透子さんはそこにいる

棚ん

透子さんはそこにいる

 透子さんは僕の隣の席に座る女の子だ。


 彼女は高校2年生にしては胸がそこそこあるらしく、時折胸に出来た大きな山に持ち上げられて制服の下からチラッと中身が見えることがある。


 お尻も大きく丸みを帯びているので、太っているのかというと、どうもそうではないらしく、お尻から上に視線を上げると、スカートに包まれた体のラインは腰に行くほどキュッと絞られていてスタイルがいい。



 透子さんは運動が嫌いな大人しい子で、本を読むのが好きらしく、いつも綺麗な腕まである長くて黒い手袋に包まれた手で何かの本を開いている。

 性格は人見知りなようだが、小動物を思わせる彼女の性格でクラスのみんなをいつもほんわかさせる。


 たぶん彼女の事を嫌いな人はこのクラスにはいないんじゃないかな。


 当然僕も彼女とは隣の席という事もあってよく話す。


「今日も暑いね」


 どうでもいい世間話を僕から彼女に振る。すると彼女は

 

「本当にね。もうセミが鳴いていてすっかり夏って感じがする。でも私日焼けしないせいか結構夏が好きなんだ」


 ただの彼女と話すための口実でしかない言葉でも、パタパタと手袋に包まれた手を振りながら、しっかりと彼女自身が感じたことを僕に伝えてくれる。

 そんな彼女だが、僕は彼女の顔を知らない。


 僕だけじゃない。きっとこの世の誰もが、親でさえも彼女の顔を知らない。


 彼女には色がない。


 それは文字通りの意味で、今対面して話しているのにもかかわらず、こっちを見ているかどうかが分からない。

 僕が彼女の顔がある辺りに視線を向けると、その向こうにいる山田君と目が合ってしまう。


「ああ、なるほど紫外線も透けてるんだね」

「そうなの。私にも色があったら肌焼いてみたりしたいんだけどな~」


 そう。彼女は生まれつき色がない透明人間だ。


 


 透子さんとの出会いは高校の入学式だった。


 僕はこれから始まる新しい生活に、空を舞う桜のように胸を躍らせながら歩いていた。


 するとふわっと桜に混じって何かとてもいい香りが僕の鼻をくすぐった。

 凄くいい匂いだ。花のような?蜂蜜のような?わからないけどとにかく甘い香り。

 一体なんの香りなんだろうと、僕はくんくんと鼻を鳴らして匂いの元をたどろうとする。


 香りの元をたどって、桜を見上げていた視線を前に向け、ぐるりと後ろの方を向くと、


「え?なにあれ?」


 制服が歩いていた。


 制服を着た人が歩いているのではない。制服そのものがこっちへ向かって歩いて来ているのだ。

 パリッとノリが効いたピカピカの女性用ブレザーが、宙に浮いている。

 そこにいるはずの女性の姿が見えないのに、しっかりと人の形に制服が押し上げられていて、まるで透明のマネキンがブレザーを着ているようだ。


 首元から除く制服の裏地が丸見えで、制服のサイズが大きいのだろう。手には白い手袋をしていて、その半分ほどがブレザーの袖の中に隠れている。

 足元にはローファーとハイソックスが自立しており、カポカポと左右を交互に動かして歩いている。


 あまりにも奇妙な光景に開いた口が塞がらない。


 宙に浮いた制服は少し体を俯けながら僕の傍を通り過ぎて歩いて行く。


 あれは一体なんだったんだろう。

 とてもいい匂いのする女の子の匂い。

 宙に浮く同じ学校の女子生徒の制服。


 僕の胸はやっぱりドキドキしていた。





 その奇妙な制服は僕と同じ教室にいた。


 僕はその色のない女の子を前を通るとき、チラッと横目でスカートの中身を見ると、期待通り本来足で隠れるはずの中身が丸見えだったんだけど、今度は期待外れなことに中身は短パンだった。


 僕は自分の椅子を引いて背筋を伸ばして着席する。

 教室の構造も机も中学校とほとんど同じだけど、でも全く新しいものに感じる新鮮な違和感。

 机に両手をつけてこれからの高校生活にワクワクする気持ちを落ち着かせる。 

 僕はよし!っと気合を入れてお尻を支点にしてぐるっと横を向く。

 さあ……言うぞ!記念すべき高校生活の第一声を!


