第3話 女神の戯れ
時計が午前0時を指す。すると同時にプロノタマで使用される公式球を作っている工場から爆発が起こり、工場は炎に包まれた。サイレンが鳴り響き、当直にあたっていた警備員が右往左往している。その様子を離れたところからじっと見つめている集団がいた。その中の一人、顔を斜めに横切る傷を持つ男が双眼鏡を持って工場が炎に飲み込まれていく光景を憎しみの目で見つめていた。
パトカーが到着したのを確認すると、夜の闇へと消えていった。
ガシャンと投げたボールがホームベースの後ろに設けられている金網を叩く。ボールは全く変化をせずにホームベースを通り過ぎており、実際の試合で今のボールを投げていたら間違いなくスタンドまで運ばれていたことだろう。
真夜中の練習グラウンドには僕の他には誰もおらず、すぐ静けさが支配する世界へと戻る。
新しい変化球の練習を始めて一か月。練習の成果は全くでておらず、その間に四回先発として登板したが、途中で崩れてしまうという今までと同じ展開を繰り返してしまい、未だ勝ち星がついていなかった。
汗を拭い、籠から新しいボールを掴む。次の試合で結果を出すことができなければ二軍行きを命じられるだろう。にもかかわらず、浮上のきっかけを掴むことができていなかった。
ボールをじっと見つめる。
「回転こそ全て」
プロのピッチャーとなったものは先輩から必ずと言っていいほど、この言葉を聞かされる。回転を愛する女神の加護を受けるノタマ・パークでは、現実の何倍もの効果、一二〇キロのストレートが二〇〇キロ近いストレートになり、腰から膝に落ちる変化球が頭の高さから急降下する変化球へと化ける。いかにボールに多くの回転を与え、女神に愛される存在になるか。それこそがピッチャーとして成功するための唯一にして全ての鍵と言われていた。
ストレートにしろ、他の変化球にしろ握りこそ異なるものの、手首のスナップをきかせることに変わりはない。だったら、逆になるべく回転を与えないようにしたらどうなるのか?そう思って鷲掴みなど色々と握りを変え、手首のスナップをきかせないように投げてみたもののスローボールにしかならなかった。
逆、逆、逆か。
ボールを掌で転がしながら考える。今まで回転こそ全ての逆ということで、いかに回転を与えないかを考えてやってきた。でも、与えないのではなく、逆の回転を加えたら?スナップを効かせることが上から下へとの力ならば、逆、下から上、そうボールを弾くことによって下から上の力を加えることができたら?
自分の考えに思わず息を呑んでいた。客観的に見たらうまくいく保証なんかどこにもないだろう?今までそんな投げ方をするピッチャーは見たことがない。誰かが試したがダメだったからこそいないだけなんじゃないのか。そんな考えが頭をよぎるが大丈夫だ。この考えでいける。そう、確信があった。もしかしたら女神様が囁いてくれたのかもしれない。
ボールを親指と小指で支え、残った三本の指を突き立てる。軽いキャッチボールのつもりで、ゆっくりと足をあげ手首は固定したまま三本の指でボールを押し出すように投げる。
瞬間、頭の中に白い少女が浮かび、衝撃が全身を駆け巡った。ピッチャーが目指すべきと言われている状態があった。ゾーン―――集中力が限界まで高まり、普段の限界以上の実力を発揮できる状態。ゾーンを経験したことのある数少ないピッチャーはどういう状態だったのかと聞かれると決まって同じ言葉を口にした。頭の中に白い少女が浮かんだと。そのため、ゾーンはその少女を女神の化身と呼び、女神と繋がった状態と呼ばれることもあった。
これがゾーン?信じられない気持ちでボールの軌道を追う。
ボールはゆらゆらと揺れながらホームベースへと向かっていき、右に曲がったかと思ったら、次の瞬間には左に曲がっていた。
何だ、今のは?自分で投げたにもかかわらず、信じられない気持ちで見つめていた。その時、初めてバックネット裏からこちらを見つめている人がいたことに気付く。フードを目深に被っていたため、詳しくは分からなかったが、背丈からは子供か女性のように見えた。その人物はこちらの視線に気づいたのかそそくさと立ち去っていった。
少し気になったものの、今の感覚を忘れないためにも気を取り直して練習を再開した。
「ったく、アイツらは!」
目の前では工場が炎に包まれ、もくもくと煙を吐き出し続けていた。情報網から今日決行すること知り、慌てて駆け付けたものの、間に合わなかった。口からは自然と毒がある言葉が漏れる。
誰かが通報したのか次々とパトカーが集まってくる。このままここにいたらあらぬ容疑をかけられかねないので、早々に立ち去ることにした。
夜道を一人歩く。
かつて同じ志を共にしながら、今は道を分かった仲間が事件を起こす度に考えさせられる。自分が正しく、彼らが間違っている。道を分かった日からそう信じてやってきた。でも、本当にそうなのだろうか?彼らのように具体的な行動を起こすことなく、ただ望むべき者が現れるのを待つ日々。
「お前は綺麗事ばかり言って、自分の身がかわいいだけなんじゃないのか?」
決別の日、最後に言われた言葉が蘇ってくる。あの日は「そんなことない!」とすぐ言い返すことができた。だけど、今同じ言葉を言われたらアタシは言い返すことができるんだろうか?
ガシャンとボールがネットを叩く音に思索を打ち切る。素早く視線を巡らせる。気付かぬうちにドルフィンズの練習場まで歩いてきたようだった。グラウンドではとある選手がピッチング練習を行っている。
何気なく立ち止まって練習場を眺める。最初は暗いことも手伝って誰だか分からなかったが、闇に目が慣れてくれると誰だか分かるようになった。確かドルフィンズの中本とかいう投手のはず。開幕から先発ローテーションに入っているものの、勝ち星がついていなかったために特訓中なのだろうか?
一般的にプロのピッチャーはあまり練習をしないと言われていた。明確な意志と絶え間ない努力を積み上げた者のみがなれるバッターと違い、全ては女神次第と言われるピッチャーはよくも悪くも受け身的な所があった。抑えられるか打たれるかは全て女神様次第だと。
特訓を行うピッチャー。初めて見る対象に興味をそそられ金網に手をかけてじっと見つめる。何の意図があるのかはよく分からなかったが、中本は様々なフォームから何の変化もしないボールを投げ続けていた。表情から見るに本人は大まじめなんだろうが、はたから見る分には遊んでいるようにしか見えない。
思い通りにいっていないのか投球をやめてじっとボールを見つめている。しばらくそうしていたが、何かを思いついたのかセットポジションに入る。今までとは打って変わり、躍動感の全くないフォームから投げられたボールは今まで見たことのない軌道を描いてホームベースを通過していった。
舌をなめる。
中本と視線が合う。事件にかかわっていると思われるとやっかいなので、フードを目深に被り直して早々に立ち去る。
いた!ここにいた!探し求めていた人物がここにいたんだ。心のもやが晴れ、軽い足取りでアジトへと足を向けた。
午前〇時三十分頃。
スマートフォンの着信音が、一定のリズムを刻んで鳴り続けていた。心地よいまどろみから現実世界へと引き戻される。ぼんやりとした頭でスマートフォンを見る。秘書からだった。
「―――何だ?」
ぶっきらぼうな声で電話にでる。この時間帯に秘書からかかってくる電話にロクな用件はない。
「夜分遅くに申し訳―――」
「用件は?」
秘書の挨拶を遮って先を促す。
「タマノのボール製造工場で爆発がありました。キラー・クイーンによるテロと思われます」
テロ―――政治的な目標を達成するために暴力及び暴力による脅迫を用いること。驚きはなく、ぼんやりとした頭にテロの意味が浮かぶ。
「奴らの声明は?」
「我らは女神の存在を許さない、との声明が新聞各社に」
「いつも通りだな。会長は何て言っている?」
「タマノの社長には俺から話をしておく、と」
「なるほど」頭の中ではシナリオが、今まで何度も描かれてきたシナリオが自動的に組み上げられていく。「コメントを考えておいてくれ。朝になったら緊急記者会見を開く」
「分かりました」
「じゃあ、よろしく」
「はい。では失礼致します」
スマートフォンを放り投げて一つ息を吐く。ベッドから抜け出し、べランダにでて外を眺める。夜の闇の中に赤い炎が鮮やかに映し出されていた。
道があった。二つの道が。一つはどこに続いているかが分かる真っ直ぐな道。もう一つは曲がりくねり、どこに続いているか、そもそもどこかに繋がっているのかすら分からない道。僕は真っ直ぐな道を。つらくて楽な道を選び、彼らは曲がりくねった道を選んだ。そして、今彼らもこの光景を見ているはずだ。
彼らは今どんな気持ちでこの光景を見つめているんだろう?
