【4】

 思いがけない邂逅に搦め捕られ、身じろぎすらままならない。


 困惑する傍らでは途切れた会話の接ぎ穂を探すけれど、適切な判断に窮するあまり二の句が継げずにいる。心もとない心境をどうすることもできないわたしは、あてがわれる視線をじっと受け止めるしかなかった。


 予期せぬタイミングで現れたメルヴィナ様は、ゆったりと芝生を踏み締めながらこちらへと近づいてくる。描いた微笑は寸分の綻びもなく全美で、けれどほんの一瞬、含意をたたえた眼差しがちらりと軌道を逸れた。


 楚々とした眦に冷ややかさを滲ませ、咎める仕草で両の瞳を淡く細めるや、


「同列の立場を棚に上げ、聞くにたえない悪意をまき散らす人たちには困ったものね。あなたを構う余裕があるのなら、殿方に好感をいだいていただけるよう寸暇を惜しむべきではないかしら。そちらのほうが、よほど建設的だと思うのだけれど」


 明らかに労力の使い方を間違えているわねと、肩を竦めん調子で嘆かわしさをほどよく織り交ぜる。


 聞く者によっては、嫌味と取りかねないぎりぎりの意見だ。がしかし、反感を買いはしないかと気を揉む間もなく、窘めるように呟かれた台詞はそよぐ空気に紛れて溶けた。


 自信にあふれた揺るぎのない声色につられ、わたしも彼女に倣う。ためらいがちに、嘲弄の発信場所とおぼしき方角を窺えば、結束していた令嬢の影はいつとはなしに姿を消し去っていた。


 突如として入れられた横槍の相手が一目も二目も置かれる有名人だとわかり、分が悪いと気後れでもしたのか。傷を抉る礫を投擲とうてきすることで妬心と驕心を慰めていた集団は、どうやらメルヴィナ様の登場と同時に退散へと転じたようだ。


 音楽隊の演奏と睦ましやかな談笑が、緑陰に染まる風に乗って遠くから流れてくる。瞳をめぐらせてあたりをさぐれば、佇む二人の周囲には、声をかけあぐねるこちらの逡巡と、気づまりな雰囲気を助長する静けさだけが取り残されていた。


「ねえ、アニエス様。今しばらくこちらで寛がれるのでしたら、わたくしもご一緒してよろしいかしら。せっかく一年ぶりにお会いできたのですもの。あなたがお嫌でなければ、少しのあいだおしゃべりにつき合ってくださると嬉しいのだけれど」

「嫌だなんて、そんなことッ! ……あの、わたくしこそ、メルヴィナ様とお話させていただけるなんて、とても光栄です」


 張りつめた空気を解きほぐすように、弾む口調で水を向けてきたのは彼女のほうだった。戸惑いを隠せぬわたしへの配慮は如才なく、また先ほどの一件にしても、あざけりの的にされている現場を見かねて庇ってくれたに違いない。


 かつて社交界に君臨していただけのことはある。皮肉と紙一重の軽妙なあしらいは、そうそう真似できるものではない。


 ぎこちなさが否めない笑みを被り、同席の申し入れを快諾すれば「まあ、アニエス様ったら。知らぬ間柄でもあるまいし、堅苦しい物言いはなさらないで」と、彼女は親しみのこもった口振りで微苦笑を閃かせた。


 堂々としたふるまいも、とっさに働く機転のよさも、メルヴィナ様が振り撒く一挙手一投足は、押しも押されもせぬ完璧な貴族令嬢たらしめていた。


 つい見とれてしまいそうな自分を叱咤し、視線を意識的に引き剥がす。どうぞと対面に位置する席を勧め、ちょうど通りがかった給仕を捕まえる。二人分の飲み物と軽食を見繕い、運んでくれるよう注文した。


 そのさいメルヴィナ様の好みがわからないので希望を訊いてみたところ、「特段これといった選り好みはないの。ですから、すべてあなたにお任せするわ」と、あっさり主導権を明け渡してきた。


