第4話 決断

 「君が活躍することによって、何の罪もない無垢な少女が苦しんでいる」

 もし君がある人にそう言われたら君はどう思うだろうか?戯言だと信じない?じゃあ、そのある人は君にその話を信じたる得ない証拠を突きつけてきたとしたら?そう、私も最初は信じていなかった。でも、ある映像を見せられたら話は違った。他の人がどう思うかは分からなかったが、私にとってはその瞬間から信じたる話になった。

 ‐川原さんはどう思われたんですか?

 「酷い話だ」と思ったさ。その理不尽さに憤ったと言ってもいい。私はその理不尽な世界で活躍し、名を成し、財を成したというのに。今にして思えば笑ってしまうような話だが、私は本気で怒っていたんだ。だから「彼女を救うために君にしかできないことがある」と言われた時は嬉しかったし、今まで感じることのない使命感がこの胸に宿った。

 パーフェクト・ゲーム。一人のランナーも出さずに二十七人のバッターで試合を終えること。未だ誰も成し遂げたこのない偉業。ピッチャーなら一度は目指し、そして無理だと諦める神の領域。いや、ここは女神の領域と言うべきかな。完封は難しくない。いくらヒットを打たれようとも、ホームランがでなければ点は入らない。だから、一定のレベルに達したピッチャーなら調子次第で完封を狙うことは難しくない。でもパーフェクト・ゲームは別だ。仮にバッターの打率を二割八分としよう。二十七回二割八分のバッターを抑えて一度もヒットを打たれない確率は〇.〇一四パーセント。この数値を出せばどれほど難しいか分かってもらえると思う。そのパーフェクト・ゲームを達成すれば少女を救うことができると言う。私はある人にパーフェクト・ゲームを達成してみせると誓ってみせた。

 ちょっと失礼。最近すぐに喉が渇いてしまってね。

 ‐手が震えているようですが、大丈夫ですか?

 大丈夫。実は昨日ちょっと飲み過ぎてしまってね。でも頭はスッキリしているからインタビューには支障はない。大丈夫。

 ‐少女を救うことによる副作用については考えなかったんですか?

 正直言ってあまり深くは考えていなかった。無垢な少女を救うという英雄的な行為に酔っていたのかもしれない。

 それに、その時の私はひどく退屈していた。さっきも言ったがノタマにおいて完封することは難しくない。そして〇点に抑えれば決して負けることはない。私は鋭く曲がるスライダーが武器だったんだが、くると分かっていても打てないと言われていた。あのシーズンの私は抑えようと思えばいつでも、どんなバッターでも抑える自信があった。もちろん全力で投げればだが。私も全てのバッターに全力で投げることはできないからね。ノタマは私にとって必ずクリアできるゲームになっていた。クリアできないからこそ熱中するし、努力もするだろう。わざとど真ん中にゆるい球を投げてホームランを打たれたりもした。試合後のインタビューではスライダーが曲がらなかったと言っていたが、打たれるためにわざと曲げなかったんだ。少しは打たれた方が盛り上がるだろうからね。完封は簡単だったが、その上の目標であるパーフェクト・ゲームは目指すには遥かに遠い。私はノタマへの情熱が失われつつあることにはっきりと気付いていた。だから、もしあの人が私の前に現れなかったとしても、、長く現役を続けることは出来なかったかもしれないな。

 そんな私にクリアすべき課題が与えられた。今まで誰もクリアすることのできなかった課題が。私は心の底からワクワクした。久しく忘れていた気持ちだったよ。

 今まで私が最もパーフェクト・ゲームに近づいたのはあの話を聞いた前年のシーズン、優勝をかけてパイレーツと戦った試合だった。選手として油ののった年齢、稀に見る調子の良さ、優勝がかかっているというモチベーションの高さ。全てがうまくかみ合い、今までのキャリアの中でベストピッチングと言える内容だった。結果は被安打三の完封勝利。全てがうまくかみ合ってもパーフェクト・ゲームには届かなかった。

 私は決意した。今のピッチングスタイルを続けてもパーフェクト・ゲームには届かない。全てを一から見直してパーフェクト・ゲームを達成できる新しいピッチングスタイルを確立しようと。

 私は練習に次ぐ練習、猛練習に励んだ。

 ‐今まであまり練習はされなかったんですか?

 さぼっていたわけではなかったが、他のピッチャーと同じようにバッターに比べたら練習量は微々たるものだったろう。だが、その時の私の練習は質、量ともにバッターに負けていなかったと自負している。

 ‐今まではストレートとスライダーだけでしたが、このシーズンの途中からチェンジアップも投げるようになりましたね。

 ストレートとスライダーだけで充分抑えられていたからね。ただ私のストレートとスライダーはスピード差があまりなかったから、バッターからみたらタイミングは取りやすかったと思う。タイミングが取りやすいからといってバットに当たるかどうかは別問題だがね。より上を目指すためにバッターのタイミングを外すボールが欲しいと思った。スライダーが思ったよりも曲がらずに中にいってしまって打たれることが最も多かったから、タイミングを外すボールがバッターの頭の中にあれば、仮にスライダーが真ん中にいっても打ち損じが期待できる。

 ‐しかし、最初はそのチェンジアップを狙い打ちされているように見えました。

 織り込み済みだよ。新しい変化球を試合で使えるようになるには時間がかかる。すぐ試合で使えるようになるピッチャーがいたなら、そのピッチャーは随分と女神に愛されているんだろう。本当に使えるかどうかは実戦で試していくしかない。産みの苦しみだね。

 ‐その分、伝家の宝刀と言われたスライダーはほとんど投げられなくなりました。

 チェンジアップが実戦に耐え得るレベルになるまでスライダーは投げないと決めていた。やはりピンチになるとそれに頼りたくなるからね。まっ、その分打たれることも多くなって、負けも随分ついた。

 ‐そのシーズンは七勝十敗と初めて負けの方が多くなりました。

 監督、コーチ、ファンから随分と批判もされたしね。でも、気にはならなかった。目指すべき目標があったし、それに近づいているという実感があった。そのおかげでチェンジアップも使える目途がたった。苦しいことも多かったけど、多分、いや確実にこの頃が最も充実していて、最も楽しかった頃だね。

 ‐そして迎えた新シーズン。最初こそ六回五失点で敗戦投手となりますが、次の試合は八回二失点で勝ち投手となり、そこからプロノタマ新記録となる五試合連続完封勝利をあげます。

 開幕を迎えた時は調子があまりよくなかった。キャンプ中に足を挫いた影響もあって満足な調整ができずに開幕は散々だった。ストレートはスピードがでないし、思ったところにいかない。スライダーも全然曲がらない。カウントを悪くして苦肉の策で投げたチェンジアップを狙い打ちされる。流石にくると分かっても打てないと言われたスライダーと同じレベルまで持っていくことはできなかった。次の試合では調子を取り戻して勝つことができた。この勝利が大きかった。何年やっていてもシーズンが始まる直後は不安がある。勝つことでしかその不安を消すことができない。この勝利で波にのってプロノタマ新記録を達成することができた。

 ‐次の登板前にパーフェクト・ゲーム達成を宣言されました。この宣言にはどのような意図があったのですか?

 自分をさらに追い込みたかったんだ。自分で言うのも何だが五試合連続完封勝利は素晴らしい記録だと思うが、逆に言えばそれでもパーフェクト・ゲームに届かなかったということでもある。自分が持っている力以上の力を出すために宣言したんだ。

 ‐その試合で宣言したというのは調子がよかったからですか。

 それもあるが、シーズン前から八試合目で宣言すると決めていたんだ。八試合目、五月の中旬くらいの登板が一番いい頃だと。体は軽くもなく、重くもない。気候もちょうどいい。シーズンが開始した直後は体が軽すぎるし、六月になるとじめじめした湿気、それが終わると夏の熱さ。秋になると疲労がたまって体が重くなっくる。達成するとしたらここしかないと。

 ‐周りの反応はどうだったんですか?

 失笑ばかりだったよ。今まで誰もやったことがないのだから出来るわけがないと。その反応を見て俄然やる気がでてきた。なら私がその一人目になってやると。

 ‐では試合でのピッチング内容について振り返ってもらいたいと思います。最初、一回り目はストレート主体でしたが、これも試合前から決めていたんですか?

 一周り目はストレートでいくと決めていたわけではないが、試合を通してピッチング内容を変える必要があるとは思っていた。ブルペンからストレートが走っていたので、ほぼストレートだけでいくことにした。

 ‐一巡目はバッター九人に対し、三振一、内野ゴロ二、内野フライ六とバッターが打ち上げることが多かったですね。

 前のシーズンでスライダーを封印したことによる嬉しい副作用だね。スピードはあまり変わってなかったけど、キレは確実にアップしてた。それまで内野フライが多かったという記憶はなかったからね。

 ‐二巡目はチェンジアップを効果的に織り交ぜて三振七、内野ゴロ二。三振が飛躍的に増えました。

 ストレートで追い込んでチェンジアップ。これが見事に決まった。ストレートかスライダーがくると思っている時に遅くて落差のあるチェンジアップに面白いようにバットは空を切った。バッターの意表をつかれた顔を見るのは痛快だった。

 ‐二巡目を終えて感触はどうだったんですか?

 いけるんじゃないかという感触はあったね。ドルフィンズ自体調子がよくなくて、一番怖いバッターの松原は前の試合の怪我の影響なのかスタメンから外れていた。それに対してこっちは絶好調。どの球も調子がよくて何度もゾーン、女神と繋がることができていた。決めるならこの試合だ。そう思って疑わなかった。

 ‐そうして三巡目。ついに伝家の宝刀スライダーが解禁されましたが、スライダーの調子はどうだったんですか?

 よかった。というかよすぎた。あまりによくて左バッターに当てないようにだけ気をつけてた。

 ‐三巡目のバッターに対してはほぼスライダーで右バッターの腰が引けたスイングが多く見られました。

 右バッターの腰が引けたスイングを見るのが、スライダー使いの醍醐味だね。さっきも言ったけど右バッターにはファーボール、左バッターにはデッドボールだけ気を付けてた。打たれるとは少しも疑わなかった。

 ‐八者連続三振でパーフェクト・ゲームまで後一人。ここで代打として、さきほど話題にあがった松原選手がコールされます。松原選手がコールされた時はどんな気持ちだったんですか?

 やっぱり来たかと。試合前の情報だと出れないんじゃないかっていう話だったけど、やっぱりでてきたね。ホームラン打った時のベースランニングを見ると、足の状態はかなり悪かったみたいだから、例え負けていたとしても一本でもヒットがでてたら出てこなかったんじゃないかな。

 ‐松原選手の意地でしょうか?

 だろうね。

 ‐ここからは一球ずつ振り返ってもらいましょう。初球は外角へのストレート。少し外れてボール。やや抜いていたように見えますが、これは狙い通りだったんですか?

 そうだね、まずは様子見。

 ‐二球目はインコースへのストレート。厳しいコースに決まってワンストライクワンボール。松原選手は全く反応しませんでしたが、これは嫌だったんじゃないですか?

 嫌だったね。他のバッターなら厳しくて手がでなかったで片付けるところだけど、目下ホームランランキング一位を独走する松原だからね。余裕を持って見逃しているんだと思って、恐かった。球数も百球に近づいて疲れもピークに達しようとする中で迎えるにはきつい相手だ。この試合で初めて打たれることが頭をよぎった。

 ‐いつものように四番に座ってくれていた方がよかったですか?

 それは難しい質問だ。余力を残した状態で三回対決するのがいいのか、ない状態で一回対決するのがいいのか。確実に言えるのは最後の最後に難敵が残っていたということ。

 ‐三球目。この試合初めてサインに二回首を振って投げたのはアウトコースのストレート。橋本選手のサインは何だったですか?

 最初は外角へのスライダー、次が内角へのスライダー。そのどちらのサインも私は首を振った。

 ‐それは何故ですか?

 スライダーを見せたくなかったからね。いくら分かっていても打てないと言ったって相手が相手だし、百球近く投げればキレも落ちる。最後の勝負球はスライダーになると思っていたから、その勝負の時まで温存したかった。

 ‐橋本選手は何でスライダーのサインを二回も出したんだと思いますか?

 同じ球を続けるのが恐かったんだろう。相手が振りにきてくれたら、その反応を見て同じ球を続けることもできたかもしれない。けど全く反応してくれなかったからね。でも、あそこは危険を冒さなくちゃいけない場面だった。スライダーを投げれば追い込めたかもしれないが、追い込んでから投げる球がなくなってしまう。

 ‐結果はあわやホームランかというレフトスタンドへのファールでした。打たれた直後はどう思ったんですか?

 やられたと思った。完璧に捉えられていたから、ボールの行方を確認する気にもならなかった。橋本のサイン通りにスライダーを、自分が一番自信を持っている球を投げとけばよかったと思った。スタンドから安堵の歓声が聞こえてきたので、レフトの審判を見てみた。ファウルのジャスチャーをしていて助かったと思った。まだツキはこちらにあると。

 ‐何がファウルにさせたと思いますか?

 一球目のちょっと抜いたストレートが効いていたんだと思う。あれのおかげで振り遅れてファウルになったんだと思う。

 ‐なるほど。追い込んでからの四球目。投げた球はサインが一発で決まったチェンジアップでしたが、松原選手は見送ります。

 私も橋本も振ってくれたら儲けものぐらいの気持ちだったから、見送られてもそれほど嫌な気持ちはなかった。だけど、本当にいいバッターに、球界を代表するようなバッターになったなと思ったよ。相手の大記録がかったバッターボックス。もしストライクだったらゲームセットで記録達成。その場面でストライクゾーンからボールになるチェンジアップを悠然と見送るんだから。

 ‐その前のシーズンまではそこまでのバッターだとは思っていなかった?

 正直ね。いいバッターだとは思っていたけど、ここまで脅威に思うようになるとは想像だにしなかった。

 ‐ツーストライクツーボールから投げた五球目。投げたのはど真ん中へのスローボール。これがラストボールとなったわけですが、この時何を思って、どうしてそのボールを選択したんですか?

