〖6〗
陰影を描く樹冠を縫い、見るともなしに頭上を眺める。
国は違えど、まばゆく染まる天はどこまでも等しく、広漠たる
とりわけ色彩豊かな庭園が舞台となれば、女性にとって気温は懸念すべき材料だろう。しかしながら、いざ初日を迎えてみれば、空模様だけでなく気象状況も安定し、長丁場を外で過ごすには申し分ない日和となった。
さらに当国の長期予報によると、しばらくのあいだは好天に恵まれるらしい。担当官吏は天候がもっとも安定する時季を絞り、雨雲が発生しにくいと見越したこの時に、あえて開催期間を設けたのかもしれない。
細めた双眸を地上に戻し、会場全体へと滑らせる。鮮やかに色づく視界には、先頃まで身を投じていた暮らしとは真逆の光景が広がっていた。
殺伐とした血なまぐささは忘却の彼方に消え失せ、代わりにあるのはぬるま湯に浸かるような現実だ。まさしく平和と安心に満ちあふれた風情だった。
だからなのだろうか。温和な陽気とのどかな空気が、この場に集うむくつけき男どもの心にも多大な影響を及ぼしているのは。
「おいおい、グレアム。お前ね、魅力的なお嬢さん方が勢ぞろいする楽園で、そんな辛気くさい顔すんなよ。ただでさえ近寄りがたい面構えなんだから、せめて相手をがちがちに硬直させない程度の表情くらい取り繕えって」
同じテーブルに着き、盛りだくさんの料理に舌鼓を打っていた同僚は、苦言とも助言ともつかぬ台詞を明け透けにぶつけてくる。本人はまったく気づいていないようだが、辟易するほど執拗な配慮はこれで四度目だ。いいかげん、鬱陶しい。
イェルド王国で催される交流会が待ち遠しかった、彼の気持ちは理解できる。なにしろ出立が間近に迫ってくるや、これ見よがしに指折り数える始末だったのだ。いかにこの日を楽しみにしていたか、嫌でも窺い知れるというものだろう。
さりとて、自分が浮かれているからとはいえ、こちらも同様のはずだと勝手に決めつけるのは勘弁してもらいたい。
他の参加者と等しく運命的な出会いを――伴侶を得られる可能性やそれに付随する愛情を、がむしゃらに掴み取りたいわけではないのだ。混同して扱われても反応に困る。
「近寄りがたい人相で悪かったな。あいにくこの顔は生まれつきだ」
信頼関係が強固な間柄だからこそ、遠慮のない物言いで無気力な背中を押しているのだろう。面倒見がよい彼の厚意には感謝する。だが、
成り行き任せで赴いた俺とは異なり、男は伴侶探しに人生を賭けている一人だ。表面上は普段と変わりなくふるまっているが、潜在的な獣の本能に理性が引きずられ、そわついている心境は想像に難くない。できるかぎり多くの女性と言葉を交わし、人となりを見きわめたいと逸っていることだろう。
ならば意欲に乏しい俺のことなど構わず、自己を優先させるべきだ。異邦人に与えられた時間は、有限なのだから。
「実直な性格の弊害というか、時おり斜め上の解釈するよな。いいか、オルレアンが指摘しているのは顔の造作じゃなく、お前が母胎に置き忘れてきた愛想の話」
笑いを含んだ別の声が、面白がるように割り入った。かすかに首を傾け、発言者の軌跡を辿る。斜向かいの位置には椅子が一脚据えられ、悠然と寛ぐ男が腰かけている。
しゃれた意匠のそれにおさまる人物――世話焼きのオルレアンと肩を並べる僚友のブロスが、牛肉のソテーを豪快に咀嚼するなり、からかい混じりの訂正を差し挟んだ。
「お前のツラは泣く子も黙る険相ってわけじゃない。むしろ精悍な風貌をしているぶん、文句なしに男前の部類に入るから安心しろ」
その場凌ぎの慰めなのか、あるいは冗談半分の戯れ言か。どちらにせよ、さして意識を向けることもなかった容姿だ。自身の美醜など、どうでもいい。