「あの! 友達になってください!」

「え?!」


 制服が飛びあがって机がガタンと揺れる。

 素っ頓狂でも高くて綺麗な声。

 やっぱり女の子だ。

 制服が浮いているのではなく、透明人間の女の子が制服を着てるんだ。


「わ……わたしですか?」


 わたわたと手袋に包まれた手を動かす透明な女の子。

 急に話しかけられて焦っているのかな?なんだかパントマイムのようで面白い。


「うん、そうだよ。もし友達になってくれるのなら名前教えて」

「え……あ……私……透子とうこっていいます……」


 手を自分の胸に当てて自己紹介する透子さん。

 透子さん……透子さん……うん覚えた。

 綺麗な声の彼女にピッタリの綺麗な名前だ。

 

「透子さんはどこの中学から来たの?」

「〇〇中学から……」


「あれ?聞いたことないな~遠くから来たの?」

「親の転勤で最近引っ越しして……」


 人差し指を立てて渦を巻くようにくるくる回す透子さん。


「なるほど。あ、じゃあ駅前の肉まんたこ焼き食べたことない?」

「えっと……ない……です」


 手をバツにする透子さん。


「やっぱり!よかったら今日の帰りに寄っていかない?」

「だい……じょうぶです……」


 指をOKマークにする透子さん。


 制服と手の動きがどこか堅く、緊張気味な透子さんだけど、一生懸命僕と会話しようとしてくれているのが伝わってくる。


 色のない彼女には表情がわからない。

 彼女の過剰なまでのジェスチャーはそんな感情を伝える手段なんだろう。

 その表情が見えないけど感情表現が豊かな手に目が離せない。


 思えばこの時すでに僕は彼女に心を奪われていたのかもしれない。




 入学式の時に友人関係になった僕と透子さんは、今でもその関係は続いている。

 朝、一緒に登校し、帰りも一緒。

 帰りにはゲームセンターで一緒にUFOキャッチャーをしたり、


「杉本君!あれ!あれ可愛い!あれ取って!」


 透子さんがUFOキャッチャー内のぬいぐるみを指さしながら、もう片方の手で僕の肩を掴んでぴょんぴょんと飛び跳ねている。

 そのたびにゆさゆさと揺れる胸からフワっと透子さんの甘い匂いが漂ってきて、少し得した気分になる。


「任せて!」


 僕の一月のお小遣いを費やして何とかとることに成功した。



 甘いものを一緒に食べたり、


「私のあげるから少しそのケーキ頂戴」

「うん、いいよ」


 自分のケーキをそれぞれフォークで切り分け、お互いの口に運んで食べさせあう。


「はぁ~しあわせ♡」


 透子さんは頬のあたりに手を当ててご満悦なご様子だ。

 はたから見たら僕達は恋人のように見えてるんだろうか?

 いや、見えてないか。


 兎に角多くの時間を彼女と過ごしている。


 そんな透子さんと出会ってから1年と少し、僕は透子さんに屋上に呼び出された。


 何の用なんだろう。

 もしかして告白とか?イヤイヤ僕に限ってそんな事あるはずがない。

 でももしかしたら……


『え?お前ら付き合ってなかったの?』


 当時は否定したが、山田君に言われた言葉を思い出した。

 たしかに僕達は仲がいいが、付き合ってはいない。


 でも、透子さんが素敵な女の子だっていうことはよく知っている。

 でもでも、ただの用事かもしれない。

 でもでもでも、もし透子さんに告白されたら僕はどうなってしまうんだろう。


 そんな嬉し恥ずかしな気分で、二段飛ばしで階段を駆けあがる。

 ハアハアと荒くなった息を整えて一旦深呼吸……


 息は落ち着いたけど、心臓の鼓動は鳴りやまない。


 どうやらこの心臓は運動で弾んでいるようではないようだ。


「あ、杉本君……来てくれたんだ……」


 そこに見えないけどそこにいる女の子はいつもの制服姿だ。

 袖の長いブレザーに、黒い手袋に包まれた指先が自分の体を隠すように前で重ねられる。


「こんなところに呼び出してどうしたの?」

「……」


 僕の質問に静寂が流れた。空気が重い。


 透子さんの前で重ねられた手をスリスリと動かしている。

 

「……ふぅ……よし」


 透子さんの体が前後に揺れ、大きな呼吸音が聞こえた。どうやら深呼吸をしているようだ。

 何度か深呼吸を終えた透子さんは、手を体の横に戻しぎゅっと拳を握って背筋を伸ばした。


「私と付き合ってください!」

「え……あ……」



 凄まじい剛速球をいきなり投げた彼女は、その投球フォームのまま全く動かなくなった。


 透子さんは僕を好き?僕は?