 気さくな言動に驚きは増すばかりだ。まるで友誼を深めた相手に接するような、親密といっても過言ではない態度と物柔らかさだと思う。うっかり昵懇じっこんの仲と錯覚してしまいそうな距離の近さに、失礼ながら唖然として固まってしまった。


 いまだ戸惑いが居すわるせいもある。なぜ、偶発的な再会を果たしただけのわたしに構うのか、欠片も思い当たらない不安心も然りだ。ただ、それらをひっくるめて、メルヴィナ様への対応がおぼつかなくなってしまうのには理由があった。


 彼女の言葉どおり、お互い面識はある。招かれたお茶会にて幾度か顔を合わせた過去に加え、当たり障りのない範疇の世間話もしている。座席の並びが隣になったこともあれば、主催者に促されて共に庭を見て歩いたこともある。


 しかし言ってしまえば、それだけだ。友人と呼べるほど波長が合ったわけでも、家同士が懇意にしているわけでもない。双方を繋ぐのは顔見知りという希薄な縁のみである。


 だというのに、嫉妬の標的にされているわたしを助けてくれたばかりか、あたかも友情が存在するかのように接してくるものだから、他意はないと承知していてもつい訝しんでしまう。


 そもそも伴侶探しの催しにそぐわない人が、平然と目の前にいる現実が呑み込めない。


 引きこもりを発症する以前、彼女はすでに婚約済みで、あとは日取りを迎えるだけだと人づてに聞き及んでいた。もしもあの噂が正しければとうの昔に式を挙げ、安定した結婚生活を送っているはずだ。独身女性が夫を求める縁つなぎの場に、参会する必要はない。


 わたしも貴族令嬢の端くれだ。欺瞞や虚偽がはびこる箱庭で、狡猾な他者に足をすくわれぬよう、自制には心がけている。ゆえに内心で渦を巻く不可解さを、表情に出したつもりはない。


 しかしながら腑に落ちないと穿つ心理は、仄暗い階級社会を泳ぐ女傑には筒抜けだったようだ。


 他人の機微に聡いメルヴィナ様は、こちらの疑問を察したとたんぷっと吹き出し、余韻に浸らずにはいられない鈴を転がすような笑い声を軽やかに響かせた。


「男女の交流パーティーに参加しているわたくしは、アニエス様のお気持ちをかき乱してしまうほど違和感があるのかしら」

「いいえ! 決してそのようなことは……ただ、強いて言葉にするのなら、求婚者が後を絶たないメルヴィナ様が参加されることに、少々釈然としなかっただけです。……ですが、いくら初対面でなくとも、個人的な事情を詮索するようなはしたない真似などすべきではありませんした。お気を悪くされましたなら、申し訳ありません」


 興味本位からでなかったにせよ、礼儀に欠いた所業だ。無作法きわまりないと、不快に思われても仕方がない。


「誉め言葉として頂戴しておくけれど、わたくしのようなはねかえりに、求婚の名乗りを上げる方が大勢いらっしゃるだなんて買い被りよ。あなたもご存じでしょう? 社交界においての、メルヴィナ・ショーメットに対する評価を」


 笑いをおさめた彼女は口元に指の背を添え、楽しそうに頬を緩めた。


「でも、そうね。本来ならば一人や二人、子を成していて当然の年齢ですもの。アニエス様が不思議に思われるのはもっともだわ。けれど、いまだ未婚を貫いているわたくし自身は、存外この雰囲気に馴染んでいるのではないかと感じているのよ」


 会話の合間に運ばれた軽食が、所狭しとテーブルに並べられていく。具だくさんのサンドイッチ。クロテッドクリームとジャムが添えられたスコーン。パイ生地に包まれた可愛らしいペストリー。


