【2】

 まばゆい煌めきが柔らかく降り注ぐ。赫々かっかくと満ちる燐光は場内を照らし、一夜の夢さながらの幻想的な空間を演出していた。


 誘われるように仰ぎ見れば、淡い輝きと奢侈しゃしな造形美を纏った、大小さまざまなシャンデリア。神話を題材にした天井画が頭上を彩り、絶妙な配置で吊るされた明かりが、得も言われぬ荘重さを際立たせている。


 精緻な彫刻がほどこされた支柱や壁。そこかしこで匂い立つ鮮やかな装花。緩急を織り交ぜながら流れる旋律。圧倒される別世界は神秘の馨香けいこうにあふれ、まるで幽玄な調べが紡ぎ出すおとぎの国のようだ。


 集う者は頬を上気させ、あるいは感きわまった表情でうっとりと酔いしれる。興奮と紙一重のときめきがほどよく相乗した様子は、どれほどこの日を待ち侘びていたのか如実に物語っていた。


 しかし壮麗な雰囲気に魅せられる皆とは真逆に、茫然と立ち竦むわたしの心は、荒れすさむ大地のようにひび割れていた。


「あいつ、どういうつもりだ」


 唸るような低音が地を這う。怒気を含んだ呟きは冷たく軋み、ぎりりと奥歯を噛み締める音まで聞こえてきそうだ。


 傍らに寄り添うその人は、激昂寸前の滾りをかろうじて押しとどめている顔つきだが、思考が停止したわたしはそれを気にするどころではない。


 目撃した光景が信じられず、なめらかなステップを踏む一組の男女を、食い入るような眼差しで追いかけるしかできなかった。


 苛立ちを凝縮した独言を聞くともなしに拾い、楽団の演奏に乗ってしなやかに舞う白い衣装の群衆を瞳に映す。


 ここは王宮に設えられている舞踏会会場。絢爛けんらんとしたホールを無垢な色で埋め尽くすのは、社交界に羽ばたく年齢に達したデビュタントたちだ。初々しい所作で純白の裳裾もすそをなびかせ、パートナーのリードに合わせて軽やかに踊っている。


 昂揚感と夢心地の狭間でたゆたう、白いドレスと黒の燕尾服。誇らしげに舞う彼女たちに埋もれるように、わたしの目を釘づけにして離さない二人が、笑みを浮かべて三拍子のリズムを刻んでいた。


「今夜の舞踏会は、どうしても断れない内輪の事情がある。……軽佻浮薄けいちょうふはくもはなはだしいクズにしては珍しく、めったに見ない低姿勢で頼み込んでくるものだから、やむを得ずパートナー辞退の旨を了承したというのに」


 手を握り合い、優雅な足さばきで床を滑る彼らは、まるで完成された一幅の絵画のようだ。


 適切とは言いがたい体の距離と、はにかみながら見つめ合う親密な雰囲気。他人同士のあいだに流れる遠慮や緊張感の類いはいっさいなく、自然体でダンスを楽しんでいるのが手に取るようにわかる。


「社交界デビューする従妹のパートナーを急きょ務めることになった――そう聞かされていたが」


 十六歳を迎えたわたしも今宵の主役の一人であり、本来ならばデビュタントとしてあの人とワルツを踊るはずだった。婚約したばかりとあって、お互いの仲は依然しっくりしないままだけれど、好きな人と共に参加できる喜びはひとしおで、晴れの舞台が待ち遠しくて仕方なかった。


 募る快味で心弾ませるわたしと違い、ひょっとすると同伴役の彼は面倒に感じていたのかもしれない。もしくは二年後、妻の座につく女の体面を守るために、義務感を総動員して手を取ってくれただけなのかもしれない。


 よしんば図星を突いていたとしても、それならそれで構わなかった。一生の宝物になるだろう夜会に思いを馳せれば、あの人の本心がどこにあろうと瑣末なことでしかなかったから。


