第2話

 かすかな頭痛と共に目が覚めた。鼓動に合わせて、側頭部が痛む。体を起こすのが億劫だ。こういう日に限って、大事な打ち合わせが2本入っている。

 ゆっくりと体を起こす。頭痛がひどくなる。横目で時計を確認する。午前6時30分。朝食を諦めれば1時間は寝れる。しかし、2度寝した後、もう一度、身体を起こす気力があるかは別の話だ。すぐさま布団に倒れこみたい気持ちを、ぐっと我慢して立ち上がる。心臓が頭に血を送ろうと激しく脈を打つ。頭が痛い。

 のそのそとキッチンまで移動し、冷蔵庫の扉を開ける。お茶の入った容器を取り出し、食器棚の前に立った。食器棚から自分のグラスを取り出し、お茶を注ぐ。上を仰ぐ動作がしんどい。しかし、体調が悪いのならば、多少、水分を取った方がいい。ほとんど義務感で、お茶を飲み干した。そのまま、キッチンの椅子に腰を下ろす。起きはしたが、食欲はない。このまま、時間まで机に突っ伏すことにする。

 そう思って、スマホを部屋に置いてきたことに気が付く。キッチンから見える位置に時計がないわけではないし、出勤日の朝に机で爆睡することもないとは思うが、少し不安だ。しかし、とうてい体を起こす気にはなれなかった。

 風邪でも引いただろうか。子どもの頃から健康優良児で、滅多に風邪もひかない私からすると、少しの体調不良でも世界の終りのような心持になる。他方で、体育会系な一面もあり、風邪なんかで仕事を休む気にはならないのではあるが。

 ぼーっと考える。休む気はあまりないが、人にうつすのは申し訳ない。せめて、熱を計ってから出社しよう。体温計はどこにあっただろうか。リビングの棚で見た気がする。再び体を起こして立ち上がる。立ち上がった、と思ったが、そのまま膝から崩れ落ちた。どんっと鈍い音がする。痛い。早く体を起こさないと、と意識だけが焦る。私は、そのまま意識を失った。


 目が覚めると自分の部屋にいた。時計は午前7時を指している。倒れたときに打ったのだろう。腕が痛い。しかし、器用に倒れたものだ。周りには机や棚、椅子の背もたれがあったが、何にもぶつかることなく、腕が痛いだけで済んでいる。時間を見る限り、気を失ったと言っても、ほんの数分だろう。人間、本当に意識を手放して倒れることがあるんだと感心する。気が付くと、脇の下で体温計が電子音を響かせていた。意外だな、と思う。ベッドまで運んでくれるのは兎も角、脇に体温計を挟むなんてことが、同居人にできるだなんて。何なら、部屋に入ることも憚られて、リビングのソファに寝かされていたって不思議ではない。

 私は体温計をのぞき込んだ。40度6分。どうやら、壊れているらしい。電池残量でも少ないのだろうか。早く起き上がって会社に行かないと。そろそろ、いい時間だ。そう思うが、身体は一向に言うことを聞かなかった。

 「入るよ」

律儀に、ノックをして、同居人が扉を開ける。私の部屋に入ってきたのは、今日が初めてではないだろうか。

「熱は?」

私は、体温計を差し出す。彼は、眉間に皺を寄せた。気持ちは分かる。なかなか見ない数値だ。そもそも、人生の中で38度を超える熱が出たのなんて、記憶に残る中で2度目の経験なのだが、熱を出したら、どうしたらいいのだったか。動かない身体と裏腹に、思考はぐるぐると駆け巡る。とりあえず、会社に連絡しなければならない。

「スマホ取ってもらえますか」

私は、彼にそう頼んだ。彼は私の枕元を指差す。灯台下暗しである。思考が駆け巡る速さとは裏腹に全く頭が回っていないようだ。私は、上司の携帯に電話を掛ける。3コールほどして、中里課長が電話に出た。

「竹下です。おはようございます。」

「中里です。おはよう。」

朝に電話を掛けることなんて、今までなかったからだろう。課長の声が緊張しているのが分かる。体調不良で休むこともなければ、電車が遅延している日も遅刻したことがない。やむをえないトラブルにしても、こんな時間に電話を掛けたことはないはずだ。

「すみません、風邪をひいたみたいで、熱が40度近くあるので、」

私は、ベッドの傍で私を見降ろす彼の表情を見つめながら続ける。

「2、3日休みます」

同居人の彼は、安心したように小さくため息をついた。病院に行って出社すると言うとでも思っていたのだろうか。どうせ、有給は腐るほど余っている。休むこと自体には問題はない。大事な会議にしたって、私がいなければ誰かが代わりに出るだけだ。会社という組織において代替が効かないことなんて、ありはしない。そのあと、文句を言われるかどうかは別の話である。

「珍しいな」

電話の向こうで困惑とも心配ともとれる声音で課長が言う。

「分かった。お大事に」

「ありがとうございます。あの、」

電話を切られないように、言葉をつなぐ。

「今日、会議が入っていて、でも社内の会議なので、来週に回してもらってください。都合がつかなければ、私抜きでやってもらって、あとで議事録送るよう言っておいてもらえますか」

私は、中里課長にそう告げた。課長は、分かったと言って、他に連絡事項がないか尋ねてくる。今日は月曜日だ。週末にどこまで仕事を終えて帰って来たのか、記憶が定かでない部分も多いが、たぶん大丈夫だろう。私は、私のことを信じている。

「大丈夫です。ご迷惑をおかけしますが、お願いします」

私は、電話を切った。通勤するという義務から解放された安心感で、力が抜けた私は、同居人の彼と話すこともなく、すぐに眠りに落ちた。

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