 透子さんって可愛いのか?わからない。


 パニックだ。


 すると透子スカートがフワッとめくれ上がった。彼女のスカートの中身が見えるのはいつものことだ。

 透明人間である透子さんは足でスカートの中身を隠すことのできないため、見られてもいいようにいつも短パンを履いていて、スカートの中身が見えるたびにいつも少しがっかりした気分になる。

 だけど、今日の彼女は黒いレースの大人パンツだった。


「はい喜んで!」





 透子さんは愛情表現を受けるのがとにかく好きだ。

 デートに行けば腕を組んでべったりとくっついてくるし、好きだよと言うととっても喜んで何度でも言って欲しがる。

 彼女は燃費の悪い車のように、愛を欲しがり、常に愛情を補給しないと死んでしまうらしい。

 


「杉本の好きなタイプって?」


 僕は昼休みに山田と学食で食事をとっている時にふられた話だ。

 ニヤニヤとした山田の顔はすこし気持ち悪い。いいやつではあるんだけれどこういう下世話なところがあるから彼女ができないんだぞっと思ってしまうのは僕が彼女持ちだからだろうか。


「透子さん」


 僕は当然付き合ってる彼女の名前を出した。

 だが、山田は僕の答えに納得いかないようで、首を振ってやれやれこいつ何もわかっていないなと言わんばかりだ。


「ば~か見た目の話だよ。乳がでかいとか髪が長いとかなんかあんだろ? 透子さんはいい子だとは思うけど可愛いとかそういう次元じゃないからな」

「透子さんは可愛いよ」


 山田の言いたい事は大体わかった。僕の答えは変わることはないが、いざそう言われてみると僕の好みはどんな人なんだろうか。

 透子さんは僕には勿体ないくらいの女の子ではある。でも単純な僕の見た目の好みを語ろうとすると、透子さんの容姿はそもそもわからないわけで……


「か~!お前それでも男かよ! じゃあノノカちゃんとかどう思うよ?」


 これは透子さんの事を馬鹿にしているのだろうか。すこしイラっとする。

 ちなみに山田が言ったノノカちゃんというのは、彼がはまっているアイドルの名前だ。


「まあ可愛いとは思うけど……」


 見た目か……

 確かにそれは人を好きになる重要な要素だ。

 それがすっぽりと抜け落ちている僕達の関係は歪なのだろうか?

 よく見た目なんか関係ない、中身に惚れたんだと言うセリフをドラマやアニメで耳にするけど、中身がいいと見た目も好きになってくるものだとも言っている。


 そもそも見た目がない彼女を本当に愛していると僕は思えているのだろうか?






 透子さんが僕の前に姿を表さなくなった。

 心当たりはないけど少し気になる事があった。

 最後にあった日、僕達は何時ものように公園で脇をつつきあったり、キスをしたりと、イチャイチャバカップルっぷりを発揮していた。


 僕は透子さんの体を見たことがないけど、隅々まで知っている。

 もしかしたら本人よりもよく知っているかもしれない。

 だからお腹へと指を這わせたとき、少し違和感があった。


「どうしたの?」

「あっ…いや、なんでもないよ」


 透子さんすこし太った?

 まさか女性にそんな事を言うわけにはいかないのでその言葉を飲み込む。

 元々透子さんは肉付きは悪くない方だったけど、お腹が以前より丸み帯びて膨らんでいたのだ。

 まあどんな姿になっても僕は透子さんを愛しているので関係ないし、これくらいなら全然気にならない。

 そう思いながら、僕は再び透子さんに好きだよっと言ってあげることにした。


 その次の日から透子さんは学校にこなくなった。

 失踪したわけではない。ちゃんと連絡は毎日のようにしている。

 だが、以前は透子さんの方から会いたいと言っていたのが、今は会えないというのだ。


 もしかして誰かに誘拐されて誰かが変わりにメッセージを送っているのかとも思ったが、電話は繋がり、大丈夫だと言われ、家に直接行って透子さんの母親に、透子さんのことを聞いても、


「あの子は大丈夫だから今はそっとしといてあげて。でもあの子は杉本くんの事が大好きだから絶対別れようとは言わないであげてほしいな」


 と諭され家には入れてもらえなかった。


 透子さんに会いたい。

 今日もそう思いながら鬱々とした日々を過ごしていたある日、朝のホームルームに現れる先生を眺めていると信じられない言葉が出てきた。


「透子さんは学校を辞めることになりました」


 僕はその言葉を聞いて直ぐに席を倒しながら立ち上がり外へ駆け出した。


 頭には透子さんへの疑問符が次々と浮かぶ。

 このまま透子さんと別れるなんて嫌だ。

 何としても透子さんと会わなければならない。


 僕は透子さんの家へ走りながら電話を掛ける。

 コール、コール、コール。


『はい透子です』


 繋がった!