「とはいうものの、筋骨隆々たる体つきでもないのに、無駄に大柄な図体のせいか威圧感が半端ない。威厳だの貫録だの、一般的に聞こえはいいかもしれないが、異性と親睦を深めるさいには足を引っぱる要因にしかならない。そのうえ目つきの鋭い無表情が加味されるとなると……まあ、言わずもがなだ」
お手上げだと苦笑を一閃させたブロスは、「イェルドの女性は繊細で、精神的にもか弱いと聞く。怯えが先に立つあまり、避けられること間違いなしだろうな」と軽妙な仕草で肩を竦めた。
それこそ今さらだ。畏怖と紙一重の外見が、相手を委縮させるなど今に始まったことではないし、こちらが
体格については、血統による遺伝もあるのだろう。峻厳と称される容貌にしても、少なからず関連があるのかもしれない。ともあれ両者が真実だと仮定したとして、人の意思や力が及ばぬ問題なのだから、いかんともしがたかった。
「俺たちのように軍に属している野郎ならまだしも、争い事とは無縁の民間人……ましてや今回の接触対象者は他国の令嬢だ。馴染みのない迫力への耐性を求めるのは、さすがに酷か」
的を射た言葉を受け、ブロスから外した双眸を、男女の笑顔が咲き乱れる庭園へとめぐらせる。
平素であれば野卑な言動があたり前の男たちだが、
皆が皆、着慣れぬ礼服で全身を包み、なけなしの語彙を総動員しては、会話を膨らませようと懸命だ。
身長差が著しい令嬢の前で品行方正な紳士を装いつつ、どうにかして好意をいだいてもらおうと、方途を尽くして語りかけている。張りつめる日々に倦んでいたとは思えぬほど、どの顔も生き生きとしていた。
数日をかけて遠路を踏破し、当国が主導する会に嬉々として
ようするに、定期的に開かれる園遊会への参加は、ローウッドをつけ狙う西国を牽制・監視する激務をまっとうした騎士たちへの、ねぎらいを兼ねた褒美を内包している。
持ちまわりとはいえ、砦での任期は通常で三年、長引けば五年、死と隣り合わせの危険地帯に足止めされるのだ。それでなくとも閉鎖された軍社会では、異性との出会いなど望むべくもない。加えて故国の女性は数が少なく、概して言えば男女の割合がひどく不均衡だった。
悪循環も手伝って独身男性ばかりがあり余り、いびつな比重はひそかな加速をさらに深刻化させている。婚姻が難しいとなると、必然的に子も生まれない。次代の誕生は国の支えだ。危ぶむ出生率の下降は、すなわちローウッドの
もしもこのまま人口減少の一途を辿れば、喉笛に食らいつく隙を虎視眈々と
竜人族は他種族よりも強靭だが、言ってしまえばそれだけだ。怪我を負うこともあれば、ごく稀だが病に罹ることもある。天寿にしても然り。長命というだけで不死ではない。
永劫に現状を維持できるなどと、楽観視が許される段はとうに過ぎていた。少子化対策はかねてからの懸案事項だったこともあり、一朝一夕に解決できる憂慮でないのは十二分に承知している。
だからこそ最悪の未来を回避するには伴侶を娶り、子を成していくしか術はない。むろん相思相愛の関係を前提としてのことだが、実際どこまで歯止めがかけられるか、不透明な部分は根を下ろしたままだ。
依然として暗中模索の域を出ないが、竜人の血を絶やさぬためには、こちらの実情を知るよしもないイェルド女性に縋るしかないのだろう。
「俺は生涯、無妻でも構わない。暗雲が停滞する国境情勢を鑑みれば、かえって独身のほうが身軽だ。惜しくも園遊会参加の権利をのがしてしまった彼らには申し訳ないが、好ましい結果が得られずともなんら問題はない」
