変わらない記憶、変わりゆく日々。
翡翠
残された、兄と妹。
「あー、暇だなぁ」
だらけた、意外と大きめの声が教室に響いていた。
ここはとある大学のどこか。正門から入って、手近の目立つこの建物に足を踏み入れるとき、何学部だとか、何号館だとか書いてあった気もするが、あまり、というかほとんど気にしていなかったので、今自分がいるのは広い講堂っぽい教室だということくらいしか分からない。
「鍵が開いてて良かったね。一階の方は事務みたいだから流石に入れないみたいだけど」
「まあ開いてなかったら、それはそれで構内をぶらぶらするだけだからな」
「あ、ちょっと? マスク外しちゃ駄目でしょ」
「いーじゃん。どうせ誰もいないんだし、使ってたわけじゃないだろ」
もう、と文句を垂れている妹を横目に、新鮮とは言えないけれど室内の空気を肺一杯に吸い込んで天井を見上げた。
深呼吸できる。それだけで、空気が美味しいと思えてしまうくらいには、ここ最近家の外でマスクを外す機会がなかった。
「なあ、今日はここに泊まろうぜ」
この広い部屋の中で、二人きり。
何言ってるの、と妹の説教じみた話が始まってしまうが、どうせ言われることは分かっているので俺には真面目に聞く必要がなかった。
手持ち無沙汰に教室を見渡し、何人くらい入れるんだろう、と座席の数をぼんやり数え始める。
いち、に、さん。三人用の机が、いち、に、さん……。
目で数えるだけには少々座席数が多くて、途中から数が分からなくなっていた。でも他にやる事もなく、そのまま適当に数えていれば、彼の視界に妹が映りこんだ。
「……なに」
「何、じゃないの。お兄ちゃん、また変なこと言い始めるんだから」
「別にいいだろ」
「良くない。外出届は出したけど、外泊届は出してないし、それに今は外泊許可下りないでしょ」
「届とか、許可とか、どうでもいいだろ」
「どうでも良くないって。心配してるよ」
「誰が心配するんだよ」
「園の大人たち。それに、みんなだって、きっと心配する。分かってるでしょ」
大人という言葉が気に障って、むすっとした顔をしても、妹はそれを分かった上で言っているのだから話を止める気はないみたいだった。
「大人、ねぇ」
彼女から目を逸らして扉の方を眺めた。
大人たちに縛られる必要なんて、微塵もない。あいつらの勝手でこうなっているのだから。でも、彼女たち大人は、俺たちと同じ被害者だ。心配も、迷惑も、かけていい相手じゃない。それでも、たまに思うのだ。遠く、人っ子一人いない、静かな場所で、俺一人で過ごしたいと。
俺は、いつだってそれでよかった。
一人きりで過ごしていけるのかなんて、別に一人で生きていけなかったなら死ぬだけだし、人はいずれ死ぬものだから、それがいつになったって構わない。でも、彼女が、妹の存在が俺をそうさせてはくれない。
父親も、母親も、死んだ。俺らの可愛い可愛い末の妹だって、とっくの前に亡くなった。親戚も、全員。身内だけじゃない。高校の時の友達だって、地元の同級生だって、顔を合わせれば説教をしてくる煩い先生だって、みんな死んでしまった。
せめて死に目くらい、見せてくれたっていいじゃないか。
致死率の高い感染症が流行っていた。新型ウイルスとよく聞いたけれど、感染力の高いそれに名が付けられる頃には既に国民の半数が感染していて、今までの医薬品や対処療法は微塵も役に立たなくて、人々はただ死を受け入れるしかなかった。
もはや感染した人の命は、ゴミでしかなかったのだ。大きなゴミ袋にまとめられて、焼却炉で燃え尽きることしか許されていない、安っぽいもの。これ以上人口が減らないようにとワクチン開発、感染拡大の防止だけを目標に言い渡し、感染症治療には金も人員も割いてくれなかった。
お陰で治療する必要のなくなった医療従事者のほとんどはそれまでの多忙さを返上するかのような長い休暇、全国の火葬業者はフル稼働、そもそも職員も感染して亡くなっていることも多いから、生き残った業者の人や政府の人間がマニュアルにそって死体を燃やして、残った灰とか骨は墓地にまとめて埋めているはずだ。