 金の縁取りが鮮やかなカップへと紅茶を注ぎ入れた給仕は、姿勢を正した一礼を最後に、多くの人でひしめき合う中心へと足早に戻っていった。


 ミルク入りのみなもが、甘い湯気をくゆらせる。鈴蘭らしき鐘形しょうけいの小花をあしらったカップを、メルヴィナ様の繊細な指がソーサーごと持ち上げる。しばし鼻腔をくすぐる香りを楽しむと、徐々に器を傾け味わうように嚥下した。


 口角が満足げにたわむ。どうやら好みに合致したようだ。


 温かな紅茶で喉を潤した彼女は、随所で満開の花を咲かせている男女に目を配りつつ、「じつはわたくしもね、アニエスと同様にお相手の方から婚約を解消された経験者なの」と、まるで紅茶の感想を綴るようにそっと唇をひらいた。


「かつてわたくしが婚約を結んでいたあの方は、伯爵家のご次男でいらっしゃるの。明朗闊達めいろうかったつな人となりに加え、重責や継ぐものがない身軽な立場の影響もあったのでしょう。ひょっとすると知的好奇心が盛んな性分も、拍車をかけていたのかもしれないわね。とにかく将来の指針を定める目的と称して、旅に視察に、果ては遊学にと、一か所に腰を落ち着けることを知らない流浪者のような生き方をなさっていたわ」


 苦痛ばかりの古傷ではないのだろう。当時を振り返るメルヴィナ様は、言葉のはしばしに懐かしさを芽吹かせながらこう語った。


 華燭かしょくの典が幻となった婚約の相手は、二つ年下。十六歳になったメルヴィナ様が社交界デビューを飾った年に、正式な手続きを取り交わしたという。詳しい経緯は伏せられていたけれど、彼女の場合も例外なく、政略的な色合いが濃い繋がりだったようだ。


 けれどお互いの意思が置き去りにされた婚約のわりに、本人たちのつき合いはきわめて順調だったらしい。


 昼間の逢瀬を重ねもすれば、色目を合わせた正装で夜会に赴きもした。その方が小旅行のみやげ話を披露するたび、聞き上手な彼女は気持ちのよい相槌を打った。メルヴィナ様が刺繍をほどこしたハンカチを渡した時には、日を置かずにお返しの装身具が贈られた。


 適度に両家を行き来し、良好な関係を築いていった二人だけれど、残念ながら恋愛感情が兆すことはなかったそうだ。


 身を焦がす情熱があるでも、惹かれ合う思慕があるでもない。穏やかに安定した絆が、お互いを結びつけていただけだ。可もなく不可もない間柄と片づけてしまえばそれまでだが、貴族同士の婚約ではその凡庸な距離感さえひどく難しい。


 メルヴィナ様は言う。意に染まない結婚を強いられる男女は、掃いて捨てるほどいる。相容れぬ者同士が婚姻に至ればどうなるかなど、結果は推して知るべしだ。冷えきった家庭は想像に難くなく、ことによっては夫妻ともに愛人を囲いかねない。


 破綻する既婚者が少なくない時世で、政略結婚が前提であるにもかかわらず、友愛に似た関係を育めたことは幸運に他ならない。だから自分たちは、あれでよかったのだと。


 婚約期間中、相手の男性がなにを考え、なにを秘めていたかを推し測るのは至難のわざだ。男性と女性では立場が違う。物を見る観点も大きく異なる。差異やずれが生じて当然だと思う。


 それでも肩ひじ張らない恬然てんぜんとした性格の男性は、物言いがはっきりしているメルヴィナ様の気質を受け止め、その姿勢ごと大切にしていたようだ。だから周囲の誰もが温かな目で見守りこそすれ、一瞬にして崩壊する未来など露ほども危惧してはいなかった。