頻繁ではないにしろ、外敵を迎え討つ戦闘はしばしば起こっている。昨年では通算して七度。今年に入って、すでに三度。被害は少ないなりにも、相応に激しい衝突が発生していた。
小競り合いが火花を散らす前線は遠く離れた辺境地だが、いくら堅固な城郭が王都を防御していようと、何事にも絶対と言いきれないのが世の習いだ。
仮に念願かなって自分だけの運命を手に入れられたとしても、出自や立場の重要性から、いつまた戦場に駆り出されるかわからない。ひとたび投入されれば帰還の見通しはおろか、戦局しだいでは落命する可能性もゼロではないのだ。
神経質になりすぎると、一笑に付されてしまえばそれまでだ。しかし、共に添い遂げると捧げた誓いを反故にしたあげく、一人残された妻を
「諦観に満ちた弱音なんて君らしくもない。確かにディザール王国との攻防は一進一退だが、幸いなことにあちらは挑発まがいのちょっかいを仕掛けてきても、正面切って事を構える気はないようだ。その証拠に戦端を開いたのちの50年間は別にして、ここ250年近くは膠着状態だしね。したがって、グレアムが独り身を貫くべき理由はどこにもない」
呆れ声を連ねる男が、丁寧な所作でカップを置く。伏せた目線を仰のけば、端整な輪郭を金褐色の髪に縁取られた腹心が、やれやれと嘆息しながら見下ろしていた。
全幅の信頼を預ける彼の名は、シュレーゼ・フィッツ・ランベルト。隊を統率する俺の右腕だ。
「頭が固い君のことだから、どうせ背負う者がいないほうが無茶が利くとかなんとか、くだらない犠牲的精神が働きでもしたのだろう?」
人の機微に聡いシュレーゼは、お互い騎士として叙任された当時からのつき合いになる。
新人時代はひたすら自己鍛錬や演習に専心し、ある程度実力が磨かれた次には、
さすがに肝を冷やす際どい状況に直面したことはなかったが、国々と隣接する境界では大小さまざまな事象が絶えないのだと、政治力の意義や防衛の難しさを痛切に実感した。
諸所で持ち上がる衝突を処理する役目に就いて十数年。上官にしごかれる苦難の下積みを経た俺たちは、片や部隊長、片や補佐という責任ある職位を拝命してようやく、同じ目線で支え合える立ち位置を得た。
そこからさらに時を重ね、くせ者ぞろいの部下とともに驚異的な功績をおさめはじめた頃、ディザール王国に睨みを利かせる重要拠点への異動が決定した。
おそらく飛ぶ鳥を落とす勢いと揶揄される躍進が、上層部の目に留まったのだろう。早晩、自分たちにもくだる下知だ。覚悟はしていた。
かくして上意下達が不文律の辞令に従い、合流した他部隊と連携をはかりながら、要害堅固の神話で立ちはだかる砦を新たな根城に定めた。
国境防衛の役割を担う辺境伯と協力関係のもと、降りかかる火の粉を払う任務に費やした歳月は約三年。そうして今に至る。
「部隊を牽引する立場だろうと、稀有な一族の生まれだろうと、幸せも望みも自身の命すらも忠誠心に置き換えて、国家安寧を優先させる必要はないんだ。俺たちに与えられた好機はとても貴重で、次を期待するにはあまりに遠い。イェルド行きの枠から漏れた同胞に後ろめたさを感じているのなら、せっかく掴んだ権利と時間を無駄にするな」
つき合いの長さに比例して、気心が知れるシュレーゼは万事について察しがいい。そのせいか、まるで胸中を見透かすかの如く、こちらの思考を的確に突いてくる。
手間が省けて助かると感心する時もあれば、図星を指されたバツの悪さに、苦々しい思いを味わわされる時もある。
突発的な有事のさいは、指示を先読みする彼の才能はありがたい。だが、押し込めていた諦念を暴かれる不愉快さは、俺を慮るゆえだと承知していようと、どうにも処理しがたかった。
