【ビター】

水瀬 葵

プロローグ


 これは、失恋になるのだろうか。


 怒りに任せて連絡先を消去したは良いものの、後からぐらぐらと崩れ落ちるような何かが押し寄せてくる。

 ぼんやりとした動かない頭で、先程のやり取りを反復するように思い出す。


 高野たかの綾人あやと

 わたしの好きな人の名前だ。

いや、もう、好きだった人の名前になる。


 先に補足するが、決して彼氏・彼女の関係では無かった。

 そもそも「好きだ」とかなんだとか一丁前に愛を囁く癖に、いつでも仕事を第一に優先し続け、二言目には「落ち着くまで待っていて欲しい」などと、ふざけたことを言う彼は世界で一番嫌いだった。


 それでも、待っていた方だったと思う。


 結果的には来なかった“それでも、いつか…”なんて曖昧なものに縋るくらいには好きだった。


 それがどうして今になって、こんな事態になったかと言えば、彼のほんの一言だった。


『とりあえず、今は付き合うとかは無理なんだから、ちょこも色んな男と付き合うのも良いかもよ』


 ほんの一言だけど、大きな一言だった。

あれだけくすぐったかった、千代子をちょこという愛称で呼ぶ声も、今はなぜだか腹立たしさを覚える。

 これでも健気に、一途に、想っていただけに、大ダメージを受けるのは簡単だった。


“いつか”なんて体の良い断り文句だと、気付いた頃には身も心もボロボロになっていた--ということが数刻前。


『どうしてそんなに酷いことを言えるのか』と泣いて縋りつかなかったのは、わたしの最後に見せたちっぽけなプライドで。

 誰も見ていないのに、なんてことないんですよ、こっちから振ってやってるんですよ、と言わんばかりに、冷静を装って、連絡先を削除した。


 --わたしは今日、失恋をしました。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る