中には、国家の命を無視して治療に当たっていた医者も居たらしい。しかしながら誰一人として助けることは出来ず、ただベッドの上で彼らの過ごす日が一日か二日程度伸びるだけであった。その医者が診た患者が三桁になるころ、彼は感染症ではなく精神を病んで病院の屋上から飛び降りたという。
運悪く感染しなかった俺たちに許されたのは、感染者と隔離され、政府のサイトで死者の名を確認することのみ。ようやく全ての感染者の死が確認され、街の消毒も終わり、開発されたワクチンを打たれた未成年は園と称される施設に所属することになった。
俺が所属している園は、俺と妹、あと近所の未就学児が一人、周辺の学区の小学生と中学生が全部で六人の計九名と、これまた不運なことに娘夫婦を亡くした定年間際の小学校教員、今は俺たちの住まいとなっている地元の病院で働いていたまだ若い看護師の計二名の大人で構成されていた。
基本的には医院、つまりは家の中で過ごし、駐車場だった広場でたまにボール遊びをする。ご飯は全員揃って和室で食べる。病床二十くらいのクリニックだったから、ベッドの数は問題なかった。個室ではないが、二、三名につき一部屋が自分たちの部屋として宛がわれ、唯一身内である俺と妹は、他の子どもたちと年齢差があることもあって同じ部屋であった。外出は大人同伴が必須であるものの、店やゲーセンなどは何一つやっていないため、子供たちにとって外出する用事はない。どうせ今日も園で遊んでいるのだろう。未成年とは言え俺は本来なら大学一年生、妹は高校三年生であり、四月末の誕生日を迎えていた妹は十八歳となっていた。国が崩壊する前に成人年齢を二十歳から十八歳に下げると規定していたこともあったため、俺と妹は彼女たちの同伴無しに届け出だけで外出許可が下りる。国が崩壊しているとはいえ、一応政府の人間は残っているらしく、それらの決まりは全て政府から通達されたものであった。生き残りを集めて、共同生活しろと。園は番号で管理されていて、食料や生活用品はまとめて週一回送られる。その最低限の支給は政府がいくつかの業者に依頼しているもので、俺たち一般人は個人的に取引は出来ないから、俺たちは政府の令の下で生活するしかないのだ。まるで、自分たちは彼らのおもちゃのようなものである。
「……もうすぐ三か月、か」
零れ落ちた言葉を聞いた妹の表情にふっと暗い影が落ちる。
園での生活が始まって一か月、新型ウイルスが流行り始めてからおよそ五か月が経とうとしていた。
「丁度、三か月前の今日、だね」
何がとは言わない。言わなくても、お互いに分かっている。俺たちにとって大事な、決して忘れることのないあの日。
「あの頃は、隔離される前だったから……まだ三歳のあの子が死ぬとき、一人ぼっちじゃなくて良かった」
お母さんとお父さんには会えなかったけど。
そう口外に告げている妹は俯いて、両手を強く握り締めていた。
泣けばいいのに。
ここには俺と妹しかいないから。心に傷を負いつつ俺たちを見てくれる優しい園の大人たちも、大して優しく接した覚えもないのに年齢だけで俺たちを兄や姉と慕ってくれている子供たちもいないから。
ぐい、と手首を強引に引き寄せて、隣の席へ座らせる。突然のことに驚いた妹が顔を上げる前に、その頭をぽんぽんと撫でてやった。
「ごめ、ん……っ」
どうして、お前が謝るんだ。
控えめに嗚咽が漏れて、ぱたぱたとズボンに藍の染みを作っていく。
大丈夫。母親も、父親も、きっと末の妹と共に向こう側で待っているから。
そう慰めようにも、俺が余計なことを言うのは憚られて、黙って頭を撫でるだけに留めた。お前が謝る必要はないんだと、彼らは俺たちが心配しなくても大丈夫だと、ただそれだけが伝わってくれれば、それでいい。
だから、結局のところ、俺は妹を置いていけないし、かといって巻き込んで園を出る勇気もない。たまにこうして、自転車を走らせてどこか、誰も居ない、俺たちの知らないところまで出てくるだけであって。
ぐすぐすと涙を流す妹を見るのは、いつぶりだろう。少なくとも、園に集められてから、妹は一度も泣かなかった。人見知りの癖に世渡りの上手い妹は、余所行き笑顔と態度で、でもたまに素の彼女を見せることは忘れず、上手く子供たちとも大人たちともやり取りをしていた。消灯してから泣いている声が聞こえることもなかったから、最後に見たのは両親が亡くなった日だろうか。