 幾度、正装姿の彼を想像しただろう。

 飽きるでもなく頻繁に衣装部屋をのぞいては、保管されている白一色のドレスに恋しさを投影しただろう。

 指折り数えながらため息をつき、どれほど焦れる気持ちを持て余していただろう。


 しかし、時としてめぐり合わせは残酷だ。前触れなく忍び寄り、手ひどい仕打ちで嘲笑う。


 初恋にのぼせるわたしは夢想に明け暮れ、完全に浮かれていた。彼と過ごす甘いひと時を想像し、陶然として胸を高鳴らせていたのだ。

 まさか夫となる人に足をすくわれ、天国から地獄へ突き落とされるとも知らずに。


 披露目の舞踏会まで、ひと月を切ったある日。彼は従妹のパートナーを引き受ける羽目になったがゆえに、わたしのエスコートは辞退せざるを得なくなったと断りを入れてきたのだ。しかも事後報告というかたちで。


「婚約者のアニエスを差し置いてまで、選んだ相手がアレか」


 先方の申し入れを受けた父は言葉少なに憤っていたけれど、礼儀を欠いた所業にひときわ激怒したのは、むしろ二人の兄だった。


 腹に据えかねるといった渋面で殺気立つ兄たちも凄まじかったが、二人に負けず劣らず不愉快を露わにするデュノア家の使用人は、あの人の自己本位なふるまいに痛烈な非難と怨嗟を燃え盛らせていた。


 彼らは皆、わたしの気持ちに気づいていた節がある。言葉のはしばしに喜びを滲ませながら、あの人につき添われてデビューする記念すべき日を、ずっと楽しみにしてくれていた。だからこそ貴人に対する畏怖の念をねじ伏せ、声高に批判を爆発させていたのだ。


 わたしとの婚約は周知の事実だ。夜会で並び立つ男性は彼以外にいないと、誰しも思うに決まっている。そんななかで肝心のエスコート役が、いきなり不履行を言い渡してきたのだ。烈火の如く憤慨して当然だろう。


「ハッ、なにが従妹だ。親族どころか、赤の他人の男爵令嬢ではないか」


 パートナー不在のまま、単身で舞踏会に臨むデビュタントなんて皆無と言っていい。ひょっとするとさかのぼれば前例はあるのかもしれないけれど、もしそうだとしても異例中の異例で、あまりよい印象は持たれないと思う。


 すでに婚約が確定しているなら、その相手を。花婿の座が空位ならば、父親ないし男兄弟を。エスコートを務められる家族がいない場合は縁者に頼む、というのが暗黙の習わしだ。


 よほどの理由がないかぎり、誓約を立てた相手がいる身で、他の女性を同伴するなどもってのほかである。


 にもかかわらず、彼は許婚のわたしではなく従妹と偽った女性につき添い、あまつさえ一夜限りの関係とは思えない睦まじさでダンスを堪能していた。


 二人が顔を寄せ合うたび、心の真ん中を膿んだ痛みがじくじくと蝕む。息苦しくて、目がしらがつんと熱くなって、今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。


 胸を搔きむしりたくなる仄暗い感情に名をつけるとするなら――嫉妬か、嘆きか、悲しみか。あるいは、そのすべてだろうか。


「正面切ってデュノアに喧嘩を売るとは、どうやらあのクズは自身の立場をまったく理解していないと見える。緩やかな凋落を辿っている家のぶんざいで、よくもまあ恥知らずな愚挙をしでかしてくれたのものだ」


 凍てつく激情が静かに耳朶を掠め、衝撃冷めやらぬわたしをハッと引き戻した。


 夜会服を粋に着こなし、護衛のような佇まいでそばに控える男性――長兄パトリスが獰猛な笑みをよぎらせる。そうして明確な目的を孕んだ大きな歩幅で、磨かれた床をゆったりと蹴った。