「シュレーゼの意見も一理だが……グレアムがぶっ飛んだ極論に突っ走る気持ちもわからないでもない。ほら、あいつらは懲りないうえに、しつこいしな。おまけにローウッドの領域だっつうのに、制空権を主張してきやがるイカレタ鳥あたまだ。こいつじゃねえけど、心配は尽きねえよ」
もてあそんでいたフォークを皿に下ろしたオルレアンは、俺へと運ばれたカップをさもあたり前のように引き寄せた。
中身は紅茶のようだ。湯気をくゆらせるそれを吐息で冷ましながら、数回に分けて嚥下する。「やっぱミルクか砂糖が入ってねえと渋いな」と不満を捏ねたあと、大儀そうに頬杖をついた。
「同感だ。目障りな獲物は、覚えの悪い鳥あたまだからな。よけい始末が悪い。俺たちに喧嘩をふっかける行為がどれほどの愚挙か、骨の髄まで何度でも叩き込んでやらなきゃ降伏なんてしない……あ、次の赴任時にはオルレアンも試してみるか? 火炎放射。射程距離と捕捉のタイミングが難しいけど、威力は抜群だぞ。このあいだの交戦では誤差の修正が間に合わずに仕損じたが、それでも半焼の鳥を二羽墜としてやったし」
ローウッドと敵対しているディザールは、竜人族と同じ有翼種が統治する、鳥人族の国だ。
いまだ双方は反目の姿勢を崩しておらず、繋がりも断交している状態だ。俺たちの世代が生まれる遥か昔は、諍いなどなかったと聞いている。耳に挟んだかぎりでは、人であれ物であれ、流通もそれなりに盛んだったらしい。
翼に風を孕み、なににも縛られず大空を舞う種族だ。蒼穹を翔ける者同士、互いに手を携えながらうまくつき合ってきたのだろう。親交を保ち、良好な関係を温めていきたいと、少なくとも竜人側はそう考えていたはずだ。
だというのに、信じて疑わなかったこちらの期待は、呆気なく無に帰した。なんの兆候もなく断絶を突きつけられた悪夢は、遡ることおよそ300年前。思い当たる節は一つ。君主の代替わりだ。
大国を理想とする強硬派の王族が玉座を継承したか、あるいは
真相や経緯などあずかり知るところではないけれど、これだけは断言できる。対等な関係を塵あくたの如く排した理由は、国力が上位のローウッドを完全な形で支配下に置きたいがためだ。
おそらく武力行使に転換した政策に意味などない。為政者としての懊悩も、国家繁栄に寄与する気概も、征服する旨みの前では無価値も同然なのだろう。
かの国に連綿と引き継がれるのは導く者の誇りではなく、覇権を握りたいと舌なめずりする救いがたい利欲だけだ。
「バカ野郎ッ、なにが火炎放射だ。火柱を上げる樹木を通して咆哮をぶっぱなしただけだろうが。まったく、突飛な攻撃しやがって……危うく森に飛び火するところを誰が未然に防いでやったと思ってる。お前にはお前の戦い方があるんだろうが、もっと自重してくれ」
「炎の加減を誤ったのは俺の不注意だ。それは認める。とはいえ、結果的には捕虜になったやつらもすっかり戦意喪失したわけだし、終わりよければすべてよし。突飛だろうが小賢しかろうが、最後に勝利すりゃいいんだよ」
尻拭いはごめんだと眉間を揉むオルレアンに対し、火災を引き起こしかけた張本人は、意に介したふうもなくけろりとうそぶいた。
目的達成のためなら手段を選ばないブロスは、そういうやつだ。要塞につめる仲間の度肝を抜き、報告を受けて眦をつり上げる師団長から、容赦のない鉄拳を食らった逸話を持つ。
奇をてらった戦法を得意とし、時には過激な一撃も辞さない男だが、引き際を見きわめられるだけの分別はある。元来、攻撃的な性格でも好戦的なたちでもないのだから、ひとまず砦から離れた現在、放っておいても害はない。