 よもや経営の才を伸ばしたいと遊学に旅立った彼が、現地の女性と恋に落ち、同棲になだれ込んだあげくに妊娠させてしまうだなんて、夢にも思わなかったに違いない。


 メルヴィナ様はもちろんのこと、花婿確定の当人に事後報告された両家は、蜂の巣をつついたような騒ぎになったのではないだろうか。


「陳謝を兼ねた弁明を聞かされた時はさすがに愕然としたけれど、わが身に降りかかった一大事を俯瞰ふかんするもう一人のわたくしは、あり得ない結末ではないと冷静に分析していたわね」


 ティーカップを戻した彼女は「せめて感性が人並みであれば、泣き濡れた顔で非難の一つでもしていたのでしょうけど」と儚い吐息を差し挟んだ。


「人生には、いくつもの分岐が存在するわ。人と出会う瞬間に、たわいない会話の狭間に、情を深めていく過程に。道が交差するつど運命という名の天秤が振れ、懐疑心を誘うかのように選択肢をチラつかせるの。現状に不満はないか、唯々諾々と身を固めて後悔しないかとね」


 苦みを内包した抑揚に呼応して、錆びつくわたしの琴線がかすかに震えた。


「一度迷いが生じてしまえば、なにかの拍子に気移りしてしまう可能性は十二分にあるわ。ましてやあの方が心を預けた女性は慎ましい人柄で、わたくしとはまるで正反対の従順なタイプであればなおのこと」


 懐妊が判明してすぐ、蜜月に溺れきっていた彼はいったん滞在を切り上げ、慌てて母国に引き返したという。取るものもとりあえず単身で帰邸し、挙式の準備を進めていた両親を前にするなり、同棲している恋人が子を孕んでいる現況を洗いざらい打ち明けたらしい。


 当然、前触れなく帰国した息子の告白は、青天の霹靂以外のなにものでもない。なにしろ外国で研鑽けんさんを積んでいるはずの次男が女性にうつつを抜かし、あまつさえ受胎させてしまったのだ。精神的に動揺し、色を失わない親はいないだろう。


 案の定、とんでもないことをしでかした息子への憤怒は凄まじかったようだ。激昂した父親は悪鬼の如き形相で胸倉を掴み、事態の重大さに言葉も出ない母親は真っ青になってしばらく茫然自失だったのだとか。


 感情的になっていては話し合いにならないと、ひとまず日を改めた両親は気持ちを落ち着け、再び彼の説得に当たった。


 婚約が成立している立場、出自が負う体面、利益をもたらす家と家との繋がりなど、噛み砕くようにして諭したけれど、恋人とは絶対に別れないの一点張りで、彼は頑として頷こうとはしなかったという。


 乱暴なやり方で二人の仲を裂くのは簡単だ。しかし強硬手段を講じたが最後、息子とのあいだにいらぬ亀裂を入れてしまう。なにより娘の腹に宿る新たな命を思えば、無責任に捨て置くなどできない。


 落としどころの道筋をつけるまで、およそ二週間。何度も相談を重ねた両家は、ついに解決の糸口は絶望的との判断に至り、婚約を解消する結論に合意した。


「悄然とするご両親を伴われたあの方は、謝罪の場でわたくしに深く頭を下げながらこうおっしゃったの。生涯を共にしたい女性がいる。安らぎと幸せを与えてくれる彼女との出会いは望外の喜びで、はからずも子供まで授かった。詫びて済む話ではないし、僕自身の我が儘だと承知している。それでも今の幸福を手放すだなんて考えられない。だからどうか、婚約を白紙に返してほしいと」


 なんて残酷な仕打ちなのかと、憤らずにはいられない。分別ある大人が選択するには、ずいぶんと身勝手が過ぎる。苦慮や懊悩の時間があったのかさえ疑わしい。


 実際のところ、政略結婚とは家同士の契約である。当人の気持ちは斟酌されず、例え好き合った相手がいようと、親が決めた人物を無理やり伴侶に据えられることも皆無ではない。


