Ⅰ-8
今日は満月だったのか。それとも十三夜。十六夜。今日の気分には十六夜が合っているような気がするけど。こうして温泉に体を沈めていると、今日起こったことが夢のように思えてくる。というより、今まで起こったことすべてが夢なんじゃないかと。そもそも僕は本当にこの世界に存在するんだろうか。今日あのまま死んでしまっても何も変わらなかったのではないか。
それなら僕はどうして生きていたいと思うんだろう。夜の空気が気持ちいい。
「きれいな月だね。満月かなあ」
倫ちゃんの声が聞こえた。
「どうだろう。十六夜かもしれない」僕が答えた。
お湯が揺れてむき出しの肩がぼくの肩に並ぶ。
「いざよい」
「満月の次の日」
「そうなんだ」
「それよりも、何でここにいるの」
「勘ちゃんと一緒に入ろうと思って」
「でもここは男湯だよ」
「いいじゃない。お客さんは勘ちゃんとあたしだけみたいだよ」
「今日は勘ちゃんとあたしの貸切り」
倫ちゃんは無邪気に笑っている。
僕の家の小さな風呂に肩を寄せて入っていたあの頃。僕は温泉で火照った倫子の横顔を見た。髪を上げている倫子のうなじに小さなほくろが見える。
あの頃僕は、このほくろに気づいてなかった。
「勘ちゃん、いやらし」
「ごめん」
倫子が少し恥じらいを見せる。
「あやまらなくていいよ」
「もう上がろう」そう言って倫子は風呂から出て脱衣所のほうに歩いていく。
その姿を見て、やせているようでも女なんだなと思った。高村光太郎は智恵子をこんな風に見ていたのだろうか。
倫子は立ち止まると髪をおろして振り返った。
「ねえ、あたしのおしりきれい」
僕が考えていたことをわかっていたわけではないだろうけど、倫子に限らず女の子にはよくこんなことがある。女の本能みたいなものかな。
「きれいだよ」
僕の言葉を聞いて倫子が笑っている。そして少し早足になって脱衣所に消えていった。そもそも僕たちは、温泉が目的で来たわけじゃないけれど、しばらくここにいるのも悪くないかなと思った。僕も風呂を出て脱衣所に向かった。
倫ちゃんは下着をつけたところ。
「着替え持ってきたの」
「持ってきたよ」
そう言って倫ちゃんはタオルを絞ると浴衣を羽織った。
「バスタオルないのかな」
「おばさんに聞いてみる」
「ねえ、しばらくここにいようか。週末までは予約入ってないみたいだし」
「いいよ、それで」
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