「透子さん!学校辞めるって本当なの?!」

『うん……本当だよ』


 そう答える透子さんの声は、会ったばかりの時のようなどこか自身なさげで、申し訳なさそうな声だった。

 なんだか僕にはその声が、僕と透子さんの心の距離が離れてしまったかのように感じて……不安になって……感情が大きくなっていく。


「なんで……一言くらい僕に相談してくれても良かったじゃないか!」

『ごめんなさい……訳は言えなくて……ごめんなさい……』


 つい一言声を荒げてしまった。だがこのたった一言で透子さんの声は更に苦しく、辛そうな声になってしまった。

 僕は透子さんのなんなんだろうか。

 僕は彼氏なのに、何かに悩んでいて辛いはずの彼女を不安にさせてしまった。

 そう思うとポツリとずっと抱いていた不安が漏れてしまった。


「……僕達は別れるの?」

『嫌!!』


 僕の言葉に透子さんが悲鳴を上げた。

 耳が痛い。

 僕には茶目っ気を見せるけど、普段は大人しい透子さんが電話越しに僕の耳が痛くなる程の叫びを上げた。


『ごめんなさい杉本君!嫌いにならないで!』

『捨てないで!私には杉本くんしかいないの!』


「と……透子さん大丈夫だから落ち着いて……」


『お願いします!何でもしますから!』

「透子さん!」

『ひっ!』


「大丈夫だから。別れるつもりはないから」

『……本当?』

「うん。本当だよ」

『ありがっヒック…とう……ございます……』

「変な事言ってごめんね」


 しゃくり上げてお礼を言う透子さんは泣いている。どうやら泣かせてしまったようだ。

 僕は電話を切ることなく透子さんを慰め続けながら透子さんの家へと向かう。透子さんを傷つけてしまった。なんとかしないと。


「透子さん! 今、君の家の前にいるんだ!」


 だが、透子さんの家についた僕はやっぱり家にあげてはもらえなかった。




 次の日、目覚めるとスマフォに透子さんからのメッセージが入っていた。


 ――クッキー焼いてみたのでポストにいれています。食べてくれると嬉しいです。


 僕は眠気眼でその文章を読むと布団をはねのけてベッドから飛び降りると、パジャマのまま玄関へと走って勢いよく玄関のポストを開けた。するとそこには緑のパステルカラーの可愛らしい袋が入っていた。

 

 リボンで結ばれた袋の中を開けて覗いてみると中にはチョコチップが混ぜられたクッキーが入っている。

 会えないのは寂しいが、透子さんとの心のつながりを確認できたようで、ルンルン気分で部屋へと戻る。


「いただきまーす」


 サクッ


 口の中に甘い香りが広がり、その中にビターなチョコの味がとてもバランスがよくておいしい。しかも彼女からの手作りクッキーと考えれば美味しさ二割り増しだ。

 僕はまだ朝食前だというのに次々とクッキーを口に運んであっという間に食べ切ってしまった。


 とてもおいしかった。透子さんにお礼言わないと。

 そう思い、ベッドに放り投げられたスマフォを手に取ろうとした時、強烈な眠気が襲ってきた。

 満腹になったからだろうか?


「せめて……返事だけでも……」


 二度寝するにしても透子さんにメッセージを送ってからだ。

 そう思うも瞼が酷く重くて頭がカクリと落ちる。そのたびに何度も何度も頭を振ってメッセージをスマフォに打ち込んでいくが、一文字打つのにも頭が働かず時間がかかってしまう。

 やがてクッキーの感想を半分ほど入力したところで僕は力尽き、ベッドへと沈んでしまった。


「……て……す……くん…」



「起きて杉本君」


 目を開けると誰もいなかった。

 でもたしかに聞きなれた綺麗な透子さんの声が聞こえる。


 ボーとする頭で顔を横に向けてみると思った通り、カレーライスと水がお盆に乗って宙に浮いていた。

 