「後世に語り継がれる、俺の武勇伝はさておくとしてだ。やる気のないグレアムはともかく、オルレアンもシュレーゼもこんなところでのんびり油売っていいのか? 初日とはいえ、第2大隊のやつらに後れを取るのは第6の名折れだろ。一目置かれる精鋭らしく全身全霊を注いで……いや、いっそ死の物狂いでがんがん励めよ」
意気込みを見せる他部隊の騎士を引き合いに出し、にやりを口角をたわめたブロスが発破をかける。色悪めいた笑みにげんなりとしたオルレアンは、「がんがん励めって……お前の言い方はなんかイヤらしいんだよ」と疲れを滲ませる様子で鼻を鳴らした。
「いやらしくてけっこう。そもそもこちらは武骨で、がさつで、恋愛経験が底辺の純朴な騎士だ。見栄を張ってもぼろが出るだけだし、むしろ必死さを前面に出して攻めたほうが、案外ほだされてくれるかもしれないだろ。押して引いての緩急は、女心をくすぐる常套手段らしいからな。というわけでお前たち、とりあえず囲い込みが手薄な令嬢を見つけて、がっつりと自身を売り込んでこい」
こんがりと焼き色をつけたキッシュにフォークを突き立てると、尻を蹴飛ばす口振りで顎をしゃくる。まずは自分が率先して動けばいいものを。二人を焚きつけるだけ焚きつけておいて、当人は悠揚迫らぬ態度で椅子に腰かけたままだ。
これだけ多くの女性が集結していながら、ブロスからは焦りや気負いが微塵も感じられない。ふらりと席を立ったかと思えば、新たな料理を手にして戻ってくるだけだ。花嫁候補に意識を向けるどころか、声がけなどの行動を起こす気配さえない。
どうやらイェルド料理に魅了され、目下、色気より食い気が勝っているらしい。盛りつけも味つけも多彩な品々だ。まんまと胃袋を掴まれたとしても仕方がない。
「何事も最初が肝心と言うけれど、だからといって誰かれなしに声をかけるつもりはないよ」
けしかける言葉をいなすように、意味深な微笑を刻んだシュレーゼは、男女がひしめく中央に涼やかな眼差しを
「へえ、我らが第6大隊随一の美丈夫は余裕だな。惹かれる令嬢でもいたのか?」
彼の容姿は、眉目秀麗のひと言に尽きる。祖国でもつねに秋波を送られるほど、騎士としての地位も含めて非の打ちどころがない。街を歩けば人目をさらい、時として女性に群がられるといった場面は、もはやありがちな日常だった。
にもかかわらず、これまで浮いた話の一つも聞いたためしがない。ああ見えて好みがうるさいのか、つき合う相手を慎重に吟味していただけなのか、はたまた積極的に迫る女性に食傷していたのか。
理由はどうあれ、身持ちのきれいな彼がここに来て、心を揺さぶる女性の存在をほのめかしたのだ。他人事だとはいえ、興味が湧かないはずがない。
「それらしき人物を発見したはいいが、二人いるな。……で、意中の相手はどちらだ」
目を凝らすブロスに合わせ、対象とおぼしき人影に焦点を絞る。まっすぐ伸ばした視線の先では、二名の女性が向かい合っていた。
一方は昼ひなかのガーデンパーティーに不釣り合いな、真紅の衣装。
残るもう一方は青紫のドレスを纏った、華奢な人影。
顔立ちを確認しようにも人の流動が視界を遮るため、はっきりと捉えるのは困難だ。かろうじて垣間見えるのは向かい合う佇まいだけだが、単純に装いのみを比較しても両者から受ける印象はひどく正反対だった。
「もちろん、青紫のドレスが清廉な風情と調和している、レディのほうだ」
だろうなと、納得する。遠目では判断しづらいが、高圧的な雰囲気といい傲慢な仕草といい、赤い衣装の女性はどうにも気位が高いようだ。もしかすると、身分や階級に価値を見いだすタイプなのかもしれない。
