水仙

みや

第1話

 「子どもだと思われても構わない。私は、あなたのことが永遠に好き。」

 そうやって綴られた日記を読み返す度、子どもだったと思う。今となっては、本当に好きだったのかどうかも、よく分からない。恋に恋する年ごろだったと思うし、「大人」は無条件にかっこよく見えた。年を重ねた今なら、何の気に留めることもなく通り過ぎるだろう。そう思うのに、好きだと自己催眠をかけ続けた2年間という月日は長く、ふとした瞬間に意識が彼に向く。

 その日も、何のことはなく、彼が何をしているのかが気になった。何のことはなく、というのは違うのかもしれない。たいてい昔を振り返るのは、仕事が上手くいかなかったときや、すべきことがあるのに頑張れない時が多い。私よりも「できる人」だった彼を想像して、自分の無能さに落ち込んで、彼だったら、どうするかを考える。そして、そんな彼が今、どこで何をしているのかに思いを馳せる。いつもは、そこで終わる。

 世の中、便利だ。情報に溢れている。本気で今の彼を知りたいのなら、いくらでも知りようはある。だけど、それは人として超えてはならない一線だと思っている。


 そう、思っていたが、何が私をそうさせたのか、気が付けば、彼の名前をネットで検索していた。彼の名前が、「鈴木太郎」だったなら、私もそんな馬鹿げたことはしなかっただろう。中途半端に珍しい名前なのだ。検索すれば個人を特定できるほどには。

 かくして、私は彼の今を知った。劇的なことなど何もない。その道で、じわじわと名声を上げていることが分かる程度だ。

 しかし、画面の中で目尻を下げて笑う彼を見た瞬間、懐かしさに胸が締め付けられた。数秒、息をするのも忘れて画面を見つめる。彼の寄稿した文章は、相変わらず、彼らしい言い回しで、教育について説かれている。問い合わせ先として記載された個人の携帯番号とメールアドレス。彼は、覚えているだろうか。私と彼の携帯番号が偶然と呼ぶには気持ち悪いくらいに類似していたことを。頭の奥で、何かが込み上げる。形容しがたい強い感情の塊。人は、この気持ちにどんな名前を付けるのだろうか。


 彼と会う機会がなくなってから、何人かの男性と付き合った。聞きかじった恋愛模様をなぞるだけの退屈な日々。3年ほど付き合って、別れてを繰り返して、ようやく無駄なことをしていることを理解した。好意を持たれているからといって、相手に恋愛感情が生まれるわけではない。最終的に相手を気遣うことに疲弊して、私から別れを告げる。

 恋愛感情が芽生えないからと言って、楽しくないわけではなかった。会話をすれば、いいテンポでラリーは続くし、食べ物の好みも似通っていて、食事の時間も有意義だった。だけど、次第に、時間を共有しているという感覚はなくなり、一方的に時間を搾取されている感覚に陥る。初詣、バレンタイン、ホワイトデー、誕生日にクリスマス。正直、どれをとっても面倒で、一人の時間を大切にしたい私には、耐えがたい苦行に成り代わる。電話も出かけることも面倒になって、次第に気持ちが覚めていく。気持ちが覚めていようといまいと、外面の良い私が相手に見せる態度は、付き合い始めた頃と変わらない。そんな中、突然、別れを突き付けられる彼らが納得するわけもなく、別れ際はいつも揉めた。

 そうして、幾度となく考えた。彼と付き合う未来があったなら、と。教育者としてではなく、一人の男性として、私の隣に立つ彼を想像して、その表情も、その仕草も、雰囲気も、どれ一つとっても、まともに描くことができないことに気が付く。彼にとっての私が一生徒だったように、私にとっての彼もまた、ただの教師だったのだろう。そう思いたいのに、熱がぶり返すように、繰り返し思い出される記憶。決して、不幸な記憶ではないのに、忌々しいとさえ思う。

 目の前に表示された電話番号。目にしたから、思い出したわけではない。ずっと覚えていた。掛けようか、本気で悩んだこともある。成人した今、会ったならば、あの日のことは、幻想だったと笑い飛ばせるのではないか。そうすれば、このよく分からない気持ちから解放されるのではないか。そう思って、だけど、一度もそれを実行に移したことはない。

 私はパソコンを閉じた。時計は深夜0時を過ぎたところだ。明日も仕事がある。こんなことで、寝坊するわけにはいかない。

 彼のことを考えながら眠ったからだろうか。彼の夢を見た気がする。

 翌朝の目覚めは最悪だった。

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