「おいしそうでしょ? 我ながら上手くできたと思うんだ」


 僕は気怠い体を押して起き上がろうとすると、手が何かにつっかえた。

 僕は今、ベッドの上で万歳した態勢で寝ころんでいるようだが、両手両足が何かに阻まれて動かすことができない。


「杉本君と会えない間、会ったときに喜ばせられるように一杯勉強したんだ」


 目を手の方へ向けてみると、手が何か布のようなものでベッドへ括り付けられていた。

 状況的に透子さんの仕業なんだろう。

 返事するのも気怠く、僕は起き上がることを諦めて、天上をぼけっと眺めて透子さんの話を聞く。


「クッキー食べてくれた?あれも お母さんに教えて貰って焼いてみたの。口にはあったかな?」


 僕の返事を待たずに次の話をする透子さんは、僕の返事を恐れて何も話させないようにしているのかもしれない。


 結局、かもしれないだ。僕は透子さんの表情は読めない。

 事実、透子さんの悩みが何を悩んでいるかわからず目の前から姿を消す予兆を感じ取ることができなかった。

 透明人間である透子さんと向き合う方法。その手段が今ないことがすごく悔しい。


 と思っていたら、腕を縛る拘束が意外と緩いことに気付いた。

 痛くないように気を使ったのだろうか?

 僕は一気に腕に力を込めると、手首を縛っていた布から手を抜くことができた。僕はその勢いのまま起き上がり、股の間に座っているだろう透子さんへ向かって両手で抱き着こうとする。


