【5】

 志を宿す瞳を受け止め、ふと考える。絢爛たる園遊会が閉幕を迎えたあと、果たしてこの手には一体なにが残っているだろうかと。


 なごやかな語らいの場に集うのは、伴侶を探し求めている独身者だ。つまり婚姻の意思がはっきりしている女性たちである。そんな彼女らは殿方の気を引かんと精いっぱいの話術を駆使し、また異国の考え方を理解しようと真摯に努めている。


 しかしながら熱心な働きかけが結実し、双方の気持ちが響き合ったとしても、晴れて交際や結婚にこぎ着けられる者が何人いるのだろう。


 開催期間は一か月。限られた日数を最大限に活用し、心を通わせられる相手を見きわめなければならない。加えて、お互いどこまで許容できるか、譲歩が可能なのか、踏み込んだ部分も吟味する必要がある。


 今回に至るまでの成婚率に関心などなかったが、もしかすると一組も縁に恵まれない結果もありうるかもしれない。


 メルヴィナ様は適齢期を過ぎた女性の末路を示唆したけれど、夭逝ようせいした母の分までわたしを愛してくれている父だ。


 仮に、いつまでも嫁がぬ娘の将来を慮ったからといって、無体な縁談を独断専行したりはしないだろう。むしろ不本意な結婚を強いるつもりは毛頭ないと、とことん甘やかしそうで正直気持ちは複雑だ。


 家族に愛されている自覚はある。身に染みてもいる。女であるがゆえの肩身の狭さや、それに付随する立場を誰よりも案じてくれるからこそ、不甲斐ないわたしのせいでデュノア家が軽視されるのは、ひどくたえがたかった。


「知人以上、友人未満……とでも表現すればいいのかしら」


 重く、苦く、鬱々と沈みかけていた思惟しいを、淑やかな声音が現実に呼び戻す。


 引き潮のようにゆるりと笑みをおさめたメルヴィナ様は、たおやかな仕草で顎先に指の背をあてがった。つい問い返しそうになったけれど、ほどけた唇をすんでのところで結びなおし、話の腰を折らぬよう静かに耳を傾ける。


「招かれた先々で顔を合わせる程度の希薄な間柄……そんなわたくしから親しげに声がけされたあなたは、さぞ怪訝に思われたでしょうね」


 小鳥の歌声が葉陰に溶けて降り注ぎ、しっとりと紡がれる調べに澄んだ色を添えていた。


「不用意な介入は諸刃の剣。強制的に中傷を鎮める反面、相手の不快感を煽りかねない。なかでも嫉妬に駆られる者の反応は不可測で、どう転がるのか読めない以上、むやみに嘴を入れるべきではないと逡巡したのは本当よ。……でもね、無分別な令嬢たちに侮辱されてなお、毅然と前を向いていらっしゃるあなたを見てしまえば、対岸の火事と看過するなんてできなかったの」


 憂う微笑を浮かべた彼女は「おそらく、わだかまりを昇華できずにいた過去の自分と、呪縛に苦しめられている今のあなたを、知らず知らずのうちに重ねてしまったのね」と、けぶるような睫毛をかすかにそよがせた。


「もちろんアニエス様に好感をいだいているからこその行動なのだけれど……婚約が撤回されて一年が経とうというのに、いまだ公の場に顔を出すたび理不尽な嫉妬や誹謗が囁かれるだなんて……。あなたの元ご婚約者が置きみやげにされた負の遺産は、腹立たしいことこのうえないわね」


 眉宇をひそめたメルヴィナ様が、ここにはいないあの人をなじるように、尖らせた言葉で放蕩の産物を糾弾する。きっと悋気の捌け口にされるわたしを気の毒に思い、憐憫の情を寄せてくれているのだろう。


 同病相哀れむ感情が根底にあるのだとしても、純粋に案じてくれる気づかいが素直に嬉しい。憧れの彼女がわたしのために義憤を露わにしていると思うと、胸の奥がくすぐったくて面映ゆくなる。


 あの人と縁が切れて、そろそろ一年。けれど、わたしへの風当たりがおさまる気配はない。皮肉まじりの陰口も、嬉々として嘲弄する空気も、すべてわが身に刻みつけられた名残が原因だ。


