【8】

 華奢な持ち手に指を絡める。その一方で、伏せた視線をさらに下げれば、優美なみなもがカップの内側で慎ましくたゆたっていた。


 磁器製の器に注がれているのは、透き通った淡い色味の紅茶だ。もしも使用している茶器が硝子製であったなら、赤みがかった褐色は煌めく陽光を隈なく孕み、よりいっそう目を楽しませてくれただろう。


 壊れやすい素材は実用的ではないけれど、テーブルを彩る装飾物、あるいは話題に華やかさを添える一端として、一役買ったのではないだろうか。


 カップのふちに唇をつけ、ゆっくりと傾けては、成分が抽出された液体を流し込む。口腔に広がる爽やかな渋みと、抜けるような馥郁ふくいくたる香味に、知らず唇が綻んだ。


 さすがは王家が開催するガーデンパーティー。どれも舌を唸らせる極上の茶葉を使用している。


 どうやら自覚していた以上に、喉が渇いていたらしい。飲み物で潤した体はたちまち弛緩し、ほっと人心地ついた感じだ。ひょっとすると無意識下では、衝撃と驚きの連続に神経が張りつめていたのかもしれない。


 なにしろわたしは、約一年間という空白期をかかえている。社交界から遠のいていたぶん、人づきあいの感覚は錆びつくうえ、意欲的とは言いがたい心境が足枷となっている。


 復帰したてというだけでも不安は否めないところに、慮外な出来事が相次いだのだ。いつになく精神が困憊こんぱいしてもおかしくないと、とめどがないため息を禁じ得なかった。


「落ち着いたか」


 ティーカップをソーサーに戻すタイミングで、深みのある低音がこちらを窺う。呼応するように睫毛を揺らし、俯きぎみの双眸をゆるりと持ち上げた。


 向かいに腰を下ろすのは、黒の礼装に引き立てられた大柄な殿方だ。予期せぬ事故から守ってくれたばかりか、さも当然のように横抱きで席へと運んでくれた異色な人。二国を隔てる境界を跨ぎ、伴侶探しの集いに参加している隣国の賓客である。


「はい……万事にお気づかいくださいましたおかげです。……ですが、わたくしの短慮があなた様を危険にさらし、あげくには大切なお時間のみならず、いろいろとお手を煩わせてしまいました。今さらと思われましょうが、謹んでお詫びいたします。ご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ありません」


 両手を膝に重ね置き、居ずまいを正してこうべを垂れる。


 伝えなければと焦りを燻らせながらも、告げる機会が掴めなかった謝意。しかしながら気持ちが逸るわたしとは対照的に、なだれ落ちるグラスにためらうことなく飛び込んでくれた人は、今しがたの件について頓着している様子は露ほども見受けられなかった。


 例え過ぎたことと思われていようと、人として、貴族子女として、きちんとけじめはつけておかなければならない。


 滞在期間が区切られている彼には、未来の花嫁を手にするという目的がある。すでに親睦を深める舞台の幕は上がっていて、一秒たりとも無駄にはできないはずだ。次の機会が与えられるかどうかも知れぬ大切なひと時だからこそ、交流に費やして然るべき貴重な時間を奪ってしまった非を謝罪する責任がある。


「すまない、レディ。被害をこうむったあなたから、なにゆえ詫びられるのか理解できないのだが」


 案の定、男性は謝罪される理由が思い当たらないと、困惑を滲ませる風情で首をかしげた。やはりこの方のなかでは、場を騒然とさせた救助劇などあたり前の行為らしく、加えて、いったん処理された事柄をいつまでもとどめておくタイプではないようだ。


 謝罪は不要と言外にほのめかされているようで、行き場を失った陳謝の気持ちが、ざらりと重くわだかまる。


「卓布で防護されましたからよかったものの、硝子片とはいえ一つ間違えば、大なり小なり切り傷はまぬがれなかったかもしれません。はるばる隣国よりお越しになったご来賓の紳士にお怪我など……断じてあってはならぬ事態です」


 イェルド女性との出会いを一日千秋の思いで待ち望み、さぞ期待と興奮に心躍らせていたことだろう。忍耐に忍耐を重ねて国を越え、もどかしくも長い旅路を経てようやっと園遊会を迎えたというのに、わたしの迂闊さが彼を危険に巻き込み、せっかくの初日をつまずかせてしまった。


 今もって出端をくじいた負い目は良心に爪を立て、ぬぐえぬ疼きを刻みつづけている。


「神妙な顔つきでなにを言い出すかと思えば……先ほどの件は俺が勝手にしたことだ。災難に見まわれたあなたが自責の念に捕らわれる必要はないし、無事を安堵こそすれ迷惑だなどとはいささかも思っていない」


