4-002

 歩き始めてしばらく経った頃、俺はふと違和感を覚えて足を止めた。

 うん? と背後を振り返るが、死にかけの二階以外には特に何もない。気のせいだったろうか。

「……藤田、どうした?」

 突然止まった俺を、二階が汗ばんだ顔で見上げてきた。

「あーごめんごめん、なんか変な気がして」

「変な――?」

 二階も同じく背後を振り返るが、俺と同じく特になにも見つけられなかったようだ。

「いや、ごめん。気のせいだったと思う」

「ああ、特に変わりはないと思う。怪異の気配はずっと感じているが、大きさや位置にも変化がない。近づいている感じもしないから、そこも妙なんだが」

「相手も同じスピードで動いているとか?」

「うん――そうだとすると、動く気配がありそうなものだが」

 動く気配? それは、さっき二階の言った『大きさや位置の情報』とはまた別のものなのだろうか。俺の不審を感じ取ったのか、二階はいつもの解説を始める。

「例えば、動物なら足跡が残るだろう? 同じように、怪異が動けば、空気の中に痕が残るんだ」

「へー、痕跡があれば、少し前に怪異がここにいたとか、そういうことも分かるわけ?」

「まあ、そうだな。ただ、あまりに怪異の数が多いと、その痕跡も混雑してよく分からなくなる」

「なるほどねぇ」

「ところですまん……喋ったら、ちょっと具合が……」

「あー……」

 二階は先ほどにも増して蒼い顔をしていた。何か理由を付けて、ここらで一度、二階を休ませよう。

 依頼人に声を掛けようと改めて前方を振り返ると、木庭袋さんは全く足を止めていなかったようで遥か先のほうにまで行ってしまっていた。ちょっと待っとけ、と二階に一言かけてから、俺は小走りで山道を駆けあがる。

 タッタッタッ、と枯れ葉を踏みしめる音が鳴る。

 そういえば、木庭袋さんは何の植物の研究をしているんだろうか。怪異の正体のヒントになるとは思えないが、雑談混じりに一度聞いてみてもいいかもしれない。

 木庭袋さんの後姿を追いかけ、半分ほど登った頃だった。

 ふと、俺は右側から何かの気配を感じた。いや、気配とか、そんな大層なモノじゃない。誰かの視線を感じるとか、風が吹いたような気がするとか、その程度のものだった。実は俺は今までの人生で殆ど『視線を感じた』ことがないので、みんながどういう第六感でこの『視線』という無形のレーダーを受信できているのかよく分からないんだが、おそらくほぼ初めて『視線』に近いものを受け取った。

 その時俺は感じたのだ。誰かに手招きされている――手招きを感じる。

 馬鹿らしい。人生で初めてのその感覚を、俺は早々に手放したくなった。

 足を止めて、右側を見る。やけにしんとした森の中には、虫も動物もいやしない。ほら、やっぱり何もない。ただ木々が遠くまで連なっているだけだ。

 少しだけ安心した。俺は視線を前へ戻し、再び足を進める――進めようと、した。


 最初は虫だと思った。


 夕暮れ時に現れるような、無数の黒虫の群。

 しかしその黒点は染み入る速度で少しずつ面積を広げていく。一点の穴から、闇が湧き出ているかのようだった。それが生き物でなく異形であることがもはや明白となった頃、一つの影が生まれた。影の群像が、誰かを包み込んでいた。

 切り絵のようなその真黒の影は、その場に射しているはずの木漏れ日を全て吸収しきって少しも反射を許していない。その黒い影の中に、存在しているべきは誰だったろうか。

 やがて折り紙が始まった。一度目は山折りで、二度目は谷折りで、端の方から少しずつ影が畳まれていくのが分かる。名前を呼ばなくてはならないと思ったのに、その影の中にいるのが誰なのか分からない。背後にはたしか二階がいたはずだ。では前には? 俺の前には、誰が歩いていた?

 考えているうちに、折り紙は終わった。十回以上畳まれて、最後は点になった影は、火の粉を散らすようにその場で消えた。今や前方の景色のなかには、ただ平凡な森の景色が広がっているだけだった。

 消えてしまった。あの場にいたはずの人間が――誰かが――そうだ、木庭袋さんが。

 もうそこに、木庭袋さんはいなかった。きれいさっぱり、まるでCG処理か何かみたいに、突然切り抜かれて消えてしまったのだ。

 俺はゆっくりと後ずさる。どうして、俺に心霊現象が見えるんだ? もしかして、二階の見た景色を共有したということだろうか。踵を返し、背後を見る。二階はちゃんとそこにいた。そこにいるはずの人間がきちんといるということの正常さに安心しきり、俺は殆ど子どもみたいに二階の元まで駆け寄った。

「……藤田?」

 蹲り、ほぼ倒れかけていた二階が呻くように俺の名前を呼んだ。

「二階、見てたか?」

「いや、すまん。さっきから視界がちらついてて、ほぼ何も」

「そうか……」

 では、二階の視界が俺に共有されていたわけではなかったのだ。

 俺だけが、あの消失を見ていた。

「何かあったのか?」

「――消えた」

「なに?」

 消えた。そうとしか、言いようがない。

「いいか、落ち着いてよく聞け。木庭袋さんが、消えた」

 せめて俺と二階の立ち位置が逆であったなら――と、今更考えてもしょうがないのに、たらればが頭に浮かぶ。二階なら、咄嗟に札を出したり珍妙な呪文を唱えたり、何かしら対抗措置だって取れただろう。だが、二階は動けなかった。そして本来なにも視れないはずの俺しか、あの不可解な現象を見ていない。

「木庭袋さんが、目の前で消えた。まるで折り紙みたいに畳まれて、真っ黒な闇の中へ」

 二階は信じられないというふうに眉をひそめた。そして口をわずかに開いたあと、そのまま蹲り嘔吐した。

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