げんに凛然と応じる令嬢に対し、高飛車な態度でなにやら吼えているように見受けられた。穏やかで凪いだ気質を好むシュレーゼが、間違っても我が強い女性を選ぶとは到底思えない。
「あれ……様子がおかしくないか」
身を乗り出すようにして、オルレアンが独りごちる。
確かに妙だ。一触即発とまでは言わないが、ただならぬ空気が緊張感を漂わせ、茨が絡みつくようにくだんの二人を取り巻いていた。
揉めているのだろうかと眉をひそめた矢先、横柄さもはなはだしい女性は立ち去る相手の肩を掴むと、ぞんざいな扱いで無理やり引き戻した。
反動を受けた細身の体が、ぐらりとよろめく。だが、負けじと踏ん張り、とっさにたたらを踏んだ。
むやみに騒ぎ立てず、また非難まじりにつめ寄るでもない彼女は、まさしく礼節を重んじる淑女だった。
王家が主催する会の意味を考慮したのだろう。健気にも失態を演じまいと気丈にふるまい、枝がしなるようにそつなくやり過ごそうとしていた。
彼女の一挙一動に呼吸を奪われ、目が釘づけになる。落ち着きを削いだ体がかすかに揺れると、あわ立つような痺れが背筋を撫でた。
ひじ掛けを握る指に、知らず力がこもる。瞬きを忘れた瞳は微熱に乾き、ただただ食い入るように彼女を見つめるしかできない。
乱された体勢を立てなおし、優雅に、けれど毅然と対峙する姿が胸を疼かせた瞬間、蠢く衝動にせき立てられるように駆け出していた。
「グレアムッ!?」
走り出す直前のシュレーゼを追い越し、乱脈をきわめる人混みをかき分ける。ぶつかりそうになる体躯を素早く躍らせ、間隙を縫うように足を速めた。
見え隠れするたおやかな痩身から瞳を外すことなく、過密してなおあふれ返る雑踏をすり抜ける。
いたずらに横たわる間隔がもどかしい。内心で歯がみしながら、阻害する距離をいっきに縮める。手が届く位置まであと少しだった。
仲裁のためとはいえ、こちらは事情もわからぬ部外者だ。ひょっとすると、割って入った見知らぬ男を訝しみ、収拾どころか火に油を注ぐ結果になるかもしれない。
女性はとかく感情的になりやすいと聞く。双方の言い分もあるだろう。一歩も退かぬていで、正当性を説きにかかってくる可能性も否めない。
いずれにせよ、それぞれの反応や口論の原因はいったん保留するとして、さしあたり騒ぎが肥大せぬよう、穏便に事をおさめるのが優先事項だろう。
進路を阻む人波が間欠的に途切れ、安堵に胸を撫で下ろす。波が引くように視界がひらけ、二人の姿をはっきりと捉えたちょうどその時、あろうことか、彼女は激昂した相手に突き飛ばされた。
テーブルに打ちつけられた体が、勢いのまま倒れ伏す。料理台が衝撃に震え、うずたかく重ねられたグラスの塔が瞬く間になだれ落ちた。
無我夢中の指が、手近な卓布をわし掴みにする。荒々しい手つきで握り込むや、食器類をぶちまけながら力任せに引きはがす。
まさに今、窮地に陥ろうとしている令嬢しか頭になく、乱暴に散布したそれらなど一顧だにせず、彼女めがけて地を蹴った。
しゃがむ体に覆い被さる寸前、握る布地を大きく翻す。そうして華奢な肢体をきつく抱き込むと、落下物から守るかたちで全身に巻きつけた。
間一髪、原形をとどめた硝子が降り落ちる。甲高い破壊音があたりに鳴り響き、布地を通して耳朶を掠めた。
破片が尖った悲鳴を上げるたび、ほっそりとした肩が跳ね上がる。人によっては恐怖を煽る音に聞こえるという。おそらくこの女性も例に漏れず、突然見まわれた事故に動揺し、さぞ怯えているに違いない。