 貴族の婚姻は不自由だ。いろいろな思惑や利害に縛られている。その方も貴族に生まれたからには、根が深い不文律など初めから承知していただろうに。


 切れぬしがらみを踏まえたうえで、覚悟を決めたのではなかったのか。

 メルヴィナ様を尊重し、寄り添っていこうと手を取ったのではなかったのか。


 かつての婚約者がどのような邂逅を経て、どれほどの愛を燃え上がらせたかなんて、悲恋に終わったわたしには思い描きようがない。


 もしかすると異国の雰囲気と開放的な気分が、大胆な行動に走らせたのかもしれない。あるいは羽を伸ばしている気の緩みが、彼の立場を忘却させてしまったのかもしれない。


 きっかけはどうあれ不義を働いた事実に変わりはなく、けっきょくその方が理想とする女性像が、でしゃばらない奥ゆかしさと男性を立てる慎み深さということだけは咀嚼できた。


 いずれにせよ子供までもうけた手ひどい裏切りで、メルヴィナ様をないがしろにした人だ。一方的に踏みにじられる理不尽な痛みなんて、一生かかっても理解できないだろう。


「他の女性に癒しを求めたあの方のお気持ちも、わからないではないわ。ほら、わたくしは自己主張が強くて、淑女らしからぬ一面があるでしょう? 破談に及んだ責任の半分は身から出た錆と、後ろ指をさされても仕方ないと思うの」


 スコーンにクロテッドクリームと苺ジャムの二層をあしらった彼女は、小さく割ったそれを口に入れ、優雅な所作で堪能している。ほのかに垣間見えた赤い舌が、ふっくらと艶めく唇との相乗効果でひどく扇情的だ。


 上品に味わったメルヴィナ様は甘みの残滓を中和するが如く、淹れなおしたブラックティーを口にする。フォークの先でかぼちゃのパイを崩ずわたしは、しみじみと感嘆してしまった。物を食する姿さえ絵になる人だと。


「異を唱えることもしばしばだったし、助言のつもりで差し出した言葉が、もしかするとあの方には小言めいて聞こえていらしたかもしれない。表面上、平然を装っていても、その実はうるさくて生意気な女だと辟易していらっしゃった可能性もあるわ。気持ちの変質はどうあれ、生まれてくる命を最優先に考えれば、もはや瓦解も同然の婚約に意味は見いだせなかった」


 聡明な彼女のことである。年下の婚約者が抱える澱を、うすうす勘づいていたに違いない。


 よくも悪くも伯爵家の次男だ。大らかな人柄とはいえ、虚栄をない交ぜた自尊心は相応にある。きっと寛容なふるまいの裏で、男としての矜持に少なくはない傷を負っていたのではないだろうか。


 社交界でメルヴィナ様の名前が風靡ふうびすればするほど、華やかさに磨きがかかればかかるほど、未来の夫となる彼は比較され、釣り合いが取れているのかと値踏みされる。


 男性優位がまかり通る貴族社会で生きる者なら、屈辱を覚えてあたり前だ。そろって公の場に出るたび露骨な当て擦りをされれば、気位にのしかかる劣等感は生半可ではない。


 溜め込むしかない葛藤は捌け口を見つけられず、淀みを伴って嵩を増すだけだ。鬱屈した日々は彼を追いつめ、いつしか渇きが飽和した心は、限界を超えてよそに逃げ場を求めた。その方の弱さが縋った果てが、くだんの不貞行為だったのだろう。


 曲がりなりにも婚約者でありながら、彼女を支えるどころかたやすく翻意して逃げたというのに。

 自分だけが幸せを掴み、妻として迎えた女性と親子三人で、平穏な暮らしを謳歌しているかもしれないのに。


 根がまっすぐなメルヴィナ様は、迷うことなく自身の名誉を犠牲にした。強いられる無味乾燥な人生ではなく、好いた相手と添い遂げられるよう、傷物の烙印を押される覚悟で潔く身を引いたのだ。


