木の先にて~『城の崎にて』違う~

久賀広一

まさかがけとは思わなかった。


その木の先にある、視界のない丘の向こうが、U字にえぐれているなんて。


いったい誰が、その下6メートルを、パワーショベルによって反対側から掘り進んでいると予測できただろう。


甥と旅行で遊びに来ていた”きの崎”の丘の上で、ボールを取りに行った私は、見事にその崖から転落することとなった。


「あいたた……」


幸い、今日は工事の手は止まっており、下は砂地、なだらかに削られていたせいで、ケガを負うこともなかった。


(……なぜ、私は助かったのか。いや、なぜ世界に殺されずにすんだのか?)


それは、私にやらねばならないことがあるからだ!

有名な私小説、「城の崎にて」の主人公のようなことを不遜に思っていると、「大丈夫~、おじさん!?」と甥が上から声をかけてくる。


……ふっ、心配するな、とさりげなく答えると、私は服についた砂を払う。


すっかりボール遊びをする気分でもなくなってしまったので、二人は遠回りして何とか合流すると、泊まっている旅館へと足を向けたのだった。


おじさん、明日はもう帰っちゃうんでしょ!? ……つまんなくなるなあ……


甥はよく口が回る少年だが、父親がなかなか遊んでくれないせいで、私になついている。

しかし、二泊する彼らに比べて、私は一泊で家に帰らねばならず、折に触れてそうつぶやいていた。


「うむ、仕方ないさ。おじさんはお金もヒマもないんだ。『貧乏暇なし』じゃないぞ? ただ、私の書いた小説を、未来の少年少女が待ち望んでいるのだよ。たぶん」


「今の人たちには、おじさんの書いたものはあんまり伝わらないんだったよね!?」


なかなか利口な相づちを打つようになった甥を、ぐしゃぐしゃと撫でてやる。

お前は将来出世するぞ。


トボトボと旅館の前まで帰ってくると、甥と別れ、私はまた散策にくり出した。

何かとせわしない自分であり、旅行など滅多にするものでもないので、あちこちを見て回りたかったのである。


宿の浴衣をまとった女性たちが、湯上がりの上気した頬で、川のやなぎのそばを通りすぎてゆく。

青白い風景に陽が落ちていく中、その川を渡り来る風が、彼女らの温度を心地よく下げていくようだった。


……その時である。

ふと、足下を見やると、治水された草木のない川辺に、一匹のイモリを発見してしまった。


ーーこれはまさか!


と私は感じた。

敬意を払わねばならない作『城の崎にて』のように、ここでイモリに向かって石を投げると、驚かせようとしただけなのに命中して殺してしまうやつでは!?


思わずほう、と息をつくと、その場に立ち尽くす。

あの作品では、列車事故に遭いながらも、偶然助かってしまった主人公がいる。そしてそんなつもりはなかったのに、ひょいと石を投げただけで、偶然イモリは死んでしまう。

虚しい世の対比である。


だが、死を静かに、以前より親しみを感じるかのように主人公は達観し、”生と死は、けっして両極ではない”となるわけだが、そんな男になれるかどうか、私には分からない。

……しかし、どうやら自分には挑戦する資格があるようだった。


なぜなら、そのイモリは、数分間見つめていてもまったく動かなかったからである。


……これはもう、天が私に命令しているのだ。

そう信じ込んでしまうには、充分であった。


私はおもむろに落ちていた石コロを拾うと、周囲を見回した。

ガラスを割る子供と、心境は変わらない。


いや、この時代ならば、小虫に石を当てて殺しただけで、タイミングが悪ければ批判の的にされてしまうかもしれないのだ。


「ーー!」

誰もこちらを見ていないのを確認し、私は石を投げた。


ヒュッ。


「ビチッ!!」

あっ。


何ということであろう。

こともあろうに、その小石はイモリの右前足に命中したのである。


一瞬ひるんだように固まると、彼は不自然な動きを見せて、石のすき間へと入っていった。


「なんてことだ……」


あれなら、まだ殺した方がマシだったではないか……


四本しかない足の一本を失って、彼はこれからどうやって獲物を獲るというのだろう。


私は、彼の生涯の最期に、長い苦しみを与えてしまったのかもしれない。

(ーーそういえば、”城の崎にて”にはネズミをいたぶって殺す子供たちと車夫が出ていたな……。私はまだ、あれと似たようなレベルだということか……)


天のめいを勘違いした私には、ふさわしい結末だった。



……なお、私の知る『木の先』には、工事の止まった崖が、今もまだ存在しているという。


ゆめゆめお気をつけられよ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

木の先にて~『城の崎にて』違う~ 久賀広一 @639902

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る