第4話

 それから何度か、同じカフェで「佐伯さん」を見つけた。今まで、意識していなかっただけで、以前から通っていたのだろう。私が気付いている、ということは、向こうも気が付いているはずだ、というのは少々、自意識過剰だろうか。

 彼は、いつも一人でいた。仕事をしているのだろうか。ノートパソコンを持参し、カタカタとキーボードを打ち鳴らしては、たまに、電話を掛けている。電話の内容が聞き取れるほど近くの席になったことは、ほとんどない。だから、彼の素性はよく分からない。素性どころか、顔だって、まじまじと眺めたことはない。よく似た人の写真を並び立てられたら、当てられる自信はなかった。記憶に残るのは、静かだけれども、よく通る彼の声だけだ。


 どれくらいの月日が経ったのだろう。気が付けば、桜が咲いていた。いつしか、私は、「カフェの佐伯さん」のことを忘れていた。仕事が忙しく、カフェでのんびり休憩時間を過ごすことがなくなったからだ。

 仕事が落ち着いたある日、打ち上げがてら、仲のいい同僚たちと飲みに行く機会があった。大きな仕事の片が付いたこともあって、その日は派手に飲んだ。何人か同期がつぶれたが、この年齢になったら自己責任である。明日は休みだ。タクシーに彼らを押し込みながら、ゆっくりと休んでください、と心の中で祈る。

 私は、一人帰路につく。同期たちが酔いつぶれるほど飲んだ割には、終電まではまだ、時間がある。金曜日に仕事から解放されて、ほろ酔い気分。なんて素敵な週末だろう。この後、1軒どこかに寄るのもいい。それとも、家で、しっぽりと飲もうか。

 悩んだ末に、部屋でゆっくりすることに決めた。お風呂に入った後に、映画を見ながら夜更かしするなんてどうだろう。それとも、手を付けていない本を消化しようか。帰宅後の娯楽に思いを馳せながら、途中のコンビニで、お酒を調達する。

 コンビニに陳列された和菓子を見て、ふと思った。時期も時期で、この暖かさだ。公園の桜がきれいに咲いているかもしれない。季節を味わう情緒など持ち合わせてはいないが、たまには季節の花をめでるのもいい。

 私は、コンビニを後にした。

 深夜の公園には、誰もいなかった。桜は街頭に照らされてはいるものの、想像していたほど、目を見張るものでもない。それどころか、多少、不気味な印象さえある。流石に、ここで一人、花見酒をするという選択はない。

 しかし、歩いて酔いが回ったのか、足元がおぼつかない。家まで距離があるわけではないが、少しだけ休憩して帰ろうと公園に足を踏み入れた。買ってきた酒類は、カバンにしまう。水だけを取り出して、口に含む。

 外灯の下にあるベンチに腰を掛ける。音のない世界。風もほとんどなく、桜がはらはらと散る音だけが聞こえる。ここだけ空間を切り取ったようなかのような静寂。

 こんなに静かな時間を過ごしたことがあっただろうか。

 1日は駅の喧騒から始まり、会社に着けば気の抜けないやり取りに神経をすり減らす。家に帰れば疲れ切って眠りに落ちるだけ。

 ゆったりとした時間を感じたことなんて、ここ数年なかったことに気が付く。溜息をつきながら空を仰いだ。星は数えるほどしか見えない。

 ふと視界の下で何かが動いた気配がした。

 視線を「何か」に向ける。暗くてよく見えないが、桜の木の下に人がいるようだ。桜に近寄ったり、離れたり、花を仰いだり、根元を見降ろしたり、明らかに挙動不審だ。浸っていた気分が台無しである。関わり合うのは怖いので、早々に視線を反らしベンチを立つ。まだ少しふらつきを感じる。

 バランスをとるために、足を開いた私に手が差し伸べられた。はっとして顔を上げる。そこにはカメラを持った男性がいた。

「大丈夫ですか?」

カメラを構えていたのか、と妙に納得したのが先で返答が遅れた。不自然に空いた間に、男性が少しだけ首を傾ぐ。私はそれを見てようやく、大丈夫です、と言葉を返した。

 しっかりと自分の足で立つ私を見て、彼は私の手から静かに手を離した。

「すみません、具合が悪いのかと思って」

彼の見せる柔和な顔つきは、それだけで警戒心を解くのに十分だった。不審者だと思っていたのが申し訳ない。「いえ」と短く返答し、「私はこれで」と別れを告げる。踵を返そうとしたところで、声を掛けられた。

「よければ、送りますよ」

突然の申し出に私は面食らった。下げていた警戒心を引き上げる。

「結構です。具合が悪いわけでもないので」

毅然とした態度ではっきりと告げる。彼は少し困った顔をした。

「もしかして、ご存じありませんか? 最近、この辺りで不審者が出るみたいで」

そして、彼は公園に立てられた不審者注意の看板を指差した。そういえば、そんなニュースが流れていた気がする。しかし、目の前の彼が不審者でないという確証もない。私は怪訝な目をしていたのだと思う。彼はさらに困ったように名刺を差し出してきた。

「一応、こういうものです。せめて明るい通りまで、どうですか?」

私は、申し入れを受け入れた。

 二人で大通りに向けて歩き出す。酔いはすっかり醒めた。初対面の人との沈黙が気まずいので何か話題はないかと考えていると、彼が話を始めた。

「そんなに警戒しなくても、何度かカフェでお見掛けしてるんですけどね」

それを聞いて、名刺にあった佐伯という姓と、今となっては遠い記憶になりつつあるカフェの佐伯さんの姓が同一であることに気が付く。驚きは後から遅れてやってきた。念のため、確認する。

「パルタジェの?」

パルタジェというのは佐伯さんを見かけた店の名前だ。

「そう。よかった。人違いかと思ってた」

彼はにっこりと微笑んだ。

 約束通り大通りまで送ってもらって、改めて佐伯さんに名刺を渡して自己紹介をする。そして、疑った非礼を詫びる。佐伯さんは、全く気にした風でもなく、

「気にしないで。そのぐらい警戒してた方が安心だと思うから。じゃあ、気を付けて」

と別れを告げて去っていった。

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