心象
望月 紫桜
心象
僕の手元にひとつの愛のカタチが遺された。
誕生の声をあげ、生命の力強さをあらわにする。だが、対極するように逸らすことのできぬものもあった。愛する人の燃え尽きた姿、母として最期まで子を守った女性の姿。このような結末に至ることは医者から知らされていた。病を患った彼女は願った。自身が生き永らえるよりも新しい命の生誕を。
子どもを助産師に預け、二人だけの時間を過ごすことにする。最初で最期の別れ。なのに、何も言葉が出てこなかった。今にでも会話してくれそうな奇麗な死に顔、私は幸福であった、という意思の表れに思える。こんな殺風景な病院でなく、彼女との思い出に満たされた部屋の方が良かった。今さら後悔しても時は戻らない。現実を甘く見ていた男の末路に相応しいものだ。この時だけは、何があろうとも忘却してはならない。
このまま行けば、彼女のもとに行くことができる。本から得た知識を頼りに、自身の命を蔑ろにする手段を考える。できる限り苦しまず、幸福なまま終えられるのならより良い。早く行かなければ遠くなっていく。彼女の隣に立つことができなくなる。愛することも、また巡り会う可能性すらも失うことになる。
だが、我に返る。返らされた、と言うべきだろう。扉の向こうから声が聞こえてくる。僕を呼ぶ声、生きてほしい、と訴えているようにも感じられる。僕の代わりに泣いてくれる赤子の顔を瞼に描き、口元を弛めた。僕はここで屈する訳にはいかない。彼女が生きようとした未来を見届けなければならない。これは責務ではない、願いである。
死。それは、人間の贖罪であり、未来への希望。生きた証が遺され、次の代へと受け継がれていく。
誰もが解明することのできない未知が人間を支配しているのは明白だ。それが不安、恐怖の対象であることに変わりはない。それでも、逃避は意味のないものである。必ず訪れるものならば、人間としてできることを成し遂げたい。無価値なまま死を迎えるよりも、誰かの心に紡がれるのなら本望ではないだろうか。だから、僕は後追いするようなことはしない。彼女の死を受け入れ、時に涙する。そして、何度も考えさせられる。死という永遠の課題について。
自らを愛し、他者を愛する。
種を残し、巣立たせる。
その役割を終えた時、僕は彼女のもとに行くことができる。これは、ありふれたものではない。何もかも奪われてしまい、訪れるはずだった未来が閉ざされてしまうことがある。僕の願いは貪欲なものだ。生きた証を残したい、誰かの中で生きていたい。そんな当たり前のことを最後までできなかった人がいる。彼女のため、僕のために前に進もう。
それからは忙しない日々の連続であった。二人で担ってきたものをこなしながら、娘の世話をする。傍から見れば簡単そうなものでも、実際には異なっていた。少しでも踏み外せば、死の世界。隣り合わせに立つ恐怖と希望がせめぎあいながら背中を押していた。
春の香りと風を受け止め、二人の足を揃えて進む。見下ろしてみれば、地上で生きる人々がちっぽけに見えてしまう。彼女はこの場所にずっと一人でいたのだろうか。現実を目に入れる。人間が生きた証として埋葬されている石碑が山一面に広がっている。その片隅に彼女はいた。怒ることも喜ぶこともない。ただ静かに僕らを待っていた。
「おかあさん? おかあさんがここにいるの?」と本能からなのか、娘が聞いてくる。正直なところ、まだ死という言葉で母のことを語ったことがない。届かない彼方にいる。いつか会える、と僕もわからない答えで曖昧にしていたのだ。だが、ここまで来てしまえば語らなくてはならないだろう。それでも、『死』の言葉は出なかった。
「ああ、ここで眠っているんだよ」と僕は口にした。少女は首を傾げ、石碑の方へと向かう。手を伸ばし、名前が刻まれた部分に触れた。
「おかあさん、おきて。あさだよ」
必死に投げかける声。無邪気な姿に何もできなかった。彼女はここで眠っているのは確かだ。しかし、娘が思うようなことではない。永遠の安らぎ、外からの刺激に反応を示すことなく終わり続ける。そこにあるのはただの抜け殻。僕が愛した人物はこの世界にいないのだ。
この選択は間違いであったのかもしれない。ただ必死になり、足を早める。
「帰ろう。今日は帰ろう」と手を取り合う。その様子の意味を知らない幼子は反発する。このまま去れば二度と会えないと勘づいていたのだろうか、墓石が見えなくなるまで後ろを向いていた。
気がつけば、娘は母の背を追い越していた。僕よりも抜かりない人物になり、親としての立場も危ぶまれた時期もあった。大人の道を進む彼女、社会へと足を踏み入れた娘が成長する過程を見届けることは叶いそうにない。
「お父さん、どうかな?」と服を翻す。今日から僕の手を離れてしまう少女。いや、女性と呼ぶべきだ。あと数年で母が生きた年齢を越してしまうのだから。