 弊害ばかりがつきまとう「あの人の元婚約者」という傷痕が、今もってわたしを打ちのめしている。


「率直に申し上げれば、あの方は紳士の皮を被った好色家……もっと卑俗な言いまわしをするなら、ご自分の美貌を利用して、軽々しく女性をもてあそぶケダモノだわ。聞き苦しい浮き名を流すだけの賤陋せんろうな方に、気持ちを残して差し上げる価値など微塵もないのよ」


 メルヴィナ様の意見はもっともだ。反論を差し挟む余地など寸毫すんごうもない。


 けれど、とうに朽ち果てた思い出に引きずられてしまうのはどうしようもないことで、ひょっとするとあの人に捕らわれた恋心が、ともに過ごした二年間をいまだ美化しているせいなのかもしれない。


 魅力的な容姿はもとより、女性の扱いに秀でた物腰と、ユーモアを織り交ぜた話法は非の打ちどころがない。さらには愛を注ぐ距離感でうやうやしくエスコートする姿は、まるで姫を守る騎士のようなのだとか。


 自分だけが特別なのだと甘い夢に目隠しされれば、例え既婚者だろうと差し出された手を無下にするなど難しいに違いない。


「ようするに、あなたの困惑を承知のうえで同席をお願いした最たる理由は、たった一度の破談で人生を諦めてしまわないでとお伝えしたかったからなの」


 そういえば家族や近しい人たちも、あのクズより素晴らしい男性はごまんといるなどと、かわるがわる異口同音に口ずさんでいた。


 とりわけ、破棄を目論んでいたらしい相手方をねじ伏せ、無傷に等しい解消の手続きに持ち込んだ父は、


『外見だけがとりえの愚か者に、大切なお前が傷つけられずに済むのだから、外聞がどうであれ結果としては悪くない。いいかい、アニエス。今はつらいだろうが、いずれ時が満ちれば神の導きが似合いの男を連れてきてくれる。これは必然――そう、真の運命とめぐり会うために必要な決裂なのだと思いなさい』


 幸せを手繰り寄せるためにもっと我が儘になっていいと、娘を慈しむ眼差しで励ましてくれていた。父の口振りは抽象的すぎて確信は持てないけれど、過去を引きずりつづけるのも、嘆きの底から這い上がるのも、わたしの気持ちしだいと言いたかったのかもしれない。


「二十四歳を目前にするわたくしですら恋への未練を捨てられず、父と交渉してまでみっともなく悪あがきしているのよ。アニエス様もご自身を縛る枷からお心を解放して、まっさらなお気持ちでぶつかってみてはいかがかしら」


 叶うならば、わたしだってもう一度恋をしたい。甘く疼くようなときめきを、苦しいくらいの高鳴りを、再びこの胸に抱き締められたらと願わずにはいられない。


 それなのに男性への不信感が邪魔をして、恋愛成就に繋がる道を閉ざしてしまっている。原因など考えるまでもない。あの人に背を向けられた記憶が甦るつど、悲しみに弱った心が立ち竦んでしまうからだ。


 能動的なメルヴィナ様を見習って、新たな一歩を踏み出したいのに。勇気を振り絞らなくては、なにも変わらないとわかっているのに。臆病な意気は縮こまり、情けなくも身動きできずにいる。


「視野が狭く、柔軟性に欠けるイェルド男性とは異なり、ローウッドの方々は総じて大らかだとお聞きするわ。きっとすてきな出会いが待っていて、深く傷ついたあなたの心を癒やしてくれるに違いないわね」


 どうだろうか。このたびのパーティーは王家主催だけあって、容姿端麗な令嬢が一堂に会している。美の共演が鮮やかな集いに霞みこそすれ、凡庸で見栄えのしないわたしが誰かの目に留まるなんて奇跡、万に一つも起こるはずがないと思う。


 せめてメルヴィナ様のように華やいだ造形か、もしくはささやかながらも胸を張れる自信があったなら、少しは前向きになれたかもしれない。


 しかし、ない物ねだりをしたところで地味で寒々しい印象はどうしようもないし、自己主張に乏しい性質が劇的に変わるでもない。


 大多数の殿方が女性を品定めする尺度に、器量のよし悪しが多大に影響しているのは推して知るべしだろう。


「一度のつまずきで享受すべき幸せをふいにせざるを得ないだなんて、馬鹿らしいと思いません? わたくしは嫌だわ。意に染まぬ無味乾燥な婚姻も、三誓願に縛られる奉献生活も。ですから――」