『タマノスポーツのダブルティ工場で爆発が起こり、死傷者四名を出した事件でテロ組織キラー・クイーンのメンバーが関与している可能性が高いとことが警視庁の調べで明らかになりました。
調べでは爆発があった時刻に工場を見つめていたグループがいたとの目撃情報があり、警視庁ではこのグループの特定に全力であたるとしています』
「今日の試合で結果を出せなければ二軍に行ってもらう」
先発予定の試合前に監督室に呼ばれた。入ると開口一番にそう告げられる。予期していたことではあったが、実際に告げられるとやはりショックだった。
「分かりました」
平静さを装って返答する。結果を出すことができれば何も問題ない。自らにそう言い聞かせる。
「話は以上だ」
「失礼します」
一礼して監督室から出る。結果を出すんだ。再度自らにそう言いきかせ、プルペンへと向かった。
ブルペンでキャッチボールを開始する。いつもは肩がある程度温まったら、キャッチャーを座らせて全力でピッチング練習をするのだが、今日はいつもとやり方を変えてキャッチャーを立たせたまま軽いキャッチボールを続けていた。
「おい、中本。本当に座らなくていいのか?」
キャッチャーの竹久さんが心配して確認してくる。「このままで大丈夫です」とだけ短く答えて軽いキャッチボールを続ける。
今、フィールドでは今日の出場選手の発表が行われているらしく、歓声がもれ聞こえてくる。
「―――先発ピッチャー、中本翔人、背番号二八!」
僕の名前がアナウンスされると同時に歓声と悲鳴がこだました。その反応に思わず苦笑が漏れる。相手チームのファンにとっては最高の先発ピッチャーで、自分のチームのファンにとっては最低の先発ピッチャーってことか。まあ、開幕からずっと相手チームに勝ち星をプレゼントしているんだから、その反応になるのも無理はない。
「中本、あまり気にすんなよ?」
「大丈夫です。試合が終わる頃には今とは逆の反応になっているはずですから」
「そうだ!その意気だ!」
気にする素振りも見せずにキャッチボールを続ける。中本翔人、一世一代の大勝負。後三十分でその幕が切って落とされる!
「レフトフィールド、竹原信二!」
アナウンスの後に続いて選手が勢いよくベンチから飛び出して守備位置へと向かっていく。野手八人が守備位置へとついて僕の番がくる。
「ピッチャー、中本翔人!」
大きく深呼吸し、左胸を二回叩いてマウンドに向かう。
「中本ー!今日もいつも通りのピッチングをして勝ち星をプレゼントしてくれよー」
相手チームのファンからのヤジに一部で喝采があがるが、変わらぬ足取りでマウンドへと立つ。ピッチング練習をしようとすると、キャッチャーの梨田さんが駆け寄ってくる。
「念のための確認だ。試合前に言っていたこと、本当にやるのか?」
梨田さんには試合前に新しい変化球について話していた。どこに変化するか分からない変化球しか投げないと。
「ええ」
決意を伝える意味を込めてはっきりと告げる。
「分かった。お前がそう言うなら俺はもう何も言わない―――生き残れよ」
今回の登板がラストチャンスなのは、梨田さんも知っていたんだろう。それ以上は何も言わずに守備位置へと戻っていく。
梨田さんが座ったのを確認してピッチング練習を始める。力みのないフォームから力ない球がキャッチャーミットに収まる。
「中本!お前やる気あんのかー!」
「そうだ!何だその球は!」
相手ファンに続いて味方ファンからもヤジが飛ぶ。構わずに力ない球を投げ続ける。連敗中でファンも気が立っているのか、指定の投球数を終えた頃にはスタジアムは殺伐とした雰囲気に包まれ始めていた。
なめられていると思ったのか、怒りの表情を浮かべたまま一番バッターがバッターボックスに入り、プレイボールのかけ声がかかる。刻がきた。
親指と小指でボールを支え、残り三本の指をボールに突き立てる。振りかぶることはせず、試合前の投球練習と同じように軽く足を上げる。ゆったりとしたフォームから手首を固定したまま腕を振り、リリースポイントで三本の指でボールを押し出すように弾くと脳裏に白い少女が現れる。ボールは右へ左へゆらゆらと揺れながら、ホームベースを通過してキャッチャーミットへと収まった。
一瞬の間を置いて、審判の右手があがり、ストライクがコールされる。
バッターは呆然とした表情でボールが収まったキャッチャーミットを見つめていた。一球目の投球がバックスクリーンのオーロラビジョンに映し出されると、静寂の後にざわめきがスタジアム全体に広がっていった。
梨田さんからの返球を受け取る。スタジアム全体がざわめく中、投球モーションに入る。二球目は一球目と同じようにゆらゆらと揺れ、右に曲がったかと思えば、次の瞬間にはその逆へと軌道を変える。バッターはおろか、キャッチャーも捕ることができずにミットのふちに当たったボールがグラウンドに転がる。そのボールを、バッターが、キャッチャーが審判が、そして観客が見つめていた。
「た、タイム!」
バッターがタイムをかけ、急いでボールへと駆け寄って拾い上げる。手の中でボールを転がす。不正の証拠を見つけようとしているのか必死にボールを見つめている。三十秒ほどそうしていただろうか、何も見つけられなかったらしく顔をあげる。
「すいません、ボール変えてもらっていいですか?」
持っていたボールをボールボーイへと投げる。
審判から新しいボールを受け取る。三球目。今までと同じようにゆらゆらと左右に揺れながら飛んでいく。バッターがスイングを開始するが、それをあざ笑うかのようにホームベース前で急降下し、ボールはキャッチャーと審判の股下を抜いてバックネット裏の金網を叩いた。
バッターは何が起きたのか分からずにスイングを終えた体制のまま固まっている。審判が戸惑いの表情を浮かべたまま三振をコールする。静まり返るスタジアム。ゆらゆら揺れた後に急に落ちる球。その軌道がオーロラビジョンに映されると驚きと困惑が広がっていった。
梨田さんからボールを受け取る。
二番バッターが一番バッターから何やら耳打ちを受けている。困惑した表情のままバッターボックスに立つ。一球目。ホームベース前で急に左に大きく曲がり、外角一杯に決まる。ストライク。二球目。ゆらゆらと揺れたままのボールがバットの下ッ面を叩く。セカンドの辻さんが捕ってツーアウト。
三番バッターは初級から振りにきたものの今度はボールの上ッ面を叩き、大きなフライがあがる。センターが定位置からあまり動かずに手をあげて余裕を持ってボールを捕球する。
スリーアウト!大きく胸を撫で下ろす。グローブをポンと叩き、大股でベンチで戻っていくと梨田さんが目を見開いて近づいてくる。
「すげーな、おい」
「自分でもここまでうまくいくとは思いませんでしたけどね」
梨田さんと並んでベンチへと戻る。
「キャッチャーの俺ですら捕れない球なんて、そりゃ打てんわな。もうキャッチャーやって十年になるが、こんな経験今までなかったぞ!」
興奮した梨田さんの口調にいけるんじゃないかという自信が増していく。スタメンの野手がベンチへと戻ってきて、控えの野手が出迎える。今までと同じように野手たちは声はかけてこないものの、こちらの様子を伺って会話に聞き耳をたてているのを感じる。
「ナイスピッチング!」
そんな中ショートの田辺さんが声をかけてくれる。
「ありがとうございます」
「後ろから見てたが、すごい変化してたな。あれって、一球一球意図して変えてんの?」
田辺さんが隣に腰を下ろす。
「いえ、実はどう変化するかは僕にも分からないんです」
「えっ」
監督、コーチ含めベンチの中にいる人間の視線を一身に集める。
「分からないってどういうこと?」
「ピッチャーはいかに多くの回転を与えるかが全てってよく言うじゃないですか?」
「まあ、よくそう聞くな」
「だったら逆に回転をできるだけ与えないようにしたらどうなるんだろうって考えて色々と試行錯誤した結果、どう変化するのか投げている本人にも分からない変化球が出来上がったってわけです」
「なるほど、逆転の発想ってわけか」心底感心した様子で相槌を打つ。「しっかし、梨田も大変だな。どう曲がるか分からない変化球なんて」