 あと一球。あと一球でパーフェクト・ゲーム達成。その時になって初めて、あの人から話を聞いて、猛練習して、この試合で達成すると決めた試合に登板してあと一球というところまできて、初めてその後のことを考えた。

 今までパーフェクト・ゲームを達成して少女を救うことだけに集中してきた。達成した後のことは全く考えてこなかった。手の届く位置まできて、考えて、そして恐くなった。

 ‐恐くなった?

 ああ。私はプロノタマ選手になって、人々の注目と喝采を浴びることが当たり前になっていた。私が私である限り、そうあり続けるものだと思っていた。まるで当然の権利のように。でも、よく考えてみればそれは当たり前ではなかった。ノタマがあるから注目と喝采をあびることができる。じゃあ、ノタマがなかったら?誰からも注目を浴びず。承認もされない。そんな状態に戻るのは、嫌だった。

 ‐それでと真ん中のスローボールを投げた?

 あれは明確な意志のもとに投げられたボールじゃなかった。橋本のサインはスライダーだった。でもあの時の私は混乱していた。パーフェクト・ゲームを達成して少女を救いたいという気持ちとノタマがなくなって前の状態になるのは嫌だという気持ちがせめぎあっていた。そんな状態のまま投球動作へと入り、何の変哲もないスローボールになった。ということは、少女を救うことより、ノタマがなくなることを嫌がる気持ちの方が強かったんだろう。

 ‐松原選手はその球を見事ホームランにしました。

 見事、としか言いようがないね。

 ‐その後、ヒット、ホームランを打たれ、一対三でサヨナラ負けでした。

 ホームランを打たれた後のことはよく覚えていないんだ。何を投げたのかも分からない。

 ‐その後、アナタは一度も勝ち星をあげるこくなく、二年後に引退します。

 あの試合の後、ある少女が頭の中に常に浮かぶようになった。朝も昼も夜も。そして夢の中にさえも。少女は何も言わず、私のことをじっと見るんだ。私は少女から逃れるために合法、非合法を問わず色んなことを試した。強い刺激を与えれば、その一瞬は逃れることができる。でもその刺激が去ったら、その少女はまた現れる。

 私が今まで積み上げてきたものを失うのに、そう長い時間はかからなかった。

 ‐その少女は今も?

 ああ。多分死ぬまで消えはしないんだろう。

 これが私の、弱い男が辿った軌跡の全てさ。

 ‐本日はありがとうございました。


 以上が『川原のラストボール‐今、明かされる衝撃の真実‐』という名で出版されようとしていた本の内容になります。ハイ、出版社には未来永劫、この本が日の目を見ないように圧力をかけておきました。記者には消えてもらい、川原には余計なことは言うなと脅しています。

 女神の怒りは大丈夫かって?女神に愛された元プロノタマ選手はともかく、どこの馬の骨ともしれない記者が一人消えたところで女神も怒ったりしないでしょう。

 はい、報酬はいつもの口座に。今後もよろしくお願いします、松原コミッショナー。


 「ボール!ああっっと、ピッチャー山崎、ストレートのファーボール。解説の野田さん。いかがですが、今のピッチングは?」

 「いやー、一番やっていけないことをしてしまいましたね。七対一と点差があるんですよ?打たれてもいいから勝負にいくべきなんですよ。ランナー一、二塁でホームラン打たれたって六対四でまだリードしてるんですから。これで満塁でバッター清井君ですからね。一番迎えたくないバッターですよ」

 「ここで選手がマウンドに集まり、ピッチングコーチもベンチから出てきました。どうするかの確認だと思いますが、どうすると思いますか?」

 「そうですね。山崎君にとってはとても厳しい状況ですからね。ホームランを打たれたらサヨナラ。ファーボールは一回まで。今日の山崎君の調子で今の清井君を打ち取るのは難しいと思うので、ファーボールでもいいと割り切って厳しいところ攻めていくしかないんじゃないですかね?」

 「ファーボールも一回までならいいと」

 「そうですね。イエローカード一枚もらうのはしょうがない。レッドカードじゃなきゃいいと割り切るしかないと思います」

 「さあて、マウンドに集まっていた選手が守備位置に戻っていきます。ピッチャー山崎、セットポジションから一球目、投げた!バッター清井、これをフルスイング!快音残してボールが伸びる!伸びる!ぐんぐんと伸びていき―――」

 「初球ストレートはないやろ……」

 「入った!ホームラン!見事バックスクリーンへと飛び込んでいきました。逆転満塁ホームラン!」


 「ノタマ・パークにお集まりの皆さん。大変お待たせ致しました。今日のヒーローはもちろんこの人。見事逆転満塁ホームランを打ちました、清井選手です」

 「ありがとうございます」

 清井が帽子を取ってスタンドへ挨拶すると大きな歓声が湧きおこる。

 「清井選手、ではまずお立ち台にあがった感想からお願いします」

 「ノタマ・パークの中心でファンの皆さんの歓声を一身に集める。こんなに満ち足りた気持ちになることが他にあるだろうか、いやあるわけがない。最高でーす!」

 「首位ドルフィンズへの挑戦権をかけた二位パイレーツ対三位オーシャンズとの直接対決。パイレーツの二連勝で迎えた本日の試合だったわけですが、どんな気持ちで本日の試合に望まれたんですか?」

 「三連勝することでようやくドルフィンズの背中が見えてくる。そんな中で一戦目、二戦目に同期の今田、東野が素晴らしいピッチングをしてくれたんで、この試合を絶体に落とすことができないと強い気持ちをもって臨みました」

 「試合は初回に三点を取られ、三回に二点、六回、七回に一点ずつと苦しい展開だったわけですが、どんな気持ちで守られていたんですか?」

 「とにかく、一球一球集中すれば必ずチャンスはくると思っていました」

 「そうして迎えた最終回。ツーアウトながら満塁で清井選手に打順が回ってきます」

 「みんなが繋いでくれたんで、絶体にものにしてみせると思ってバッターボックスに入りました」

 「なるほど。初球を見事ホームランにされましたが、これは初球からいこうと狙っていたんですか?」

 「狙っていました。井口さんにファーボールで、山崎さんは調子が悪そうだったので。絶体ストライクが欲しいはずだと思って、それを狙っていました」

 「これで首位ドルフィンズとは二.五ゲーム差。ドルフィンズと言えばクイーン・プレイの中本選手。清井選手と中本選手の対決を楽しみにしているファンも多いと思いますが、中本選手について一言お願いします」

 「打ちます!」

 「ああっ、と、勝利宣言が飛び出しました」

 「ここにいるファンの皆さんに誓います。クイーン・プレイを必ずホームランにしてみせます」


 「必ずホームランにしてみせる、か」一緒にスポーツニュースを見ていた梨田さんがテレビを消す。「すごい自信だな」

  「今の彼の成績なら過信とも言えませんけどね」

 清井選手は打率、打点、ホームラン、安打数、出塁率と主要なバッターランキングで全てトップに立っており、大きな怪我がなければ最年少での三冠王は確実と言われていた。

 「おいおい、随分弱気じゃないか。五試合連続完封勝利中の中本ともあろう者が」

 迷っていた。彼女からあの話を聞いてからずっと―――。

 僕には三つの道があった。一つ、パーフェクト・ゲームを達成して彼女を解放する。一つ、彼女の苦痛や嘆きを無視して今まで通りクイーン・プレイを投げ続ける。一つ、彼女の苦痛を最低限にするためにクイーン・プレイは投げない。つまり、前の僕で勝負する。

 分からなかった。僕はどの道を選ぶべきなんだろうか?

 「おい、中本!」

 「えっ、何の話でしたっけ?」

 「おいおい、しっかりしてくれよ」

 「―――すいません」

 「まっ、いいよ。このままいけばお前が清井のいるパイレーツと対戦するのは次の次の登板だな」

 「順調にいけばそうなりますね」

 「次の試合で連続完封勝利の新記録を達成してそのままの勢いで打倒清井といこうぜ」

 「そう、ですね」

 「俺は部屋に戻るけど、お前はどうする?」

 「あっ、僕はもうちょっとここにいます」

 「じゃあ、電話消すの忘れないようにな。寮長のオヤジがうっせーから」

 「分かっています」

 「じゃあ、おやすみ」

 「おやすみなさい」

 休憩室に一人になる。

 ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出す。母親の電話番号を表示させる。今まで何度もかけようと思ったが、できなかった。どうせ冷たくあしらわれるだけだと思っていたから。

 でも今なら。この前は母さんからかけてきてくれたし、今の僕なら大丈夫なんじゃないだろうか。淡い期待を込めて画面をタップする。

 「あら、翔人じゃない。どうしたの?」

 母さんが僕の名前を呼ぶ。ずっと僕のことを”アレ”と呼ぶことしかしなかった母さんが”翔人”と僕の名を呼ぶ。

 「いや、ちょっと声聞きたくなって」

 「嬉しいこと言ってくれるじゃない。茜ちゃんのお父さんに聞いたんだけど、今五試合連続完封中で、次の試合も完封したらプロノタマ新記録なんだって」

 「あっ、うん」

 「いやー、息子が新記録達成なんて母さんも鼻が高いわ」

 「で、でも達成できると決まったわけでは―――」

 「町内会で自慢できるから絶体に達成してよね」

 「う、うん」絶体の二文字が頭の中で鳴り響く。「もうそろそろ寝なくちゃいけないから」

 「町内会のみんなで試合見るから、アタシに恥かかせないでよ!」

 「う、うん。頑張るよ。じゃあ、また」

 母さんの言葉に比べて僕の言葉はひどく弱々しかった。

 母さんに僕の言葉は聞こえていたんだろうか?届いていたんだろうか?いや、届いていなかっただろう。母さんは僕の言うことなんか聞かずに自分の言いたいことを一方的に言っていただけだ。

 それでも、それでも僕は”アレ”と呼ばれた日々に戻るのは嫌だ!


 ゾーン―――今まで僕はそれをピッチャーの目指すべき精神状態だと思っていた。集中力が極限まで高まり、女神を感じられる状態こそがピッチャーとしてあるべき姿だと。だから、クイーン・プレイを投げる時、常にゾーンに入れるようになると、僕は今まで誰も達したことのない境地まで辿り着いたんだと思った。どんな偉大なピッチャーでもゾーンに入れるのは一試合に二、三回しかないと聞いていたから。でもゾーンの裏には犠牲があった。ある少女の犠牲が。

 「プレイボール!」

 審判が試合開始を告げる。息を一つ吐く。ゆっくりと足をあげ、いつも通りのクイーン・プレイの投球フォームに入る。僕は決めた。今まで通りの投球を、クイーン・プレイを投げ続けると。

 少女には悪いけど、僕には少女を救えない。少女のためにしてあげられることは何もない。僕は僕であるために、プロノタマ選手としてクイーン・プレイを投げ続ける。

 左足を踏み出し、手首を固定したまま、三本の指で弾くように押し出す。瞬間、いつもと同じように少女のイメージが脳裏に浮かぶ。体は恍惚感に包まれる。が、小さな異物が浮かびあがってきて混ざり合う。小さな、でもしっかりと感じる違和感。

 「ストライク!」

 クイーン・プレイはいつも通り不規則な軌道を描いた。

 異物の原因は分からなかった。投球を重ねるたびに異物は大きくなっていき、五回になるとはっきりと認識できるようになっていた。投げる度にあの映像が、兄妹の悲しいシーンが同時に浮かび上がるようになる。それに呼応するかのようにクイーン・プレイの変化は緩やかになっていき、迎えた六回。クイーン・プレイは全く変化しなくなっていた。

 イニングの始まり。審判からボールを受け取ってマウンドに立つ。クイーン・プレイを投げている限りは試合中に疲労を感じることはなかったが、今はまとわりつくような疲労感に苛まれていた。

 息を大きく吐き、気合を入れ直して投球練習を始める。投球練習を終え、バッターがバッターボックスに入る。一球目。足をゆっくりと上げ、ボールを押し出す。脳裏には兄妹だけが浮かんできた。クイーン・プレイのつもりで投げたボールは揺れも変化もすることなく、そのままキャッチャーミットに収まった。バッター、キャッチャー、審判、観客が驚き、その誰よりも僕が驚いていた。揺れも曲がりもしなかったことよりも、少女のイメージが全く浮かんでこなかったことを。

 動揺を抑えることができないまま、次のバッターを迎える。前のバッターに投げた球と同じ、何の変哲もないスローボールがピンポン球のようにレフトスタンドに飛んでいった。歓声と悲鳴が交錯する中、ボールの軌跡を呆然と見つめていた。

 歓声の中を一塁ランナーがホームベースを踏み、続いてバッターランナーがホームベースを踏む。四対二になった。連続完封記録が途切れた。色んなことが頭をよぎったが、何よりも頭を支配したのは、女神に見放されたんじゃないかということだった。

 唇をなめ、必死に自分に言い聞かせる。そんなわけないと。

 「た、タイム!」

 梨田さんがマウンドに駆け寄ってくる。

 「お、おい。どうしたんだよ、一体!さっきの球は何だ?全く変化しなかったじゃないか」

 聞きたいのはこっちの方だった。が、もちろんそんなことを言うわけにはいかず、必死に言い訳を考える。

 「すいません。ちょっと爪の調子が悪いみたいで、クイーン・プレイを投げるのは無理っぽいです」

 「本当か?どうする、監督に言って交代してもらうか?」

 「いえ、リリーフの人も準備していないと思いますし、クイーン・プレイなしでいけるところまでいきたいと思います」

 「―――分かった。じゃあ、サインは今まで通りな」

 「お願いします」

 その後、ランナーを二人出したもののなんとか無失点で乗り切り、六回で降板した。試合はそのまま四対二で勝ったものの、この試合で失ったものはあまりに大きかった。


 『翔人!アンタ、今日のピッチングは何なのよ!』

 留守電には母さんの怒りに満ちた声が残されていた。

 『褒められると思って、町内会のみんなと一緒にアンタの試合見てたのに、とんだ恥かいちゃったじゃないの』

 爪の怪我の影響でクイーン・プレイを投げられなくなったと報道されていたにもかかわらず、怪我を心配する言葉は一つもなかった。まあ、分かっていたことだけどね。渇いた笑いがもれる。

