわたしである。


 大切な時間を徒消としょうさせているうえに、嫌気が差すほど退屈させたとあっては、親切にもつき添ってくれる彼に申し訳が立たない。のみならず、然るべき教養を授けてくれた父や、園遊会を運営する宮廷官吏にも合わせる顔がない。


 手持ち無沙汰のわたしは話題の接ぎ穂を探して、それとなく瞳を泳がせる。なにげにめぐらせた眼差しを対面に座る男性――ワイズナー様のティーカップに当てれば、潤沢だった紅茶がいつの間にか半分以下に減っていた。


 気づくと同時に椅子を引き、衣擦れを伴って立ち上がる。傍らまで移動すると中央に置かれたポットを持ち上げ、慎重な手つきで二杯目を注ぎ足した。


 カップを満たす音とほのかにくゆる湯気が、静かな空間に色を差す。


 まるで二人だけの世界に落ちた、一粒の雫のようだ。心なごむ風情とゆったりした雰囲気に染め上げられ、気持ちが徐々に癒されていくのがわかる。


「剣呑な緊迫感の渦中にいた、先ほどの令嬢だが……」


 頬のあたりに視線を感じ、そちらに首を傾ける。案の定、艶を孕む漆黒の虹彩が、些細な変化も見のがすまいと、ひたとこちらを見据えていた。


 おびえるでもなく、平然と目を合わせるわたしに感慨をいだいていたけれど、率直に言わせてもらえればワイズナー様の比ではないと思う。


 瞳に宿る熱量も。穢れなき純度も。静謐さの奥に忍ぶ感情も。


 一途と表現しても過言ではない、力強い眼差しだ。けれど、それがなにを意味しているのか掴みあぐねるばかりで、どう反応していいのかわからなくなる。


「彼女はあなたの知り合いか?」


 発せられる声はとてもなだらかだ。詮索する素振りも、好奇心に駆られた様子も見受けられない。おそらく彼にしてみれば、確認作業の範疇に過ぎないのだろう。


 それも道理だ。ただでさえ慎み深いはずの令嬢が人目も憚らず揉めていたのだから、例え干渉するつもりがなくても尋ねずにはいられないのかもしれない。


「……お恥ずかしながら、あの方とは面識がありません。お目にかかったのも本日が初めてです」


 気性の激しさを表すややきつめの外貌と、かしずかれることに慣れた権高な態度。実際の姿どころか、名前すら知らなかった侯爵令嬢の輪郭が、閉じた眼裏で鮮烈な像を結んだ。


 ほぼ一年、頑なに耳目を塞ぎ、邸に引きこもっていたわたしだ。


 メルヴィナ様いわく、あの人と睦まじく連れ立つ様子が幾度か目撃されただとか、正式につき合っていただとか、積極的な令嬢の片思いが真相だとか、とにもかくにも虚実とりまぜた囁きが界隈で流布されていたらしい。


 真偽のほどは定かではないにしろ、二人の逢瀬が噂になるほど、かつての婚約者と親密な関係だったなんて知るよしもなかった。


 もしも再会したメルヴィナ様から、二人にまつわる浮世話うきよばなしを教えてもらわなければ。

 もしもひしめき合う参加者の波間から、厭うわたしを彼女が見つけ出さなければ。


 これまでも、そしてこれからも、見知らぬ他人のまま縁が交わることはなかっただろう。


「ならばあなたは、覚えのない相手と口論になったあげく、力任せに突き飛ばされたというのか」


 忌憚ない台詞は身も蓋もないけれど、ワイズナー様らしい物言いに苦笑を禁じ得なかった。


 初対面の人物から一方的に絡まれていたのは事実だし、なにより助けに入ってくれたこの方には決定的な場面を目撃されているのだ。腑に落ちないと詰め寄られて当然だと思う。


 よしんば、うやむやにしてお茶を濁そうとしても、しょせん無駄なあがきだ。鋭い洞察力を備える現役軍人相手に、へたなごまかしは利かない。


 とはいえ、わざとであろうとなかろうと、彼女が手を出すに至った原因が今なお燻りつづける恋愛問題だけに、出会って間もない彼に包み隠さず打ち明けるのは、はなはだ抵抗があった。


