ハロウィン
今日はハロウィンらしい。おれが幼かったころ、まさかこんなイベントが流行るなど思ってもみなかったことだ。
「課長ー! これどうっすか!?」
部下の一人である振興係の冨田が、猫耳のカチューシャをして現れた。
冨田は肥満体型だ。メタボリックシンドロームで、特定健診の指導を受けているはずだが、小さくなる気配が一向に見られない男だ。
頭が大きいのは生まれつきなのか。肥満のせいなのか。理由はわからないが、ともかく。猫耳のカチューシャははち切れそうに押し広げられていた。
「なあに。それ。なにかの悪ふざけなの。ねえ、その頭をカチ割って中を覗いてみたい」
そう返してやると、冨田はブルブルと震え出した。怖がることはないのに。だって、見てみたいだけだもの。
「まあまあ、そんな硬いことを言わずに。今日はハロウィンなんですよ? 文化課は堅物なイメージですから。たまにはいいではありませんか」
総務係長の篠崎さんも猫耳カチューシャをつけていた。
あれ? そう言われてみると、みんなつけているじゃない。つけていないのは、自分だけ?
「しかし、職務中に……」
そう言いかけると、教育委員会事務局長の佐久間局長が顔を出した。
「あれれ! 野原くんだけカチューシャしていないじゃないの。篠崎さん。困るなあ。こんなんじゃあ」
「すみません。局長。課長用にって準備はしていたんですけれど……」
佐久間さんは、篠崎さんからカチューシャを受け取ると、それをおれの頭に装着した。職場内のざわめきに、やはり変だと思った。
「あの。局長……。これは」
「課長! いいですよー。いいですよー。いつも仏頂面の課長が弾けて見えますよー」
振興係長の渡辺さんが駆けてきて、おれの言葉を遮った。隣にいた冨田も、さっきはブルブルとしていたのに、顔色が戻って「そうです」と言った。
「弾けるってなに? バラバラに消し飛ぶの?」
「だから、やだなーもう」
「いや、さすが野原くん! ナイスじゃないっす」
佐久間局長は親指を立ててウインクをした。正直、佐久間局長のリアクションや言語は理解に苦しむ。実は、彼とのコミニケーションの半分も理解していない、ということ。
「どうだ! みんな。野原くんの猫耳。なかなかだぞ」
どうしてみんなに同意を求めるのか。ああ、猫耳をつけたら、周囲の同意が必要なのだ。一人で勝手に装着するのはルール違反なのか。
事務所内で拍手が巻き起こった。まるで選挙にでも当選した候補者みたいじゃない。なんだか気恥ずかしく思う。胸の奥がくすぐったい。
「野原課長。可愛いですよ。さあ、今日のランチは、おれのおごり! みんなでほの丸弁当だ!」
局長の掛け声に、さらに事務所は沸いた。局長は、いつも個室にいるから寂しいのかな? たまにこうして出てきては、みんなにお昼をご馳走してくれる懐の大きい人だった。
弁当の段取りはすでについているのだろう。局長が出ていった後。いつもあくせく動いている篠崎さんたち総務係のメンバーたちは、猫耳をつけたまま仕事をこなしているようだ。ああ、どことなしか、みんな雰囲気が明るい。楽しく仕事に没頭しているのだな。仕事の効率が上がるのであればいい。
パソコンに視線を落とすと、目の前に振興係の有坂が立っていた。もちろん、彼も猫耳。いや、猫じゃない?
「あの予算書の件なんですけれども。よろしいでしょうか?」
「猫じゃない」
「え!」
「有坂の猫じゃないじゃない。それは、なあに?」
それは。それは、うさぎ!
有坂は頬を赤くして「うさぎです」と言った。
「恥ずかしいの? なんで有坂だけうさぎなの?」
「恥ずかしいに決まってるじゃないですか。篠崎係長に『あんたは生意気だからこれね』って言われたんです。あの、パワハラですよ。こ、こんな辱めだ。うさ耳をつけた姿なんて……」
「そう? だって……似合っているけど?」
じっとデスクに肘をついて見上げると、有坂はおれの頭から猫耳を取り、そしてうさぎのカチューシャと交換した。
「課長の方が似合うし。か、可愛いですよ」
有坂はそう言うと、顔を赤くした。「可愛い」という言葉を使うことは、成人男性にとって、恥ずかしいことなのだろうか。彼は予算書を机に置くと、さっさと席に戻って行った。
「結局。なに? なにがいいたいの」
自分で言っておいて、おれの返事を待たずに去っていく行動の意味もわからないし、自分で勝手に「可愛い」って言っておいて恥ずかしがっている様子も意味不明。
ああそうだ。テレビでやっていたっけ。ハロウィンになると、仮装して町に繰り出す若い人たちが多いんだって。日本には関係のないイベントでも、人と集合して、騒いでみたいっていう気持ちを持っている人たちは、理由をつけてやってみたいんだって。
有坂は、「やりたい」って言えない素直じゃない性格なんだ。自分自身を偽るなんて、意味のないことなのに。無駄な労力をかける人間だと思った。
それにしても、人と集合して、なにをするんだろう?
なんかいいことあるのかな?
いつも一人で黙々と仕事をする有坂みたいな職員でも、ハロウィンは楽しみってことなんだろうか。——わからない。
すると、内線が鳴った。——人事課からの内線だ。
「困ります! ハロウィン、ハロウィンと浮かれてもらっては困るんですよ! しかも、業務中に仮装なんて……言語道断です! マスコミにでも嗅ぎつけられたら、大変なことになるんですよ! 野原課長。そこのあたりはきちんとしてもらわないと……」
それから数十分。電話越しに人事課長からお小言を言われた。別におれの指示じゃない。おれが仮装しろって言ったわけじゃない。言い出しっぺは佐久間局長なんだけど……。これが中間管理職の仕事。上司の不始末はおれが引き受ける。受話器を置いてから、両手を鳴らす。
「仮装、終わり。人事課からクレームが来たから」
「ちぇー。面白いのにい」
「お堅いんだから」
部下からの不満を受け止めるのも中間管理職の仕事。
「そんなに仮装したいなら、今度の懇親会は仮装で参加すること。以上」
事務所内は、「わあ」と歓声が巻き起こった。みんなが喜ぶ理由はわからない。自分の頭についていたうさ耳を外し、そしてそれをじっと眺める。
——帰ったら、実篤につけてみよう。きっと似合うと思う。だって、肉食獣に狙われて逃げ惑う情けない様は、実篤にぴったりだもの。
おれはうさ耳を鞄に押し込んでから、有坂の予算書を手に取った。なんだか口元が緩い。ああそっか。だからハロウィンって楽しいんだ!
—了—
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます