Ⅱ-2
僕は漁港に建っている建物のちょっと魚臭い二階の事務室でおばさんと向かい合ってすわっている。くすんだ青い色のジャージを着たおばさんは机に向かって帳簿をにらみつけている。たまに計算機がカチャカチャと音を立てる。おばさんの着ているジャージははち切れそうなくらいパンパンだ。臨時雇いの僕は決して実務的な人間ではないけれど、漁師上がりの人が事務を執るよりもだいぶましらしい。というより漁師の人はこんな仕事はやりたがらない。
一人だけちょっと変わった人がいたらしく、その人とおばさんで事務をこなしていたらしい。ところがその人が病気で入院してしまって僕にこの仕事が回ってきた。ここに流れてきてから僕は、下の市場の雑用やたまには漁の手伝いで船に乗ったりもしていた。僕にしても、そっちのほうの体を使う仕事のほうが向いていると思っている。倫子と二人で旅をするようになってからはそんな仕事ばかりやってきたし。
「あんた東京の会社に勤めてたの」
突然ニコリともせずにおばさんが僕に話しかけてくる。何でまたこんなところに流れてきたのか。どこに行ってもそんな目で見られている。すっかり慣れてしまったけれど。
「ロシアには実務的な人間はいない」
ふと昔読んだ小説のことを思いだした。
「ドストエフスキーか」
僕のひとりごとにおばさんが敏感に反応してぼくのほうをチラリと見た。アグラーヤが好きだったな。ナスターシャよりも。倫ちゃんはやはりアグラーヤのほうかな。境遇的にはナスターシャに近い気がするけれど。
「あんた終わったのかい」
おばさんが手の止まっているぼくを見て言った。
「ひととおりは」
そもそも僕はそんなに難しいことをやっているわけではない。というより簡単なことしかやらせてもらっていない。まだ信用されていないのだろうか。
「手伝いますか」
「それよりお昼にしたら。リンコちゃん待ってるよ」
「それじゃ、お先に」
僕は立ち上がって、開け放たれたままの部屋のドアをくぐって階段を下りていく。どこに行っても倫子は評判がいい。僕はいつもそれなり。下の市場はすっかり片付いていた。
倫子はここから少し離れた加工場で働いているのだけれど、昼には家に戻っているはずだった。海から吹いてくる潮風が心地よい。倫ちゃんは本当にこのままでいいのだろうか。僕は家まで歩きながら考えている。
「おかえり。お昼はソーメンでいい」
倫子の明るい声と笑顔がいつも僕にそのことを忘れさせてしまう。はじまりって何だったのかな。僕は倫子の作ったソーメンをすすっている。
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