 にじり寄る眼光に耐えられず、俯きかげんで睫毛を伏せる。小さく吐息を編みながら、複雑にもつれる感情に蓋をして、奥へと沈めたそれに固く鍵をかけた。


 次いでワイズナー様の疑問を他に逸らすべく、「甘菓子が苦手でいらっしゃらないのでしたら、なにか召し上がりますか」と曖昧な微笑を浮かべかけたその時、


「すまない、グレアム。遅くなった」


 逃げ場のない空気を払拭する声が、軽やかに投げかけられた。


 凛と鼓膜を震わせるのは、聞き覚えのある涼やかな音色。柔らかく響く旋律はおそらく、わたしを抱きかかえるワイズナー様に苦言を呈した、あの男性のものに違いない。


「レディ、ご気分はいかがですか」


 硝子細工に触れるかのような呼び声に応え、両手で支え持つポットを戻して顎を上げる。果たして記憶に残る長身の美丈夫が、飾らぬ笑みをたたえてそこにいた。


 向かい合うお互いの距離は、およそ歩幅一歩分。高い位置に浮かぶ端麗な容色と目線が交差した瞬間、万人を虜にしてやまないだろう造形がみるみる甘く綻んだ。


 両の瞳にわたしを映す殿方は、とろけると言うに似つかわしい表情でしっとりと微笑む。とたんに胸の真ん中が大きく脈打ち、反射的に息を呑んだ。


 さりげなく視線を外しながら、ほつれた髪をなおす仕草で、ほんのりと熱を帯びる頬に触れてみる。案の定、肌はかすかに火照り、きっと誰の目にも明らかなくらい、赤らんでいるに違いない。


 秀美な完成度に当てられたのか、はたまた、乱れた拍動に引きずられでもしたか。本人の意思とは関係なく、勝手に紅潮する頬が恨めしい。


 ただでさえ異性との接触が乏しいというのに、あまつさえ不意打ちで美形の笑顔を目の当たりにさせられるのは、ひどく心臓に悪い。せめて心構えをする猶予を与えてほしかったと、うろたえる内心を瞬きで押し隠し、努めて平静を装った。


「彼に抱き上げられていた時のあなたは、じゃっかん青ざめた顔をしていましたから。こうして血色が戻った姿を確かめるまで、案じずにはいられませんでした」


 ちらりとワイズナー様に一瞥を送った双眸が、再びわたしを見下ろした。


 黒色の持ち主と同じ縦長の瞳孔を正視すれば、小さな裂罅れっかは機微を代弁するが如く伸縮し、安堵に色づく眦がゆるりとたわめられていく。愁眉を開く誠実さはおためごかしを疑うまでもなく、綴られる言葉が偽らざる本心なのだと窺い知れた。


「わたくしなどのためにお心を砕いてくださり、ありがとうございます。人混みから離れた席に運んでいただきましたうえに、飲み物まで手配してくださったワイズナー様のおかげで心身ともに落ち着いております。もちろんこの方には十全なかたちで庇っていただきましたので、怪我も疼痛もいっさいありません。あなた様にもご心配をおかけいたしました」


 どこの誰とも知れぬ娘の体調を、真摯に気づかってくれる彼の姿勢は本物だ。


 ワイズナー様といい、親切な美丈夫といい。隣国の殿方は皆が皆、生まれながらにして異性への配慮に長けた気質が備わっているのだろうか。あるいは、幼い頃より叩き込まれた教育の賜物か。


 そういえば、謝罪にこだわるわたしの心情を慮ったワイズナー様は、先ほどこう言っていた。


 ローウッドの男性にとって女性は慈しむ存在であり、同時に庇護すべき者なのだと。とすると女性を尊重する精神は、成熟してゆく過程で自然と身についた感覚なのかもしれない。


「それを聞いて安心しました」


 優しい微笑を満面に描いた彼は次の瞬間、なにかを思い出したようにハッとするや「清楚なあなたに魅せられるあまり、うっかり渡しそびれるところでした。はい、どうぞ。料理台の脚下きゃっかに転がっていました」と、衣装に合わせた小ぶりの帽子を差し出した。


 驚きに目を瞠る。間違いない。今日の日のために、ポーラをはじめとする侍女たちが選りすぐったものだ。受け取った帽子に視線を這わせて、瑕疵の有無を確認する。幸いにして目立つ傷や汚れは見当たらなかった。


 見物人の誰かに蹴り飛ばされていてもおかしくないと、それなりに覚悟はしていた。にもかかわらず、消え失せた一部の花飾りを除いては、ほぼ無傷だ。最悪の状態をまぬがれた幸運に、よかったと胸を撫で下ろした。