 『次の試合はアタシに恥かかせないようにしっかり抑えなさいよ』

 褒められると思って、恥かいちゃった、恥かかさないように。アタシ、アタシ、アタシ、アタシ。母さんの言葉には自分のことしか投影されていなかった。

 スマホをベッドに放り投げて意識を切り替える。

 次の登板予定は清井選手がいるパイレーツ戦が予定されていた。このままいけば首位攻防戦となる大事な試合。

 クイーン・プレイなしで清井選手がどっしりと四番に座るパイレーツ打線を抑えられないことははっきりと分かっていた。だからこそ、次の試合までにクイーン・プレイを投げられるようになっていなければならない。

 テレビのリモコンを手に取って、一か月前の試合の、クイーン・プレイが曲がっていた試合のフォームを確認する。足をゆっくりと上げ、手首を固定したままボールを押し出すように投げている。

 次に今日の試合。クイーン・プレイが揺れも曲がりもしなかった試合のフォームを確認する。曲がっていた時と全く同じフォームだった。

 何で今まで揺れて不規則に曲がるのか分かっていなかったために、曲がらなくなった時にどうすればいいのか全く分からなかった。考えれば考えるほど、ある一つの仮定に辿り着く。ピッチャーに対しての死刑宣告である『女神に見放された』ということに。普通の変化球は今まで通り曲がったが、クイーン・プレイのない僕は並のピッチャーでしかない。そして並のピッチャーが居続けられる世界じゃない。

 ベッドへと倒れ込む。ピッチャーとして全力を尽くそうとしないから愛想つかされちゃったのかな。でも、もし全力を尽くした結果、パーフェクト・ゲームを達成してしまったら。

 クイーン・プレイが投げられないなら、クイーン・プレイなしでやるしかない。


 パイレーツとの首位攻防戦。三連戦の前には二.五ゲーム差があったが、パイレーツの強力打線の前に二連敗を喫していた。このゲームに敗れたら首位陥落とあって、ドルフィンズのベンチはピリピリとした雰囲気に包まれていた。試合前、バックスクリーン前で行われる投手陣のストレッチも例外じゃなく、いつもは誰かが軽口を叩いてどこからともなく笑いが漏れる中でストレッチが行われていたが、この日は誰もが黙ってストレッチを行っていた。

 いつも通り輪から少し外れたところでストレッチを行っていると、パイレーツのベンチからこちらに近づいてくる人影があった。気になって目をこらしてみると、前の二試合で三ホームラン、一二打点と大活躍の清井だった。一直線にこちらへと近づいてくる。

 「どうも、今日はよろしくお願いします」

 帽子を取って挨拶してくる。慌てて立ち上がって「こ、こちらこそよろしく」と挨拶を返す。

 「この前の試合は残念でしたね。連続完封記録が途切れちゃって」

 「ま、まあね」

 清井と話すのはこれが初めてだったけど、ズカズカと踏み込んでくる。

 「出来ることなら俺の手で連続完封記録を途切らせたかったんですけど、まあ怪我でクイーン・プレイが投げられなかったのならしょうがないですよね。クイーン・プレイのない中本さんは大したピッチャーじゃないですし」

 腹を立てるよりも羨ましかった。自分の能力を信じて疑うことのないその自信が。ちょっと前までは僕にもあり、今はなくしてしまったものを彼は持っていた。

 「で、もちろん今日は投げてくれるんですよね、クイーン・プレイ」

 もちろん、と胸を張って言えたらどんなによかっただろう。

 「いや、爪の調子がよくなくて、投げないよ」

 いくら取り繕ったところで試合になればすぐ分かることなので、正直に答える。爪の調子がよくないというのは嘘だったが。

 「そうですか」がっかりした声。「じゃあ、三連勝決定ですね」

 その言葉に後ろで聞いていた他の投手陣が殺気立つ。

 「あんまり僕をなめない方がいいよ」

 このままじゃいけない、と精一杯の強がりを口にする。が、「大丈夫ですよ」とさらりと受け流される。彼には全て見透かされているかのようだった。

 「言ったことには責任を持ちます。クイーン・プレイのないアナタに俺を抑えることはできません。試合でそれを証明してみせますよ。じゃあ、試合で」

 試合の前に既に負けていた。何も言い返すことができずに小さくなっていく背中を見つめることしたできなかった。


 「ああ、クイーン・プレイは投げられないだと!」

 試合開始前。梨田さんとのミーディングでクイーン・プレイが投げられないことを告げると、悲鳴に近い叫びが返ってきた。

 「お前、この試合に負けると首位陥落なんだぞ。分かっているのか!」

 「分かっています。でも投げられないんです」

 「ああ、もう」盛大に頭を掻きむしる。「投げられないのは分かったけど、どうすんだよ。正直、今の清井は手つけられないぞ」

 「清井とは勝負しません」

 「勝負しないって……お前、まさか」

 梨田さんの問いかけに大きく頷く。

 「そんなことしたら、お前の評価は―――」

 「いいんです。今の僕がチームのためにできることはそれしかありませんから」

 そう。今僕が持っている武器でチームのために勝ちを掴もうと思ったら、この方法しかない。

 「念のためにもう一度確認しとくぞ。今日、お前は避けられる状況なら清井とは勝負しない。それでいいんだな?」

 「ハイ」

 今の僕に清井は抑えられない。それは認めよう。でも打たせはしない。絶体に―――。


 ドルフィンズ先攻で試合が始まった。松井さん、大友さんが三振に倒れたものの、田辺さんにホームランが飛び出して幸先よく先制する。その後の村田さんはセンターフライに倒れ、一対〇で攻撃を終える。

 ベンチからゆっくりとマウンドに向かう。

 「中本ーーー、今日はクイーン・プレイを投げるんだろうなー」

 「清井との勝負期待してるぞー」

 投球練習を終える時には期待を込めた声援はファンからは失望、相手ファンからは嘲笑へと変わっていた。

 「中本ー!クイーン・プレイ投げろよ!じゃないと、抑えられないぞ!」

 「中本ちゃーん、そんな球じゃうちの打線は抑えられないよ」

 投球練習を終え、大きく息を吐く。頭の中で今日の投球プランを確認する。パイレーツの打線は清井の存在を中心に組み立てられている。いかにランナーをためて清井に回すかを考えて打線を組んでいるため、清井以外にホームランを打てる選手はあまりおらず、ホームラン以外では点が入ることのないノタマでは清井を抑えることができれば点を取られる可能性がぐっと低くなる。そして、方法を選ばれなければ清井に打たれないことは難しくない。

 必要なのは覚悟だけた。その方法をとることによって必ず起きるであろう結果を受け入れる覚悟。その覚悟は、できている!

 「プレイボール!」

 試合開始の合図。なら後は実行するだけだ。

 

 初回。パイレーツの一番バッター、石井さんがバッターボックスに入る。サードの村田さんにセーフティバントを警戒するように声をかける。村田さんがグラブをあげて応え、三歩守備位置を前にとる。初球。縦に大きく割れるスローカーブ。石井さんが少し驚いた顔を見せる。ワンストライク。この試合のために慌てて練習した球だったが、ストライクが入ってほっとする。三振を取れるような球ではなかったが、目先を変えるのには役に立つだろう。二球目。アウトコースのストレート。一球目との球速差に戸惑ったのかやや振り遅れてボテボテのゴロがセカンドに飛ぶ。辻さんが軽快にゴロをさばく。ワンアウト。

 最初のバッターを打ち取ることができて、ほっと胸を撫で下ろす。

 二番、春さんが右バッターボックスに入る。初球アウトコースへのストレート。見逃してワンストライク。二球目。同じくアウトコースへのストレート。打って打球がバックネット裏のフェンスを叩く。ファウルでツーストライク。三球目。ストライクゾーンからボールゾーンへ逃げていくスライダー。バットは空を切って三振。ツーアウト。

 三番、鈴木さんが左バッターボックスに入る。初球。アウトコースへのストレート。少し外れてボール。二球目。大きく割れるスローカーブ。待ち構えていたかのようにピタリとタイミングをあわせて掬い上げる。鋭い打球がセンターへと抜けていった。ツーアウト一塁。

 『四番ファースト清井。背番号三』

 清井の名前がアナウンスされると、スタジアムから一際大きな歓声があがる。

 「清井、頼むぞー」

 「一発かっとばしてくれー」

 その歓声は清井がバッターボックスに入ると同時に梨田さんが立ち上がったことでブーイングへ変わった。

 「おいおいおいおい、初球から敬遠かよ」

 「中本ー、勝負しろよ!」

 流石に敬遠されるとは思っていなかったのか憮然とした表情を見せる。清井の表情にもブーイングにも構うことなく、立っていた梨田さんに対して四球投げる。ファーボールでツーアウト一、二塁。レガースを外し、一塁へと向かう清井が睨んでくる。すぐ視線を外して意識を次のバッターへと切り替える。

 五番の駒田さんが怒りの表情で左バッターボックスに入る。初球インコースへのスライダー。ワンストライク。二球目。同じくインコースへのスライダー。鈍い音と共に勢いのないフライがライトへと上がる。駒田さんがバットを地面へと叩きつけてバットが真っ二つに裂ける。ライトの熊代さんと捕ってスリーアウト、チェンジ。

 ランナーを二人出したものの何とか無失点で初回を切り抜ける。ただ初回から清井を敬遠したことによって殺伐とした雰囲気の中、試合は進行していった。

 一対〇のまま迎えた三回。先頭バッターの九番三浦さんをショートゴロに打ち取ったものの、石井さん、春さんに連打を許し、ワンアウト一、二塁。三番鈴木さんはホームベースから大きく離れた位置に立つ。どう頑張ってもアウトコースにはバットは届きそうにない。初球アウトコースへのストレート。鈴木さんは全く打つ素振りを見せずにワンストライク。二球目、三球目もアウトコースの球に対してピクリとも反応せず三振に倒れる。ツーアウト一、二塁で迎えるバッターは四番の清井。

 清井がバッターボックスに入ると再び梨田さんが立ち上がる。スタジアムが怒号に包まれる。

 「中本ー!お前いい加減にしろよ!」

 「逃げてばっかで女神様に恥ずかしいと思わないのかよ!」

 一球ごとにあらんかぎりの罵詈雑言がぶつけられる。唇をなめ、気にするなと自分に言い聞かせる。彼らはブーイングすることしかできない。僕がそれを気にしなければ、彼らは僕に何の影響も及ぼすことはできない。

 四球ボールを投げてファーボールが宣告されると、味方、敵問わずスタジアムにいる全てのファンがしているかのような大ブーイングが響き渡った。清井はファーボールが宣告されても構えたままじっとこちらを睨んでいる。見つめ返し、グローブで一塁を指し示す。それでも歩き出そうとしなかったが、審判に促されて渋々と一塁に歩き出す。

 ワンアウト満塁で五番の駒田さん。初球、インコースへのストレート。やや甘くなった球を真芯でとらえる。快音と共に鋭い打球がファーストの正面に飛ぶ。山川さんが捕球し、そのままファーストベースにつく。一塁ランナーの清井は戻ることが出来ずにアウト。

 安堵の吐息をマウンドに残して急いでベンチへと戻る。スタンド全体から敵意が向けられているマウンドには一秒たりともいたくはなかった。ベンチに座り、タオルで汗を拭っていると「中本」と珍しく監督自ら声をかけられた。

 「何ですか?」

 タオルを脇に置いて監督と向き合う。

 「今日の試合、清井との勝負は徹底的に避けるつもりか?」

 「そのつもりです」

 「だったら、この試合が終わった時、ワシは決断しなければならなくなる。結果に関わらず、な。分かっているのか?」

 「覚悟の上です」

 「―――そうか。なら、いい」

 そう言い残して監督はいつもの場所へと戻っていった。


 この回を投げ切れば勝利投手の権利を手にすることのできる五回。試合は前の回に山川さんのツーランホームランが飛び出してリードは三点に広がっていた。

 五回は三回のリプレイが繰り広げられた。三浦さんを打ち取り、石井さん、波留さんに連打され、ワンアウト一、二塁で三番鈴木さんを迎える。三回と違って鈴木さんは打つ気満々だった。

 セットポジションから一打席目に打たれたスローカーブを投げる。裏をかいたつもりだったが、読まれていたのか、それとも何か癖でもあるのか完璧に打ち返された。打球がライト熊代さんの頭上をこえてフェンスを直撃し、スタジアム全体から割れんばかりの歓声が湧きおこる。

 「中本ー、ざまあみろー!」

 「女神様はお怒りだぞ!」

 「さっさと打たれちまえ!」

 着ているユニフォームに関係なく、誰もが僕へのブーイングを口にする。覚悟していたこととはいえ、味方ファンからブーイングし続けられるこの状況はこたえるものがあった。

 ワンアウト満塁。敬遠が許されない状況で清井を迎える。何とか落ち着こうと深呼吸を繰り返すも、清井の姿を見ると鼓動は高鳴るばかりだった。

 ゆっくりとバッターボックスに入り、バットでバックスクリーンを差す。ホームラン宣言だった。スタジアムのボルテージは最高潮に達する。

 「そうだ、清井。逃げてばかりの卑怯者に正義の鉄槌を下してやれ」

 勝負を避け続ける卑怯な悪者をこらしめるために正義の使者が登場か。

 頭の中で清井との勝負をイメージする。ストレート、特別に早くもキレがよいわけでもないボールは何の苦もなくスタンドまで運ばれるだろう。カーブも、スローカーブも、スライダーも、フォークも。頭の中で投じた球はいづれも完璧に捉えられてスタンドへと運ばれていった。