 透子さんは目に見えないから捕まえるのは難しい、だから僕は両手を目一杯広げて万が一にも逃がさないように大げさに抱き着く。

 もう逃がさない。僕は透子さんと徹底的に向き合う。


 表情も何もわからず本心を言わない透子さんと向き合うただ一つの方法、それは直接触れる事だ。

 縛られていてはできない、僕なりの透子さんとを知る方法。


 僕は透子さんと一杯触れあってきた。

 暫く会う事も出来なくなっていたけど、透子さんの形は僕の中に深く刻まれていて決して忘れることはない。


 でも透子さんのお腹は僕の知らない透子さんだった。


「透子さん……このお腹……」

「あ……あああ……」


 透子さんが絶望に濡れた声を上げた。

 その声は力が宿っておらず、人に意味を伝えるという役目すら込めることを放棄した力のなさ。

 これが透子さんの隠したがっていたことだ。


「妊娠したんだね」

「ごめんなさいごめんなさいごめんんさい」


 やっと出た言葉はさっきとは打って変わって強い怨念が籠っていた。

 彼女が謝る理由。

 透子さんは浮気するような子では決してない。でも、このただならぬ様子の透子さんを見て不安がよぎる。

 僕は乾く喉を無理やり開き、真意を確かめる。


「誰の子供?」

「……杉本君で……す」

「そう……なんだ」


 泣きながら語る透子さんのその言葉に僕はホッとした。


「なんで妊娠を教えてくれなかったの?」

「よく若いカップルが妊娠して捨てられたのテレビで見てたから怖くなって……しかも私勝手にゴム無しでしてたから……」

「大丈夫だよ、僕はそんなことしない」


 透子さんの背中をさすりながら、子供をあやすように体を揺らす。

 高校生で妊娠を経験したこの少女にとってそんなテレビの出来事が途轍もなく恐ろしく、確定した未来のように感じたのかもしれない。


 しばらくそうしていると、力が入って緊張状態だった透子さんの体が、力が抜け僕へと体を預け始めた。

 ようやく安心させることができたようだ。

 僕は次の疑問を透子さんに問う。


「妊娠がバレたくなかったのはわかったけど、どうしてこんな縛ったりしたの?」

「だって……だって……」


 透子さんの体がまた緊張で堅くなる。


「私…杉本くんの中から消えちゃう……」


 震える手で僕に縋り付きながら絞り出すような声だ。


「どういう意味なのかな」

「ずっと会えてなかったから忘れられちゃうと思って……だからせめて……」


 そういうことか。

 言葉足らずだけど、僕にはその言葉だけでやっと透子さんの悩みがわかった。

 透子さんはずっと不安で自分に自信がなかったんだ。


 顔も思い出してもらえない彼女の体質は今までどんな悲劇を彼女にもたらしたんだろうか。

 彼女の一番の特徴である透明なところは大きなコンプレックスでもある。


 そのことについてはわかっていたつもりなのに……


 僕はそんな透子さんを愛しているというのに……


 でも僕の気持ちが伝わってなければそれは同じことだ。


 じゃあやることは一つだ。



 僕は縋りつく透子さんを引き剥がすと勉強机へと向かう。


「ああ……そんな……杉本くん……」


 そんな透子さんに「僕は大丈夫だから待ってて」と出来るだけ安心させるように優しく声をかけ、机の引き出しからスケッチブックを取り出した。


「僕ね、結構絵描くんだ」

「……?」


「いいからそこ座って」


 僕は手探りで困惑したように立ち尽くす透子さんの肩を見つけ、そっと押してベッドへと座らせる。

 僕はぺらぺらとスケッチブックをめくり、白紙の部分を開くとベッドに座る透子さんの横に置く。

 そして手を彼女の頬に当てて位置を確認すると、じっと透子さんの目を見つめながら思いを口にする。


「僕は透子さんの顔を知ってるよ」



 僕の言葉に信じられないと激昂しかけた透子さんの後頭部へ腕を回して強引に唇を押し付ける。


「あ……え……?」

「温かいね。透子さんがいる」


 押し付けていた唇を離すと、僕は鉛筆をもってスケッチブックに今感じた事を描いていく。

 透子さんは唖然とした様子で声を漏らしているが、今意味のある音はシャッシャッという紙をこする鉛筆の音だけだ。

 僕は左手で鉛筆を、右手は透子さんの頬に当て、するりと指先でなぞる。どうやら透子さんは口が開けっ放しになっているようだ。


「柔らかいね。透子さんがいる」


 僕はそう言うとまたスケッチブックに今指先で感じた事を描いていく。


「あ……」


 透子さんが口にした言葉にならない音、でも今度は只の音に意味が宿ったように聞こえる。


「凄く落ち着く香りがする。透子さんがいる」


「目は……すこしたれ目気味かな? あ、二重なんだね」


「サラッとしてて凄く綺麗な髪だね」


「鼻筋が通ってて綺麗な形してる」


 透子さんがそこにいることを確かめて……スケッチブックに僕の知る透子さんを作っていく。


「出来たよ。これが僕の知ってる透子さんだ」

「これが……私……?」

「うん。思ったとおりとっても可愛いよ」


 スケッチブックの端がすこしクシャリと歪む。

 きっと透子さんが握りしめてるんだろう。

 僕の絵を見て透子さんは何を思ってるんだろうか。


「そうなんだ……私、杉本君の中にいるんだ……」

「そうだよ、もう僕の中は透子さんだらけなんだ。」


 スケッチブックには僕の知る透子さんがいた。


 髪はロングに伸ばしたストレートヘアー。

 目はたれ目気味だけど大きくて、唇はぽってりと厚い。

 鼻筋は通っていて形がよく、まつ毛が長い。

 

 彼女は自分に色がないと言った。

 軽く放たれた、あの言葉の裏にはとても一言では表せない感情が込められてたんだと思う。


「僕、頑張るからさ、一緒にこの子を育てようよ」

「いいの?」

「うん、もちろん」

「……嬉しい……」


 透子さんはそう言うとスケッチブックをめくり始めた。僕はその手を慌てて止めようとしたが、時すでに遅く、透子さんは恥ずかしそうに僕へ声をかける。


「もう……すけべ……」

「う……透子さんがエッチだからしょうがないよ」


 そこには透子さんの裸体が書かれている。

 以前から透子さんはどんな人なんだろうと、手で触れてすこしづつ透子さんのスケッチをしていた。

 だが、僕も男だ。透子さんと肉体関係を持ってからは、透子さんの体を余すことなく書くようになっていた。

 体を重ねた相手の体を視覚的に楽しみたいと思うのは仕方がない事なのである。


 ちなみに流石に目に関しては間違えてつつくと危ないので、今日まで透子さんがたれ目気味だとはしらなかった。


「もう……絶対に人に見せちゃだめだよ」


 そういう透子さんの声はどこか晴れ晴れとしていて、クスリと僕達は笑いあった。


 僕は透子さんのその透き通った瞳を見ることはできないけれど、指先に感じるのはきっと悲しくなんかない綺麗な涙。

 それを見ることができないのは少し残念だけど、僕の中にはちゃんと透子さんがいる。


 僕はこの先、彼女を何度も見失うと思う。

 高校生のバイトもしたことがない僕がお父さんになるのだ。

 きっと想像もできない大変なことがあるに違いない。


 でもその度に見つけよう。

 だって透子さんはそこにいるんだから。

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透子さんはそこにいる 棚ん @Namamugiyaki

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