 決意を固めた瞬間のつらさは、いかばかりだっただろう。

 悔しかったと思う。悲しかったと思う。どこで間違えたのだろうと過去を顧みては、自責の念に駆られたかもしれない。


 共感を示したところで、彼女の心には届かないだろう。誇り高さを秘め、自己を確立している人だ。同情や憐憫は不要と、柔らかな笑みで拒まれるだけだ。


 真の痛みは、受けた本人にしかわからない。同じように破談の道を辿った立場にあるとはいえ、当事者でないわたしには想像するしかできなかった。


「両家で尽くした協議のすえ、あちらの有責というかたちで終止符が打たれたのだけど……そのあとの展開が誉められたものではなくて、ほとほと困り果ててしまったわ。おそらく無事にまとまるはずの婚約が突然台なしになってしまって、父なりに焦燥感や危機感を募らせていたのでしょうね」


 やるせなさを浮かべたメルヴィナ様は、憂いに満ちた吐息をこぼし、


「どのようなつてを使ったのか、白紙撤回が決定した日を境にして、あちこちからかき集めてきた縁談を打診してくるようになったの。それはもう手当たりしだいといった様子で、押しつけられる身上書には、年齢も家格も必須条件も一貫性のない殿方の名が勢ぞろいしていたわね」


 物怖じしない気性を窺わせる眉宇を、ほのかにしかめた。


「ともかく、整合性が欠如した嫁ぎ先の選定には、呆れを通り越して頭痛しか覚えなかったわ」


 ことの顛末を把握したわたしは、胸中で首をかしげる。


 数年前に起きた婚約解消という由々しき出来事も知らなければ、ショーメット家でくり広げられる攻防もついぞ耳にしたことがなかった。


 知名度が高く、つねに脚光を浴びているメルヴィナ様だ。注目の的たる彼女に関する醜聞ならば、なおさら無聊をかこつ婦人たちの口にのぼらなかったとは考えにくい。


 なにしろ、並みいる上位令嬢を圧倒するほど光り輝いていた人である。噂好きな人種が放っておくはずがない。


 であれば、たんにわたしが疎かっただけで、社交界では相応の騒ぎになっていたのかもしれない。面白おかしく吹聴される噂など歯牙にもかけない叔母のみならず、貴族社会を共有する得がたい友人も、その手の話題は慎重に扱うはずだ。


 もしも彼女たちが、わたしを刺激しないようあえて排除していたとすれば、情報が手元に届いていなかったのも頷ける。


 などと考察の延長で納得しかけた次の刹那、「一連の騒動があまり耳目に触れなかったのは、一応の理由があるのよ」と、おさまる寸前の疑問をすくい上げたメルヴィナ様が、ベールに包まれていた謎を解き明かしてくれた。


 結論から言えば、耳打ちされた解答は単純明快で、なんということはなかった。


 大きな抑止力が働いていたのかと思いきや、ショーメット家の外聞が水面下で済んだのは、時を同じくして公布された慶事に国じゅうが沸き上がったからだ。


 ちょうどあの頃、猫も杓子も歓喜に心を躍らせ、国内は熱に浮かされたように祝賀一色に染まっていた。


 イェルドは四方を大国に囲まれた位置関係にあるため、ローウッド王国とは反対隣りに偉容を構えるセレン公国とも、大小さまざまな摩擦が絶えなかった。


 特に長びいたのは交易をめぐる案件だ。拮抗する国力が譲ることをよしとせず、折衝を重ねるたびに悩みの種を俎上そじょうに載せていたようだが、頑なに我を張るばかりでまったく意見が噛み合わなかったらしい。


 しかし堂々めぐりしていては埒が明かないと、懸念する首脳陣も少なくなかったのだろう。ここに来て重い腰を上げた大臣たちが内密に連携し、並行しながら折り合いを模索していたようだ。東奔西走する情勢のなかようやく機が熟し、ある儀式を介することで妥結だけつをはかる運びとなった。