密着する体はどこもかしこも柔らかく、しかし強張りが解けぬ背中は落ち着かないようだった。
かきいだくせいで呼吸しづらいのか、もしくは面識のない男との接触を不快に感じているのか。抱き竦めているため判然としないが、時おり居たたまれなさそうに身じろぎする様子から、不測の事態に混乱している心情が察せられた。
ふいに上着を握られ、ハッと我に返る。気配をさぐれば、グラスの雨はとうにやんでいた。
まるであつらえたような感触だったせいか、ずいぶんと長く抱き込んでいたらしい。不思議なことに、危険は過ぎ去ったと承知しながらも、囲う腕から庇護欲をそそる存在を解放できずにいる。
それどころか、良識も冷静さも理性すらもかなぐり捨て、繊細なぬくもりや甘美な香りに溺れてしまいたいと、らしくもなく真剣に葛藤する自分がいた。
俺もいい年をした男だ。生理的な劣情を鎮めるため、女性と体の関係を持ったことはある。相手に選ぶのはもっぱら春をひさぐ者ばかりだったが、こんなふうに抱き寄せただけで、わけもなく気持ちを突き動かされることなど一度たりともなかった。
イェルドに降り立った瞬間も、われ関せずと園遊会を眺めていた先刻も、感慨や渇望が去来するでもなく、つね日頃となんら変わりはなかった。
にもかかわらず、淡泊だと自負していた感情は波紋を描き、御しがたい起伏が渦を巻いて暴れまわっている。
そう、彼女を抱き締めて離さない俺は、明らかにおかしかった。
「大丈夫か」
ひとまず、不可解な現象から無理やり意識を切り離し、頭を冷やすように深く細く呼気を吐き出す。腰にまわした腕をわずかに緩め、遮蔽がわりの卓布を滑り落とした。
暗闇が払いのけられたとたん、大地を照らす陽光が二人を包む。綻ぶように弛緩する彼女との間合いが受け入れがたく、軽い抱擁は解かぬまま、今なお体温を分かち合うその人を至近距離からのぞき込む。
転倒した弾みで落としてしまったのか。帽子を失くして露わになった頭部が、眼下に位置していた。
息を呑み、瞠目する。
なぜならローウッドのみならず、おそらくイェルドでも非常に珍しい輝きをふんだんに散りばめていたからだ。
緻密に編まれた髪型は、控えめな雰囲気に似合っている。しかしながらそう思うと同時に、背中を自由に流れるさまも見てみたいと、がらにもない望みが胸をよぎる。
他人の外観にはとんと無頓着の俺だが、ひそかに想像せずにはいられないほど、彼女が放つ色彩は美しかった。
銀の素地が光沢を波打たせ、青みを帯びた粒子が舞い踊る色相は、鑑賞にたえうると言っても過言ではない幻想的な青銀だった。
魅せられるこちらをよそに、そっと持ち上げられた優美なおもては、きめ細かな白皙だ。しっとりとした瑞々しさがあり、少しでも油断しようものなら、意思に関係なくすべらかな頬に指を伸ばしてしまいそうだった。
十全の配置で整えられた目鼻立ちは麗しさをきわ立たせ、手折ることをよしとしない清楚な風情が、かきむしるような衝動と戸惑いを奥深くに焼きつける。
掴みあぐねる感情に引きずられまいと、双眸を眇めることで形容しがたいざわめきを抑え込む。得体の知れぬ発露に抗いながらも、ただひたすらに向けられる一対の瞳に捕らわれていた。
脳裏に甦るのは、冬の帳に包まれた湖面だ。凛と凍てつく薄氷はどこか儚げで、けれど凪いだおごそかさを漂わせる。
穢れも濁りも寄せつけぬ、透徹した青。
冴え冴えとした気高さを宿す青氷色の虹彩が、ぶれることなくまっすぐ俺を見上げていた。
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