 どの球を投げても打たれるイメージしか湧かず、投げる球がなかった。

 唇をなめ、大きく息を吐く。投げる球がなくても何かを投げるしかないのだから運を女神に任せて投げるしかない。梨田さんのサインは外角のスライダー。

 ホームランを打たれるか、打たれないか。それが全てなので、ランナーがいても構わずに大きく振りかぶる。足をあげ、踏み込み、腕を思いっきり振ろうとした瞬間、清井の姿が目に入り―――圧倒されていた。その存在の全てに。彼がゾーンに入っていたのか、それは分からない。今までの打席とは全く違う雰囲気。彼は本物だった。今まで対戦したどのバッターよりも、本物だった。

 避けることのできない未来に必死に抗うかのようにフォームが乱れる。ばらばらのフォームから投じられてボールはホームベースのはるか手前でバウンドしてキャッチャーミットの土手を叩いた。梨田さんがボールを拾いあげて審判にボールの交換を要求する。梨田さんがボールボーイにボールを投げ、審判からボールを受け取る。

 気付けば、肩で息をしていた。本気の清井に対して、一球投げただけで消耗は甚大だった。ボールをじっと見つめる。勝負にいくしかない。でも勝負にいくのが恐い。

 審判の「プレイ!」の合図。サインを確認する。スライダーのサイン。首を振る。カーブ。首を振る。スローカーブ。首を振る。フォーク。首を振る。最後にストレート。それにも首を振る。梨田さんがお手上げだと手を横に広げる。投球動作に入る素振りを見せずにサインを確認する振りを続ける。

 「ターイム!」

 審判が頭の上で手を交錯させてホームベースの前に立つ。胸ポケットに手を伸ばし、イエローカードを取り出して提示する。遅延行為。イエローカードあと一枚で退場。退場すれば清井に投げなくてもいい―――。

 溺れ、もがく僕に対して一つのアイデアが提示された。冷静になって考えればとんでもないアイデアだったが、その時の僕にはこの状況から抜け出すことのできる唯一にして素晴らしいアイデアに思え、その考えに支配されていった。

 二球目。振りかぶり、踏み込んで腕を思いっきり振る。清井へとボールをぶつけるために。ボールは意図通り清井の背中を直撃した。清井がグラウンドに倒れ込む。審判が赤い紙、レッドカードを取り出して提示する。

 レッドカード。十日間の出場停止。それから後のことはよく憶えていなかった。


 試合終了から二時間が経過したロッカールームは閑散としていた。試合は三対〇でドルフィンズが勝利した。デッドボールの影響もあったのか清井はノーヒットだった。

 椅子に力なく腰かける。試合後監督室に呼ばれ、十日間の出場停止の後、二軍落ちが命じられた。再びクイーン・プレイを投げられるようになったら一軍に呼び戻すと。

 再び投げられるようになったら、か。投げられるようになるのかな?もう弱気な考えしか浮かんでこなかった。

 だらだらと着替えを始める。


 最初、何が起きたのか分からなかった。ノタマ・スタジアの出入り口からでて、警備員に挨拶した次の瞬間、顔に衝撃を感じた。慌てて顔を触り、水をかけられたと分かる。

 「抑えられないからってデッドボールなんか与えやがって。この卑怯者が!」

 怒りを含んだ声が聞こえる。声がした方を見ると、ドルフィンズの背番号二八、僕のユニフォームを着た人の背中が小さくなっていく。

 顔を手で拭って水を払う。その時、警備員が僕を見ていることに気付く。水をかけた人物を追うでもなく、心配して声をかけてくるでもない。ただじっと僕を見つめていた。さけずむような目で。今日のようなピッチングをするようなヤツに守る価値なんてないとでも言いたいんだろうか?

 一礼して歩き出す。

 価値のない人間。そこら辺に転がっている石ころと同じ。足元に転がっていた石ころを軽く蹴飛ばす。プロノタマ選手になってダイヤモンドになったつもりでいたけど、石ころは所詮石ころってことか。クソが!石ころを力一杯強く蹴り飛ばす。石ころが勢いよく転がっていき、誰かの足に当たって止まる。スノーだった。スノーは目を細めてじっと見つめている。

 「水も滴るただの負け犬ってとこかしら」

 気まずさから顔を伏せ、早々に立ち去ることにする。横に並んだ時、彼女が再び口を開く。

 「それがアナタの答えってわけ。クイーンプレイを投げるのをやめることが」

 足が止まる。

 「アナタがクイーン・プレイを投げるのをやめたからといって彼女の苦痛が消えてなくわけじゃない。ノタマがある限り彼女は苦しみ続ける」

 唇をかみしめる。

 「その現実を知って、その現実を変えるだけの力を持ちながら、自己満足のためだけの優しさを見せるのがアナタの答え?」

 「一つ、いいかな?」

 彼女の顔を見ないまま問いかける。

 「何?」

 「何で君は彼女のために戦っているの?知らない振りをして生活していくことだってできたはずなのに、なのに何で?」

 「自己正当化?」

 「いや、純粋に何でかなって思って……」

 大きなため息。

 「選択の余地なんかなかった。アタシにはそうせざるえなかったから」

 「そう、せざるえなかった?」

 「そう。あの事実を、多くの人が熱狂するプロノタマの裏である少女が犠牲になっているという事実を知った時、もうアタシはその事実を知る前のアタシではいられなくなった。もう無邪気にノタマに対して喝采を送ることはできない。ノタマを見る度に少女の苦しんでいる姿が思い浮かぶようになったから。目を向けようと目を背けようと少女が苦しみ続けているという事実がアタシの中から消えることはない。だったら、目を向けて戦うだけ」

 目を向けようと、目を背けようと消えることはない、か。

 「アナタも目を向けて戦ってくれるようになることを祈ってるわ」

 彼女は去っていた。彼女がいなくなっても、彼女の言葉は頭の中で鳴り響き続けた。


 寮の自室に戻り、スマホを確認する。留守電が二件。一件目。

 『―――アンタに期待した私が馬鹿だった。石は所詮石だったわけね。もう二度と電話してこないでね。石の母親だなんて思い出したくないから。それじゃ』

 恐れていたことのはずだったのに、不思議と心は落ち着いていた。次の留守電を確認する。

 『あっ、翔。今日の試合は残念だったね。上手くいかないこともあるよ。しっかり怪我治して次の試合頑張っていこ。じゃあ、今日はゆっくり休んでね。それじゃあ』

 スマホを置いてベッドに倒れ込む。手を灯りにかざしてじっと眺める。

 茜は言った。『僕にならできる』と。

 この手で、僕には何が、ダイヤモンドと勘違いしていた石ころに何ができるんだろう?何をすべきなんだろう?脳裏に銀髪の少女が浮かぶ。

 『アナタが現実と向き合って戦ってくれることを期待してるわ』

 僕は何と戦うべきなんだろうか?


 次の日、薄汚れたプレハブ小屋、川原さんの家の前に立つ。一呼吸置いてドアをノックする。「すいません」すぐ返事があった。「はい、今伺います」

 ドアが開き、川原さんが、ぼさぼさに伸びた髪に薄汚れた服は変わらなかったが、前に会った時と違って表情はすっきりとしているように見えた。眉をひそめる。

 「すいません、どなた様でしょうか?」

 「え……」

 「本日はどのようなご用件で?」

 じっと川原さんを見つめる。嘘をついているようには見えず、本当に憶えていないようだった。前会った時に比べて言動ははっきりしているように見えたが、何か脳に障害でも抱えているんだろうか?

 「すいません。実は一か月ほど前に川原さんにお会いしまして、ここで少しお話させて頂いたんですよ」

 「あっ、そうだったんですか。それは失礼致しました。この所物忘れがひどくなってまして……」

 よくあることなのか。さらりと弁明の言葉を口にする。

 「その時、この紙を頂きまして」

 この前手渡されたセーブ・クイーンの連絡先が書かれた紙を見せると、目が見開かれた。

 「ということはアナタはプロノタマの……」

 「ハイ。ダブルティ・ドルフィンズに所属してるピッチャーの中本と言います」

 「アナタは彼女に会ったんですか?」

 川原さんの声が低くなる。

 「ええ」

 「ノタマの真実を知った」

 「―――ハイ」

 「そのアナタが私に何のご用件ですか?」

 「今日は川原さんに相談があってきました。川原さんにならできる、川原さんにしかできない件で」

 川原さんがじっとこちらを見つめ、ゆっくりと口を開く。

 「分かりました。あがってください」

 「あ、ありがとうございます」

 川原さんの後に続いて、川原さんの家へと入っていく。


 必要なのかどうか判断がつかない物であふれ返っているのは変わらなかったが、以前とは比較にならないほど片付けられていた。

 「どうぜこちらへ」

 座布団が差し出される。「ありがとうございます」お礼を言って腰を下ろす。川原さんも向かい合う形で腰を下ろす。

 「それで相談と言うのは?」

 「すいません。相談の前に確認しておきたいことがありまして、川原さんはプロノタマは見られますか?」

 「いえ、引退してからは全く」

 「なるほど。では、私のことも……」

 「すいません」

 気まずそうな顔を見せる。

 「いえ、いいんです。じゃあ、簡単に自己紹介させてもらいますね。ダブルティ・ドルフィンズでピッチャーをしている中本翔人と言います。プロになって今年が三年目になりまして、一、二年目はあまり活躍できなかったんですが、今年は新しい変化球を武器に頑張っているところです」

 「新しい変化球……それはどんな変化球なんですか?」

 元ピッチャーの血が騒ぐのか身を乗り出してくる。

 「そうですね。一言で言えばどう変化するのか投げている本人にも分からない変化球です」

 「どう変化するか分からない」そう呟いたかと思うと、いきなり立ち上がって、部屋の隅に積まれている物をひっかき回し始める。しばらくそうしていたが、お目当ての物が見つかったのか戻ってくる。手にはノタマのボールが握られていた。「すいません、もしよかったら握りだけでも見せてもらえませんか?」

 「ええ、別に構いませんよ」

 ボールを受け取ってクイーン・プレイの握り、親指と小指でボールを支え、残りの三本の指の爪をボールに立ててみせる。

 「こんな感じです」

 「おお、これはすごい。こんな握りは初めて見たなあ。これでどうやって投げるんですか?」

 ノタマ少年のように質問してくる。憧れの人からの質問にこちらの口調も弾む。

 「手首のスナップをきかせないで、三本の指で弾くように投げます。こんな感じで」

 手をゆっくりと振ってボールを軽く弾く。ほとんど回転しないボールが緩やかな弧を描いて川原さんの手の中に収まる。

 「なるほど、今までの常識、ボールにできるだけ回転を与えるのとは全く逆で、できるだけ回転を与えないようにしているのか。そんなこと考えもしなかったなぁ、本当にすごいなあ」

 しきりに感嘆の言葉を口にする川原さん。憧れの人にここまで褒められると恥ずかしくなってくる。

 「で、でも一回見ただけでそこまで分かる川原さんもすごいですよ」

 「いやいや、言うは易し、行うは難し。見つけるはさらに難し。世の中の常識に逆らって新しい変化球を見つけた中本君のすごさに比べたら大したことないよ。どう変化するのか分からない変化球なんてバッター打てないでしょ?」

 「そうですね。この前、怪我の影響もあって途切れちゃったんですけど、それまでは五試合連続完封勝利を達成することができました」

 「五試合連続完封勝利と言うと……」

 「ハイ。川原さんが持っていたプロノタマ記録とタイ記録になります」

 「あの記録、まだ破られてなかったんだ。じゃあ、中本君の怪我がなかったらその記録は破られていた可能性が高ったわけだ」

 「そうだったかもしれません」

 「でもそんなスゴイ変化球があるなら、記録が破られるのは時間の問題かな」

 川原さんが穏やかな笑顔を見せる。意図していたわけではなかったけど、ノタマの話題で川原さんの警戒心を解くことができたように見えた。

 「それで、相談のことなんですけど……」

 そこで本題を切り出すことにする。

 「おお、そうだった。新しい変化球のことでつい興奮してしまった。で、相談って何かな?」

 「川原のラストボール」その一言で川原さんの顔から色が消える。構わずに続ける。「パーフェクト・ゲームまであと一球、つまり少女を救うことができるところまであと一球と迫ったものの、本来のウイニングショットであるスライダーでなく、スローボールを投げてホームランを打たれた……」

 「そう言えば君もセーブ・クイーンから話を聞いていたんだったね。相談って言うのはパーフェクト・ゲームに関することなのかい?」

 「はい。アナタは事前にその試合でパーフェクト・ゲームを達成すると宣言していたと聞いています。つまり、アナタはパーフェクト・ゲームを達成して少女を救うと決心したわけですよね?」

 「そうだね。私は少女を救うと決心した」

 「アナタはその目標まで後一球と迫ったにも関わらず、自らそれを手放した。少なくとも私にはそう見えました。あと一球まで迫った時、アナタは何を想って、あのボールを投じたんですか?」

 「―――君はノタマの真実を知って、どう振る舞うつもりなんだい?」

 「パーフェクト・ゲームだけを避けて今までと変わらないピッチングを続けようと決めました」

 「少女の苦しみには目を瞑って?」

 「ハイ。でも、決めたにも関わらず迷って、これでいいのかと分からなくなりました」

 「それで先達である私が何を想っていたのか聞きたくなったと?」

 大きく頷く。

 「なるほどね」後ろへと手をつき、天井を眺め、息を、胸の奥の奥から吐き出すかのように深く息を吐いた。「―――もういいか」

 「えっ」

 その声は小さくて聞き取れなかった。

 「中本君は小さい頃何を想っていた?」

 「小さい頃、ですか?あんまり憶えて―――」

 「もっとみんなに見てほしい。注目してほしいと思ってなかった?」

 どうすれば母さんは僕のことを見てくれるんだろう。それが幼い中本翔人の全てだった。

 「それは、思っていました」

 「私はみんなに見てほしい、注目してほしいと願い、それが実現できそうにないこの世界を呪っていた」

 「それは、この世界が平等だからですか?」

 「ああ。誰もが同じモノを持って産まれてくるこの世界では、どんなに努力したとしても手が届く凄さしか示せない。想像できる凄さしかないこの退屈な世界を呪い、憎んだ。何度、平等じゃない世界に産まれたらよかったと思ったことだろう」