まず母親が感染していると発覚して、俺たち家族は一人ずつ隔離されて、およそ二週間の時を経てから感染していなかった俺と妹が再会したその日、父親も感染していたという事実を妹の口から知った。
監禁中の俺たちは、ネットは使えたものの、死亡者の名前は分かっても、感染者の名前は個人情報として公表されていなかった。感染者や死亡者の管理をしていたのは政府の人間と役所の人間だったが、感染拡大に伴って人手が足りず、公務員である教職員の手も駆り出されていた。その中に、妹の元担任が居たらしく、たまたま、すれ違ったところで教えてもらったのだと言った。
その日の夜だった。死亡者の更新がされ、父親と母親の名が政府のサイトに綴られたのは。
分かっていた。政府は感染者を助けるつもりはないから、両親はいずれ死ぬということは分かっていたけれど、それがそんなに早いとは思っていなかったんだ。
死に目に会えなくても、両親に会える可能性はあった。一人一回だけ、感染を防ぐため防護服を着て、感染者と会う事はできた。でもそれには申請が必要で、お金も必要で。お金はどうにかなるといっても、申請順に面会できるシステムで、少なくとも一日以上待たされることは確実だった。なるべく早く申請しよう、と書類を用意しつつ、母親か父親どちらの面会に行くか相談しているときに、死者の更新がされたのだ。
嗚呼、書類が無駄になったな。
両親の名を見たとき、俺が思ったのはそれだけだった。たぶん、頭の中では理解できていたのに、心では分かっていなかった。ぼんやりとそう思って、お金も必要ないんだと思って、自分が何をしていたのか分からなくなって、酷く冷えた頭でとりあえず妹の方を窺った。
妹は泣いていた。
静かに目を見開いて、今にでも溢れ出しそうなほど水を溜めて、そして一粒の涙が頬を伝っていった。ぽた、とその水滴が落ちたのはどこだっただろうか。それから、彼女は泣き喚いた。お母さん、お父さん、と。どうして、と。
俺たちに選択権なんてなかったんだ。感染が発覚して、二週間隔離されて、そうしたらもう親は死んでいて。
政府が憎かった。
感染者を見捨てた政府が、感染拡大を防ぐために暴挙を取った政府が。
でも、ただ増えていく死者の数を、名前を眺めていく日々を何日も過ごしていたら、いつしか政府の人間も多く死んでいて、残ってる人たちの中で一番偉い人を中心に、国民に対して指示が下りているのだそうだ。呆れてものも言えなかった。いや、政治とか、興味なかったし詳しくもなかったから、呆れるなんてたいそうなことじゃなくて、馬鹿だなぁ、と思ったくらいだったかもしれない。ともかく、政府は正常ではなくなって、国は崩壊状態だと言われて、どうでも良くなってしまった。
まあ今も、気に入ったわけじゃないけど。
これから、どうすればいいんだろう。
「おにい、ちゃんは……泣かないの?」
「俺はいいよ」
お前が、泣いてくれるから。
少し落ち着いてきたのか、目を擦りながら尋ねた妹の手をやんわりと止める。ショルダーバッグから取り出したタオルをその手に押し付ければ、それ以上喋らない俺の代わりに妹が言葉を紡ぐ。
「お兄ちゃんは、ここでの大学生活、楽しみだった? 私はさ、生活が変わるってわけじゃないけどやっぱりクラス替えとかもあるし、楽しみだったんだ。受験生で大変なのは分かってたけど、きちんと最後の高校生活過ごしたかったな……」
壊れてしまった日常生活。色んな事が制限されていって、気が付けば何一つ元に戻れないくらい、事態は悪化した。
まずは遊園地や博物館。政府から自粛の要請もあって次々と臨時休館、ライブだとかのイベントも中止になった。すぐに政府は企業に対して在宅勤務を求め、その一週間後くらいには飲食店や映画館、娯楽施設に休業を言い渡した。
それのあとだったっけ……救命活動が中断されたのは。
気が付けば店なんてやってなくて、病院もやってなくて、感染者はどこかに収容され、疑いのある者は監禁される。
感染してなくても、いつもの生活なんて出来なかった。
「……俺は、怖かった。だから、少しだけ、ほっとしたんだ」
「すこし、だけ……」