「本当ですよ。ランナーがいないからいいものの、ランナーがいたら盗塁されまくりで洒落にならないっすよ」
「まあ、三塁までいかれてもホームラン打たれなきゃいいんで……」
「ってお前ランナー出してもあの球投げるつもりかよ!」
「いや、抑えられないからこそ、あの球習得したわけですし……」
梨田さんに詰め寄られ、弱々しく言い返す。
「まっ、確かにあの球をホームラン打つのは難しいだろうから割り切るしかないんじゃないかな」
田辺さんの言葉に梨田さんが頭をかく。
「シーズン最多パスボール決定だな。こりゃ、俺にそれを求めるならちゃんと結果残せよ、お前」
「が、頑張ります」
「よし!」納得したように大きく頷く。「ところでお前、あの変化球に名前とかつけてんの?」
「名前ですか?特には……」
「そりゃ、ダメだろ。あんなにすごい変化球編み出したんだからちゃんと名前つけないと」
「確かにあの球じゃしまらんわな」
「そうそう、名前つけようぜ名前」
「いや、でも……」
「しゃーない。思いつかないなら俺が代わりにつけてやるよ。やっぱり編み出した奴の名前を付けた方がいいよな。中本翔人だから、ハヤト・ボール―――」
「あります!実は考えたのがあります」
このままいくとハヤト・ボールで押し切られそうなので、慌てて反論する。
「なんだよ、あるならあるって最初から言えよ。で、何?」
「―――クイーン・プレイです」
恥ずかしさで声が小さくなる。
「あん、声が小さくて聞こえなかった。何だって?」
「クイーン・プレイ。女神の戯れです」
手応えをつかんだあの日、高くなったテンションのまま名前を寝ずに考えたものの、後日冷静になって口にしてみると無性に恥ずかしくなってきた。
「いいじゃん」と田辺さん。
「カッコいいじゃん」と梨田さん。
「本当ですか」と半信半疑な僕。
「本当だって。よし!じゃあ、中本には勝利投手になってもらって、ヒーローインタビューで新変化球発表といこうか!」
「いいですね、それ。じゃあ、中本の今シーズン初勝利に向けて頑張っていきますか」
「田辺さん、よろしくお願いします」
「おう、任せとけ」
田辺さんがネクストバッティングサークルに向かう。そして、打席では見事ホームランを放った。
ヒーローインタビューで新変化球発表か。それが実現できるように頑張るとしますか。
試合はいつもとは異なる雰囲気で進行していった。喝采と悲鳴が交錯する先発投手発表、ブーイングが乱れ飛ぶ中での投球練習。そして今まで見たことのない軌道を描く変化球。
ゆらゆらと揺れながら進んでいき、突然軌道を変える。そのまま進んでいくこともあれば、急に落ちることもある。右に曲がったかと思えば、次の瞬間には左に曲がる。その変化球を前にすれば、バッターはおろかキャッチャー、審判すら困惑しているように見えた。
連敗中でピリピリしていたドルフィンズのファンも―そのピリピリは中本のやる気のなさそうな投球練習でピークに達したように見えた―いざ投球が始めると、それまでのざわめきが嘘のように静まり返った。困惑、驚き、そして熱狂へ。一球一球ごとにスタジアムにいる全員がバックスクリーンを凝視する光景は異様ですらあった。
独特な雰囲気のまま試合は進んでいき、中本が今までノックアウトされることの多かった五回もあっさりと三者凡退で切り抜けて最終回を迎えた。
ギィンと今日何回目か分からない鈍い音を残して、ボールはゆっくりとショートの田辺さんの元に転がっていく。ゴロをさばいてファーストに投げる。ワンアウト。
試合は二対〇でリードを迎えたまま最終回を迎えた。三本のヒットを打たれていたものの単発に終わり、完璧に捉えられた打球は一球もなし。
ファーストの山川さんからボールを受け取り、息を吐く。あと二人。
今までのピッチングが嘘のように調子がよかった。魔の五回もあっさりと越えることができた。気にすることは二つだけ。同じポイントから投げることとしっかりとボールを押し出すこと。この二つだけ。梨田さんが求めている球をきちんと投げられるか、バッターの想像を上回ることができるかなんて考える必要はない。ボールがどんな軌道を描くかなんて女神様以外には誰にも分からないんだから。
僕は二つのことだけに注意して、余計なことを考えずに投げ続けるだけ。
次のバッターは高々とフライを打ち上げて、キャッチャーの梨田さんが捕球する。ツーアウト、あと一人。
最後のバッター……になる予定の高田さんがバッターボックスに入る。その顔には困惑した表情、バッターはきまって困惑した表情を浮かべたままバッターボックスに入っていた。そのことは忘れかけていた優越感を思い出させた。そうだ、僕は選ばれし者なんだ。
気をよくしてバッターと向き合う。一球目。ゆらゆらと左右に揺れながら進んでいき、そのままキャッチャーミットに収まる。ワンストライク。二球目。スライダーのように左に大きく曲がる。ツーストライク。三球目。急降下するボールを捉えることができずにバットが空を切る。三振スリーアウト。ゲーム終了。
審判のゲームセットを告げる声を聞いた瞬間、まるで優勝を決めたかのように両手を高々と天へと突き上げていた。
「スタジアムにお越しの皆さま。大変お待たせ致しました。ヒーローインタビューのお時間です。本日のヒーローはモチロンこの人!今シーズン初勝利アンドプロ初完封を達成しました中本翔人選手でーす!それでは中本選手、こちらにお越しください」
インタビューアーに名前を呼ばれ、ベンチからホームベースに設けられているお立ち台に向かう。
「中本、やくやったぞー」
「ナイスピッチングー」
拍手と歓声に今まで感じたことのない感情を覚えながらお立ち台に立つ。
「中本選手、ナイスピッチングでした」
「ありがとうございます」
「ヒーローインタビューは初めてですよね」
「そうですね、初めてですね」
「どうですか?お立ち台から見る景色は?」
ゆっくりと時間をかけてスタジアムを見渡す。いつもとは逆からの光景は新鮮で、この時初めて僕の背番号である二八のタオルを多くの人が掲げてくれていたことに気付く。
「ずっとこの場所に立ちたいと思っていましたので、ここから見る景色はホッント最高でーーーす!」
叫び声に反応して大きな歓声があがる。
「それでは今日の試合を振り返ってもらいたいと思います。今シーズンは開幕から先発ローテーションを任されたものの勝ち星がつかず、苦しい登板が続いていたかと思いますが、本日の登板はどんな気持ちでマウンドに上がられたんですか?」
「そうですね、開幕から先発ローテーションを任せてもらって、監督をはじめ多くの人に期待されてのシーズンだったんですが、その期待に全く応えることができずに本当に申し訳なく思っていました。もし今日のマウンドで結果をだすことができなければ次のチャンスはない。そう思って今日のマウンドにあがりました」
「なるほど。それほどの覚悟を持って今日のマウンドに上がられていたわけですね。期待に応えるこちができなかったとのことですが、原因についてはどのようにお考えだったんですか?」
誰も見たことのない豪速球な質問に言葉が詰まる。他の人のインタビューを見ることはあまりなかったけど、こんな突っ込んだ質問をされるものなんだろうか?質問された以上答えないわけにもいかず、必死に頭を回転させる。
「そうですね。二年目は何も分からずにがむしゃらにやれたんですが、三年目は周りが見れるようになってきた分、色々と考えるようになってしまって、それが気付かないところで影響を及ぼしていたんだと思います」
「なるほど、一種の二年目のジンクスだったわけですね?」
「そうですね」
「では、見事二年目のジンクスを打ち破った本日のピッチングを振り返ってもらいましょう。スタジアムの皆さんも気になっていると思いますので、ずばりお聞きします。あの変化球は何ですか?」
ホッント、ずばりと聞く人だな。その質問でスタジアムの空気が一変したのを肌で感じる。唇をなめた後に口を開く。
「そうですね。今までと同じことをしていてはダメだ。何かを変えなきゃいけない。そう考えて編み出したのがあの変化球です」