 硬さを引きずる表情から、悄然とする心裏を汲み取ったのだろう。緩くかぶりを振った異国の恩人は、根を張る憂いを払うように言葉を紡ぐと、


「庇護すべき淑女を助けられたのならば、臣民を守る騎士として冥利に尽きるというものだ」


 慰めに似た穏やかな口調で、想像だにしていなかった真実をこともなげに羅列した。


「あなた様は……騎士、なのですか……!?」

「ああ、俺だけでなく宴に参加しているローウッドの男ども全員がそうだ」


 寝耳に水だと驚愕の渦に揉まれているのは、果たしてわたしだけなのか。それとも大多数の女性たちも同様に、彼らが国に奉職する身分だと知らされていないのだろうか。


 どちらにしろ花嫁を求めて集った男性が皆、王国騎士だなんて想定外にもほどがある。


 喜色と談笑に包まれる男女を眺める傍らで、茶会への参加を強く勧めた叔母の言葉がふと一過した。


 彼女いわく、招かれる正客の半数は格式が高い家柄とのことだった。これまでは中流層が主体だったが、今回にかぎり特権階級に属する者が半分を占めているようだと。


 それゆえ催しに招集される女性は、社交術と教養を兼ね備える令嬢に厳選され、双方のつり合いをはかっているのではないかとも推測していた。


 けれどいざ蓋を開けてみれば、優雅で安定した暮らしを享受する立場どころか、一同そろって国家に服する軍人――栄えある騎士だったなんて、想像する者などいなかったに違いない。


 地続きで周辺諸国に囲まれているイェルドも、当然ながら防衛手段として騎士団を保有している。他国からの干渉や侵略をはねのけるためにも、なくてはならない重要な組織であり、決しておろそかにできない仕事だ。


 危険を伴う任務は、状況しだいで命がけになるという。よって各隊は、出自の貴賤など関係なしに構成されているのだと、かつて小耳に挟んだことがある。


 人族が築くイェルド王国やセレン公国において、爵位を継承する嫡男を除いた子息は将来、自力で生計を立てていかねばならない。したがって次子以下の男子は起業したり、領主代行の役目を預かって所領を管理したり、跡取りがいない家に婿入りしたりと、身の振り方はさまざまだ。


 数ある選択肢のなかでも、とりわけ騎士の道に進む者は多いそうだ。むろんデュノア家も例外ではない。


 義務や頸木くびきがなきに等しい次兄は十三の年を迎えるや、旅に出かける気楽さで騎士学校に就学した。のちに見習いである従騎士を生来の気概で勤め上げ、現在では相応の経験と場数を積んだ騎士として活躍している。


 ひょっとするとローウッドも似通った形態を取っていて、貴族や富裕層出身であっても、意図して軍職に就いている可能性も考えられる。だとすれば、叔母がもたらした上位階級という虚実等分の情報は、必ずしも的外れではないのかもしれない。


 ほうけた顔つきのまま、口角に微苦笑を引っかけた殿方をまじまじと見やる。


 頑強そうな体躯に、研いだ刃の如き鋭さ。硬質な雰囲気は雄壮かつ峻厳。

 言われてみれば、この方を形づくる要素はすべてにおいて一線を画していた。


 なるほど。常人にはない畏怖や風格が、過酷な軍役生活で磨かれてきた矜持そのものだとすれば、生命の輝きを内包する彼がひときわ異彩を放っている理由にも納得がいく。


「負傷の恐れがあったのだと、先刻の出来事に責任を感じているのは、これを気にしてのことか?」


 剣を握る指先が、自身の左頬をとんとんと指し示す。ほんの一瞬、逡巡に揺れた瞳をためらいがちにあてがうと、武骨な指に示唆されるそれを視界におさめる。


 捉えた箇所には変色した肌と、いびつな痕。決して小さくはない裂創が縦断し、頬の中央あたりまで引きつれる轍を描いていた。


 表面が硬化した皮膚といい、沈着してしまっている色素といい。痛ましさが著しいそれは、どうやら月単位内で負った新しい刻印ではなさそうだ。


「あなたが隣国の情勢を、どの程度まで把握しているのかはわからないが……我が国ローウッドは長きにわたりディザールと交戦状態にある」


 ディザール王国。


 たしかローウッドから見て西に位置しており、竜人族と同じく翼を持つ種族――鳥人族と呼ばれる半獣の民族が治める領土だったと思う。


 そして一方的な宣戦布告を突きつけ、盤石が約束された交誼を踏みにじった軍事国家と史籍には記されている。


 歴史ある国の変遷には、それに見合った事情や背景が影響しているものだ。しかし大空を翔ける両種の均衡が突然の破綻を迎えた明確な経緯は、外間でしかない他国には知るよしもなく、依然として謎のベールに隠されたままである。