「どうしてそんな話をするんだ?」
らしくない、と思った。仲が悪いわけじゃないけど、普段ならこんなにお互いの心が見えるような話はしない。
「どうして、だろ。たまには話してみたくなったから?」
そもそも、何故今までこんな話にならなかったのだろうか、なんて言っても多分大した理由があるわけでもない。
余計な事まで知る必要はない。妹の思考や感情がわざわざ分からなくてもいい。全部が分かる事なんてないし、そのパターンを知ってしまえば先入観が生まれる。大体の好き嫌いくらいが分かれば、共に生活するには十分だ。
妹がどう考えているかは知らないが、俺からするときっとそれくらいの理由しかない。
「お兄ちゃん、こういう話苦手だよね」
「お前もそんなに得意じゃないだろ」
「あ、知ってた?」
そりゃな、と呆れたように言えば、楽しそうにくすくすと笑った。
なんだかそれが愛おしくて、どこか懐かしくて、どうしようもなく泣きたくなって、顔を背けた。
どうせ、気が付かれているんだろうけど。
なんだかんだ物心ついてから、ずっと一緒に過ごしてきたのだ。言葉を交わさなくてもこれくらいバレてしまうのは分かりきっている。分かっていても、彼女は茶化すことはしなかった。
「言葉にするのって難しいし、こういう話するのは嫌いなんだ」
それくらい、分かってる。
俺は俯いたまま、こちらを窺う事もせずに隣の妹が背もたれに身体を委ねた。
今、君には何が見えているんだろう。からっぽの講堂で、感傷に浸る俺の横に座って、何を考えているんだろう。
「他の人の考えとか感じ方を聞いたりすると、どうしても自分と比べちゃうからさ。自分の考えに間違いとかあるわけじゃないのに、他の人の考え方が模範解答として答え合わせを始めちゃうから……あんまりそういう話はしたくないんだ」
ゆっくりと、静かな声で紡がれているそれは、今まで話したことがなかった彼女の本心だ。
黙っていれば、彼女はきっと頑張って話を続けたんだろうけど、妹にだけそんな話をさせて、俺は何も喋らないのはなんか違う気がした。
不公平だ。
妹がどう思ってその話をし始めたのか、深い意味はないのかもしれないけれど、彼女が話したのならこちらも話さないと、失礼だとか、平等じゃないだとか、そう思った。
「言葉にしなくても、なんとなくは分かるけど……」
でも、こうして俺たちの意志なんて関係なしに生活の全部が変わってしまって、少なからず心が参っているのだ。なんでもいい。なんでもいいから、変わっていない何かに縋っていたいんだ。
「たまには確認しないと、気が付かないうちに自分が全く知らない方へ変わっていたら嫌だよな」
こくり、と深く頷いたのが気配で分かった。
「そうじゃなくても、今まで確認したことなかったから……お兄ちゃんが感じていると思ってたことが、一ミリもかすってなかったりしたら、怖いよ。私、どうしたらいいか分からなくなっちゃう」
唯一の、通じ合える人間。それが、実は全部自分の思い違いですなんて言ったら、どれだけの衝撃を受けるだろうか。
恐れているんだ。もし、そうだったら。かもしれないを考えて、その時傷付くのは自分だから、少しでも傷付かなくていいように。
「大丈夫だよ」
杞憂とはまさにこのことだとは思う反面、頭の隅っこで、その可能性なんて零じゃないと、もしもそうなら俺は、俺と妹が今まで過ごしてきた時間はなんだったのかなんて考えてしまうのは人間の業だろうか。
意味が無いなんてことは、きっとない。
大丈夫、と呟いた。自分に言い聞かせるように、妹が少しでも安心するように。
「うん……でも、たまに確認しちゃうかも」
「すればいいんじゃねーの?」
遠慮なんてしなくていい。でも、きっと妹が言わなかったら俺が同じことを言っていたかもしれない。
それくらいには、俺たちは同じことを感じて、同じことを考えているんだ。
とん、と彼女の肩が当たり、少しだけ寄り掛かってきた。
どうした、と尋ねるのは野暮だ。確認するとか言いながら、言葉にするのが苦手な人間が二人も揃えば話に出すまでに百年くらいかかる。
何かを話すわけじゃない。ただお互いが居るだけの空間。その静かな時間が久しぶりで、心地良い。