「色々変化していたみたいですが、新しい変化球は何種類あるんですか?」
正直に答えるべきか、誤魔化すべきか。今後にもかかわってくるためどう返答すべきか判断に迷う。しばしの熟考の末に言葉を紡ぐ。
「―――クイーン・プレイ」
「クイーン・プレイ。何ですか、それは?」
「僕が編み出した新しい変化球の名前です。クイーン・プレイ、女神の戯れ。この変化球は今までの変化球とは全く違う変化球なんです」
「今までとは全く違う?それはどういう意味なんでしょうか?」
「普通の、今までの変化球はいかに回転を与えるかを考えてきたかと思います。回転を与えることができれば女神様の加護を受けて、ここではより多くの恩恵を受けることができる」
「ええ。そう言われていますね。では、中本選手の新しい変化球はどう違うのでしょうか?」
先を促すインタビューアー。一呼吸を置いて応える。
「僕の新しい変化球はできるだけ回転を与えない変化球なんです。ピッチャーが曲げようと回転を与え、女神がそれを増加させる。それが今までの古い変化球。僕の新しい変化球は回転をできるだけ与えず、女神が女神の曲げたいように曲げる変化球なんです」
半分本当で半分嘘だった。できるだけ回転を与えないようにしているのは本当だったが、何で意図せぬ曲がり方をするのかは投げている本人にも分からなかった。そんなことは憶にも出さずに堂々と告げる。
「女神様が、女神様の曲げたいように……」
息を呑むインタビューアー。インタビューアーだけでなく、このインタビューを見ている多くの人が息を呑んだんではないだろうか?これまでの常識をくつがえす、世界は平であると信じられている時に世界は丸いということに等しいことを言っているんだから。
「そう、それがクイーン・プレイ。女神の戯れなんです。僕はこのクイーン・プレイは投げる時は必ずゾーン、女神と一体になることができます。もしクイーン・プレイをホームランにすることができるバッターがいるとしたら、それは僕以上に女神に愛されているバッターだけでしょう」
「こ、これは大変頼もしいピッチャーが誕生しました。では、中本選手。本日お越し頂いたファンの皆さんに一言メッセージをお願いします」
「はい」再度スタジアムを見渡す。「今まで皆さんの熱い声援に応えることができずに申し訳ありませんでした。でも、これからは違います。この新しい変化球、クイーン・プレイと共に今までの汚名返上していきますので、これからも熱い声援よろしくお願いします!」
至るところから歓声と拍手が湧きおこる。
「女神の寵愛を一身に受けるピッチャー、中本選手に今一度大きな声援をお願いします」
この日一番の歓声と拍手がニューヒーローである僕の体に降り注ぐ。これだ。これこそが僕の求めているものであり、こここそが僕のいるべき場所だ。そう思った時、涙が頬を伝っていた。
ボールはゆらゆらと揺れながらホームベースの前まで進んでいく。ここまではいい。問題はここからだ。ホームベース付近、つまりバッターが打とうとするポイントにくると理解不能な軌道を描く。そのまま進んだかと思えば様々な方向に急激に曲がりだす。何度ビデオを見ても曲がる時と曲がらない時の違いが分からない。ゆったりとしたフォームから手首のスナップを使わずに三本の指でボールを押し出すように投げている。なぜ同じ握り、同じ投げ方でここまで違った結果になるんだろうか?
ソファーへと身を深く沈みこませる。打てるのか、この球を?
「―――清井」
名前を呼ぶ声に慌てて後ろを見る。石井さんがすぐ後ろに立っていた。
「ここまで近づかないと気付かないなんて珍しいな」
「え、ええ」
姿勢を正す。いつもなら人が近づいてきたらすぐ気付くのだが、石井さんが近づいていることに全く気付かなかった。
「あのピッチャーのビデオ見てたのか。俺も一緒に見ていいか?」
「もちろんです」
石井さんが隣に腰を下ろす。スカウトが編集してくれたビデオを巻き戻して最初から再生する。テレビにあのピッチャー、今日この日にノタマ関係者にあのピッチャーと言えば誰もが思い浮かべるであろう中本投手が映し出される。まだ試合が終わって日付が変わっていないにもかかわらず相手チームにピッチング内容が共有されるほど衝撃的なピッチングだった。
ビデオには今日のピッチング、打者三十人に対して三振十二、死四球〇、被安打三、失点〇という文句のつけようのないピッチングが収められていた。
「すごいピッチャーがでてきたもんだな」
「そうですね」
画面にはどうしていいか分からずに打ち取られていくバッターの姿が次々と映し出されていく。
「お前は中本って印象に残ってたか?」
「全然です」首を横に振る。「可もなく、不可もなく。言い方は悪いですが少なくともエースになれるようなピッチャーだとは思いませんでしたね」
「だよねー、俺も似たようなイメージしか持ってなかった。それが急にこれだもんなー。うわっ、鈴木のこんな表情初めてみた」
オーシャンズの四番である鈴木さんが三球とも呆然と見送って三振になったシーンが映し出されている。
「いつも三振しようがエラーしようが自信あり気な表情を崩さない鈴木さんでこれなんですから、バッターボックスから見たらよっぽど衝撃的だったんでしょうね」
「いきなりこんな球投げられちゃ無理ないがな」
次のバッターも三振に倒れる。最後の球などはバットとボールが何十センチも離れていた。
「クイーン・プレイ、女神の戯れか。お前はどう思う?」
「正直、分からないとしか言いようがありません。何度見ても同じ握り、同じ投げ方です。それにも関わずボールは全くバラバラの軌道を描いている」
「キャッチャーの梨田でさえ捕れない球だからなぁ」
石井さんが頭の後ろで手を組んでソファーに体を預ける。
「最初はわざと、コントロールできないと思わせるためのブラフかとも思ったんですけどね」
「梨田に関してはないな」
「ですよね」
隠し球をした味方のファーストにベンチ裏で汚いことをするなと詰め寄ったとニュースになった梨田さんがそんなことをするとは考えにくかった。
「おっ、ヒットだ」
ふらふらとあがったフライがちょうどセンター、ショート、セカンドの真ん中に落ちる。たった一本のヒットにもかかわらずスタジアムは悲鳴が連呼していた。
「当てた、というよりかは当たったって感じだな」
「打った本人が一番びっくりしてるんじゃないですかね?」
「塁上の様子を見るとそうだろうな」
打ったバッターはポテンヒットにも関わらず塁上で大袈裟なガッツポーズを見せていた。
「打たれた三本のヒットの内、一本がこれか」
「後二本も似たようなものです。試合を通して真っ芯で捉えたっていう当たりはありませんでしたよ」
「大きく変化しないことに賭ければ一試合で何本かはヒット打てるだろうが、少しでもあそこまで予期せぬ変化をされるとホームラン打つのは難しいな」
「真っ芯で捉えないとホームランにならないですもんね」
「ヒット何本打ってもホームラン出なきゃ点にならないからねー。あっ、もう十時か。ちょっとスポーツニュース見ていいか?」
「どうぞ」
石井さんがリモコンを手に取ってスポーツニュースにチャンネルを合わせる。ニュースではちょうど中本選手のヒーローインタビューが映しだされている。
『―――この新しい変化球、クイーン・プレイと共に今までの汚名返上していきますので、これからも熱い声援よろしくお願いします!』
『女神の寵愛を受けるニューヒーロー、中本選手に今一度大きな声援をお願いします』
スタジアム全体からの歓声と拍手に感極まったのか涙を流していた。
「汚名返上、ね。まっ、ドルフィンズのファンもきついのが多いから結果だせないときついだろうな」
「試合前はヤジがすごかったみたいですけどね」
「驚きのニューヒーロー誕生か」画面右上のテロップを読み上げる。「マスコミ様はヒーローが好きだねー」
皮肉気な口調で呟く。
「まあ、マスコミの立場からしたら、注目を集めてくれる存在がいた方がいいでしょうからね」
「一か月前のヒーローは語る、か」石井さんが面白そうにこちらを見る。「マスコミの皆さんが待ち望んでいるのは、史上最年少月間MVP受賞者対女神に愛されし魔球を投げる男の対決ってわけだ。どうよ、勝算は?」