 母さんはいつも口癖のように言っていた。「ホッント、退屈な世界」と。

 「その退屈な世界で唯一、退屈じゃなく手の届かない凄さを示すことのできる存在がプロノタマ選手だった。だから、私はプロノタマ選手になって、この退屈な世界から抜け出して、多くの人から注目される存在になってみせると決めた」

 「つまりバッターとしてプロノタマ選手になることを目指していたわけですか?」

 「うん。私が子供の頃は今と比べて比較的チケットが取りやすかったと言え、ホームランボールが自分の所に飛んでくるのを期待するのは、子供ながらあまりに馬鹿げていると思えたからね。近所の一つ上の子と来る日も来る日も練習に励んだ。朝起きてランニングに素振り、学校が終わったらひたすら実戦練習。他の子が眠っている時、遊んでいる時も、ひたすら練習の日々。プロノタマ選手になるという目標があったから、つらくはなかったけど、きつくはあったね」

 「でもピッチャーとしてプロになったということはホームラン・ボールを捕ったわけですよね?」

 「うん。あれは夏休み最後の日だった。夏休みも毎日練習に明け暮れていた私に母さんが頑張ったご褒美だとプロノタマのチケットをくれたんだ。嬉しかったが期待はしていなかった。一応グローブを持ってスタジアムに行ったものの自分が選ばれるなんで夢にも思わなかった。でも選ばれた。

 プロノタマ選手として選ばれた私をいつも一緒に練習していた子は羨望と妬み、色んなものが混ざり合った目で見つめてきた。私がその視線を浴びてどう感じたと思う?」

 「申し訳なさ、ですか?」

 「誇らしさだった。自分はそういった視線を向けられる存在になったんだと。そのことを純粋に誇らしく思った。そして、そういった視線が向けられるのはプロノタマ選手であればこそという事実があと一球と迫ったところで急に浮かびあがってきて無視できなくなった」

 「それまで、それを考えたことはなかったんですか?」

 「色んな事情があって、真剣に考えてみたことはなかった。考えが甘いと言われればその通りだっただろう」

 「じゃあ、パーフェクト・ゲームが達成されてプロノタマ選手でいられなくなることが恐くなり、わざと打たれようと思ってスローボールを投げたんですか?」

 質問には答えずに手に持っていたボールを見つめている。答えを待つ。二人の間を静かな時間が流れる。

 「なあ、中本君」

 「何ですか?」

 「今、この瞬間、自分の人生を振り返った時、私が最も後悔していることは何だと思う?」

 セーブ・クイーンの話を信じてしまったこと。パーフェクト・ゲームを目指したこと。最後の最後で決断を変えてしまったこと、ぱっと考えただけで思いつくものは幾つかあった。

 「自分が望んだ立場を手放すことになるにもかかわらず、パーフェクト・ゲームを目指してしまったことですか?」

 ボールへと視線を落としたまま、言葉を紡いでいく。

 「私はね、スローボールを投じたあの瞬間、何も選ばなかった。いや、何も選べなかったんだ。少女を救うために、抑えるためにスライダーを投げる。自分を優先させて、打たれるためにスローボールを投げる。選択自体はどちらでもよかった。自分が選んでいるのであれば。

 どちらかに賭けることが出来ていれば、当たっても外れても、その結果を長期的には受け止めることができていただろう。結果がでた時点では何を想ったとしてもね。どちらにも賭けることができなかった私は結果を受け止めることが出来ずに、その事実から逃れるために色んなものに手を出して、堕ちていった。中本君」

 「は、ハイ」

 顔を上げ、こちらを見る。とても優しい顔をしていた。

 「君と似たような状況を経験した私からキミに言えることはたった一つ。賭けなきゃ、その結果を受け止めることはできない。例え望ましい結果がでたとしてもね」

 「賭ける……」

 「どちらが正しいか分かっているならそれは賭けではない。分からないながらも選ばざるえない状況で選ぶことを人は賭けと呼ぶのだろう」

 賭け。人生の賭け。

 「分かりました。どの選択をすべきかまだ決まっていませんが、ちゃんと賭けてみたいと思います」

 「それがいい」川原さんが頷く。「後悔のない人生はないかもしれないが、後悔の少ない人生はあると思う。賭けることは後悔の少ない人生を送る秘訣の一つだと思う」

 そう言った川原さんの顔はずっと抱えていたものを下ろすことができたかのように、すっきりしたものに見えた。

 その時、コンコンと扉を叩く音が響いた。その音を聞いた川原さんが腰をあげる。

 「今日は珍しく千客万来だな。ハイハイ、今開けますよー」

 川原さんが玄関へと向かい、僕もそろそろお暇しようかと川原さんに続いて玄関に向かうとそこには意外な人物が立っていた。

 「こ、コミッショナー」

 松原ノタマコミッショナーが後ろに屈強な黒服を二人従えて立っていた。川原さんが大きく息を吐く。

 「まさかこんなに早く、それもコミッショナー自ら出陣とはね」台詞とは裏腹に、川原さんの口調からはあまり驚いている様子は見受けられなかった。「さて、どこに連れていってくれるのかな?」

 「残念ながら用があるのは貴方ではなく」コミッショナーがちらっと僕を見る。「彼の方です。話も終わったようですので、彼をお借りしてもよろしいでしょうか?」

 コミッショナーが僕に用事?川原さんもちらっと僕を見て、すぐ視線を戻す。

 「彼がいいのあれば、私は構わない」

 「そうですか。では、中本選手。お時間を頂けませんか?少し話をしてみたかったんです」

 「……分かりました」

 現コミッショナーの誘いを断る度胸はなく、同意の言葉と共に川原さんの家をあとにした。


 現コミッショナーの誘いということで、どこか高級な店に行くのかと思ったが、意外にもコミッショナーは川原さんの家の近くをゆっくりと歩き、少し離れて付いていく。後ろを見ると黒服もぴったりと付いてきていた。お互い口を開かずに五分ほど歩く。

 「貴方はどうするつもりですか?」

 前を向いたままコミッショナーが口を開く。

 「どうするつもりとは?」

 「とぼけなくてもいいですよ。貴方はセーブ・クイーンのメンバーからノタマの真実を聞いた。ノタマの裏では何の罪もない無垢な少女が生贄に捧げられており、パーフェクトゲームを達成すればその少女を解放することができる。ただし、少女が解放されればノタマパークの特別な力は失われることになり、それはノタマの衰退を意味する。

 で、この事実を知った中本翔人はどうするつもりですか?」

 唇をなめる。この人の指示で少女がさらわれている可能性だってある。迂闊はことは言えない。

 「まだ、分かりません」

 「そうですか」

 その口調からは何の感情も読み取ることが出来なかった。

 「もし」危険な問いだと分かってはいたが、聞かずにはいられなかった。「もし僕がパーフェクトゲームを目指すつもりだと言ったらどうするつもりですか?」

 「別にどうもしませんよ」その答えはひどくあっさりしたものだった。「貴方も知ってるでしょ?ここダブルディの街でノタマ選手に手を出したら、女神の怒りを買った者がどうなるかを。まあ、女神の怒りがなくとも私は何もしませんけどね」

 何もしない。コミッショナー、ノタマを運営する組織の長が、ノタマの衰退を引き起こすことが起きようとしているのに何もするつもりがない?

 「それは、どういう意味ですか?」

 「中本君。今日こうしてキミに時間を取ってもらったのはキミに伝えたいことがあってね」

 こちらの質問には答えずに言葉を紡ぐ。

 「私はね、ノタマをこの世界で最も価値があるものと思っていました。だからこそ、プロノタマ選手を目指し、引退後もノタマに関わりたくて、ノタマの発展に貢献したくてコミッショナーを目指しました。最も価値があると信じたノタマの世界でずっと生きていたかった。だから、コミッショナーに選ばれた時はまさしく天にも昇る気持ちでしたよ。一瞬にして地面に叩きつけられましたがね」

 「ノタマの真実を知ったんですか?」

 「ええ。最も価値があると信じたからこそコミッショナーの椅子を目指したのにその椅子に座った瞬間にその価値は失われてしまった」

 「じゃあ、何でコミッショナーになったんですか」

 天を仰ぎ、しばらく天を眺め、ゆっくりと振り向いた。

 「さあ、何ででしょうね。過去の自分を否定したくなかったのか、それとも別の何かがあったのか。今も分からない。分からないんです」

 大きく息を吐く。

 「キミに伝えたかったことは一つだけ。キミが何を選択しようともプロノタマ機構はキミの決断を邪魔することはない。だから、キミはキミの好きなように選択すればいい」

 「目指すな、とは言わないんですね」

 「真実を知ったあの日から私は全ての物事に対しての判断基準を失いました。何が正しいか分からない人間が他の人間に言えることなんて何もありませんよ」

 そう言い残してコミッショナーは去っていった。

 

 実家近くの公園を訪れた。平日の夕方、子供たちは夕食の時間だからか公園は閑散としている。オレンジに染まる中を歩いていき、ブランコに腰を下ろす。小さい頃から何かあるとブランコに座って考え事をしていた。

 自身の置かれている状況を整理する。プロノタマの裏で選ばれた何の罪もない少女が苦しんでいる。その少女の苦しみによってプロノタマ選手はノタマ・パークで超人的なチカラを発揮することができる。パーフェクト・ゲームを達成することができれば少女は救われるが、ノタマ・パークからは女神の加護が失われてプロノタマ選手は超人的なチカラを発揮することができなくなり、プロノタマは衰退する可能性が高くなる。そうすれば僕はダイヤモンドから石ころに戻る。誰からも注目を浴びることのない石ころに。

 「翔!」茜の声。手を振りながら、こちらへと近づいてくる。「この公園で会いたいなんて急にどうしたの?」

 「ちょっと直接会って聞きたいことがあってね」

 ずっと、ただの石ころだった中本翔人を見続けてくれた唯一の存在。

 「何?」

 「少し変なこと聞くけど……」茜がいてくれたから僕は僕でいられた気がした。「もし僕がプロノタマ選手じゃなくなったら、茜はどうする?」

 「どうするって、どうもしないよ。プロノタマ選手だろうが、そうじゃなかろうが翔は翔じゃん」

 聞きたかったその言葉を聞いた瞬間、立ち上がって茜のことを抱きしめていた。

 「ちょ、ちょっと翔、何してんの?」

 暴れる茜を強く抱きしめる。

 「ゴメン。でも、ちょっとだけこのままでいさせて」

 茜の体から力が抜ける。茜の体温を感じる。茜がいてくれれば、どんな結果も受け止められる。そんな気がした。

 茜から体を離す。

 「ゴメン、急に抱きついたりして」

 「それはいいけど……」茜の頬は赤味がさしていた。「でも本当にどうしたの?」

 「最近ちょっと色々あって落ち込んでてね。でも茜のおかげで元気がでた。ありがとう」

 「そ、そう。ならいいけど……」

 「ゴメンね。急に呼び出したりして」

 「いいって。じゃ、じゃあアタシ、バイトあるからもういくね」

 「うん。ホッントありがとう」

 遠ざかっていく茜の背中を見送る。道は決まった。あとはその道を進んでいくだけだ。


 ドルフィンズの練習用グラウンド。あの日のようにグラウンドには僕の他には誰もいない。ボールを手にマウンドに立つ。不安はなく、確信だけがあった。僕が進もうとしている道と女神が望む道は一致しているはずだから。

 大きく息を吸って、そして吐き出す。

 振りかぶり、ゆっくりと足を上げ、手首を固定したまま腕を振ってボールを弾き出す。ボールはゆらゆらと揺れてホームベースの直前で急降下した。

 よし!これで達成してみせる。女神が望むパーフェクト・ゲームを。


 「ピッチャー中本翔人。背番号二八」

 一軍復帰登板を告げるアナウンスがなされた瞬間、割れんばかりのブーイングと悲鳴がスタジアムに響き渡った。

 「おいおい、優勝争いしてんだぞ!」

 「他にピッチャーいねえのかよ!」

 ブーイングはブルペンまで聞こえてくる。あまりの嫌われっぷりに自分のことながら笑いたくなってくる。我がドルフィンズはゲーム差一ながら首位をキープしており、後ろにぴったりとパイレーツがついてきているため負けられない戦いが続いていた。その負けられない戦いに前回散々なピッチングをしたピッチャーがでてきたんだから、熱心なファンなら悲鳴やブーイングの一つもでるか。

 気にした素振りを見せずにキャッチボールを続ける。

 「おい、中本。ファンの声はあんま気にするなよ」

 ブルペンキャッチャーの大久保さんが心配して声をかけてくれる。「大丈夫ですよ」笑顔で応じる。

 「ファンの人は掌を返すのが仕事みたいなものですからいちいち気にしたりしませんよ」

 「随分余裕だな」

 「クイーン・プレイがある僕は無敵ですから」

 そう。女神に愛されたこのボールは誰にも打てない。


 「ノタマ・スタジアムにお集まりの皆さん。大変お待たせ致しました。本日のヒーローインタビューのお時間です。本日のヒーローは四安打完封で見事復活を果たしました中本選手です。では、中本選手こちらまでお越しください」