「いけませんッ、お兄様!」


 悠揚ゆうようたる風采と落ち着き払った物腰が相まって、冷静沈着な人柄に見られがちな兄だけれど、その実、かなり血気盛んで気炎を上げやすい性質をしている。


 だがしかし、そこは痩せても枯れても貴族令息。大抵のことは鍛えられた自制心でうまく消化しているようだった。


 惜しむらくは、身内がよからぬ出来事に見まわれたとたん、理性と分別と忍耐の箍が呆気なく外れてしまうのが唯一の難点だろうか。


 家族思いで、年が離れた妹をこよなく可愛がってくれる兄のことだ。刹那に浮かべた微笑の下でなにを考えたかなど、推察するまでもない。


 宮廷で執りおこなわれる夜会において、暴力沙汰はご法度だ。今夜の催しは参加者の年齢が若いこともあり、場内の至るところで警備の騎士が目を光らせている。理由はどうあれ、ひとたび騒ぎを起こしてしまえばごまかしは利かない。


 取り返しがつかなくなる事態だけは避けなければと、怒気がみなぎる腕にしがみつき、酷薄な表情をかたどる兄を必死になって引き止めた。


「離せ、アニエス! 慣例にそむいたうえに、悪びれもなく他の女にうつつを抜かすクズには、一発ぶち込んでやらないと腹の虫が治まらんッ」


 わがごとのように憤慨してくれる、兄の気持ちはありがたい。また同時に、こんな妹で申し訳ないとも思うのだ。いくら家同士の契約とはいえ、慮る価値もないとほのめかすように、無配慮な態度でないがしろにされる婚約者などそうはいないだろう。


 謀られたのは不可抗力――そんな聞き苦しい弁解はしない。あの人の嘘を見抜けず、今夜の不祥事を許してしまったのは、絶望感に押しつぶされた自分の弱さが原因だ。


 すなわち、体裁だけでも繕えなかったわたしの力不足が招いた結果で、デュノア家の娘は許婚に見向きもされない可哀想な女だと、下世話な噂の火種を提供してしまった。


 家名に傷をつけるばかりか、節目の行事ですら粗末に扱われる自分がひどく情けなくて、もしも隣に兄がいなければ、みっともなく泣き出していただろう。


「どうかお気を静めて、周りをごらんになってください。今わたくしたちが立っているこの場所を、どことお思いですか? 大勢のデビュタントが喜びを謳歌している、王宮の舞踏会場です。彼女たちにとって、たった一度しか味わえない晴れの舞台なのですから、無粋にもこちらの事情で水をさすような真似などしてはなりません」


 今宵は特別な日だ。少女から女性へと成長を遂げ、社交界という駆け引きが渦巻く大人の世界へと、足を踏み入れる大切な儀式だ。そんな意義のある時間をいち伯爵家が――品行方正で名高い由緒あるデュノア家の継嗣が、荒ぶる感情に任せて夢のひと時を壊してはいけない。


「お願いします……憐れな妹を不憫に思ってくださるのなら、今だけはこらえていただけませんか」


 潤む瞳でじっと見上げれば、端整な容貌をゆがめた兄はきつく瞼を閉じ、つかのま深く瞑目した。


 おそらく、殴りつけたい衝動と振り上げたこぶしをおさめる理性とが、拮抗するようにせめぎ合っているのだろう。指を握り込む手の甲にうっすらと浮かぶ骨の尖りが、やり場のない心中を赤裸々に吐露していた。


 空気が停滞してどのくらい経っただろう。一分か、あるいは五分か。間延びする沈黙のなか両足をぐっと踏ん張り、縋りつく格好で縫い止める。


 しばらくすると、気おされるほどの刺々しさがしだいに和らぐ。微動だにしなかった体からは強張りがほどけ、ややあって不快な塊を吐き出すように盛大なため息が放たれた。


「……悪かった」


 憑き物が落ちたように小さな呟きを落とすと、左腕にしがみつくわたしの肩に柔らかく触れる。そのままひじ上丈の長手袋を伝い下りると、上着の袖を掴む手をなだめる仕草でぽんぽんと優しく叩いた。