質問には答えずに自分の手の平を見つめる。指の下の皮を親指でなぞる。豆ができ、潰れ、再度豆ができる。それを繰り返して堅くなった掌。今まで何回バットを振ってきて、これからも振り続けるんだろう。女神に選ばれなかった者がプロノタマ選手になるということはそういうことだ。
「―――打ちますよ」
視線を掌へと落としたまま答える。
中本。甘いよ、お前は。三カ月結果がでず、結果がでた途端に涙を流すお前はな。お前がどれだけのものを積み上げてきたというんだ。俺たちバッターがどれだけのものを積み上げてきたと思っているんだ。
「清井?」
彼は言った。『クイーン・プレイをホームランにすることができるのは自分以上に女神に愛された存在だけだ』と。いいだろう、なら俺がその存在になってやる。
”ある”ではなく”なる”。ある日女神に選ばれてプロノタマ選手となるピッチャーと違い、バッターはプロノタマ選手になる。努力を続けてプロノタマ選手になり、プロノタマ選手であり続けるためには努力を続けるしかない。努力をしようがしまいがプロノタマ選手であり続けることができるピッチャーとは違う。
「打ちますよ」
再度、自分の決意を口にする。そう、決意だ。できる、できないかは問題じゃない。問題はやるか、やらないか、決意の問題だ。
打てる、打てないじゃない。打つか、打たないかだ。そして打つと決めた。
「俺は、クイーン・プレイをホームランにしてみせますよ」
顔をあげ、石井さんを真っ直ぐに見つめて告げる。決めたら後は実現させるだけだ。そうやって俺はここまで辿り着いたんだから―――。
「皆さん、こんばんわ!ノタマ・ナイトのお時間がやって参りました。司会の木居正哉です。本日も生放送でお送りして参ります。本日はゲストに二名の方にお越し頂いています。
一人目は現役時代、火の玉ストレートと呼ばれる直球のみでバッターをねじ伏せていた西野正さん。西野さん、よろしくお願いします」
「はい、よろしく」
「二人目は精密機械と呼ばれる正確なコントロールが武器だった南別府さんです。南別府さん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「本日は現役時代タイプの違うお二人の目には今、話題のあるピッチャーはどう映っているのかを中心にお話を聞いていきたいと思います。では、まずこちらのVTRをご覧ください」
『カウントツーストライク、ノーボール。ピッチャー中本ゆったりとしたフォームから投げた!ボールはふらふらと揺れ、あっーーーとホームベース直前で急降下!バッター柴田のバットは空しく空を切ります。三振!スリーアウト!ゲームセットです。すごい!すごすぎる!すご過ぎて形容する言葉が見当たりません。三試合連続完封勝利。三試合で打たれたヒットはわずか五本。魔球クイーン・プレイを編み出してからの見事な快進撃!誰がこの男を止めることができるのか。女神が待ち望むパーフェクト・ゲームに今最も近い男といっても過言ではないでしょう。とにかく、すごすぎます』
「ハイ、というわけでクイーン・プレイ、どのように曲がるのかは女神にしか分からないと言われる全く新しい変化球を武器に快進撃を続ける中本選手の最新の試合の映像をご覧いただきましたが、西野さんは中本選手のことをどうご覧になっていますか?」
「素晴らしい!もうこの一言ですよ。聞くところによるとこのクイーン・プレイはボールにできるだけ回転を与えないようにすることが肝なんだそうですが、いかに回転を与えるかが全てと言われている世界で、その常識に捕らわれず新しい変化球を編み出した偉大なる革新者ですよ」
「直球しか投げられない脳筋はこれだから困る」
南別府がぼそっと呟く。
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
「では、次に南別府さんにお話しをお聞きしたいと思います。南別府さんは中本選手のことをどうご覧になっていますか?」
「邪道です。私は彼のことを認めていません。どこに曲がるか分からない変化球など言語道断です」
「自分が投げられないからって嫉妬かよ」
西野がわざと聞こえるような声量で呟く。
「何か?」
南別府のこめかみに青筋が浮かび上がる。
「ハイ、西野さんは肯定派、南別府さんは否定派とのことですが、一般の方百名にアンケートを取っていますので、ここでその結果を発表したいと思います。結果は肯定が九五名、否定が五名ということで肯定多数となっております」
「まっ、当然の結果だな」と腕を組んで頷く西野に対し、南別府は「全く嘆かわしい」と苦虫をかみ潰したかのような顔を浮かべていた。
「南別府さんはこのアンケート結果をどうお考えですか?」
「悲しい、私は本当に悲しい。いい機会ですので、今日は言わせてもらいます。最近のノタマを取り巻く環境を見ると私は本当に悲しくなります。ノタマの本質に全くと言っていいほど目が向けられていません。私はそれが本当に悲しい!」
机を力一杯に叩き、コップの水面が揺れる。
「南別府さんが考えるノタマの本質は何ですか?」
「いいですか」よくぞ聞いてくれましたと身を乗り出す。「ノタマは創世の女神であるクイーン・オブ・ノタマに自在にボールを操ることができるようになったかを示して敬意と感謝を伝える祭典が由来と言われています。つまりノタマの本質とは力の限りを尽くして自在にボールを操ることができるようになるということです。それがなんですか。投げた本人がどう曲がるか分からない変化球って。ノタマの本質を理解している人間からしたら、そんな変化球を肯定するなんてありえない話ですよ!」
話している内に段々と興奮してきたのか顔が赤くなっていく。
「邪道も邪道、大邪道ですよ。こんな変化球、コミッショナーが禁止すべきですよ。大体ね、先代からコミッショナーもおかしいんですよ。何かある度にビジネス、ビジネスと。挙句の果てにはホームランがでやすい―――」
「西野さんは!」木居が大声で南別府の言葉を遮る。「ノタマの本質は自在にボールを操ることができるようになること。この南別府さんのお考えについてはどうお思いですか?」
「その考えはごもっとも。でも俺の考えは違った」
「では西野さんはノタマの本質は何と心得ますか?」
「それは真剣勝負ですよ。ピッチャーは打たれないように全力を尽くす。バッターはホームランを打つために全力を尽くす。全力対全力の真剣勝負を女神に見てもらう。それこそがノタマの本質です。ずっとピッチャーが優勢だったわけですが、バッターの不断の努力によってバッター優勢へと変わってきました。ホームランも大分増えましたしね。そこへ中本選手が新しい変化球を引っ提げて三試合連続完封という見事な結果をだしました。これによってバッターもクイーン・プレイを打つために更に努力を重ねることでしょう。この状況に女神も喜んでいると思いますよ」
「なるほど、真剣勝負なことによる絶え間ない研鑽ことがノタマの本質であると」
「そうです。ノタマはピッチャーにバッターという相手あってのスポーツなんですよ。自在に操ることが本質だっていうなら、遠くの的に向かって投げときゃいいんですよ」
「自分に克てない者が相手に克てるだろうか。いや、克てるわけがない。相手がいるかどうかは問題ではない。ノタマという場において自分に克てるか?自分が思い描いている理想の自分を超えていくことができるのか。ノタマとは選ばれし者が自分を超えるという試練に励む修行の場なんです」
冷静さを取り戻したのか落ち着いた口調で告げる。
「こいつは昔からこうなんですよ。目の前の現実を無視して頭の中でごちゃごちゃ考えたことこそ正しいと正当化し始めるんですよ。だから一人で的に当てる修行に励んときゃいいだろ」
「うっせーんだよ、この脳筋やろー!」冷静さが一瞬で消し飛んだ。「変化球投げられないくせに七色の変化球を投げ分けてた俺にえ偉そーな口調を聞いてんじゃねーよ」
「はい、でたー。都合が悪くなるとキレる癖も変わってねーな。じゃあ、ストレートしか投げられない脳筋に防御率で二点以上負けてるのはどこの誰かなー」