「拾ってくださったのですね。かさねがさね、ありがとうございます。とても気に入っている帽子でしたので、失くしたまま帰邸せざるを得なくなるのではと憂惧ゆうぐしておりました」


 帽子が消えていることに気づいたのは、木陰のテーブルに着席してしばらく経った頃だ。


 やけに頭部が軽いと、あるべき物がなくなっている事実に気が動転したけれど、個人的な我が儘を焦眉しょうびの急に置き換え、自由奔放に離席する無礼を働くわけにはいかない。


 しかしながら、この帽子はわたしが十九歳を迎えた祝いにと、数ある物の中から従姉が選び抜いてくれた大切な贈り物だ。紛失を理由に諦めるなんて考えは毛頭なかった。


 どのみち落とした場所の目星はついている。それゆえ、あらかた騒動の余韻が鎮まった時機を見て、探しにいくつもりでいた。


 仮に自力で見つけられなかったとしても、会場の隅々まで練り歩く給仕に、失せ物探しを頼めばいい。すでに誰かが拾得していようと、黙って持ち去る真似はしないはずである。


 なぜならガーデンパーティーに招集された令嬢は、全員が常識と分別を兼ね備えた淑女だからだ。


 落し物の価値がどうであれ、素知らぬ顔で失敬する品のない女性客はいない。むろん絶対とは言い切れないが、少なくとも、自身の評判を貶める行為は避けるに違いない。


「おい、そこの色男。いつまで放置する気だ」


 つかの間、ほのぼのと笑顔を交わし合っていると、ふいに苦情を訴える気だるい声が分け入ってきた。


「妖精のお嬢さんとお近づきになりたいからって、問題の令嬢を懸命に宥めすかしていた俺たちを忘れてもらっちゃ困るんだけど」


 我に返り、この方の背後へと視線を伸ばす。すると見覚えのない人物と、少し前にこちらの美形を無理やりさらっていった屈強な男性が佇んでいた。


 騎士たらしめる逞しい体つきには、不屈の打たれ強さと溌剌とした剛健さがある。だというのに、どことなく双方ともげんなりして見えるのは、果たしてわたしの気のせいだろうか。


「紳士を気取るのも猫を被るのもお前の自由だけどさ、とりあえず本命のレディといちゃいちゃするのはあとにしてくれるか。でもって、そろそろこっちの本題を振れ。気位が高いお嬢サマのお守りも、いいかげん飽きてきた」


 首を左右に倒してぽきぽきと小気味よく骨を鳴らした男性は、疲労感らしきそれを散らす手つきで、額に流れる前髪をざっと梳き上げる。


 対するこの方は、歯に衣着せぬ露骨な口振りにこめかみを引きつらせ、「ならお前は、言葉選びにもっと慎重になるべきだ」と、苦虫を噛みつぶしたような渋面で、飄々としたぼやきを叩き落した。


「……失礼。いきなり話が飛んでしまい、さぞ驚かれていることと思います。じつはあなたと口論していた先ほどのご令嬢が、謝罪を勧める俺たちの説得に応じてくれたので、こちらに来てもらっているのです」


 勇気づける笑みをわたしに寄こした美丈夫は、男性の後ろへ双眸を移し「さあ、レディ」と、いざなう抑揚で差し招く。直後、含み笑いを浮かべるその方が、あうんの呼吸で大柄なその身を横にずらした。


 たちまち目にも鮮やかな真紅が視界を灼き、瀟洒な衣装を着こなす女性と瞳がぶつかった。


 眉根を寄せた彼女が、ふっくらとした唇を噛み締める。ねめつける顔に苛立つ内心を敷きつめ、不愉快さを帯びた目尻をよりいっそうつり上げた。


 発言がためらわれるその危うさは気まずい空気を醸し出し、忘れ去りたい古傷に容赦なく爪を立てる。


「リヴィエ伯爵令嬢」


 ワイズナー様の友人だろう彼にゆっくりと背を押された女性――ヒギンズ侯爵令嬢ブリジット様は、


「わたくしはあなたが嫌いよ」


 ドレスの裾を捌いて立ち止まったとたん、艶やかな唇を冷徹にしならせ、切れ味のよい呟きを茫然と固まるわたしの喉元につきつけた。

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