 インタビューに呼ばれ、ベンチから飛び出すと溢れんばかりの歓声と拍手に迎い入れられる。

 「中本、ナイスピッチング!」

 「俺は信じてたぞー!」

 苦笑いをかみ殺して、お立ち台に立つ。

 「中本選手、本日は見事なピッチングでした」

 「ありがとうございます!」

 「一軍での復帰登板となったわけですが、本日はどんな気持ちでマウンドにあがられたんですか?」

 「前回の登板では散々無様な姿を見せてしまったので、少しでも挽回できるように頑張りました」

 「今日は前回のピッチングでは投げられなかったクイーン・プレイも多く投げられましたが、爪の怪我はもう大丈夫なんですか?」

 「ハイ、多くの人に心配をおかけしましたが、もう大丈夫です。これからバンバン投げて抑えていきたいと思います」

 「現在首位のドルフィンズとしてはこれからも優勝に向けて負けられない戦いが続きますが、ファンの皆さんに一言お願いします」

 「今シーズンは迷惑かけっぱなしでしたが、こらからは優勝に向けて少しでも貢献できるように頑張っていきますので、これからも応援よろしくお願いします」

 大声援に帽子を取って、観客に振って応える。

 「ありがとうございます。それでは本日の―――」

 「あっ、すいません。今日、この場を借りて言っておきたいことがあるんです」

 締めようとしたインタビュアーの言葉を慌てて遮る。

 「言っておきたいことですか?ハイ、ではどうぞ」

 マイクが向けられる。唇をなめ、覚悟を決める。

 「未だ誰も達成したことのない女神の領域、パーフェクト・ゲーム」

 その一言でスタジアムがざわめき始める。カメラを真っ直ぐに見つめる。いづれこれを見ることになるであろう清井に言うつもりで話す。

 「二週間後のパイレーツ戦。私はそこでパーフェクト・ゲームを達成してみせます!」

 「ああっと、何と何とのパーフェクト・ゲーム達成宣言。か、確認しますよ?ヒットはおろか、ファーボール、デッドボール、エラー含めて一人のランナーを出さないパーフェクト・ゲームを達成する。そう宣言したんですよね?」

 「ハイ、もう一度言います」大きく息を吸い込み、はっきりと告げる。「私は二週間後のパイレーツ戦でパーフェクト・ゲームを達成してみせます」

 「大きな宣言が飛び出しました。二週間後のパイレーツ戦、偉大な記録は達成するのか?ワクワク、ハラハラ、ドキドキしながらお待ちください。それでは本日のヒーロー、中本選手でした。もう一度大きな拍手をお願いします」

 溢れんばかりの拍手に包まれてお立ち台を後にした。


 「どういう風の吹き回し?」

 スタジアムから出て、少し歩いたところに銀髪の少女、スノーがいた。いるかもしれないと思っていたので、驚きはなかった。

 「何が?」

 「あの宣言、プロノタマ選手をやめる覚悟はできたってわけ?」

 「いや」

 「じゃあ、あの宣言は何?」

 声に若干苛立ちが混じる。

 「原点に戻ってみようと思ったんだ」

 「原点?」

 「そう。君から話を聞いて悩んで、色んな人に話を聞いて考えて、決めた。自分が憧れた存在、バッターを次々と三振に切っていくピッチャー。その憧れの目的地がパーフェクト・ゲームならそこを目指そうと。その果てにどんな結果が待っていようと受け入れる。そう決めた」

 「ふうん」興味深そうに相槌を打つ。「まっ、どんな心境であれパーフェクト・ゲームを目指してくれるならそれでいいわ。で、どうなの。勝算の方は?」

 「女神のみぞ知る」

 「クイーン・プレイを投げるピッチャーらしい言葉ね」

 皮肉気な口調に慌てて言葉を返す。

 「いや、クイーン・プレイがどこに変化するから分からないから、そんなことを言ってるんじゃないよ?必ずホームランを打てると言うバッターがいないように、必ず抑えると言うピッチャーもいない。言えるのはパーフェクト・ゲームを達成するために全力を尽くす。誰よりも自分のためにね」


 「ハイ、皆さんこんばんわ。ノタマ・タイムのお時間がやって参りました。司会の木居です。本日の話題は勿論こちら。

 『中本選手、二週間後のパイレーツ戦でパーフェクト・ゲーム達成宣言』

 こちらについてコメンテーターの方とお話ししていきたいと思います。それでは本日のコメンテーターは現役時代、二〇〇キロ近い剛速球を武器に活躍されました須々木さんです。須々木さん、本日はよろしくお願いします」

 「ハイ、よろしく」

 「それではさっそくお話しをお聞きしたいと思います。須々木さんは中本選手のパーフェクト・ゲーム達成宣言についてどう感じられましたか?」

 「いやあ、素晴らしいですよ。私はね、最近の選手についてはある不安を持っていましてね。この宣言を聞いてその不安が吹き飛ばされて非常にスカッとした気持ちを覚えましたよ」

 「ほう、不満ですか。須々木さんは最近の選手についてどんな不満をお持ちなんですか?」

 「いい子過ぎるんですよ。真面目に熱心に練習に励むことは勿論いいことですよ。その練習の成果を試合で発揮する。結構なことです。でも試合以外の部分でも真面目過ぎるんですよ。インタビューを聞いてても全然面白くない」

 「まあ、確かに『頑張ります』とか『応援よろしくお願いします』とか紋切型の言葉が多いのは確かですね」

 「折角のインタビューなんですからもっと大きなことだったり、自分をアピールして欲しいんですよ。大きなこと言って実現できなくたって別にいいじゃないですか。あの時実現できませんでしたね、なんてネチネチ言うのは南別府さんくらいですよ、ホント」

 「南別府さんのことはともかく大きなことを言う選手が少なくなっている中での中本選手のパーフェクト・ゲーム達成宣言だったので、反響も大きかったのだと思います。で、須々木さん。実際のところ達成の可能性はどれ位だと思いますか?」

 「いやー、中本選手の心意気は買いますが、はっきり言って無理だと思います」

 「あっと、意外なお言葉。中本選手のことを買っている須々木さんなら、もっと高い数値をあげられると思ったんですけど、まさかゼロとは……」

 「やっぱり難しいですよ、パーフェクト・ゲームは。長いプロノタマの歴史の中で一人もいないわけですから」

 「そうですね。川原投手があと少しというところまで迫りましたが、結局達成はできませんでした」

 「私はその試合ベンチから見ていましたが、ある日の川原さんは凄かった。現役、引退含めてたくさんのピッチングを見てきましたが、その中でもベストと言えるピッチングでしたよ。ストレートはキレキレ、チェンジアップはブレーキがききまくり、スライダーは直角に曲がってるんじゃないかというくらいに鋭い。おまけに一番恐いバッターの松原さんはスタメンから外れていた。もう全ての条件がかみあっていた。それでもあと一人、あと一球のところで達成できなかった」

 「川原のラストボールですね」

 「あの時、川原さんに何があったのかは分かりませんが、あのシーンを見た時、思いましたよ。パーフェクト・ゲームともなると人の努力だけではどうにもならない、女神が微笑んでくれないとどうにもならないと」

 「なるほど。二週間後、果たして中本選手に女神は微笑むのか?最後にパイレーツの清井選手のインタビューでお別れしたいと思います。それではまた来週」


 ‐清井選手、中本選手のヒーローインタビューの内容はご存知ですか?

 二週間後のうちとの試合でパーフェクト・ゲームを達成するって宣言したんでしょ?知ってますよ。

 ‐そのことについて、どう感じられましたか?

 いやー、中本さんは相変わらず面白いことを言いますね。

 ‐中本選手に一言、メッセージをお願いします

 パーフェクト・ゲーム達成にうちとの試合を選択したことを後悔させてあげますよ

 ‐はい、ありがとうございました。


 パイレーツとの試合を三日後に控え、寮の自室で爪の手入れを行う。右手の親指、小指以外の三本の爪をやすりで削り、長さを揃える。パーフェクト・ゲームを達成できるかどうか、一番の不安要素は回転しない球がどこかに変化してくれるかだった。一人のバッターを三球で片付けることができたとしても二十七人で八一球。変化しないクイーン・プレイはただの打ちやすい球なので、一球でも変化しない球があれば記録達成は無理だろう。

 右手の爪をライトへとかざす。三日後、女神は微笑んでくれるんだろうか?まっ、考えてもしょうがない。手を下ろす。やるべきことはやった。後は女神が微笑んでくれることを祈るだけだ。

 「おい、中本。入るぞ」

 梨田さんの緊迫した声がしたかと思うと、ドアが開いて梨田さんが姿を見せる。

 「あれ、梨田さん。どうしたんですか、そんなに慌てて」

 「ニュースだよ、ニュース。テレビつけるぞ」

 「ど、どう―――」

 こちらの返事よりも早くテレビのリモコンをひっつかむとテレビをつける。テレビには大きく『清井選手、暴漢に襲われる』のテロップが映し出されていた。

 「えっ、何ですか、これは?」

 「清井が誰かに襲われたらしい」

 二人して画面を凝視する。


 『ここで緊急ニュースをお送りします。先ほど入ったニュースによりますと、ダブルティ・パイレーツの清井選手が暴漢に襲われたとのことです。怪我の詳細はまだ入ってきておりません。

 目撃者の証言によりますと、ダブルティの街を歩いていた清井選手に二人組の男が話しかけ、しばらくすると口論になり、男の内の一人がバックの中から鈍器のようなものを取り出して清井選手の右足をうちつけて逃走したとのことです。その直後の雷によって男の一人は即死。もう一人の男はそのまま逃走したとのことです。

 また情報が入り次第お伝え致します』


 「しっかし、命知らずの人間がいたもんだな。プロノタマ選手を襲撃するなんて」

 「女神の怒り、ですか?」

 プロノタマの開催に危害を加えるものは女神によって天罰が与えられると小さい頃から聞いていたが、ここまではっきりしたものを目にしたのは初めてだった。

 「だろうな。まっ、どこの誰がやったのかは知らないが、俺たちにとってはラッキーかもしれないな」

 ダブルティの人間ならプレイに支障がでるほどの危害を加えるとどうなるかは分かってる。軽い気持ちで手を出すなどありえない。なら、それほど強い動機を持った人間が犯人ということになる。命をかけてでも、そうすることが必要と思っている人間。脳裏に銀髪の少女と体格のいいスキンヘッドの男が浮かび上がった。

 「どうした、中本。何か心当たりでもあるのか?」

 「あっ、いえ」浮かんだイメージを頭の中から追い払う。「清井、怪我大丈夫なんでしょうか?」

 「ニュースでは詳細は不明と言ってたけど、どーなんだろうな。中本的にはどっちの方が嬉しいんだ?」

 「なかなか難しい質問ですね。清井がいない方が達成しやすいのは確かでしょうけど、それを望むのは人としてどうかと……」

 「まっ、そうだな。とりあえず現時点では新しい情報はなさそうだな」

 テレビを消す。

 「清井は出てくるかどうかは分からないが、準備はしっかりとな」

 「はい」

 「じゃあ、俺はこれで」

 梨田さんが部屋をでていって、一人に戻る。セーブ・クイーンに電話して確認しようかとも思ったが、電話はしないことにした。彼らがやったにしても、しなくてもこれから自分がやろうとしていることに影響はない。頭を切り替えて三日後の試合に備えてイメージトレーニングを開始した。


 アジトで鏡の前に立つ。鏡にはダイナマイトを体に巻き付けた、顔を横切る傷を持つ男が映っている。鏡へと手を伸ばし、傷を撫でる。

 臥薪嘗胆。仇を取ることを託された男は薪の上で寝ることの痛みでそのことを忘れないようにしたという故事。それをまねて自分の手で傷をつけた。絶体に明菜を救ってみせると自らに誓うために。最初は揺らぐことはなかった。だが、何の進展もないまま月日が流れ、決意も揺らぎ始めた。薪の上に寝なくては忘れてしまうような想いなら忘れてしまっても構わないんじゃないか?そんな声が心の奥底から聞こえてくるようになった。

 男の顔には疲労の色が濃く表れていた。今日は八月十日。明菜がノタマに囚われてから四回、通算では十八回目の誕生日。二つの年月を数えることも今日で終わる。いや、終わらせてみせる。

 上にシャツとジャケットを着こんでアジトを後にする。


 目的地へと向けて歩き出す。途中ドルフィンズのユニフォームを着た少年が横を通り過ぎていき、そして振り向く。

 「パパ―、早く早く」

 「そんなに慌てるとまたこけちゃうぞ」

 ノタマ観戦に行くであろう親子。ノタマが開催される日にはいたるところで見られる幸せな日常の一コマ。かつてはこの手の中にあり、そして指の隙間からすり抜けていってしまった光景。なぜ、何で、どうして?あの日から幾度なく問いかけ続けた言葉。

 少年に声をかけ、肩に手を置き、体に巻き付けているダイナマイトに火をつける。次の瞬間、少年は肉の塊となる。俺と共に。その光景を見た父親は俺と同じように問いかけ続けるんだろうか?なぜ、何で、どうしてと。

 馬鹿げた妄想だった。が、その馬鹿げた妄想を実行したいという誘惑に駆られる。俺があの父親に、ある父親が他の誰かに理不尽というバトンを渡す。そのバトンが多くの人に行き渡ったら、人はこの世界の真実に気付けるんだろうか?確かなものなどないと。

 少年と父親が手を繋いで歩いていく。親子の姿が離れていくのをぼんやり見つめていると、かつての仲間が立っていた。

 「―――スノー」


 「―――秋人」

 かつての仲間が近づいてきて、三メートルほどのところで足を止める。

 「なぜここにいる?」

 「あなたを止めにきた」

 「どうやって?」

 「方法はいくらでもあるわ」

 「出来るのかい、自分の手を汚すのが大嫌いな雪菜ちゃんに」

 雪菜―――本名を呼ばれたのは久しぶりだった。

 「そうね、雪菜にならできないでしょうね」

 秋人の顔が醜く歪む。アタシの知っている秋人は、そんな嘲笑を決してしなかった。年月は人を変える。秋人は変わり、アタシも変わった。秋人と道を別ったあの日のアタシだったら、覚悟を決めた秋人を止める事はできないだろう。でも、今のアタシにならできる。