「うっせーんだよ、やっちまうぞ、このヤロー」
南別府が席を勢いよくたって西野にとびかかる。「面白えじゃねえか」不敵な笑いを浮かべて西野が迎い打つ。
「き、今日はこの辺で失礼致します。皆さん、ご視聴ありがとうございました」
木居が終わりの挨拶をし、番組は突然終わりを告げた。
テレビには動かない飛行機の写真が映し出されている。先ほどまではノタマ・ナイトが映し出されてたが、南別府さんが西野さんに飛びかかると司会者が終わりの挨拶をし、次の瞬間には飛行機の写真へと切り替わっていた。
いい手際だ。感心しながらウイスキーが入っているグラスに手を伸ばして口をつける。グラスを置くとスマートフォンを手にとって電話をかける。相手は電話がかかってくることを予期していたのか一コール鳴っただけですぐに電話にでた。
「ハ、ハイ高柳です」
緊迫した声に「松原です」と事務的な口調で返す。
「こ、これはコミッショナー、どうなさいましたか?」
もし面と向かって会っていたら、もみ手でもしそうな口調だった。
「アナタの番組、ノタマ・ナイト見てましたよ。今は動かない飛行機が映ってますけどね」
「そ、それは大変見苦しいとこをお見せしまして、ハイ」
「いやー、なかなか興味深い番組でしたよ。南別府さんがよかった」
「あ、ありがとうございます」
「特にあの台詞がよかった。『ホームランがでやすい』」息を呑む音が聞こえる。「司会者の人が途中で遮っちゃったみたいですけど、何と言おうとしたんでしょうねえ」
「……」
少し待ってみたが、返答はなかった。
「高柳さん?」
「あっ、はい」
「よかった、返答がなかったので聞こえていないのかと思った。南別府さんは何と言おうとしてたんでしょうねえ」
「わ、私には分かりません」
「ふーん」わざとらしく大きく息を吐く。「困るんですよねー、こういうことされると」
「申し訳ありませんでした!」
「ノタマの番組にでるってことがどういうことなのか、その本質が分かっていない人間を出されちゃうとねー。聞くところによるとアナタは南別府さんが現役時代から仲がよかったみたいですね。私利私欲で番組作ってるなら、生放送の認可取り消しちゃいますよ」
「ほ、本当に申し訳ありませんでした。南別府には―――」
「二度と南別府さんは使わないように。アナタの番組だけでなく、全ての番組において」
「分かりました」
もっと逡巡の時間があるかと思ったが、少しの間を置いて望んでいた答えが返ってきた。
「ノタマ・ナイト、来週も楽しみにしてます」
「ありがとうございました」
「では」
電話を切ってスマホをテーブルに置く。数少ない仕事の内の一つが終わった。
いつもの喫茶店に入ると、いつも約束の時間より早く着いて待っている茜がすぐ声をかけてくる。
「速水君、こっちこっち」
速水?と疑問に思ったものの、茜が座っているテーブルに歩いていき、向かい合って座る。店員さんにアイスティーを注文して目深に被っていた帽子を取ろうとすると「ストップ!」と茜から制止の声がかかる。
「速水君の顔をじっと見たいのはやまやまだけど、その帽子取らない方がいいと思うよ」
「―――どうして?」
「今や時の人だからね。ほら、これ見て」
茜が鞄からファイルを取り出してこちらに差し出してくる。受け取ってみるとファイルはずっしりと重かった。めくると僕の写真が飛び込んでくる。次のページにはこの前に受けたインタビュー記事。ファイルは全て僕に関する資料で満たされていた。
「よく集めたね、これ」
「幼なじみがのってると思うと嬉しくなっちゃってねー。一か月でそのファイルが埋まるくらいだからね。速水君がいると分かったらきっと大騒ぎになっちゃうよ」
「なるほど、それで速水君ね」
「そういうこと」
「お待たせ致しました」
アイスティーがテーブルに置かれ口をつける。
「で、実際のところどーなの?周りはここまで盛り上がってるわけだけど、本人の実感としては?」
「実は、この前母さんから電話があって久しぶりに話したんだ」
「えっ、嘘!叔母さんと話したのっていつ以来」
「多分、プロになる時に家をでた時が最後だから二年振りくらいかな」
「二年かあ。叔母さんは何て?」
「すごい活躍してくれて嬉しいって。自慢の息子だって、そう言ってくれた」
「おー、すごいじゃん。しょーじゃなくて速水君」
「うん」
事実を噛みしめるかのように大きく頷く。
「初めて母さんに褒めてもらった」
「叔母さん厳しいもんねー」
三食きちんと用意されてきた。病気になれば病院に連れていってくれた。でも、本来そこにあるはずの優しさは少しもなかったかのように思う。それが初めて与えられた。
「やっと母さんの期待に応えられるようになったのかな」
「じゃあ、期待に応え続けるためにもこれからも頑張らないとね」
「モチロン。シーズン終了までこのままの勢いで突っ走るよ!」
「おー!」
茜が手をパチパチと叩く。この勢いのまま突っ走れば母さんも僕を褒め続けてくれるだろう。だったら僕はそれを求めて突っ走るだけだ。僕が考えた、僕だけの変化球クイーン・プレイで。
「じゃあねー」
「うん、またね」
この後バイトがあるという茜と喫茶店の前で別れ、選手寮へと帰宅の途へ着く。歩き始めて十分ほどしたところで前方から勇ましい声が聞こえてくる。
「即刻プロノタマの中止を!」
「パンとサーカスでは世界は救えない!」
「少女たちはどこに消えた!」といった声が聞こえてくる。立ち止まってしばらく待っていると彼らが姿を見せる。二十名ほどだろうか、年齢もバラバラの男女が横断幕と複数の少女の写真を掲げて行進していた。プロノタマの開催に反対しているグループがおり、時折デモ行進をしているという話は聞いたことがあったが、実際に目にしたのは初めてだった。
気まずさを感じ、早々に彼らから離れようと思ったが、デモ行進の中にいた一人の少女、染めているのか銀の髪を少年のようにベリーショートにしていた少女がなぜか目に留まった。少女もこちらを見て、視線が交錯する。少女は何も言わず、デモの行進を乱すことなく進んでいった。
心にひっかるものを感じながらも、寮に帰るために再び歩き出した。
フッフッハッハッ。息を二回吸って二回吐き出す。呼吸のリズムに合わせて足を動かしていく。太陽が姿を見せた直後の街はひっそりと静まり返っていた。その中を軽快な足取りで進んでいく。
季節は夏へと差しかかろうとし、日中の暑さも激しさを増してきていた。この時期に一軍での登板経験はなく、疲れがたまって体が思い通りに動くかどうかが不安だったが、体は軽くどこも問題はなかった。
この調子なら明日の登板も問題なさそうだな。
明日の試合に登板予定となっており、その試合で完封勝利をあげることが出来れば、五試合連続完封勝利となり、プロノタマ記録に並ぶことにある。憧れの存在だった川原さんの記録に。
もしクイーン・プレイを編み出す前の僕に誰かが川原選手の記録に並ぶことになるよと言われたら、鼻で笑っていたことだろう。そんなことは夢物語でありえないと。でも今のクイーン・プレイを編み出した僕にとっては夢物語じゃない、現実的な目標だった。
憧れのピッチャーに肩を並べることができる。そう思うだけで心が湧き躍ってくる。よし!次の試合も絶体完封するぞ!気合を入れ直して足の力を強めてスピードをあげる。風をより強く感じ、気分よく朝の街を駆け抜けていく。一人の男がふらふらとした足取りでこちらに向かって歩いていることに気付く。ぼさぼさで肩まで無造作に伸ばした髪、元がどんな色か分からないほど汚れ、あちこち破れた服、サンダルのように足の指が覗く靴。男は世捨て人のような出で立ちをしていた。さっさと通り過ぎてしまおうと足の力をさらに強める。距離が縮まり、並び、足を止めていた。いや、足を止めざるえなかった。心臓の鼓動が高鳴る。唇をなめて呼吸を必死に落ち着ける。意を決して振り向き、男へと声をかける。
「川原さん?」
足をとめ、ゆっくりと振り向く。虚ろな目、青白い顔。頭の中の顔とは似ても似つかわなかったが変わらないものが一つだけあった。右の目は茶で左の目は銀のオッドアイ。目の色だけは昔のままだった。