 唇を噛み締めることで弱音を封じるわたしを見下ろした兄は、「これでは嫡子どころか兄としても失格だな」と苦笑を漏らしては、重苦しい空気を払いのけるように肩を竦めた。


「心待ちにしていた舞台で屈辱的な仕打ちを受け、一番悔しい思いをしているのはお前なのに……頭に血がのぼるあまり、危うくめでたい時間を台なしにするところだった」

「お兄様……」


 抱きついていた腕を解放し、正面から兄を見据える。再び穏やさを取り戻した顔つきには貴人らしい気品と風格が漂い、凛然とした佇まいからは今しがたの煮え滾るような憤りは微塵も感じられなかった。


 凪いだ気配を認めて、ほっと胸を撫で下ろす。愁眉をひらき、かすかな笑みがこぼれた瞬間、ふいに伸ばされた親指に眦を撫でられた。


 驚きに瞬きをくり返せば、困ったような面持ちの兄が、気持ちを切り替える声音でこう告げた。


「健気でいじらしいお前に免じ、抑えがたい怒りはこの場かぎりと、水に流すのはやぶさかではない。……だが公的な場所で侮られ、気分を害された件についての沙汰をなかったことにはできない。虚実がない交ぜる情報の確度はさておき、社交界は無聊を慰める噂の宝庫だからな。駄弁を弄する令嬢たちの伝達網によって、明日にはいくらか誇張された話が広まっているだろう」


 退屈しのぎの話題にされるのは想像に難くない。人の口には戸が立てられない以上、対処しようがないのは事実だ。どれほど口惜しかろうと、きつくほぞを噛もうと、下火になるまで恥辱を耐えるしか術はない。


「したがって良識に欠けた愚か者のふるまいは、明日帰邸する父上に報告したうえで抗議状をきっちり送りつける。つらいだろうが、お前もそのつもりでいろ」


 仮にも、婚約をもって繋がりを築いた家名に泥を塗ったのだ。当然の措置だろう。へたに温情をかけてしまえばデュノア家の沽券に関わるし、都合よくはき違えたあちらを調子づかせてしまう恐れもある。


 貴族を名乗って長い家系だ。深く根ざす通例を知らなかったなどと、見え透いた言いのがれはできない。毅然とした態度で苦情を訴えると判断した、兄の選択はしごく正しいと思う。


「さて、せっかく綺麗に着飾って参加した舞踏会だ。浅はかで無神経なクズには本気で殺意が湧いたが……まあいい。今宵は贅を凝らした特別な日だからな。煩わしいあれこれはひとまず忘れて、存分に楽しまなければ損だぞ」

「ええ、おっしゃるとおりです」


 手袋に覆われた指の背が血の気を失くした頬に触れ、慰撫するように滑り下りる。王子様然とした兄に倣って背筋を伸ばせば、上出来だと誉める指先に顎の輪郭を淡くくすぐられた。


 あうんの呼吸で向かい合ったわたしたちはどちらともなく口角を緩め、ささやかな笑みをひそかに交わした。


「では、改めて。我ら一族の可憐なる姫、レディ・アニエス。長子として胸を張るには至らぬ兄だが、一曲お相手願えませんか」


 芝居がかった気障な所作だが、威風堂々とした兄にはひどく似つかわしい。非の打ちどころがない貴公子は、均整のとれた長躯を優雅に折り、ホールの中央へいざなう仕草で一礼する。


 過保護のきらいがある兄は、わたしの機微にとても聡い。うまく隠していても、それとなく看破してしまう。塞ぎ込めば慰め、時には勇気づけ、心が冷えるたび、包むようなぬくもりを灯してくれる。無尽蔵な親愛の情で、慈しんでくれる。