 滔々と紡がれていた透き通った美声が、突如として途切れた。断たれた台詞の不自然さに様子を窺えば、こちらに顔を傾けるメルヴィナ様と瞳が重なる。交差した時間は、およそ一拍。


 ほんのりと眉をゆがめた面持ちに、嫌な予感が背筋を這う。いかがなさいましたかと尋ねるより早く、わずかに逸れた視線が肩越しの背景へと投げられた。


「名残惜しいけれど、時間切れのようだわ」


 苦笑を刷いた彼女を追いかけ、眼差しが固定されている方角を辿る。


 断続的に視界を横切るのは、楽しそうに笑みこぼれる男女だ。礼服を着こなす長躯と、豊かな色彩を翻す優美な衣装。お茶会を謳歌している彼らをかき分け、いっそう凝らした目で彼女が認めた“なにか”を探す。


 おそらく物ではなく人なのだろう。そんなふうに当たりをつけて、眇めた瞳の焦点をじわりと絞る。するとひしめく集団の波間に、せわしなく揺れる赤いドレスが見え隠れした。もしや、あれだろうか。


「園遊会への参加資格は、未婚の成人女性。予想はしていたけれど、やはりあの方も名を連ねていらっしゃったのね」


 見知っている相手なのか。小さく肩を竦めたメルヴィナ様は、衣擦れの音とともに椅子を引き、優雅な所作で立ち上がった。どうやら席を離れるらしい。時間切れと独りごちた、先ほどの呟きは本当のようだ。


「どなたなのですか……?」


 面倒な人物が現れたと物語る表情で、なにごとにも動じなさそうな彼女が腰を上げたのだ。ひそかに苦手としている相手なのかもしれない。


 人には各人各様の個性がある。社交慣れしているメルヴィナ様にもそりが合わない同性や、生理的に受けつけない人物がいてあたり前だろう。


 それでも苦痛や不快感を笑顔で隠し、平然と対応しなければならない。悲しいかな、それが貴族たる者の宿命だ。


 招待客の流動でさすがに顔までは視認できなかったけれど、泰然自若としている彼女があえて避けるくらいだ。強烈な人格の持ち主に違いない。


「ヒギンズ侯爵令嬢ブリジット・フィッシャー様。ご存知でいらっしゃらないかもしれないけれど、アニエス様の元ご婚約者に憂き身をやつしてらした方よ」


 手袋に指を通しているメルヴィナ様は該当者の素性だけでなく、わたしのあずかり知らない驚愕の事実をもため息に乗せた。


 あの人に心奪われた令嬢の一人。彼と関係があった生身の女性を肌で感じたせいか、喉が痺れてうまく言葉が出ない。


「一時期おつき合いされていただとか、あの方を振り向かせたいがために一方的につきまとっていらしただとか……。わたくしも聞きかじる程度しか把握していないのだけど、噂の信憑性を考えれば虚実等分といったところかしら」


 繊細な容色に、磨かれた立ち居ふるまい。如才ない態度は上品で、まるで宝物のように扱ってくれる美貌の貴族令息。


 天与の資といっても過言ではない彼の魅力に、傾倒しない女性などなきに等しい。身分が高い侯爵令嬢であろうと、例外ではないのだ。


「さあ、アニエス様。お立ちになって」


 身繕いを終えたメルヴィナ様が、強張るわたしの手をすくい取る。引かれるまま座面から腰を浮かせ、芝生が敷かれた地面を踏み締めた。


「根は悪い方ではないの。けれど蝶よ花よと甘やかされてお育ちになった、典型的なご令嬢でいらっしゃるわ。しかも女性遍歴を重ねる艶福家に夢中だった過去をお持ちで、そんな彼女がこちらに……いいえ、あなたに狙いを定めて接近をこころみるその真意は」