 「でも、スノーになら、今のアタシにならできる」

 銃を取り出して、秋人へ向けると嘲笑が消える。

 「アタシは彼に賭けたの。その賭けの結果がでるまでアナタには大人しくしていてもらうわ」

 「こんな街中でそんなものだしたら、すぐ捕まるぞ?」

 「そうね。体に危険なものを巻き付けているアナタと一緒にね」

 「お前!」

 秋人の顔が怒りで満ちる。

 「今日、中本がパーフェクト・ゲーム達成へと挑む。パーフェクト・ゲームが達成されたら明菜ちゃんは解放される。今日一日くらい待ったっていいでしょ?」

 「明菜はもう充分苦しんだ。明菜をこれ以上苦しませることはできない!」

 足を踏み出す。それを見て迷うことなく引き金を引く。銃弾が頬をかすめて飛んで行った。

 「今のは警告。もう一回動けば、次は体に当てる」

 「いいのか?」

 「何が?」

 「俺の体にはダイナマイトが巻き付けられている。もし、体を打てばこの距離だ。お前もただではすまないぞ?」

 「だから何?賭けの結果がでるまで大人しくしてもらうと。アナタを止められるなら、アタシのことはどうでもいい」

 お互い無言で睨みあう。どれほどそうしていただろうか?秋人が口を開く。

 「―――できるのか、アイツに」

 「さあね。でもできることはやった。高い代償を払ってね。だから、やってもらわなきゃ困る」

 「あの事件はお前らだったのか」

 「言ったでしょ?アタシはスノーだと。スノーなら、必要なら自分の手を汚すことだって厭わない」

 「―――分かった」秋人が腰をどかっと下ろす。「今日の試合が終わるまではここで大人しくしていよう。でも、アイツが失敗したら好きにさせてもらう」

 「その時は好きにすればいい」

 銃口は下げずに告げる。やるべき事はやった。後は結果がでるのは待つだけ。


 試合開始二時間前。ピッチング練習を早めに終えて、誰もいないダッグアウトに一人腰を下ろす。試合前で白線が引かれ、整備されたばかりのピカピカのグラウンド。ドルフィンズのチームカラーであるディープブルーの椅子が姿を見せるスタンドも入場が開始されれば姿を隠していき、それに伴ってスタジアムは熱気に包まれていく。

 その雰囲気が好きだった。その雰囲気の中でなら何にだってなれる気がした。子供の頃に憧れた存在にだって。今日、その憧れた存在に挑む。誰の為でもない、自分の為に。

 思えば行為そのものから得られるものではなく、行為の先にあるものを求めてずっと頑張ってきたように思う。母さんに認めてもらうため、プロノタマ選手になるため、チームが勝つため―――でも、今日だけは。先ではなく、今この瞬間に憧れの存在になる。そのためだけにマウンドに上がる。そう決めた。


 『ピッチャー中本翔人。背番号二十八』

 『いやー、中林さん。中本選手の名前がアナウンスされますと、スタジアム中からすごい歓声が湧きおこりましたね』

 『そうですね。やっぱり今日スタジアムに詰め掛けている観客の皆さんも歴史的瞬間、未だかつて誰も成し遂げたことのない、パーフェクト・ゲーム達成の瞬間を見たいという期待の表れじゃないでしょうか?』

 『今日の試合の見どころは中本選手が宣言通りにパーフェクト・ゲームを達成できるかどうかに尽きると思いますが、中林さんはどうお考えですか?』

 『もちろん難しいというのは今更言うまでもないと思います。ただパイレーツの絶対的四番バッターの清井選手がスタメンから外れていますからね。中本選手にとってはチャンスですよ』

 『清井選手の怪我の状況は未だはっきりしたことは分かっておりませんが、ベンチメンバーの中には名前がありますので、状況によっては代打ででてくるかもしれません』

 『折しも川原選手があと一球まで迫った時と同じ状況になりましたね』

 『パイレーツの川原選手がパーフェクト・ゲーム達成まであと一球と迫りながらも現コミッショナーの松原さんにホームランを打たれて達成できなかった。あの時、松原さんは怪我でスタメンを外れていて、代打として二十七人目のバッターとして打席に立ちました』

 『川原のラストボールですね。もし、あと一人というところまで中本選手がいくことができれば同じ状況が見られるかもしれません』

 『さあ、歴史に刻まれるであろう今日の一戦はどのような展開を見せるのか?中本選手がピッチング練習を終え、左バッターボックスにパイレーツの一番バッター石井選手が入り、いよいよ試合が開始されます。

 中本選手、大きく振りかぶって一球目、投げた。ああっと、石井選手、セーフティバントの構え!そのままセーフティバントを試みますも、クイーン・プレイの前にバットに当てることができません。ワンストライク。しかし、観客席からは石井選手のセーフティバントに大ブーイングが湧きおこっています。中林さんは今の石井選手のプレイはどうお考えになりますか?』

 『いやー、頂けませんね。喝ですよ、喝。セーフティバントの構えをして揺さぶるだけならまだしも、実際にセーフティバントしましたからね。中本選手が大記録に挑戦すると言っているんですから、セーフティバントで水を差すような真似はやめてもらいたいですね。私も観客も、そして女神様も力と力の真剣勝負が見たいんですから』

 『そうですねー、石井選手。観客のブーイングにどう対応を変えるか。中本選手、第二球目、投げた。石井選手、今度はセーフティバントの構えをせず、そのまま見送ります。ツーストライク。中林さん、今度はバントの構えをしませんでしたね』

 『流石にこの状況の中でセーフティバントを続けるのは厳しいでしょうからね』

 『追い込みまして三球目。ああっと、石井選手バットを振ることができず三球三振。中本選手、最初のバッターを見事三振に切って取りました。石井選手、バットを振りませんでしたね』

 『そうですね。クイーン・プレイがくることは分かっているんですから、ビックリして振らなかったということはないと思うんですが……』

 『二番春選手が右バッターボックスに入ります。中本選手、振りかぶって一球目、投げた。右に曲がった後、左に曲がる。クイーン・プレイの代名詞ともいえる不規則な変化でストライク!二球目、今度はシュートのように右に大きく曲がり、ボール。ワンストライクワンボール。三球目、ゆらゆらと揺れたままキャッチャーミットに収まります。ツーストライクワンボール。四球目、また右に曲がり、今度は内角一杯に決まりました。二者連続三振でツーアウトになりました。春選手も一回もバットを振らずに三振に倒れました』

 『中本選手、調子よさそうですね』

 『清井選手に次いで打率二位の鈴木選手が左バッターボックスに入ります。一球目、大きく落ちてボール。二球目、また大きく落ちてボール、ツーボール。中本選手、ロージンバックを取って一呼吸置きます。三球目、左に大きく曲がり、外角に決まります。ワンストライクツーボール。四球目、同じく左に曲がり、ツーストライクツーボール。追い込んでからの五球目。今度は右に曲がり、ストライク!鈴木選手全く反応しません。中本選手、初回三者三振です。中林さん。春選手、鈴木選手共に一回もバットを振りませんでした』

 『これは待ての命令がでてるのかもしれませんね。クイーン・プレイの球筋を見るためなのか球数を投げさせるためなのかは分かりませんが……』

 『なるほど。この作戦が試合にどう影響を及ぼしていくんでしょうか?次はドルフィンズの攻撃に移ります。』


 「ストライク、バッターアウト!」

 クイーン・プレイが右、左バッターボックスのアウトコース一杯に決まり、三振がコールされる。いつもなら三振を奪った達成感により軽い足取りでベンチに戻るところだったが、この日は違った。釈然としないものを感じながらベンチに戻る。ベンチに座って汗を拭っていると、梨田さんが近づいてきた。

 「アイツら全く振ってこなかったな」

 「そうですね」

 春さん、鈴木さんは全く打つ素振りを見せなかった。恐らくベンチの指示なのだろう。クイーン・プレイは変化先、量とも全く予測がつかない。ストライクゾーンに収まってくれればいいが、それすら女神の機嫌次第だった。バッターに打つ気がないとなると、球数が増え、最悪ファーボールで記録未達成ということも考えられた。

 「どうする?相手が振ってこないならファーボールの可能性もある。他の球も投げるか?」

 梨田さんの言葉に考え込む。クイーン・プレイのフォームは他の球とは異なるため、フォームでクイーン・プレイかどうかはバッターにはすぐ分かる。クイーン・プレイじゃないと分かれば、恐らくバッターは普通に打ってくるだろう。普通の試合ならとりあえずやってみて、相手の出方を見るのも悪くない。例えホームランを打たれたとしても一点だ。取返しのつかない状況にはならない。でもこの試合は違う。この試合は特別だ。一つのミスも許されない。

 「いえ、やめておきましょう。ここでファーボールを怖がって普通の投球に戻したら相手の思うつぼのような気がします。少なくともスリーボールになるまではクイーン・プレイ一本でいきましょう」

 「分かった」

 大きく頷いていつもの場所に戻っていく、我慢比べの始まりだ。


 『さあ、試合は六回の表を迎えます。四回の裏にドルフィンズの田辺選手にホームランが飛び出しまして、一対〇でドルフィンズがリードしています。

 中林さん、私も長いことノタマの試合を見てきましたが、今日のような試合は初めて見ました。何せパイレーツの選手は初回の石井選手のセーフティバント以外全く打つ素振りを見せないんですから』

 『え、ええ。私も初めてです。ただ投げている中本選手の表情を見ていますと、打たずにひたすら見るというパイレーツの作戦を非常に嫌がっているように見受けられます。クイーン・プレイを投げている時の中本選手は女神に愛されている自分が打たれるはずがないという自信が放送席からも感じられたんですが、今日はその自信が全く感じられません。何かパイレーツの各バッターの明確な意志に少し気圧されているようにすら感じられます』

 『パイレーツの作戦がボディブローのようにじわじわと中本選手を追い詰めているのか、今までの勢いそのままに突っ走るのか?六回の表パイレーツの攻撃は七番の進堂選手からになります。進堂選手が右のバッターボックスに入ります。中本選手、一球目投げた。左に大きく曲がってストライク!二球目、またまた左に小さく曲がってストライク!ツーストライクで迎えた三球目。今度は右に大きく曲がってストライク!三球三振になります!中林さん、中本選手は変わらず調子良さそうですね』

 『そうですね。表情からは調子が良さそうには見えませんが、ボールの方は絶好調といってもいいんじゃないでしょうか?パイレーツとしてはどうですかね?もう六回になりますが、待つ作戦をこのまま続けるんでしょうか?』

 『八番の谷重選手が右のバッターボックスに入ります。谷重選手またはパイレーツのベンチを見る限り、作戦に変更はないようです。中本選手、一球目。ゆらゆらと揺れたままワンストライク。二球目、左に大きく曲がりボール。ワンストライクワンボール。三球目。ああっと、右に大きく曲がり、谷重選手のけ反ってグラウンドに倒れ込みます。大きく外れてワンストライクツーボール。谷重選手、立ち上がってユニフォームの土を払います。四球目、今度は左に大きく曲がります。ボール。ワンストライクスリーボール。この試合初めてスリーボールになりました。中本選手、帽子を取って汗を拭います。ロージンバックを取って大きく息を吐きました。ロージンバックを捨ててマウンドに立ちます。ボールだったらパーフェクト・ゲーム達成の夢は敗れ去ります。注目の五球目。大きく振りかぶって投げた!ああっと、ストレートです。中本選手、この試合初めてストレートを投じました。ストレートが外角に決まってツーストライクスリーボール。おっと、谷重選手ここでタイムを取ります。ネクストバッターズボックスに一旦戻ります。中林さん、この試合で初めてストレートを投じました』

 『そうですね。やはりパーフェクト・ゲーム達成のためにはファーボールも許されませんからね。どこにどれ位変化するか分からないクイーン・プレイはやはり怖いんでしょう』

 『谷重選手、バッターボックスに戻ります。運命の六球目。外角のスライダー。谷重選手、バットを振りましたが、ボールを捉えることが出来ずに空を切ります。三振ツーアウトです。中林さん、パイレーツの選手がこの試合初めてバットを振りました』

 『ええ。スリーボールということでクイーン・プレイはないと読んでいたんでしょうね。キャッチャーらしい的確な読みでしたが、バッテリーはその上をいきました。振ってくると読んだ上でストライクゾーンからボールゾーンに変化するスライダー。ボールが許されない状況でボール球を投げる。その勇気に天晴!ですね』

 『おおっと、この試合初めて天晴がでました。九番バッターの石川選手が左のバッターボックスに入ります。一球目。クイーン・プレイ。ああっと、石川選手、初球からフルスイング。ボールは捉えられませんでいたけど、初球から果敢に振ってきました』

 『もう六回ツーアウトですからね。作戦を変えたのかもしれませんね』

 『二球目、打ってショートへのゴロ。パイレーツへの攻撃で打球が初めてインフィールドに飛びました。ショート田辺選手、軽やかにゴロを捕球してファーストに投げます。スリーアウトチェンジ。中本選手、この回もパイレーツの攻撃を三人で抑えてパーフェクト・ゲーム達成に向けて邁進中になります』


 「―――状況はどうだ?」

 地面に座り込んでずっと空を眺めていた秋人が試合が始まってから初めて口を開く。

 「七回表ワンアウト。一対〇でドルフィンズリード。パイレーツは未だ一人のランナーも出さず、つまりパーフェクト・ゲーム継続中ってこと」

 「順調そうだな」

 「今のところは、ね」

 「今のところ?」

 「中本は七回表、一人目のバッターを打ち取ったところで何かしらの異常を訴えてベンチで治療中。クイーン・プレイは爪で弾くように投げるから爪の怪我なんじゃないかって言ってるわ」