 今もそうだ。おそらく陰で嘲笑されるわたしを、精いっぱいの行動で守るつもりなのだろう。みずから道化を演じることで、こびりつく憂いを払おうとしてくれているのだ。


 家族愛にあふれた潔さに唇を綻ばせると、差し伸べられた手のひらにそっと指先を乗せた。


「喜んで。一曲と言わず、何曲でもお相手したしますわ。わたくしの自慢のパトリスお兄様」


 デビュタントとしての舞踏会は今宵だけ。だったら、いまだ脳裏に居すわる場景も、胸にわだかまる苦みも、儚い恋心を蝕む妬心も、丸ごと全部咀嚼して、この瞬間を楽しまなければもったいない。


 伯爵令嬢の仮面でぐらつく気持ちに蓋をしたわたしは、洗練されたエスコートに従い、踵を打ち鳴らしながら白と黒が入り交じる波間へと身を投じた。



 ***



「お目覚めください、お嬢様。ご起床のお時間でございます」


 閉じた瞼の向こう。人が動く気配とほのかな光が、朦朧とした意識を優しく浮上させる。ぐずる睫毛をどうにか持ち上げ、滲む視界を懸命に凝らした。


「おはようございます」


 外光を浴びるシルエットが引き寄せたカーテンを両端に纏め、タッセルで留めながら朝の挨拶を口にする。


 寝起きだからか、それとも夢見がよくなかったからなのか。耳に届く清々しい声とは対照的に、おぼつかない思考でほうけたまま「おはよう……」と、応答するのがやっとだった。


 朝が弱いわけではないけれど、今日にかぎって頭が重い。沈むような気怠さの原因なんて、考えるまでもない。さんざんなデビューとなった当夜の出来事を、夢の世界で追体験したせいだろう。


 過去にしたつもりでいたけれど、やはり忘却しきれぬ心の痛みは潜在していたようだ。それゆえ叔母に勧められた園遊会が呼び水となって、無惨に朽ち果てた想いの欠片があのようなかたちで再現されたのかもしれない。


 終わったことだとわかっていても、悲しみの傷跡は生々しさを伴って、未練に搦め捕られるわたしを打ちのめした。


「少々お顔の色がすぐれませんね。もしや、ご気分がお悪うございますか」

「いいえ、大丈夫よ。昨晩はなかなか寝つけなかったものだから、きっと睡眠が十分ではなかったのでしょう。すっきりした覚醒とは言いがたいけれど、動いているうちに調子が戻ってくると思うから、心配いらないわ」


 ごまかす笑みを浮かべ、返事しだいでは医師を連れてきかねないポーラの注意をやんわりとはぐらかした。


 億劫がる気持ちと戦いながらベッドに腰かけ、それにしてもと、大切な思い出になりそこねたあの夜を振り返る。


 領地視察で邸を留守にしていた父に代わり、社交界デビューするわたしのパートナーを務めてくれた長兄パトリス。


 後日、あの人が謝罪に来ざるを得ないよう仕向けた手腕はさすがだったけれど、まさか彼につき添われていた令嬢を兄が見知っていたとは意外だった。


 いずれ家督を継ぐ立場にある。重責を担う次期伯爵に相応しく、世情や時勢に精通しているとはいえ、あまたいる女性の顔と素性を認識するなど至難のわざだ。むしろ、できない人間のほうが大半だろう。


 ぞんざいに扱われたつらさより、消えない疑問のほうが大きくまさったわたしは、帰路についた馬車の中で問うてみたのだ。彼女とはどこかで接点があったのかと。


 その結果、愉快げに返された答えは、なんとも拍子抜けするものだった。


 口角をゆがめて足を組んだ兄は、「例の男爵令嬢は、学院時代につき合いがあった友人の末妹だ。卒業以降、彼とは疎遠になったのだが……因果とはじつに不思議なものだ。学院通いの兄を口実に、あれこれしつこくこなをかけてきた少女が、今やクズの毒牙で心酔中とはね。婚約済みと知らぬわけでもあるまいに。呆れを通り越して、いっそ滑稽だな」と、皮肉まじりに嗤笑していた。