 硬さを帯びた声音が、好ましくない状況をほのめかす。こくりと喉を鳴らすわたしの肩を撫でながら、取るべき行動を言外に指し示した。


「鬼気迫る様相と挙動がなにを意味しているのか、わたくしがあなたになにをお伝えしたいのか。聡明なアニエス様なら、皆まで言わずともおわかりね?」


 嫉妬がもたらす非難や咎め立ては、婚約を白紙に戻されて以降も嫌というほど経験してきた。そのおかげで女性が宿す嫉妬の炎は際限がないのだと学んだし、自慢にもならないが場数も相応に踏んでいる。


 だからといって耐性がついたわけでも、打たれ強くなったわけでもないけれど、ともあれ、ヒギンズ侯爵令嬢がどのような意図をもってわたしに迫ってきているのかは想像がつく。


「……はい。あの方に捕まらぬよう、お相手を探すふりで人混みに紛れようと思います」


 幸いにして距離はある。好都合にもたむろする男女の集団が、練り歩く彼女の進みを阻んでくれている。身を隠すなら今が好機だ。


「回避する術としては最善だわ。予期せぬ方の登場で、慌ただしい別れになってしまうのは残念でならないけれど、せっかくご招待いただいたガーデンパーティーですもの。お互い最後の瞬間まで有意義に過ごしましょう」


 鼓吹こすいするような笑みをたたえた美しき淑女は、今のうちにお行きになってと、柔らかく添えた手で背中を押した。


「メルヴィナ様……顔見知りでしかないわたくしに貴重なご助言や励ましをくださいましたこと、深く感謝いたします。ありがとうございました」


 叔母に押し切られるかたちで参加した交流会だ。宙づり状態の気持ちは情けなくも迷走し、自分がどうしたいのか答えを出しあぐねている。


 けれどメルヴィナ様と話をしたことで、複雑にもつれた感情を整理すべきだと考えさせられたし、なおかつ頭ごなしに拒絶するだけではなにも進まないと気づかされた。


 とはいえ、すぐさま花婿選びを受け入れ、意欲的に取り組めるほど器用ではない。おそらく異性との交流に乗り出しても、うまく対応できないだろう。


 それでも、これまで失恋の痛手にうずくまり、ひたすらわが身を憐れむかつての自分を顧みれば、目覚ましい進歩だと思う。


 翠緑の衣装に引き立てられた彼女を心に焼きつけ、和気あいあいとした活気が彩る園生そのうのただなかへと身を躍らせた。


 全方位に神経を張りめぐらせ、急ぎ足で雑踏をかき分ける。過密する人影にぶつからないよう視線を飛ばし、ともするともつれそうになる両足を懸命に動かした。


 追われる焦燥感からか、過敏になった背中が心もとない。時おり後ろを振り返っては、赤い色調が迫ってきていないか注意を配った。


 随所に漂う甘やかな空気をくぐり抜け、豪華な料理が並ぶ卓を横目に蛇行する。


 無軌道に徘徊しているせいだろうか。庭園の大きさに感覚が狂わされ、現在位置を含めて方角があやふやだ。切迫する状況にせかされ歩みを進めているけれど、きちんと追跡をかわせているのか不安がつきまとう。


 それでも入念に時間をかけた賜物か、あるいは度を越す慎重さが功を奏したのか。目視できる範囲に、要注意人物の影は見当たらないようだ。なにしろ十五分は歩きづめだったのだ。そろそろ警戒を解いても大丈夫だろう。


 交互にくり出していた歩を緩め、ちょうど左手に見えたテーブルへと近寄った。のぞいてみれば飲み物の台らしく、温かな紅茶から冷たい果実水まで、豊富な品ぞろえが喉の渇きをくすぐった。


 不測の事態をきっかけに、賑わう人の群れに紛れて以後、なにも口にしていない。彼女と話をする合間にパイや紅茶を胃におさめていたけれど、それでも半分の量だ。突然の逃走劇に疲労を訴える体は、切実な水分不足を主張していた。


