第3話
眠っていたかと思うと、身体が熱くて目が覚める。布団から抜け出して体を冷やす。そうして、また眠りにつく。繰り返していると、夢と現実の区別があいまいになる。熱に浮かされた頭は、正常な機能を失っていて、ここがどこか、扉の向こうから聞こえる声が誰のものなのか、不明瞭な世界を作り上げていく。
混濁する意識の中で、人の話し声が聞こえる。抑えの効いた深みのある声。いたずらに低いわけでもなく、心地いい周波数が耳に届く。
私は、彼と初めて視線を交わした日を思い出す。
「お世話になります。佐伯です」
声を聞いた瞬間、自然と視線は彼の方を向いた。昼間のカフェ。私は、同僚と遅めのランチをとっていた。数分前に前の席に通された男性は、私の席からは後姿しか見えない。仕事だろうか、改まった口調で電話越しに会話を始める。
突然視線を上げた私に、目の前の同僚は不思議そうな顔をした。
「どうしたの、急に」
「今日、締め切りの仕事あったの思い出した」
私は、大きくため息をついて、食事に戻る。もちろん、その場を誤魔化すための振りである。
「可哀そうに、今日も帰れないね」
言葉とは裏腹に、同僚の口調は楽し気である。今日が締切の仕事なんて存在しないが、彼女の言う通り、締切が今日だろうと来週だろうと、毎日帰れないのだから、何でも一緒だ。毎日、何かに追われている。だからと言って、それが人生の糧になるわけでもなく、毎日摩耗するだけの日々が続く。私は、本当に溜息をついた。彼女の後ろの席の「佐伯さん」の会話はまだ続いている。
「そんなに暗くならないでよ。土日に出勤しないだけ、ホワイトな職場でしょ」
「そうだね。平日はこれでもかってくらい残業してるけどね」
土曜に出勤して、その分、平日は早く帰った方が疲れが取れる気がするのだが、そんな個人的な希望が通るはずもなく、平日は21時くらいまで働くのが常となっている。働いた分だけ残業代は出るし、36協定だって守られているのだから、世間的にはホワイトな分類だろう。
「ねえ、それより聞いてよ」
彼女は、前のめりになって会話を始める。基本的には、職場の愚痴だ。他人の愚痴を聞くのは疲れる。愚痴を聞かされても、どうすることもできない。話を聞いてほしいだけで、どうしてほしいわけでもないのは分かっているから、適当に相槌を打って同意する。負の感情を投げ続けられるのは、消耗する。悪気があるわけではないし、彼女は、話すことでストレス発散になるのだから構わないのだが、どうせなら、楽しい話をすればいいのに、と思う。その方が、双方気持ちよく食事ができる。まあ、口が裂けても言わないけれど。こういう付き合いも仕事のうちだ。
それにしても、佐伯と名乗った男性の声は忘れられない彼の声によく似ている。いるわけなんてない、と分かっているのに、もう何年も彼の影を追うことを止められない。
会話を聞くのは失礼だと分かっていても、私の耳は前の席の彼の声を拾い続けていた。どのくらいの時間が経ったのだろうか。私は、食事をするのも忘れて、物思いにふけっていたらしい。同僚が私の名前を呼んだ。
「真!」
その瞬間、後ろの彼が、こちらを振り返った。私は、ドキリとする。私と彼の視線が交錯した。ほんの一瞬だった。彼は、視線が合うとすぐさま、前を向いて居直った。後ろ姿は、何とはなしに気まずそうである。
私は、視線を同僚に戻す。
「ごめん、ぼーっとしてた」
もう、と同僚は頬を膨らませていたが、それほど気を悪くした風でもなく、職場の愚痴を垂れ流していた。私は急いで食事を再開する。もうそろそろ休憩時間を切り上げる時間だ。
食事を終え、ストレスを発散して、すっきりした顔の同僚と共に職場に戻ることにした。帰り際、気付かれないように、「佐伯さん」の方を盗み見る。40代前半、と言ったところだろうか。涼し気な瞳に、きちんと整えられた髪。カジュアルな服装だが、どこか品のある出で立ちだ。
こんな風に、きちんと年を重ねられたら素敵だろうなと思ったことを覚えている。
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