 「大丈夫―――」

 「動かないで!」

 腰を浮かしかけた秋人に銃口を向ける。秋人の動きが止まる。「言ったでしょ、この試合が終わるまでは大人しくしてもらうって」

 秋人が苦々しい表情を浮かべる。

 「今更行動を起こすと思うか?」

 「起こさないと断言することはできない。少しでも可能性があるならその可能性は排除させてもらう」

 「信用ねーんだね、俺は」

 浮かしかけた腰を下ろす。銃口は変わらず秋人に向ける。

 「アタシが知っている、アタシ達と別れる前のアナタならしないと断言できるけど、今のアナタなら分からない」

 「時間が経てば、人も変わるか」

 「望むと望まざるに関係なく、ね」

 大きく息を吐いて再び空を仰ぐ。

 「なあ」

 「何?」

 「お前は空を見て何を想う?」

 「特には何も。曇っていたら雨が降ってくるのかしらぐらいは思うけど……」

 「俺はいつも自分のちっぽけさを想う。四年間ずっと助けたかった妹を助けることができずにいた自分のちっぽけさを、な」

 「それでも人は生きていくしかない。そのちっぽけさを抱えてね」

 「そのちっぽけさに我慢できなくなったからこそ、お前は自分の手を汚したんじゃないのか?」

 「―――そうかもね」

 銃を持っていない手の平に一瞬視線を落とす。四年間、何も変えられなかった。明菜ちゃんは救えず、世の中の目をノタマの裏側に向けさせることもできなかった。四年間やってきたことは全て無駄だったと言ってもいい。だからこそ、中本がクイーン・プレイを編み出したのを見た時、これはどこかの誰かがくれた最後のチャンスなんだと思った。この最後のチャンスを活かすためならどんなことでも、自分の手だって汚してみせると覚悟を決めた。

 「あの人は今、どんな気持ちでいるのかね?」

 「あの人?」

 「俺とお前が話している時にあの人って言ったら一人しかいないだろ。現コミッショナーの松原さんだよ」

 「ああ、どうでしょうね。一緒にいた時から何を考えているのかよく分からない人だったからね」

 「知ってるか?あの人はちょっと前に中本と二人で話してたんだぜ」

 「嘘!コミッショナーと選手が二人で会って何話してたの?」

 「さあね。恐いお兄さんが近くに二人もいたから、何話してたかまでは……。かつての仲間で現コミッショナー様はどっちの結果を期待してるのかね?」

 「現コミッショナーなら、勿論パーフェクト・ゲーム未達成でプロノタマ継続でしょ?表立って何もしないのは女神様の怒りが恐いからでしょ?」

 「俺はあの人がパーフェクト・ゲーム達成を願っているんじゃないかと思ってるんだ」

 「―――何でそう思うの?」

 「あの人が誰よりもノタマの表と裏、この場合の裏は裏方って意味だがな。それを知っている人だからな。それが何と言われればそれまでだが、何となくな」

 「そう」銃口を下ろす。「あの人が何を想い、何を考え、行動していたとしても、今となってはもう関係がない」

 「もし、パーフェクト・ゲームが達成されて、明菜が解放されたら、俺とお前とあの人は前みたいな関係に戻れると思うか?」

 「前のような関係は無理でしょうね。でも、新しい関係なら築けるかもね」

 「―――そうか」

 「『ピッチャー中本、怪我の治療を終えてベンチからでてきました』試合再開、結果がでるわ」

 賭けの結果が、もうすぐでる。


 爪の怪我の治療を終え、ベンチからマウンドに向かう。マウンドでは野手陣が集まっていた。

 「大丈夫か?」

 「まあ、多少響きますが、大丈夫です」

 「よし!じゃあ、気張っていこう」

 梨田さんからボールを受け取る。

 「あと八人だ。頑張っていこう」

 田辺さんが言葉を重ねる。いつもならここで終わるはずだった。今日は―――

 「歴史に名を刻もうぜ」ファーストの山川さん。

 「大丈夫。女神に愛されたお前なら出来る!」セカンドの辻さん。

 「―――自分と女神を信じろ!」サードの村田さん。

 マウンドに野手陣が集まった時、梨田さんと田辺さん以外のメンバーに声をかけられたのはこれが初めてだった。胸がじーんと来て、少し泣きそうになった。

 「ハイ!」

 「よっし!じゃあ、しまっていこーぜ」

 梨田さんの声を合図に野手陣が自分の守備位置に戻っていく。野手の人たちと気持ちが一つになるのはこれが最初で最後だろう。この試合終わったら、この九人が同じ場所に集まることはないかもしれない。だからこそこの一瞬がとてもかけがえのないものに思えた。この想いと共に投げきろう。

 パーフェクト・ゲームまであと八人だ。


 『さあ、とうとうやって参りました、九回の表。達成不可能、女神の領域と言われたパーフェクト・ゲーム。中本選手、そのパーフェクト・ゲーム達成まであと三人まで迫りました。中林さん、とうとう来ましたね』

 『……』

 『中林さん?』

 『ああ、自分が歴史的瞬間に立ち会えるかもしれないと思うと、興奮して何と言っていいのか言葉を失ってしまいました』

 『言葉を失う。そうですね、解説の私がこんなことを言うのもアレですが、今ここからは言葉は不要なのかもしれません。ただ見てください。ただ目に焼き付けてください。誰も成し遂げたことのない偉業に挑む男の姿を』

 『全くその通りですね』

 『九回の表。パイレーツの攻撃。パーフェクト・ゲーム達成まであと三人。それでは歴史的瞬間をしっかりと目に刻みつけろ!』


 マウンドに立って、スタンドを見渡す。どこを見ても人、人、人。五万人がフィールドに熱い視線を送っている、息を一つ吐いてロージンバックを手に取る。まだ小さかったあの日、僕もその内の一人だった。ホームランボールをキャッチしてプロノタマ選手としての道が始まり、今日その道が終わる。

 今いる立場に未練がないと言えば嘘になる。あの日、話を聞いていなかったらと。そうしたら自分の立場に何の疑問を持たずにプロノタマ選手を続けることができていたんじゃないかと。でもその可能性はもうない。聞いてしまったからには、聞かなかった時の自分には戻れない。だったら、聞いた自分が下した決断が正しいと信じ、進むだけだ。その先に何が待っているのか、それは結果がでた時に考えればいい。

 審判からボールを受け取って投球練習を開始する。八回までに何球投げたのかは数えていなかったが、一人のランナーも出していないこともあって、体力に問題はなかった。爪は少し痛むが、あと三人なら持ってくれるだろう。何も問題はない。自分と女神を信じてクイーン・プレイを投げ続けるのみ。

 投球練習最後の球を投げ、梨田さんがセカンドへ投げる。セカンド、ファースト、ショート、サードと球が渡り、村田さんからボールを受け取る。右手で三本の指を立て、梨田さん、村田さん、田辺さん、辻さん、山川さんに見せ、最後に指を立てたまま、右手をスタンドのファンに見えるように高々と掲げる。野手陣のかけ声に続いて、スタンドから地響きのような歓声があがる。その声をしっかり耳に焼き付けてバッターと向き合う。

 七番バッターの進堂さんが右バッターボックスに立つ。バッターによってサインを変える必要はない。今までそうしてきたように迷いなくクイーン・プレイを投げ込む。小さく右に曲がりワンストライク。二球目。今度は左に大きく曲がり、バットの先っぽに当たり、勢いのないぼてぼてのゴロが山川さんの右側に飛ぶ。山川さんがステップを踏み、腰をしっかり落として捕球する。ベースカバーに入ろうとするも、山川さんが手で制す。ベースを踏んでワンアウト。

 「ナイスピッチング!」

 山川さんがかけ声と共にボールを返球する。手をあげて応える。指を二本立て、野手陣とスタンドに示す。あと二人。

 八番バッターの谷重さんが右バッターボックスに立つ。初球のクイーン・プレイ。落ちると予想して、球の下を狙ってバットを振るが、ボールは変化せずにボールの下っ面を叩いてホームベースの上をフライが舞う。梨田さんが素早くマスクを外して両手を広げる。ボールは梨田さんのキャッチャーミットの中に収まる。ツーアウト。

 指を一本立てて示す。あと一人。川原さんに並んだ。あとは追い越してパーフェクト・ゲームを達成するのみ。

 パイレーツの権藤監督がベンチからでてきて、審判に代打を告げる。

 『パイレーツピンチヒッターをお知らせします。石川に代わりまして清井。ピンチヒッター清井、背番号八』

 清井のアナウンスに歓声と悲鳴がスタジアムを駆け巡る。やはりでてきたか。ベンチから清井が姿を見せ、ゆっくりとネクストバッターボックスに向かう。じっと目で追う。歩いている姿を見る限りでは怪我の影響は感じられなかった。右足を怪我したと報道されていた。左バッターの右足、ピッチャーへと踏み出す足。どれだけ踏み出すことができるのか?ネクストバッターボックスでは両足をつけたまま素振りをしており、右足を踏み出すことはしなかった。清井はいつもネクストバッターボックスで両足をつけたまま素振りをしていただろうか?分からなかった。

 清井がバッターボックスに向かい、立つ。じっとこちらを見つめてくる。憶することなく見つめ返す。

 審判のプレイのコール。プレートに足を置き、振りかぶる。ゆっくりと足をあげ、手首を固定したまま、ボールを弾く。ボールはゆらゆらと揺れたままホームベース直前で右に曲がり、すぐ左に曲がった。清井はピクリとも反応を示さなかった。ワンストライク。振らなかったのは怪我の調子が思わしくないからか?

 二球目。同じくクイーン・プレイ。ゆらゆらと揺れ、今度は右に曲がった。清井はその球をバントした。清井がバント?全く予期しなかった行動に体は全く反応できなかった。一秒だろうか、それよりも短い時間だったろうか?ボールの勢いを殺したボールが一塁線上のラインに沿って転がっていくのをただ見つめていた。左の強打者の清井とあってファーストの山川さんはいつもより深く守っていた。僕が捕らなければセーフになるだろう。頭は冷静に状況を分析していたが、それでも体は反応しなかった。

 「中本!」

 梨田さんの怒号で金縛りがとける。慌ててボールを追う。が、ボールをラインを越え、清井もボールと並走するかのようにゆっくりと走っていた。怪訝に感じながらも、清井の前を通り過ぎてファウルゾーンを転がっていたボールを拾い上げる。

 「パーフェクト・ゲームを達成すると女神の加護が失われるらしいですね」

 清井の声に慌てて振り返る。清井の顔からは何の表情も読み取れなかった。

 「どうしてそのことを?」

 「俺を襲った奴らが親切にも教えてくれましたよ。続けて奴らは言いました。『アナタがパーフェクト・ゲーム達成を宣言したうちとの試合。全打席わざと三振しろ』と。にべもなく断ったら有無を言わさずドカンです」

 「―――そうだったのか」

 「で、アナタはパーフェクト・ゲームを達成すると女神の加護が失われる。つまり、プロノタマは今のままではいられなくなる。それでもなおそれを目指そうとするわけですか?」

 清井は聞いていないのか。聞いていながらもわざとなのか、少女のことは口にしなかった。

 「ああ」

 「なるほど」口の端が吊り上がる。「ピッチャーらしい考えだ」

 「どういう意味だ?」

 「アナタ達ピッチャーはある日突然、特別な存在になるためのチケットをぽんと受け取って特別な存在になる。特別な対価も払わずに。だから、簡単にそれを捨てられるんだ」

 「……」

 「血が滲むような努力。ピッチャーがその言葉を口にしても、それは只の誇張された表現に過ぎない。でも、バッターは違う。バッターがその言葉を口にしたなら、それは事実だ。誰もが同じ能力を持って産まれてくるこの世界で、特別な存在になろうと血が滲む努力を重ねた人間のみがプロのバッターとしてこのフィールドに立っている。バッターだったら裏でどんな犠牲が払われていようと、今の立場を捨てることなんて絶体にしない!」

 清井は怒っていた。プロノタマの世界を壊そうとしている僕にだろうか?血の滲むような努力の末に辿り着いた世界の裏で理不尽に苦しんでいる人がいる事にだろうか?それとも、それを知ってなおその世界を捨てることのできない自分に対してだろうか?

 「―――清井」

 「何ですか?」

 「お前には子供の頃に憧れた存在がいたか?」

 「いました。プロノタマの選手でした」

 「俺にもいた。俺もプロノタマ選手だった。初めてノタマの真実を聞いた時、正直迷った。知らない振りをしようともした。でも、できなかった。なぜなら、例えどんな事情があるにせよ、全力でバッターに立ち向かっていかないピッチャーは僕が憧れた特別な存在じゃないからだ。スタンドの子供たちに、何より過去の自分に嘘はつけない」

 清井が唇をなめる。

 「ピッチャーは全力で投げ、バッターは全力で打ち返す。それが僕の考えるノタマの本質だ。僕が許せない?だったら、そのバットでパーフェクト・ゲームを阻止してみればいい。その為にお前はそこにいるんだろ?」

 「二人共、早く戻って」

 審判が声がかける。

 「やってやるさ。言われなくてもな」

 そう言い残してバッターボックスに戻る。ボールをボールボーイに渡して審判からボールを受け取る。マウンドに戻ってボールを見つめる。プロノタマ選手となって三年間、たくさんの喜怒哀楽があった、その一つ一つがかけがえのないものとしてこれからの僕を支えていってくれるだろう。

 大きく息を吐いて清井と向き合う。最後の勝負。

 左足を少し引き、大きく振りかぶる。足をゆっくりとあげ、手首を固定したまま腕を振り、押し出すようにボールを弾く。最後のクイーン・プレイ。ボールはゆらゆらと揺れながらホームベースへと向かう。ホームベースの直前になって、左に、インコースへと鋭く曲がる。ボールは清井と初めて対戦した時にホームランを打たれたスライダーのような軌跡を描く。バッターボックスの後ろに立っていた清井がステップすることなくスイングを開始する。バットの根本にあたるが、振り切ったことによってボールは鈍い音と共に頭の上を抜けていこうとする。

 刹那、何かに突き動かされるようにある一点に向けてグローブをつけた左手を伸ばしていた。ボールは見えていなかった。でも、そこにくるという確信があった。

 ボールは―――。

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