「……高校に行くか?」
長い沈黙の後。数分かもしれないし、十分や二十分と経っているかもしれない。授業も、学校もない。時間を気にすることもないから、時計を見ることは少なくなっていた。
「え、どうして?」
「いや、なんとなく、行きたいかなと思って」
「うーん、そうだなぁ……いいかな、行かなくて」
あそこが園に使われてるかも、と続けた妹は臆病だ。見知らぬ誰かがそこで生活している可能性を、今まで使っていた教室が自分の知らないように変わっているかもしれないと考えている。
自分も少しは気になっているのだ。出来なかった卒業式、歌うはずだった曲を思い返して、何度も合格発表のサイトを開いてはやるせない想いになったことは一度ではない。自由登校になる前に担任が言った、次にクラス全員が揃うのは卒業式だねという言葉が現実になることはなかった。
おもむろに瞼を閉じる。
科目選択によって四十四人という一クラスにしては大人数分の机が所狭しと並んだ教室。左端にプリント三枚が、マグネットでとめられて、右端には日付と曜日が書かれいる、壁いっぱいに広がった黒板。B1サイズの紙に書かれた時間割が貼られた廊下側の壁。窓にはクリーム色のカーテンがかかっていて、教室の隅には扉が少しへこんで、ところどころにある傷には錆が見えている掃除道具入れ。
嗚呼、最後に見たの日付は一月三十一日だっけ。黒板に書かれた日付は、今は何日になっているのだろう。
鮮明に思い出せる。忘れるわけがない。一年間、必死に勉強してきた日々は、過ごしてきた教室は、あれから数か月が経っても色褪せることを知らない。
確かに、と思った。
あそこで生き残った誰かが過ごしているところは、わざわざ見たいものではない。自分たちの過ごした教室は、自分たちの心の中にある。だから、わざわざ行く必要もない。
「じゃあさ、家の墓参りに行こう」
治療が許された最後の感染者たちであった末の妹は、ぎりぎり個人での葬儀が出来た。共同墓地に入れられた両親とは違って先祖代々続く墓に入っているので、場所は俺たちで把握している。
月命日だから。
「線香も何もないけど」
「花なら適当に摘んでいけばいいだろ」
「えー、ちょっとそれはどうなの」
くすくすと笑った彼女を見て、少し安心した。
花なんてどこか咲いてたっけ、なんて言われて片道二時間弱の道のりを思い返すけれど、ここに自転車で来るのは初めてだったため、道を間違えないようにするのに必死であまり景色を楽しんだ記憶がなかった。どうだっけ、と言って二人顔を見合わせて自然と笑みが零れた。
「そうだ」
がたん、と小さくもない音を立てて妹は立ち上がった。彼女の柔らかく笑った顔を見上げて、嗚呼、と思う。
明るい。俺たちは、まだ笑い合える。
「四つ葉のクローバー、探しに行こうよ」
「クローバーを?」
「うん。公園でも、途中の河川敷でもいいからさ。だって、あの子の名前は幸せで溢れているから」
俺は首を傾げた。でも、慈しむような表情をする妹は、末っ子の名を決める際に一枚噛んでいるらしいから、何か意味を持つことなのだろう。
「……わかった」
お前がそうしたいのなら、一緒に付いていくよ。
特に意味のない、ちょっとだけ現実逃避がしたかっただけの旅だ。これからどこに行くも、何をするも自由だ。
立ち上がり、軽いステップで階段を降りていく妹を追う。部屋を出る前に、回れ右で講堂を眺めた。
来るはずだったこの大学。本当だったら、今この時間、ここで講義が開かれていて、さっきまで座っていた席で教授の話を聞いていたかもしれない。
まるで卒業証書を貰ったあとのように、深く一礼をして扉を閉めた。
さようなら。叶う事のなかった過去。そして、さようなら。実現することのなかった未来。
「ほらお兄ちゃん。早くしないと、見つけるだけで日が暮れちゃうよ」
「そうだな」
気が付いていて、わざとなのか。
明るい声で俺を呼ぶ妹の後ろ、階段の踊り場にある窓から、白い光が差し込んでいた。
嗚呼、今日はこんなにも晴れている。
変わらない記憶、変わりゆく日々。 翡翠 @hisui_17
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