「ふ、ふへへへへへ」
だらしない笑みを浮かべながら、ふらふらとした足取りで近づいてきて両腕をつかんでくる。その手は小刻みに震えていた。
「き、記者さんか。う、うちで話聞いてくださいよ。ひ、久しぶりに」
僕のことを記者と勘違いしたのか、自宅へと引っ張っていこうとする。直接会ったことは一度もなかったはずだが別の誰かと勘違いしたのか、人を認識できなくなっているだけなのか。引っ張る力はひどく弱々しく振り払って立ち去ることは簡単にできたが、そうする気にはならなかった。ずっと気になっていたことを確認するまたとないチャンスだと思ったから。
ひどくゆっくりと街はずれへと歩いていく。
ダブルティの街はずれ。川原さんの家はプレハブ小屋が立ち並ぶ一角にあった。活気は全くなく、何人かの中年男性が虚ろな目で空を眺めている。川原さんに案内されて薄汚れたプレハブ小屋の中でも特に汚れたプレハブ小屋の前に立つ。
「ど、どうぞ」
川原さんの後に続いてプレハブ小屋に入る。入った瞬間、今まで嗅いだことのな強烈な腐敗匂に鼻を抑える。部屋を見渡すとゴミの集積所と勘違いしそうなほど所狭しとゴミが積まれていた。川原さんを見ると、そんな環境にもかかわらず今までと同じしまらない顔でゴミを隅によけて二人分の座るスペースを作っていた。
川原さんが腰を下ろし、それに促される形で恐る恐る腰を下ろす。ゴミに囲まれた部屋で川原さんと向かい合う。
「い、今はこんなですけど、む、昔はすごいピッチャーだったんですよ」
川原さんの話は前後のつながりを欠いた、まとまりのないものだった。
五試合連続完封勝利をした話を自慢気に話していたかと思えば、突然子供時代の話へ飛ぶ。五分ほど子供の頃の話をして、何の脈略もなくプロ生活の話へと戻る。聞いていて今、何の話をしているのか分からなくなることがあった。恐らく話をしている方も分からないじゃないだろうか。
いかに自分は凄いピッチャーだったかという話を延々と聞かされ続けた。黙って聞いているといつまでも終わりそうになかったので「すいません!ちょっといいですか」とこの部屋に来て初めて口を開く。
「あっ、はい。そ、その前に写真ですよね。ひ、ひひひひひ」
「写真はいいです」一呼吸置いて、ずっと気になっていた質問をぶつける。「川原のラストボール。アナタが今までのどのピッチャーよりもパーフェクト・ゲームに近づいた試合。ヒットはおろか一人のランナーを出すこともなく、迎えた九回ツーアウト。あと一人でパーフェクト・ゲーム達成というところで迎えたバッターは代打の松原さん。現プロノタマコミッショナー。ツーストライクワンボールからの四球目。この場面で見ている誰もが思ったことでしょう。ここはスライダーだと。ストライクゾーンからボールゾーンへと逃げるスライダーで三振。パーフェクト・ゲーム達成だと。けれどアナタはあの場面でスライダーを投げなかった。来ると分かっていても打てない、何度となく三振を奪ってきたスライダーを。
アナタは力のないスローボールを投げ、松原さんもまるでその球がくることを知っていたかのように見事にホームランにした。その試合の後、アナタはそれまでの活躍が嘘のように精彩を欠き、以降一度も勝ち星を手にすることなく引退することになり、それに対して松原さんはスターへの階段を駆け上っていった。
あの最後の一球に何があったんですか?」
試合直後、八百長を疑う声が多くあったものの、それを示す証拠はなく、川原さんも口を閉ざし続けたため真相が明かされることはなく、未だに真相解明と称する本が出版される状況だった。
「し、真実を知ったんだよ」
「真実?」
「ひ、ひひひ」
だらしない笑みは消え、顔がひきつり始める。
「川原さん?」
「お、俺は悪くない。わ、悪くないんだ。そ、そんな目で見ないでくれ」
怯えた顔で何やら弁明の言葉を呟いていたかと思うと、「っアァ!」と突如叫び声をあげて駆け出していった。
「川原さん!」
尋常じゃない様子に慌てて後を追う。見ると川原さんは台所で焼酎をラッパ飲みしていた。口を離し、荒い息を吐き出し続けながら、怯えた目でこちらを見る。
「初めてお会いしたのに、ぶしつけな質問をして申し訳ありませんでした」頭を下げる。「僕はこれで失礼します」
答えが返ってくることはないだろうと諦め、プレハブ小屋からでていこうとする。
「ま、待ってくれ!」
切羽詰まった声に足を止めて振り向く。
「お、俺の口から言うことはで、できない。で、でも、か、金をくれたら事情を知っている奴らをお、教えてやってもいい。ひ、ひひひひ」
目の前にいる人物に対してか、それとも憧れの気持ちを踏みにじられたことに対してか、どこに向けるべきか分からない怒りがふつふつと湧きおこってくる。
気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸する。ポケットから財布を取り出して三万円を抜き取って目の前に差し出す。
「か、金だー!」
伸びてくる手を三万円を持っていない方の手で軽く払いのける。
「情報が先です」
「分かってる、分かってるよ」
部屋へと戻り、すぐ戻ってきた。
「こ、これだ」
一片の紙ひらを差し出す。
「これは?」
紙ひらを受け取りつつ尋ねる。
「セーブ・クイーンのあるメンバーの連絡先が書かれている」
「セーブ・クイーンって街でデモ行進をやっている―――」
「ああ、奴らに聞けば教えてくれるだろうさ。親切にな」
憎しみの込もった口調ではっきりと言った。
「分かりました。では、これを」
三万円を差し出すと、素早く奪い取った。今日見た中で一番の素早さだった。
「か、金だ。金だ」
「では、失礼します」
やりきれない気持ちを抱いたまま、プレハブ小屋を後にした。
かけるべきか、かけないべきか。
テーブルに川原さんにもらった紙ひらとスマートフォンを置いて悩んでいた。この前の試合で完封勝利をおさめ、川原さんの五試合連続完封勝利に並んだ。
頭の中にある考えが浮かぶ。彼の風貌を見ただろう。昔は憧れの存在だったかもしれないが、今じゃただのイカレタ奴だ。今、絶好調のお前が何で危険な橋を渡る必要がある。それを打ち消すかのように別の考えが浮かぶ。お前は彼に何が起きたのかずっと知りたがっていた。そして、今それを知るチャンスが与えられた。この機会を逃せばもう二度と機会は訪れないかもしれない。だったら、やる事は一つだろ?
かけるか。
スマホと紙ひらを手に取って紙ひらに書かれている番号に電話をかける。呼び出し音が一回、二回、三回となる。それに合わせて鼓動が高鳴る。出て欲しいのか、出て欲しくないのか?分からなかったが、ひどく長く感じた。
四回、五回と鳴り「何だ?」と低い男の声。繋がった!
「あの、川原さんからこの番号を教えてもらいまして」
「川原?ああ、アイツか。お前は誰だ?」
「あっ、中本と言います」
「中本ってドルフィンズの中本か」
「はい」
「ちょっと待ってろ」
しばしの時間を置き、「彼に何を聞いたの?」と今度は若い女の声がした。
「川原さんに何があって、そんなに変わってしまったのかと聞いたら、セーブ・クイーン、アナタたちなら知っていると」
「ふうん。アナタは知りたいんだ。彼に何があったのかを」
「―――ハイ」
「アタシ達が知っているのは、きっかけとなったであろう出来事だけで、実際に彼にあったことを事細かにしっているわけじゃないわよ。それでもいいの?」
「大丈夫です」
「OK。じゃあ場所と時間をそっちで指定して」
「じゃ、じゃあ明日三時にダブルティ・パーク近くの喫茶店ネーション・ブルーで」
全く予期していなかった質問に口からでたのは茜といつも会っていた喫茶店の名前だった。
「明日の三時に喫茶店ネーション・ブルーね。じゃあ、目印にそうね、ドルフィンズの帽子被っといて。アタシたちも被っていくから」
「分かりました」
「じゃあ、明日」
こちらの返事を待たずに電話は一方的に切られる。
解放感から息を大きく吐いてスマホをテーブルに置く。きっかけとなった出来事か。明日、僕はどんな事実を耳にすることになるんだろうか?