 

 さげすみをまぶした言葉つきこそ辛辣だが、暗に世の中は広いようで存外狭いと言いたかったのだろう。


「待望の交流行事が、爽やかな快晴でようございましたね。悪天候の園遊会ほど難儀なものはございませんから、雨に見まわれずに済みそうでほっといたしました」

「ええ、本当に」


 窓を見やる。硝子を透かした天空には、憎らしいほど澄み切った青が果てなく続いていた。このぶんなら、空模様を気にする必要はないだろう。


 どのみち雨天であっても、野外から屋内に変更されるだけなので、開催に際して天気の良し悪しはさほど重大ではなかった。


 退路も説得もあえなく潰され、往生際わるく悶々と懊悩しているうちに、来たるべき日を迎えてしまった。気が進まないわたしの心情をよそに、本日の邸内は朝からなにげに賑わしい。


 王家主催と銘打つだけあり、準備に余念がない侍女たちの気合は、すでに最高潮に達しているようだ。


 洗顔や着替えの最中も、軽食を摂っている時も、袖を通す衣装を選んでいるただなかも。世話を焼く彼女たちは手落ちがないよう神経を尖らせ、けれどかすかに浮き立つ様子でかいがいしく立ちまわっていた。もちろん、わたし専属のポーラも例外ではない。


「さあ、お嬢様。淑女の身支度にはお時間がかかりますので、さっそく始めさせていただいてもよろしいでしょうか」


 あらかじめ用意された候補の中から選定したのは、菫色に繊細なレースをあしらった、バッスルスタイルのデイドレスだ。


 お尻のあたりを膨らませたドレスの上に、トレーンを後ろでたくし上げた同色のオーバースカートを重ねて着用する。まろやかな胸元と腰を絞った起伏が、女性らしい優美な体型を作り出していた。


 コルセットで補正しているからこそ、体の曲線が強調されるドレスがより綺麗に映えるのだろう。


 波打つレースが縁取る、おしゃれな袖口。そこからのぞく五指には刺繍をほどこした手袋がはめられ、全身を包むくるぶし丈のドレスは、踵が高い編み上げのショートブーツにぴったりだった。


 そして最後の仕上げは頭部だ。背中に流れる長髪を纏めた頭に小ぶりの帽子を被せて、ようやく貴族令嬢たらしめる装いの完了である。


「お召しになった心地はいかがでしょう。お嬢様は華奢でいらっしゃいますので、締めつけすぎないようコルセットの紐はいくらか緩めに結びましたが、苦痛や違和感などございませんか」

「いつもながら、着つけもお化粧も申し分ない出来ばえだわ。ありがとうポーラ。あなたたちもご苦労様」

「それはなによりでございます」


 等身大の姿見の前に立つ。目を凝らし、ポーラ以下、総力を注いだ侍女たちの傑作をまじまじと眺めた。


 薄づきの粉おしろいに、ほのかにぼかした頬紅。もともと赤みを蓄える唇には、淡く発色する口紅が引かれている。


 見事な手並みに感心しつつ細めた双眸を下げていけば、絹素材のドレスを染める鮮やかな青紫が視界を埋めた。青と紫。似て非なる色でありながら一つに融合する色相は、衣装という枠組みの中でうまく調和していた。