「似合っているよ。もう社会人になるんだ。短かったな……」
「大丈夫。まだ時間はあるでしょ」
そう笑った顔が、愛した人物の面影を色濃く引き継いでいた。
どうやら、僕の余命は半年程。医者から宣告されても動揺はなかった。受け入れることしかできない弱さは感じられる。だが、それで病が治ることはない。延命するためにお金や人力を尽くすならば、このままの日常で良い。ありふれた、贅沢すぎる判断をした。
「お父さんがそう願うなら、私は叶うように努力する。泣いたって意味のないことなんだから」
「ありがとう、ありがとう」と小さく呟きながら娘の手を取った。
最期にどこへ行きたいか、と問われる。大切な人といられるのなら、どんな場所でもいい。それでも欲を言うのなら、出会いの場所を訪れたい。僕の人生を創り出した、全てが変わった場所へ。
「ここで二人が出会ったんだ」と眺めた先は海。小さな橋の真ん中に立ち、僕らは遠い地平線を見つめた。
「お母さんの帽子が風で飛んでいってしまって、僕が探しに行ったのがきっかけ。年齢はそう、君と同じ時だった」
それから、お礼と言う形で食事をした。意外なことにも気が合い、何度も顔を合わせるような仲になる。二人の終わりは早かったものの、充実したものであった。
彼女の反応は微妙なものだ。思い起こし、表情が暗くなった様子を紛らわすかのように言葉が放たれる。
「そうなんだ。ねえ、このままお母さんのところに行かない?」と。それは、唐突な発言だった。幼い時に連れて行ってから、二人で足を運んだ記憶はない。彼女があの場所を覚えているかどうかも怪しいほどだ。だが、彼女に導かれて進んでいる。僕の方が忘却しようとしていたようだ。
「お父さんはあの場所が嫌い?」と問われる。現実を突きつけられる場であることに変わりはない。それを好き嫌いで判断するのも難しいことだろう。それでも、聞いてきた理由。簡単なことだ。僕自身の死に対する意味を知りたかったのだろう。
「お母さんがいないのは当然のこと。だけど、帰る場所はここなんだと思う。お母さんのことを思い出し、会いたいと焦がれる。それでもいいの。私たちが覚えている証なんだから」
「そ、そうだね。全く、君たちには敵わない」
「私はお父さんのことを覚えているから。ずっと、この命が尽きるまで」 と儚げに笑う。堪えているのは目に見えている。彼女なりの強がり、全てを受け入れられるような寛容さはない。だが、あの決意だけは不変なものへとなるだろう。
「私はあなたの中で生き続ける」
そんな言葉を思い出した。永遠の命を得ることよりも、終末を迎えることを選んだ。彼女の決心に一点の曇りはない。何のために生きるのか、その意味を見い出していたことだろう。後になって気付かされた僕とは違って。
「僕の中にある君は死んでしまう。だけど、受け継いでいかれていく。やがて、忘れられることもあるだろう。その時が本当の死、僕らは同時にこの世から去ることになるのだろう」
「そんなことはないといいけれど」
「そうだね。僕からは何も言えないが」とこの先に訪れる未来を見つめた。
空へと目を向ける。瞬く星が僕らを照らす。過去の残骸が道標となる。簡単に言えば終わった時間。
「皆、彼方へと向かっていく。ここから見て死後の世界は彼方、あっち側からしてみれば私たちの世界が彼方。向かいたい場所は一緒。だから、私たちは繋がっている。一方通行のものではない」
「そう考えれば、描いた可能性が叶えられることもあるのだろう」
再会という夢、彼女との世界を。
遠い昔に、『人間は一度死ななければ本物にはなれない』という言葉を聞いた。新たな形として生きる。どのように残されるのか、受け継がれるのかは知らない。だが、安心感はある。この娘たちならば、僕の人生に色をつけてくれるはずだ。
「重いなあ……過剰に期待はしないでね。自信はないから」と弱気になる。だが、ありふれたものこそ尊い。なくして初めて知らされる。
「覚えていてくれるだけで十分だ」
涙ながらに口にする。温かい記憶と共に流れていき、身体は限界を迎えようとしていた。
「僕は幸せ者だった」
ただ、その一言しか口にできなかった。深堀りすれば、もっと語れる想いはあっただろう。それでも、僕という人間は何も言わない。最期まで共にいた少女の腕の中には愛のカタチ、隣には愛する人物がいる。辛い思いをさせることだろう。だが、二人なら生きて行ける。人間の強さを侮ってはいけない。
触れ合っていた手が落ちていく。闇と共に眩い光が目に映る。二十五年前と変わらない、美しい人の姿があった。彼女の名を呼ぶ。長年共にいた人物、人生の希望の光であった人の名を。
心象 望月 紫桜 @motizuki0214
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