 持ち場を離れているのだろう。折悪しく、担当の給仕は不在だった。


 飲み物への欲求にせっつかれ、伏せ置かれたグラスに手を伸ばす。立体的な切り目が見事なタンブラーだ。陽射しに煌めくさまは、作り手の高度な技巧を浮き彫りにしていた。


 つかの間、精緻な模様に眦を綻ばせ、果実水が入ったドリンクピッチャーに目を移す。いったんグラスを卓上に戻し、種類を吟味しはじめた次の刹那、


「ようやく捕まえたわ。貴族にあるまじき、野卑でがさつな健脚のご令嬢。あなたがさもしい平民並みにあちこち移動するせいで、無駄に労力を費やす羽目になってしまったではないの!」


 甲高い叱責とともに、二の腕をきつく掴まれた。


 手荒い動作と容赦のない暴言よりも、ぶつけられた内容に冷や水を浴びせられた。まさかと、鼓動がいびつに跳ね上がる。恐る恐る背後を見やれば、レースをふんだんにあしらった真紅のドレスが視界を埋めた。


 年の頃は二十歳前後。わたしと変わらない年齢に見受けられた。つり上がりぎみの目元と紅で濡れ光る唇が内面の苛烈さを裏づけるように、典型的な令嬢と言わしめる彼女――ヒギンズ侯爵令嬢ブリジット様の性格を如実に表していた。


「平凡で退屈な女性だと耳にしてはいたけれど、そのうえ愚鈍な礼儀知らずだとは思わなかったわ。地位が高いわたくしに声をかけられながら満足に挨拶の一つもできないだなんて、教養の程度が知れるというもの。……ああ、だからあの方に捨てられたのだったわね、リヴィエ伯爵令嬢」


 あざける鞭がしなり、いたぶる物言いでわたしを打ち据える。


 棘を纏わせた台詞が生乾きの傷を鋭く抉るが、今さらだ。これしきの仕打ちなんて婚約期間中は珍しくなかったのだから、いくら貶められようとくり返された痛みに鈍った心が涙するはずもない。しかし――。


「どなたか存じませんけれど、大変失礼いたしました。改めてご挨拶させていただきます。わたくしはリヴィエ伯爵家が長女アニエスと申します」


 ことさら丁寧に取った跪礼きれいと皮肉めいた初句が、少しばかり慇懃無礼に映ったかもしれない。


 メルヴィナ様に耳打ちされるまで、どこの誰なのか知らなかったのは事実だし、あの人と関係があったことすら寝耳に水だった。


 ただでさえ驚愕冷めやらぬところに、高圧的な口調で“教養の程度が知れる”と――子の躾や淑女教育が不十分だったのだろうと、迂遠に父をも侮辱したのだ。


 わたし自身が被るさげすみなら、いくらでも耐えられる。どれほどあざ笑われようと構わない。今に始まったことではないのだから、気が済むまで馬鹿にすればいい。


 しかしだ。直接的ではないにしろ、大切な家族を愚弄されるのは我慢ならなかった。例え相手が侯爵令嬢だとしても、聞かなかったと流すにはあまりに彼女の無作法が過ぎた。


 かくいうわたしも、律すべき自制心が甘くなったのは否めない。だが、やはり許せることと許せないことはある。売り言葉に買い言葉ではないけれど、意趣返しを混ぜた挨拶になってしまっても仕方がない思う。


 それに、あるまじき非礼のみならず公的な場所という重要性を度外視し、露骨に見くだした態度も看過しがたかった。


 わざわざ追いかけてきてまで嫌味を投げつけるほど気に食わなくとも、侯爵家に生まれたからには最低限の礼式は取り繕って然るべきだろう。


「……なッ!? 劣位でしかない伯爵家ふぜいが、身分を弁えず生意気なことを」


 これまでずっと地味な外見と控えめな口数から、なにをされても無抵抗の女だと侮られてきた。容姿がらみで冷笑された時も、身のほど知らずもいいところだと雑言の数々で爪を立てられた時も、始終黙してやり過ごしてきた。


 固く口を閉ざして俯く姿が、いつの間にか彼女たちのなかで、言い返すこともできない気弱な女だと定着していたのかもしれない。おそらくヒギンズ侯爵令嬢もどこかで聞き及んでいて、強く出ればたちまち委縮するはずだと決めつけていたのだろう。


