七夕
ふと瞼を開くと、そこには満点の星空が広がっていた。
「なあなあ、
視線を巡らせて声の主を確認した。そこには見慣れた、隣の家の住人である槇
彼はいつものサイズではない。随分と小さい。小学生の頃合いだろうか。
——これは夢? おれは一体、いつの頃の夢を見ている?
槇は瞳をキラキラとさせて、野原の顔を覗き込んでいた。
「雪! 早くー。ほら、あれ、あれ!」
彼の指差す先に視線を向けると、言葉を失った。藍色の夜空には、星々が輝く。その中でも一段と煌めいている場所があった。それはまるで大河のように見えた。
「天の河、だろ? あれ」
「天の河銀河。夜空に浮かぶ霧みたい。だけど、まるで大河——。南北に伸びていて、一年中見られるけれども、やっぱり夏と冬がいい」
「雪。そんなんどうだっていいじゃん」
草むらに寝転んでいたのか。ちくちくとした感触に躰を起こした。野原の目線は、槇と同じ。
——そうか。おれも小学生。これは夢。昔、夏休みに実篤のおじいさんの家に泊まりに行っていた頃の夢。
母親は医者で年中忙しかった。父親も医者だったようだ。「ようだ」という表現は、おかしいのかもしれない。だが自分は父親を知らないのだ。
三つ下の妹、
いつもいつも祖父母の家に寄せられていた。だが誰かがそばにいて、自分の時間を束縛することが我慢ならなかった。そのせいで一人で家にいることが多かったのに。槇はなにかと顔を出して、野原の時間を奪っていく。
いい迷惑。だけどいないと寂しい。そんな男だった。
——好きか嫌いかと問われるならば、きっと……好きなのだろうな。
まるで夜空の星を吸い込んだかの如く、槇の瞳は星のように輝いていた。彼の横顔を見つめながら、胸がほかほかとしてくる理由を探す。だがそんなものは見つからない。自分の中にある引き出しは、みんな空っぽなのだ。外から得たものがなんであるか。比べるものがない。だから自分は、それをその空っぽな引き出しに収めるのだ。
空いている引き出しに収められるそれが、なんであるのかなんてわからない。次にそれと同じものがやってきた時。きっと「ああ、同じものだな」と言うことはわかるが、それの意味がわからないだろう。そう。
永久にわからない。
わからない。
わからない。
わからないことだらけで、本当は困惑している。
人と話をするとわからないことだけが増えていく。
だから本を読む。そこに答えが書いてあるのではないかという望みがあるからだ。
しかし読めば読むほど、自分が求めている答えがそこには書かれてはいないということが明らかになっていくばかりだったのだ。
「雪」
夜空を見上げていた槇が、視線を自分に寄越した。
「綺麗だね」
にこっと笑う槇の笑顔。それに釣られたのだろうか。自然と口元が動いた。それがどんな意味を成すのか。——わからない。わからないのに。心が更にざわざわとしてくすぐったい。もぞもぞとした。
「綺麗……。星が輝いているのは綺麗? 一つ一つの光は小さいのに、沢山集まって、キラキラしていて。——ねえ、実篤。おれどんな顔をしているの?」
「え? 雪。笑ってるじゃん。雪の緑色の瞳には、沢山の星が映っているよ。綺麗だね。雪のその瞳の色が、おれは好き」
「好き?」
——みんなとは違うこの瞳が好き?