 とはいえ、かの地を統べる君主の世代交代が呼び水となり、不磨の攻防戦が勃発するきっかけとなったのは覆しようのない事実だ。


 しかしながら現在に至ってもなお、双方の関係が緊迫しているとは夢にも思っていなかった。わたしの記憶違いでなければ、かれこれ300年近くいがみ合っていることになる。


「怪我を負った時期は、国境を鎮守する要塞に赴任した三年前。敵味方が混沌と入り交じる空中戦のさなか、死角を狙った寄せ手の鉤爪に抉られた。これはその時の名残だ」


 鉤裂き状の傷痕は頬にとどまらず、顎を伝って首筋の下方まで滑降している。終着点は前折れの立襟に隠れてしまって定かではないけれど、おそらく鎖骨付近にまで伸びているのではないだろうか。


 軽やかに綴られた空中戦という単語からして、翼膜と鱗を纏った竜体で邀撃ようげきしたに違いない。


 敵兵もまた、巨大な猛禽に変じた軍勢だ。その身を武器に、熾烈をきわめた死闘が展開されたのなら、いくら堅牢な躯体を誇る天空の覇者だろうと無傷で済むはずがない。戦を知らないわたしにも想像がつく。


 胸を掠めた冷たさを裏打ちするかのように、面輪おもわの左半分を潰す爪痕そうこんの凄みは、彼が参与した戦闘の激しさと傷を受けた刹那の苦悶を赤裸々に物語っていた。


「ローウッド人に備わる自己治癒力は、他種族のなかでも傑出しているとお聞きします。人族であれば全治一か月と診断される重傷でも、皆様方の場合はわずか数日で本復に至るのだとか……。驚異的と言わざるを得ぬ回復力をもってしても、傷口は完全に塞がらなかったのですか」


 彼らの治癒能力は人間の比ではないという。実際に確かめたわけではないし、あくまで憶測の域を出ない不分明な噂だけれど、骨折ならほぼ五日、刃物で切り裂かれた深手でも二、三日で治ってしまうのだとか。


 きわめつけは心臓を刺し貫かれながらも一命を取り留めたなんて、疑わしいことこのうえない話までひとり歩きしている始末だ。


 ともあれ、致命傷さえ蹴散らしてしまう種族にもかかわらず、精悍なおもてには見るに忍びない傷痕が焼きつけられている。


 この方が負う創傷は、生と死がせめぎ合う修羅場の残滓だ。戦の恐ろしさも、血しぶき舞う凄惨さも、なに一つ知らないわたし如きが安易に触れていい話題ではないかもしれない。


 後悔が胸をよぎる。無遠慮に踏み込んだ自身を恥じずにはいられなかった。


「ただの裂傷ならば、放置しておいても問題はなかっただろう。しかし、これについては事例が特殊でな。ディザール兵の鉤爪に塗布されていた毒が原因で、細胞の賦活ふかつがままならなかったのだ」


 口惜しくも不可避を余儀なくされ、一撃を受ける他なかった苦さを思い浮かべたのだろうか。銀が縁取る縦長の瞳孔が、闇夜に似た虹彩のあわいでかすかに収縮した。


「気づいた時点でなんらかの処置をすればよかったのだが、運悪く混戦が激化したせいで手当てをする寸暇すら捻出できなかった。患部の治療を後まわしにした結果、一進一退の炎症ごと焼け爛れた皮膚が再生してこのありさまだ」


 鮮血に染まった竜を脳裏に描けば、胸の中心がぎゅっと強張って息苦しくなる。喉がひりついて、そこはかとない閉塞感に見まわれた。


 膿んだ傷口が発する激痛は、いかばかりだっただろう。壊死するそばから自己修復をくり返すけれど、毒に阻まれるせいで蘇生がはかどらず、かといって応急処置をしたくとも、激しさを増す戦況がそれを許さなかった。


 負傷した体に鞭を打ち、軍勢が交錯する戦火に身を投ずるこの方を想像すると、引き絞られるようなやるせなさがこみ上げる。


 砦を死守せんとする忠誠心と使命感の陰に、自身への無頓着さを垣間見たせいなのかはわからない。けれど、死と背中合わせは当然のことと、散華さんげすら受け入れている様子の彼を、心から案じずにはいられなかった。


「荒々しい創痕に縁のない婦人からすれば、この醜い傷は目汚しに他ならないのだろう。げんに俺と視線がぶつかった当国の女性たちは、一様に震え上がっていたからな。これでも相手を怖がらせぬよう、出立の直前まで額を集めて案を練ってはみたのだが……いかんせん箇所が箇所だけに繕う術は皆無だった」


 いびつに引きつれる痕を指先で撫でた殿方は、「一生つき合っていかねばならない傷だ。例えすべての女性に目をそむけられようが、こればかりは仕方がないと……なかば諦めの境地でいたのだが」と、わたしに向ける眼差しをほんの少し和らげた。


「深窓に育った令嬢ならば、直視にたえぬと厭うひどさだ。けれどあなたは、臆することなくまっすぐこちらを見つめるのだな」


 この方の言うとおりだ。温室育ちの令嬢には少々刺激が強く、いざまみえたとたん怯えが先に立つあまり、顔をそむけてしまうかもしれない。露骨でなくとも、やんわりと双眸をずらして閉め出す可能性は大いにありうる。


 平和が保たれているイェルドの女性は、身体に瑕疵を刻む殿方には免疫がない。ゆえに、恐れおののくのも無理からぬことなのだろう。


 しかし、ぬるま湯に浸かる彼女たちにはただの傷でも、前線で戦う武人にとっては意味合いが異なる。


“一寸先は闇”を具現する防衛任務を双肩に、身命を賭して外敵の侵入を防いだ証だ。いわば忠節を誓う騎士の誇りそのものでもある。


 おぞましいと不快を露わにするのは、すなわち尊い精神を貶めることと同義だ。毒の後遺症が残らなかったのはもちろん、片目を失う大怪我でなくてよかったと胸を撫で下ろしこそすれ、厭うだなんてとんでもない。


「いずれにせよ、今さらグラスの破片で顔や首を切ろうがどうということはないし、普通の傷ならば瞬く間に塞がるのだから、あなたが心を痛める必要も詫びる義務もない」


 おもむろに身を乗り出した彼は、わたしに向かって腕を伸ばした。


 戸惑いに肩を強張らせながらも、相手の意図をさぐるように、瞬きを止めた双眸で凝視する。ゆったりと差し出される手のひらと、こちらを見つめる殿方を、二度三度とせわしなく交互に見やった。


 逆巻く疑問の嵐に耐え切れず「あの……」と混乱が口を衝いた直後、節くれ立つ指先が優しく髪をすくい上げる。そうして絡めるようにくるりといじったあと、丁寧な所作で耳にかけてくれた。


 どうやら知らぬうちに横髪の一部がほつれてしまい、見かねたこの方がこぼれた一筋を手ずから直してくれたらしい。


 芝生に転倒した弾みで、崩れてしまったのだろうか。それとも胸の中に抱き込まれたさいに、たゆんだのか。


 部分的とはいえ、編んだ髪がほどけかけていただなんて、こうして触れられるまで気づかなかった。


「ローウッドの男にとって女性は慈しむ存在であり、同時に守るべき者だ。俺にかぎらず誰もが取り得る行動に、そのつど申し訳なさを覚えていては疲れるだけだぞ」


 彼の意見はもっともである。済んだことをしつこく引きずり、独善的な謝罪を押しつけるのはかえって失礼だ。本末転倒もいいところだし、くどいと辟易されるのもきょくりょく避けたい。


 わたしはただ、迷惑と世話をかけたことに対して謝りたかったのであって、なにも困らせたいわけではないのだ。ひとまず度を越した負い目に終止符を打つのなら、せめて感謝の意だけはきちんと伝えておきたい。


「でしたらお詫びではなくお礼を……その、あなた様、は――」

「そういえば名乗りがまだだったな」


 続くはずの言葉を並べかけるも、すぐさま口ごもった様子にぴんときたらしい。失念していたと言いたげに苦笑をたたえた彼は、鋭利な眦にひと雫の温かさを織り交ぜ、


「グレアム・ヴィセル・ワイズナー。それが俺の名だ、リヴィエ伯爵令嬢」


 自身の名前とともに、わたしを表す儀礼称号をも淀みなく連ねてみせた。


 おそらく、蒼白な顔で馳せ参じた給仕の呼び声を記憶していたのだろう。たった一度、短く放たれたそれを初対面の彼が覚えていてくれたとは意外で、言いようのない面映ゆさに唇が綻ぶのを抑えられなかった。


「わたくしはアニエス……アニエス・デュノアと申します。先ほどは危ないところをお助けくださいまして、ありがとうございました。心より感謝いたします、ワイズナー様」


 圧倒的な存在感や険阻な風采とは裏腹に、細やかな気配りと大胆な優しさを惜しみなく呈してくれる竜人の騎士。


 さりげない厚情と誠実な言動に慰撫されたわたしは、淡くほどけた心を満面に溶かし、眼差しを結ばせたワイズナー様へと微笑みを返した。

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