第1話 なんでもない日常


「だーかーらーッ! 森さん! 何回も言ってるじゃないですかッ!」

「本当に、瀬戸さん、すみません…」


 そう言いながら、本当に申し訳ないと思っているのか分からないような微妙な顔をする成人男性と、小柄ながら物怖じしない様子で食ってかかるこれまた成人女性。


「まーた始まったよ……」

「うちの名物の瀬戸せとちゃんの分け隔てない説教タイム(笑)」


 わざと聞こえるように言われている気もするけど、気にしない。むしろ気にしたら負けな気がする。

 だって一応先輩である森さんが、びっくりするくらい仕事が出来ない人間なのだから、仕方がない。


 わたしこと、瀬戸せと 千代子ちよこは、曲がったことや手を抜くことが大嫌いな、いざというときは先輩だろうが上司だろうがお構い無しに苦言を呈する、少々厄介な性格の持ち主だった。


「瀬戸ちゃん〜、そのくらいにしときなよ〜」


 頼りない森先輩にさらに追い討ちをかけようとした時に、スラリとした長身の美人が現れた。


「清美さん!」


 先程とは打って変わって、満面の笑みで長身美人に話しかける千代子。

“清美さん”と呼ばれた女性は、涼やかな笑みを千代子に向ける。


「誰よりも仕事に熱心なところは評価するけど、ウチは個人戦でもありチーム戦でもあるから。ほどほどにね」

「……はぁい」


 あの清美さんに制されたら、ここは引き下がるしかない。なんていったって、まだ三十という若さにしてこの営業部を一つにまとめ上げる凄腕の上司なのだから。

 千代子は清美さんのことを、いち上司として、いち女性としても、すごく尊敬していたのだ。


「でも、今月の成績も瀬戸ちゃんが1番よ。いつもプリプリしているのも、きちんと仕事をこなしているがゆえだと思います。みんなも瀬戸ちゃんを見習って頑張りましょう!」


『よく頑張ったわね』と、清美さんは囁くような言葉と共に、片手を千代子の肩に乗せた。いい成績をおさめたら、必ず評価してくれるところも清美さんの好きなポイントの一つだ。


「そうそう、忘れるところだった。明日、ネット事業部の方から異動してくる方が一人いるから、瀬戸ちゃん頼めるかな?」


 ネット事業部?

 ネット事業部から営業部への異動なんて、かなり珍しい。勝手な想像だけど、インターネットに精通している人って、どちらかと言うと根暗なイメージがあったからだ。


 しかし、今回の問題はそこではない。


「えぇっ? わたしが教育係ですか……?」


 千代子は曇った表情で清美さんを見つめる。

 千代子が渋い顔をするのにも、理由があった。

 千代子がこの会社に勤め始めて、もうすぐ2年。若さも相まってフレッシュさはまだ抜けていないものの、業務に関してはひとまず何でも出来る上に成績も良い。

 となれば、当然、新人教育に割り当てられることも過去幾度とあったが、千代子の教育を受けた後輩たちは皆、口を揃えてこう言う。


『瀬戸さんだから出来るんですよ』

『私たちは瀬戸さんと違って“普通”なので』


 千代子は感受性豊かゆえに、人より少しだけ理解度が早く、そして何より元々ドが付くほどの真面目さで、休日でも明日の仕事のことで頭がいっぱいになるほど没頭していた。


 いくら会社といえど、千代子のように本気で仕事に取り組む人もいれば、生活のためになんとなく働いてる人もいる。


 後者のような人たちからすれば、千代子のような考え方は、到底理解できるものではない。

 そのことは千代子自身も清美さんを含む周りの人間もみんな分かっていることだ。


 だからこそ、教育係に勧める清美さんの采配に千代子は疑問を覚えているのだ。


「あなたが言わんとしていることは、私にも分かります。ただね、これは社会人として避けては通れない道だとも思ってるの。“出来ないこと”がいつまでもあるの、嫌でしょう?」


 やはり、清美さんはやり手だ。

 千代子の性格をよく理解している。


「が、頑張ります……!」


 そう言われてしまえば、負けん気の強い千代子は頭を縦に振るしかないことを、本当によく理解している。


「でも、そんなに気負わなくて大丈夫よ。瀬戸ちゃん節を炸裂したとしても、たぶん彼はそんなにへこたれないと思うし……まぁ、別の意味で大変かもしれないけど」


「…?」

「明日には分かるわ」


 何だか含みのある言葉だった。

 こういう言い方をする時、大体あんまり良くない事が起きたりするのだけど……。


「……瀬戸さん、迷惑ばっかりかけて申し訳ないんだけど、先方が怒ってて……瀬戸さんに代われって……」


『先方が怒ってて……』じゃなくて、森さんが怒らせたんでしょ!という言葉が口から飛び出しそうなるのを、すんでのところで止めた。


「外線何番ですか?」


 明日のことは明日考えよう。

 千代子は今日も慌ただしくなりそうだな、と思いながら受話器に耳を当てた。



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