第六話 災厄は突然

「あのーユイさん?」


 呼びかけるが、反応がない。


「もしかして、俺が間接キスだなんて言ったから怒ってんのか?」


 すると、ユイは足を止めて振り向いた。


「そりゃあ、そんなこと言われたら、気まずくて顔合わせ辛いに決まってるでしょ!」


 ユイの顔は真っ赤になっており、目にはうるうると涙が浮かび上がっていた。


「あ・・・・・・ごめん」


 俺は身体をくの字にして頭を下げた。

 ゆっくり顔を上げてみたが、尚も顔色を変えないユイ。

 それどころか、より一層不機嫌になっているように見える。


 あ、これ面倒くさい奴だ。


「もう知らない!」


 ユイはプイッとそっぽを向いて、早足で歩き始めた。


 いや、あーんしてとか言っていたの誰でしたっけ?


「だから悪かったって」

「もういいわよ、別に」


 いいのなら、責めて機嫌だけでも直してくれ。


 などと内心思いながら、彼女の背後を追った。



「それにしても、今日はやけに風が強いわね」


 ユイは手を額に翳し、強風に目を細めながら呟く。


「ミツキはどう思う・・・・、ん?」


 だが俺はユイの発言に答えられない状況にいた。



 突如上空に現れた『それ』に目を奪われていたからだ。

 いや、俺だけじゃない。

 その場にいた人たちは『それ』に目を離さずにはいられなくなっていた。



 ユイも周囲の異変に違和感がし、同様に空を見上げた。

 そして、『それ』を見て愕然としてしまう。


「何、あれ・・・・・・・」


 上空に現れた『それ』は、巨大な黒い穴だった。

 中から吹き出す強風はどんどん勢いを増していく。



「え、これどうなってんの?」


 ユイはこの異常事態に動揺が隠しきれないでいた。

 いや、多分この中で一番驚いているのは俺自身だろう。

 その穴に見覚えがあるからだ。

 3年前のあの日、一度だけ似たものを見ている。

 『それ』が何なのかどういうものなのか、その意味を俺は知っていた。

 あの黒い穴は危険だ。



 俺は急いで周囲の人に呼び掛けた。


「みんな逃げろ!速く!殺されるぞ!」


 だが、周囲はその黒い穴に夢中で聞く耳を持とうとしない。

 唯一、ユイだけが話を聞いてくれた。


「え、どうしたの?逃げろって、え?」


 ただし、返事だけである。


 くそっ、お前だけかよ!



 俺はユイの両肩を掴み、早口で説明し出す。


「いいか、よく聞け。今からあの穴から魔物が出てくる。最悪ここにいる多くの人が死ぬ」

「魔物って?」


 眉を潜めるユイ。


「とにかく」


 早く逃げろ!と言い掛けたところで、黒い穴の中から獣の咆哮のような轟音が響いた。



 直後、穴の中から『何か』が飛び出した。

 そして、穴は瞬く間に消滅した。

 その『何か』が俺たちの頭上を跨ぐと、近くの駐車場で車を蹴散らしながら着地した。



「今度は何!?」


 度重なる異変に人々の騒めきは更に増していく。

 俺は現状を確認しようと、人混みの中をかき分けて行った。


「ちょっと待って!」


 ユイも逸れないように、俺の後を追ってきた。



 柵の方のところで足を止め、駐車場の方を覗き込んだ。

 『何か』、その魔物の身体は大柄かつ筋肉質で黒い。

 額には一本角が生えていて、一つ目は鈍い不気味に光っている。

 右手に持っている巨大なハンマーは、グロテスクで凶器を感じさせる。



 俺はその魔物を知っていた。

 いや、正確には黒い穴から現れる魔物の存在だ。

 三年前にもあの黒い穴に似たものから魔物の大群が出現している。

 同じであるかは分からないが、あの魔物から出ているただならぬ殺気は、間違いなくこちらの方に向いている。



 俺は今この場が危険な状況だということを察し、名いっぱい大きな声で叫んだ。


「速く逃げ


 ドーーーーーーンッッ!


 最後まで言い切る前に、衝撃音と爆風で遮られた。

 振り返ると、建物の壁に大きなクレーターができ、砂埃が上がっていた。

 砂埃が晴れると、巨大なハンマーが壁を抉っている魔物の姿が見えた。

 そして、ハンマーと瓦礫の接触部分からおびただしい量の赤い液体が飛び散っていた。



 直後、それを見ていた俺を含めた周囲の空気は一瞬で凍りつく。


「きゃあぁぁ!」


 一人の女性客が悲鳴を上げるのを境に、瞬く間に建物内は混乱状態に陥った。

 魔物は笑みを浮かべ、逃げ惑う人々をハンマーで、一人また一人と無差別に襲い始める。



 俺はその混乱の波に飲まれそうになったが、ユイの腕を掴み抜け出そうとした。

 もみくちゃになりながら、なんとか広い場所に出ようとひたすら歩く。

 そして、やっと出られた場所は、薄暗い非常階段だった。



 俺はユイの腕を離すと、その場で座り込みほっと溜息を付いた。


「なんとか抜け出せたな」


 俺は少し安堵したが、ユイはそれどころではなかった。

 さっきの過激な光景はあまりにも刺激的だったのだろう、呼吸が落ち着いておらず全身震えが止まらない程怯えていた。



「大丈夫か、ユイ」


 俺はユイの肩に触れ、宥めようとした。

 すると、震えた声で何かを呟いているのが聞こえた。


「助けなきゃ、助けなきゃ・・・・・・・・」


 ユイは壁に手を添えながら立ち上がり、よろよろと混乱状態の人混みの方へ歩き出した。



「よせ、あっちは魔物がいて危険だ!」

「でも、速く助けないと・・・・・友達が・・・・・・・わたしの大切な友達が・・・・」


 ユイは瞳に涙を浮かべ、歩みを止めようとしない。


 俺はその様子を見て、脳裏にあるビジョンが浮かび上がった。

 薄暗い森の中、息絶えそうになる父親を助けることができなかった過去を。

 今まさにユイも自分と同じ運命を辿ろうとしているような気がした。


 そんなの絶対ダメだ!



 握っている手を勢いよく引っ張り、彼女の両肩を掴んだ。


「俺がお前の友達を助ける。その友達ってカオルとマルコのことだろ?さっき見かけた。だから心配しないで速く逃げろ」

「でも」

「速く!」


 その後、しばらくユイは俺の目をじっと見つめていた。

 そして納得したようで、軽く頷くと階段の方へ駆け出した。



 最後まで見送った後、混乱状態の人混みの中に向かって歩き出した。

 通路を横切り、下の階の様子を見ようとした時、俺は思わず柵に乗り掛かってしまう。

 それは悲惨な光景だった。



 先程まで美しく緑で彩られていた広場は、見るに堪えない血の海へと化していた。

 所々に肉片が飛び散っており、床や壁、更には植物を赤い鮮血で染め上げている。



 俺は少し吐き気を感じ、思わず口に手を当ててしまう。

 しかし、広場の真ん中に立っている魔物を見ると、逆に怒りの方が強くなっていった。


 あいつが・・・・・・あいつが!



 俺は服の中からペンダントを取り出した。

 半透明で正六角形のクリスタルが、茶色いヒモで繋がれている。

 それを首から外し、右手に握り締めると空に掲げた。

 そして、腹の底が絞り出すように絶叫した。


「ヘルメス!」


 直後、足元に光り輝く魔法陣が浮かび上がった。

 半透明の結晶が溢れだし、俺の全身を覆い砕け散った。

 俺は先程まで着ていた服装から、魔装形態へと換装した。

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