「申し訳ありません。いまだ社交の場に馴染めぬ未熟者ゆえ、心ならずも口が過ぎました。ご容赦くださいませ」


 歓談するさざ波がしだいに凪いでいき、違和感に袖を引かれたわたしは、それとなく視線を彷徨わせる。どうやら、ただならぬ雰囲気と激昂する彼女の音量が、近くに散らばる衆目を集めてしまったらしい。


 すぐそばで語らう何組もの男女がこちらを気にして、困惑と関心がない交ぜる瞳を向けはじめている。由々しき事態だ。


「本日は隣国からお越しの殿方と、よりよい関係を築くための親睦会――しかも初日です。どのようなお心積もりで声をかけられたのか測りかねますけれど、どうぞ愚鈍なわたくしに構わず、貴重なお時間をあなた様に相応しいお相手探しにお使いください」


 せっぱつまった別れの間際、忠告を匂わせるメルヴィナ様は、合わせてこうも囁いた。


『フィッシャー家が、五等爵あるなかの序列第二位を戴いているからかしら。世界はご自分を中心にまわっていると、信じて疑っていらっしゃらない方よ。余人の意見は二の次で、物事の是非がどこにあろうと、我を貫こうとなさるの。だから、アニエス様。もしもブリジット様に捕まってしまったその時は、多少の非礼はやむなしと適当にあしらって立ち去ることをお勧めするわ』


 唯々諾々と流されてしまえば、あからさまな侮慢ぶまんを浴びせられるだけで埒が明かない。つまりは、そういうことなのだ。


 あの人を恋い慕っていたヒギンズ侯爵令嬢にとって、わたしは悋気をぶつける絶好の標的であり、八つ当たりに適した生贄に過ぎないのだろう。


「お待ちなさいッ! わたくしの用件はまだ済んでおりませんのよ!」


 では失礼しますと反転した背中に、怒気を孕んだきつい口調が打ち当たる。三歩も進まぬうちに肩を掴まれ、乱暴な手つきで縫い止められた。


 加減を忘れているのか。かかる指はいっそう食い込み、引き戻される力のせいで、よろめくようにたたらを踏む。まさかこんなふうに絡んでくるとは想定しておらず、驚くと同時にほぞを噛まずにはいられなかった。


 癇性かんしょうな性格を見誤ったのはわたしの落ち度だが、とにもかくにも場所が悪い。王家が主導する園遊会で、諍いを招くなど言語道断。賓客が加わる催しに泥を塗るような失態だけは、どうあっても避けなくてはならない。


 体を捻り、肩をわし掴みにする手をやんわりと払い落とす。すっと背筋を伸ばしては、柳眉を逆立てるヒギンズ侯爵令嬢を真っ向から見返した。


 とりあえず、興奮している彼女を宥めるのが先決だ。きょくりょく刺激しないよう、言葉選びに気を配る必要がある。


 落ち着く場所にてご用件をおうかがいしますからと、やんわり移動を促しかけた次の瞬間、「なんの価値もない貧相な女のくせに、小癪な言動もいいかげんになさいッ!」と金切り声が宙を裂き、鈍い衝撃が胸元で爆ぜた。


 ぐらりと、ショートブーツの踵が後ろへかしぐ。同時に、芝生を踏む感触がかき消えた。


 瞠った目が捉えたのは、遠巻きに眺める群集ではなく、澄み渡る青空だ。果てなく続く蒼穹に世界が塗り替えられてようやく、突き飛ばされたのだと理解した。


 けれど、気づいたところで手遅れだ。


 とっさに受け身を取れるほど、わたしの運動神経は優秀ではない。よって自然の法則に従い、背中から倒れるしかなかった。来るであろう痛みに備えて身構える。


 がつんと、腰になにかがぶつかった。当たった位置と硬さから察するに、おそらく設置されているテーブルだろう。かなりの衝撃だったため確かめる余裕もなく、くずおれるように地面に倒れ伏した。


 間髪入れず、硝子同士が衝突する。絹を裂くような悲鳴に混じり、繊細な不協和音が頭上で弾けた。


 はっとして振り仰ぐ。見上げた位置では高く積み上げられたグラスの塔が崩壊し、光を乱反射しながら次々と落下してきていた。


 茫然としゃがみ込んでいる今、素早くよけることも、ましてや防ぐこともできない。どう考えても、真下にいるわたしへの直撃はまぬがれなかった。せめて頭は庇わなければと、姿勢を低くして体を丸める。