 色味自体は好みに合致しており、断じて嫌いではない。けれどわたしが宿す色との兼ね合いで、どうしても寒色系や暗色系に偏ってしまいがちだ。


 たまにはくれないや橙などの暖色か、浅緑や淡黄の薄色で仕立てられたドレスを着てみたい。


 きっと顔映りだとか、色彩の安定性だとか、妥協できない要素は多々あるのだろう。だとしても衣装のかたちや装身具で、うまく補えないものだろうか。


「よくお似合いです。お嬢様の清廉な雰囲気との相乗効果で、まるで空想上の妖精が現世に舞い降りたかのようでございます」

「妖精に例えた賛辞は嬉しいのだけど……ポーラ、身びいきとはいえ、相変わらずあなたの表現は大げさすぎるわ」


 ほんのり苦笑を浮かべながら、鏡の中にいる自分へと視線を戻す。


 流行をふんだんに取り入れた外装。意匠を凝らした手袋や帽子に、柔らかな革であつらえた足下の靴。決して廉価とは言えない持ち物が、ありふれた器量の女を品よく飾り立てている。


 しかしどれほど極上の衣装で着飾ろうと、あか抜けない容姿はどうしようもない。侍女たちの頑張りのおかげで、パッとしない見目はいくぶん磨き上げられたと思うが、殿方の関心を惹くほどの決定的な印象は乏しい。


 意欲的な心構えで見合いに踏み込めない気持ちと、壁の花よろしく他人事のように傍観せねばならないみじめさは別物だ。


 正直、交流に及び腰ではあるけれど、やはり一度は結婚を望んだ女として、誰にも顧みられず孤独に過ごす時間ほど苦痛なものはない。


 わたしの幸せを望む父や叔母にこう伝えるのは心苦しいが、おそらく帰邸して告げる第一声は、“不首尾に終わってしまって、ごめんなさい”で間違いないだろう。


「園遊会の開始時刻は、午後一時でございましたね。ひと息入れられても十分間に合いますが、道中に不測の事態が起きてはいけません。少しお早いですけれど、慎重を期して出発いたしましょう。万が一渋滞に巻き込まれでもして、大々的な催しに遅参しては大変ですので」

「そうね」


 男性とのつき合いに、気後れしている自覚はある。澱となった不信感も、依然として奥底に堆積たいせきしたままだ。戯れの先にまた裏切られでもしたらと、疑心暗鬼に駆られるつど、足が竦んで動けなくなる。


 それでも、ぼろぼろにすり切れた心が叫ぶのだ。

 わたしを見て、わたしを求めて、愛してほしいと。


 暗澹たる奈落に突き落とされ、泣いて喚いて殻に閉じこもりながらも、気持ちが通い合う恋をしたい――そんなふうにもがきつづけるもう一人の自分が、確かにいる。


 こともなげに別れを宣言した元婚約者は、脳裏に描いた女性の虜とばかりに「運命」を口した。情熱的な愛に耽溺するだけでなく、すべてをなげうっても構わないとまで告白していた。


 手ひどい所業に傷ついたのは本当だ。砕け散った恋慕は涙でぬかるみ、悲嘆と鬱屈に染まった憐れな想いは、立ち止まった状態で前に進めずにいる。


 けれど……もしもあの人のように真実の愛が芽生え、穏やかに育んでいける相手が他にいるのなら。

 果てなく広がる世界のどこかに、わたしだけの「運命」が存在するというのなら。


 どうかお願い。まだ見ぬあなた。

 臆病で意気地がないわたしを、錆びてなお絡みつく過去の呪縛から救い上げて。


「行きましょうか」


 意識を切り替えるように呼気を溶かし、まっすぐに伸びた姿勢を改めて正す。


 張り詰めた気配の変化を感じ取ったのだろう。出発の指示を合図に、侍女が扉を開け放った。


 おしゃべり好きな令嬢が勢ぞろいする長丁場に備え、久しく捨て置いていた令嬢の仮面で素顔を押し隠す。


 背を守るように控えるポーラに目配せで促すと、父が見送りに立っているだろう玄関フロアへ向かうべく、ドレスの裾を翻した。

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