 譲歩案とも解釈できるその儀式とは福音でもあり、また強固な繋がりを構築するための礎でもある。


 ようするに、セレンを統べる君主嫡男ラクロワ大公世子せいしと、イェルド王国リオナ第一王女殿下との婚約が実り、陛下じきじきの言葉で発表されたとたん、久しぶりにもたらされた好事こうじがたちまち国内を駆け抜けたのだ。


 とにかくお祭りさながらに全土が熱狂し、皆が皆、諸手を挙げての祝福ムードに酔いしれた。それはそうだろう。王家の姫が嫁ぐのだ。老若男女すべての関心が向くのはあたり前で、さして珍しくもない破談に興味を引かれる噂好きなど、微々たるものだったに違いない。


 不幸中の幸いと胸を撫で下ろせばいいのか、もしくは神の慈悲と感謝すべきか。複雑な心境のわたしには判断しがたい問題である。


 いずれにせよ、大々的な吉慶きっけいとつらい出来事との時期が符合したおかげで、メルヴィナ様に降りかかった悲運は目立つことなく、あっという間に押し流された。よって良縁を欲する参会者に彼女が交じっていても、なんら不思議ではないのだそうだ。


「貴族家に生まれたからには、父が定めた婚姻に否やを挟めない立場だということは承知しているわ。繁栄を享受する手段ですもの。覆しようがない慣例だと、なかば諦めの気持ちもある」


 つかの間、声を曇らせたメルヴィナ様だったが、ティーカップのふちを手すさびに辿ると、悪戯めいた顔つきを浮かべながらわたしの耳朶をくすぐった。


「とはいえ、理性と感情は別物だわ。不幸が手ぐすね引いて待ち構えているのよ。にもかかわらず輿入れするだなんて、愚の骨頂だと思いませんこと? ですからわたくしは、婚姻締結に血眼になる父の目を覚まさせるためにも、もちろん往生際が悪い自身のためにも、最後の賭けに打って出ることにしたの」


 彼女に似つかわしくない不穏な言葉が掠めた直後、飲み物を引き寄せんとしていた指をぴたりと止める。カップに伸ばしかけた手を膝へと下ろし、美貌の貴婦人が投げた意味をゆっくりと反芻する。


 数拍の沈黙を置いたわたしは「メルヴィナ様が示唆される賭けとは、異性が集う園遊会への参加でしょうか」と、小さく口ずさみながら彼女を見つめた。


 ゆるりと睫毛を伏せたその人は、あでやかな唇に弧線を描いた次の瞬間、


「人間の追随を許さぬかの種族は、人にして人にあらず」


 玲瓏とした音色で、詠うように一節を綴った。


 凛と響く羅列が鼓膜を震わせ、なごやかな宴に埋もれる核心を浮き彫りにする。


「混じりけのない人の姿を形成するイェルド人やセレン人とは異なり、ローウッドの臣民は皆、その恵まれた体に竜という獣を飼っている」


 透徹した榛色の瞳が意義深くわたしを映したけれど、すぐさま庭園全体へと逸らされた。


「だからかしらね。選民意識が強い一部の国民は陰で半人半獣と蔑み、その傍ら、自分たちをおびやかしはしないかと畏怖せずにいられないのは」


 そう、花嫁を求めて来訪しているローウッドの人々は、天空の覇者と恐れられる『竜』を宿す種族だ。


 竜と契った人族が始祖だという、根拠のない諸説を引用しているわけでも、大柄な体躯と底知れぬ眼光を比喩しているわけでもない。正真正銘、異形なる外貌を身のうちに棲まわせる竜人族を指している。


 事実、彼らは竜体に変じ、ある時は翼を広げて蒼穹を翔け、またある時は威嚇まじりの咆哮を上げるという。その姿は戦慄を禁じ得ないほど醜悪な形態をしていると伝えられており、ちっぽけな人間などひと飲みにしてしまえるあぎとを備えているのだとか。