 ぎゅっと瞼を閉じ、グラスの雨が叩きつけられる痛みを覚悟する。


 祈るように奥歯を食い縛ったちょうどその時、ばさりと大判の布らしき音をなびかせながら、温かいなにかが覆い被さってきた。


 強い力で体を引き寄せられる。両腕らしきそれに抱き込まれた拍子に、勢い余って衣服の生地に頬が擦れた。


 目をつぶっているせいで視界は暗闇だが、触れる感じからして、接している面は胸板だろうか。着衣の上からでも、鍛えられた筋肉の躍動が手に取るようにわかる。


 どうやら正義感にあふれた男性が、身を挺して庇ってくれたらしい。からくも危機を回避できた幸運にほっと胸を撫で下ろすも、もしもこの状態が望ましくない現実だったらと、歓迎しがたい想像が脳裏をよぎる。


 手を差し伸べてくれた人物が自国の給仕なら、大した問題ではない。不慮の出来事から参加者を守るのも、彼らが担う仕事のうちだからだ。しかし、みずからを犠牲にしたこの方が賓客だった場合、なんてお詫びをすればいいのか。


 一般常識に照らし合わせれば、まずは助けてもらった感謝の気持ちを述べるべきだ。人として当然の礼儀である。けれど不可抗力とはいえ、無関係のお客様を巻き込んでしまった事の重大さは、取るに足らぬわたしでも十二分に理解しているつもりだ。


 であれば、やはり最初に言うべき言葉は、迷惑をかけてしまった謝罪でなければならない。


 羞恥と申し訳なさと居たたまれなさに小さく身じろげば、あやす手つきでいっそう深く抱き締められた。ますます恥ずかしさがいや増し、思考がうまく纏まらない。


 腕のなかに保護されてから、どれくらい経っただろう。さほど時間は流れていないように思うが、感覚が曖昧でよくわからない。すっぽりとわたしを抱擁するこの場所はとても温かくて、ついすべてを委ねてしまいそうになる。


 密着する体温が心地いい。救助の一環とはいえ、見知らぬ異性に抱き締められているにもかかわらず、不思議と気まずさや緊張感は覚えない。むしろ気持ちが解きほぐされる安らぎを感じる。


 まどろむような安心感に意識が緩みかけた直後、すぐさま不謹慎な雑念を追い払う。


 この方は、危険を承知で助けてくれた勇敢な人だ。そんな彼に対し、なんて不埒なことを考えているのか。失礼にもほどがある。


 場にそぐわぬ思いを戒めるように、わたしを隙間なく囲う人物の服をぎゅっと握れば、「大丈夫か」と深みのある低音が優しく耳朶を掠めた。


 きつくまわされていた腕が和らぎ、覆い被さっていた上体がゆったりと起こされる。その動作に合わせて、わたしたちを包んでいたとばりが滑り落とされ、かすかなざわめきや話し声、清々しい明るさが舞い戻ってきた。


 離れゆくぬくもりをほんのり惜しみながら、伏せた瞼を押しひらき、慣らすようにして光を取り込む。視界が広がったとたん、眩しさが瞳を灼いた。


 細めた目で調整しつつ、淡い呼気をひそかに溶かす。二度三度、緩慢な動きでまたたいたのち、あわや直撃かというタイミングで守ってくれた恩人に双眸を定めた。


 最初に飛び込んできたのは、紋織絹素材のアスコットタイ。次いで、華美ではないそれに飾られた、逞しい首だ。男らしさを醸し出す喉仏にしばし釘づけになったあと、鋭角的な顎先をくすぐる眼差しでなぞり上げる。


 硬質な唇を通り過ぎ、整った鼻梁をさらにのぼった瞬間、全身があわ立つように痺れ、思考ごと感覚が雁字搦めになった。


 漆黒の前髪からのぞく瞳は、同じく黒に染まった一対の黒曜石。人間が持ち得ぬ亀裂を中央に描き、闇夜の如き虹彩が銀の縁取りに閉じ込められている。


 神秘的な輝きは凝視する先で収斂しゅうれんし、異彩を放つ見目と等質の眼光が、じっとわたしを見下ろしていた。

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