「実篤。ねえ、なんだか落ち着かないよ。ざわざわとして、もぞもぞする」
抱いている疑問をぶつけると、槇は「ああ」と笑った。
「それは、雪が嬉しいんじゃない」
「嬉しい?」
「そう。そして恥ずかしいんだ! おれに好きって言われて、恥ずかしいし、嬉しいんだー」
「そう、——そうなのかも」
誰かに「好き」と言ってもらえることは、こんなにも心躍るものだろうか。ドキドキして、ざわざわとして、そしてもぞもぞとする。
あれは昔の記憶だ。だけどその時、槇に教えられたことはずっと心の引き出しにしまってある。だからこうして、大人になっても同じ気持ちを自覚した時に、その引き出しの中身と比べて「好き」だと理解できるのだ。
槇は野原に色々なことを教えてくれた。だからこうして今の自分がある。彼との時間は野原にとって、かけがえのないものなのかも知れない。
夢でも見ていたのだろうか。我に返り周囲に視線をやると、そこには誰一人と姿が見えなかった。いつのまにか、一人。
作成途中の報告書。パソコンの画面上でカーソル部分が点滅しているのを眺めてから、保存ボタンを押し、シャットダウンした。
「雪ー。帰ろうぜー」
事務所の扉が開いて槇が顔を出す。能天気な声に応えることなく帰り支度をし始めると、槇は「無視かよ!」と怒っていた。
槇実篤という男はこちらで言葉を発しなくても、一人で会話を進めることができるという特技を持っている。だから放っておけばいいのだ。
案の定、「夜飯どうする? ——ああ、帰りテイクアウトの鍋にしようぜ。いやいや、待てよ。こんな遅い時間だ。簡単にコンビニがいいか。よし、そうしよう!」と一人で話がまとまったらしい。
荷物を持ち上げて彼を見据えると、帰る準備が整った合図だと悟ったのだろう。
「よし! 帰ろうぜー」
槇は元気に廊下に出て行った。事務所の消灯をしてから彼に続いて一階に降りる。そこには、大きな笹が立てかけられていた。
「施設管理課のやつらが、今年は七夕の笹飾りをする企画を考えたらしいぞ」
先日、槇がそう言っていた。笹の横には長テーブルが設置されて、白紙の短冊と、サインペンが置かれている。市役所に来庁してくれた市民が、自由に記載して飾れる趣向らしい。
薄暗い中で、笹を眺めると色々な願いが書かれている。
『マジョリーヌになりたい』
『家族みんなが笑顔で過ごせますように』
『ふんどしデカにゃん吉のフィギアが欲しい』
『ネッシーはいますよね?』
「そう言えば、実篤は総理大臣になりたい、だった。毎年同じ」
「な、なんだよ。そうだっけかな?」
「小学校の卒業文集の時には、大統領——。日本は大統領制を取っていないのに。ああ、実篤はアメリカにでも行くのかなって思ったんだ」
「お、お前な。そんな黒歴史みたいなこと、バラすなよな」
「黒歴史? それってどういう歴史? 白とか赤とかある?」
「あのねぇ——」
「短冊は中国では、学問や書道の上達を願う飾り。実篤の願いは、そもそも的外れ」
「じゃあ、お前の願いは、なんなんだよ?」
「おれは——」
——なんだろう。願いって。こうなって欲しいってこと?
おもむろに短冊を一枚取り上げて、サインペンで願い事を記載する。それから短冊を笹に結えつけた。
「実篤の頭のネジがきつく締まりますように——っておい!」
「なんて冗談だよ」
サインペンでバツをつけた。
『実篤の頭のネジは緩いままがいい』
「それもどうかと思うけどな!」
「実篤」
「なんだよ」
彼は頬を膨らませていた。それを見つめて、小さく呟く。
「あまり変わらないで」
「え?」
「実篤は実篤らしくいて欲しい。昔から、実篤はお馬鹿さんでしょう? そして、おれのそばにいてくれた。——ねえ、どこにも行かない? ここにいる?」
心がざわざわした。これは——嬉しいざわざわではない。これは、心配な時。不安な時のざわざわ。槇は笑って「んなわけない。おれはここにいる」と言うけれど、なぜか心のざわざわが治らない。
ここのところ、槇は野原に内緒でなにかやっているらしい。いつも一緒にいるから、それくらいは鈍感な野原でも察知するものだ。今まで蹴落とそうと躍起になっていた副市長の澤井と相談事をしている様子が見て取れる。いつもだったら逐一、野原に話をする彼が、なにも言わないというのは不安だった。
昔から槇は「権力」というものに固執してきた。「お前を守るためだ」と彼は言う。だが——。
——強すぎる輝きは、小さい輝きをかき消してしまうんだよ。実篤。
槇が遠くに感じる。まるでそこにいないかのような——。
野原はそっと槇の指に自分の指を絡めた。少しずつ気恥ずかしそうにしていた槇だが、すぐにその手を握り返してくれる。
「お前こそ、どこにも行くな。ずっと一緒だろ?」
槇のその瞳には、あの夜の星がキラキラと輝いているかのような光に見えた。
——ああ。実篤はきっと。どこかに行ってしまうのかもしれない。
その時、彼は自分を連れて行ってくれるのだろうか? それとも——。
庁舎から外に出ると、その夜空に天の河は見えない。あの満点の星空を眺めた時間は、もうどこにもないのだ。自分のかけた短冊を気にしながら、野原は槇に腕を引かれて歩き出しす。自分の願いも的外れだと思いながら。
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