 しかし荒々しい竜であると同時に、理知的な人でもある彼らだ。


 凶暴いちじるしい種族だとは思いたくないし、恥ずかしながら信憑性が乏しい書物や伝聞で得た不確かな知識でしかない。性質や嗜好なども合わせて、どこまでが真実でどこまでが虚構かは、非常に曖昧だった。


 真偽のほどはさておき、こちらでは伝説と言っても差し支えなく、堅牢な鱗と鋭利な爪牙で鎧う異種であることに間違いない。


 武器の使用は別にして、非力で脆弱な体しか持たない人間にしてみれば、身体能力の面においても甚大な生命力においても、すべてを凌駕している彼らに対し、過剰に警戒してしまうのはやむを得ないのだろう。


「イェルドの女性をローウッド男性にめあわせることで、完全にぬぐえぬ脅威を回避しているのかもしれない。もしくはわたくしたちでは推し測るべくもない、なにかしらの意図が両国間で秘匿されているのかもしれない。どのみち政治的な思惑が働いていたのだとしても、瑣末なことでしかないけれど」


 心なし翳りを滲ませていた眦は一縷の期待感に染まり、憂慮を脱ぎ捨てた晴れやかなメルヴィナ様がそこにいた。


「もしもパーティーが催されるひと月のあいだに、どなたからもお声がかからなかったその時は……思い切れずにいた恋への憧れと決別して、今度こそ父が用意した縁談を承諾するつもりよ。……けれど」


 そういうことか。ささやかな抵抗としてメルヴィナ様が父親に持ちかけた賭けとは、交流会が開催される期間内に伴侶候補を見つけられるか否かという内容だったのだ。


 猶予は一か月。結婚の意思表示、ないしは交際を申し込まれた時点でメルヴィナ様の勝ち。もちろん彼女から意中の殿方に告白して、受け入れてもらえた場合も同じく勝ちだ。


 はからずも埒外の殿方から口説かれたり、求愛された折には、それぞれが人柄を知るためにひとまずおつき合いはするらしい。したがってこのような事例も、勝ちに含まれるのだそうだ。


「人も千差万別ですもの。是々非々ぜぜひひを主義とする可愛げのないわたくしでも、気に入ってくださる奇特な方がお見えになるかもしれない。イェルド男性が望む従順な淑女にはほど遠いけれど、ありのままのわたくしを愛してくださる寛大な殿方がいらっしゃるかもしれない」


 国が違えば価値観も違う。年齢も、身分も、好みも、考え方も、人をかたちづくる要素は百人百様で、個を決定づける性格のよし悪しも然りである。これはイェルドに限らず、ローウッドにも同様のことが当てはまるはずだ。


「例え蛟竜毒蛇こうりょうどくだと恐れられる相手であっても、文化の隔たりから生じる齟齬そごが避けられなくとも、両国を結ぶ共通言語のおかげで意思疎通がはかれるのだもの。誠心を持って歩み寄れば、理解を深めていけるはずだわ」


 同感だ。泣いても笑っても区切りが設けられた男女の集いは、たったひと月。異国人かつ異種族という垣根を越えられるかどうかはともかく、悔いを残したくないのなら、淑やさも嗜みもいっさいがっさい取り払い、惜しみない気持ちを伝えていくしかない。


「今後の人生を左右する結婚を、父の独断で決められるのはとても癪だわ。わたくしたちは家を支える駒である前に、一人の人間なのよ。幸せを希望する権利を掲げてなにが悪いというのかしら」


 彼女の強さは納得するまで決して折れない、その信念にあるのだろう。控えめなふるまいを美徳とする令嬢が、奇異の目を向けて敬遠するはずだ。


 挑むような表情で流し目をくれたメルヴィナ様は、「修道女や中高年層の後添いがついの身分だなんて、アニエス様もお嫌でしょう?」と、眩しくも意欲に満ちた微笑みを満面にたたえた。

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