目印であるドルフィンズの帽子を目深に被り、約束の時間より三十分早くネーション・ブルーに着いた。外から覗くと平日の昼下がりとあって店内は閑散としている。店内にドルフィンズの帽子を被った客は見当たららず、セーブ・クイーンのメンバーはまだ来ていないようだった。
店内に入る。隅の席を選んでクリームソーダを注文する。しばらくするとクリームソーダが運ばれてくる。一口、口をつけて視線を入口へと向ける。何人かの客が入ってきて、何人かの客がでていった後―――来た!入口にドルフィンズの帽子を被った二人組、一人は小柄な女性、もう一人は大柄な男性が姿を見せる。時計を確認すると約束の時間ちょうどだった。
男が店内を見渡す。男がこちらに気付き、女の肩を叩いてこちらを指さす。二人でこちらに向かってくる。向かいの席に腰を下ろして二人共帽子をとる。女は銀髪のベリーショート―デモ行進で視線があった女性だろう―、男はスキンヘッドだった。帽子を取ろうと帽子に手をかけるが、茜の言葉が思い浮かんできて手を止める。
「あの、僕は帽子を被ったままでいいかな」
「ん、ああ。有名人だもんね。被ったままの方がお互い都合がいいでしょ」
銀髪の少女が男に確認することなく「アイスコーヒー二つ」と注文する。
「五試合連続完封勝利おめでとう」
「あ、ありがとう」
「何かの雑誌で読んだんだけど、クイーン・プレイを投げる時はゾーン、つまり女神と繋がっている状態になるってホント?」
「う、うん」
「そう。なら話が早いわ」
「その前にお前に確認しておきたいことがある」
男が初めて口を開く。低い声、恐らくこの男が電話にでた男なんだろう。
「確認?」
「ああ。これから俺たちはお前に―――」
「アナタに見てもらいたいものがあるの」
少女が鞄からタブレットを取り出して、こちらに差し出してくる。
「スノー」
男が少女を諫めるが、少女は男を無視して話を進める。
「今から川原が変わったきっかけを見せてあげる」
「スノー!」
男が立ち上がる。が、少女が男を一瞥すると、まだ何か言いたそうではあったが、黙って腰を下ろした。
「イヤホンつけて」
「うん」
少女の指示に従ってイヤホンに耳をつける。少女がタブレットの画面をタップして映像が開始された。
「これがアナタの知りたかった真実よ」
カメラがある扉をとらえている。その扉のすぐ傍に男が二人、苦悶の声をあげて倒れていた。黒づくめの男が手際よく男らの手足を締め上げていく。男がカギを錠前に差し込んで右に回すとカチンと鍵が開いた音が鳴る。顔に傷がある男がカメラに向けて一度頷く。ドアノブへと手を伸ばしてゆっくりと扉を開けて部屋へと入っていく。男に続いてカメラが部屋へと入っていく。
部屋は地下にあるのか窓はなく、天井から吊るされている裸電球が頼りなく部屋を照らしている。部屋には調度品の類は一切なく、裸電球の他には部屋を二分する鉄格子があるだけだった。鉄格子の奥、コンクリートの床の上にひかれた坐古の上に少女が横たわっていた。少女がアップで映し出される。年齢は十四、五だろうか。艶のない白髪を腰まで伸ばし、焦点の定まらない虚ろな目をしている。
少女の顔がはっきりと確認できるようになる。知っていた。僕はこの少女のことを知っていた。話したことはない。会ったこともない。にもかかわらず僕はこの少女のことを知っている。クイーン・プレイを投げるとゾーン、集中力が極限まで高まり、女神の加護を最大まで受け取れる状態になる。その時、決まって脳裏にある少女の姿が浮かびあがってきた。その少女が映像に映し出されていた。
鼓動が一気に跳ねあがる。息苦しさを覚えて胸を抑える。
頭の中に警告音が鳴り響く。この先は危険だ。今すぐ急用ができたといって立ち去るんだ。頭がいくら警告を発しても目は少女に吸い寄せられたまま離すことができなかった。
「―――明菜」
男が少女へと呼びかける。少女の目に光が灯り、顔が輝きだす。
「お兄ちゃん!」
少女が起き上がり鉄格子を掴む。男も鉄格子へと近づいていき、少女の頬を優しく包む。男の手に少女が自らの手を重ねる。
「悪かったな、遅くなって」
「ううん、大丈夫」
少女は気丈に笑顔をつくるが、その顔には疲労の色が濃く現れていた。
「今日の試合はどうだった?その、投手がゾーンってやつになったり、打者がホームラン打ったりするとより苦しくなるんだろう?」
「今日はそんなになかったから……。それにもう慣れたから大丈夫だよ」
男が少女の頬から手を離して少女の髪を撫でる。優しい手つきだったにもかかわらず、男の指には何本かの白い髪の毛があった。男が顔を歪ませる。
「ゴメン、明菜。色々試してみたけど、お前をここから出してやる方法は見つけられなかったんだ」
「ううん、いいのお兄ちゃん」
男が上着の内ポケットに手を入れる。手を出した時、その手には銃が握られていた。
「今までずっと苦しんできた妹にこんなことしかしてやれない兄をどうか許してほしい」
兄の苦痛を取り除くためだろうか、妹は穏やかに微笑んで目を閉じる。妹へと銃を向ける。兄の頬を涙が伝い、唇をかみしめ―――引き金を引いた。
銃弾が妹のやせ細った体を貫く。倒れて白いワンピースを血で赤く染める。兄がゆっくりと銃を下ろす。次の瞬間、部屋が白い光に包まれる。光が収まった時、少女は何事もなかったかのように起き上がっていた。兄が目を見開く。
「あ、明菜……」
妹が撃たれた箇所をさわる。
「お、お兄ちゃん」顔を上げ、兄を見る。その声はひどく震えていた。「傷、ふさがってる」
兄の手から銃が滑り落ちて床を叩く。少し遅れて膝をつく。
「うぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
兄の悲鳴が室内を満たし、映像はそこで途切れていた。
「これが恐らく、彼が変わるきっかけとなったであろう出来事よ。彼がこれを見て何を感じ、どう変わっていったのかはアタシ達は知らない」
少女の声がひどく遠くに感じる。
「これは、何?」
「世界の、ノタマの真実よ」
何だそれは?足の指に力を込める。地面は確かにそこにある。でも今まで自分が立っていた場所がひどく不確かなものに感じられる。
「ノタマの、真実?」
「そう。誰もが同じモノを持って産まれてくるここダブルティの街で唯一例外的に超人的な能力を発揮する集団がいる。それがプロノタマ選手」
少女が流暢に説明していく。少女は何回この説明をし、何人のプロノタマ選手が本気にしたんだろう。ふと、そんなことを思った。
「プロノタマ選手はノタマ・パークでのみ超人的な能力は発揮することができる。物理法則を無視したかのように現実ではありえないほどボールは大きく曲がり、遥か遠くまでボールを打ち返すことができる。均一的な社会にうんざりしている民衆はプレイの一つ一つに大きな喝采を送る。でも、その超人的な能力の裏には代償があった。それが映像の少女」
僕が子供の頃に熱狂し、プロノタマ選手として活躍し、喝采を浴びる裏で少女が苦しんでいた?
「少女は何、どうやって?」
思考が目の前のことに追いついていかず言葉がうまくでてこない。
「詳しくはアタシ達も知らない。女神が選んでいるのか、それとも別の組織か。ただ言えるのは選ばれるのは決まって少女ってこと」
選ばれるのは少女。デモの横断幕が脳裏に浮かぶ。
「デモの、『少女はどこに消えた?』って……」
「そう、選ばれ、ノタマの度に苦しみに苛まれ続け、そして消耗し尽くして次の少女が選ばれる。今までも、そしてこれからも―――」
「じゃあ、この映像の少女は?」
「今もノタマ・パークの地下でノタマがあるたびに苦しんでいる」
「君らはこれを知ってデモをしているの?」
「そう。まあ真剣に聞いてくれる人はほとんどいないけどね」
「この映像を公開すれば―――」
「無駄よ。公開してもすぐコミッショナーが手を回して削除されるでしょうし、そもそも一般の人からしたら出来の悪い映画のワンシーンにしか見えない。でもアナタなら、ゾーンに、この少女と繋がることのできるアナタなら映画には思えないでしょう?」
唇をなめる。
「もし僕が、プロノタマ選手じゃなかったら。ゾーンになったことがなかったらこうして映像を見せようとした?」
「見せてないでしょうね」
息を大きく吐いて椅子の背もたれへと体を預ける。
「―――何で僕にこれを見せた?」
言いがかりなのは分かっていた。でもそう言わずにはいられなかった。少女は何も言わず、じっとこちらを見つめている。
「僕にどうしろって言うんだ!僕はただのプロノタマ選手だ。僕にはどうすることもできない!」
怒りが、少女に、世界に、なにより自分に対しての怒りが体を駆け巡る。
「あるのよ」
「えっ?」
「アナタにならできる、アナタにしかできないことが。パーフェクト・ゲーム」
未だ誰も成し遂げたことのない、ヒットはおろかエラー、ファーボールを含めて一人のランナーも出さないこと。川原さんがあと一球まで迫った―――。
「パーフェクト・ゲームをしたらどうなるっていうんだ?」
「この映像とは別の日、アタシ達の仲間が少女に最後に会った日、少女が言ったの。女神の声を聞いたと。パーフェクト・ゲームを見ることができればもうノタマはいいと。もう生贄の少女は必要ないと。それが本当かどうかは分からない。でも、アタシ達はそれに賭けることにした」
「それで川原さんにその映像を見せたのか?」
「そう。彼ならノタマ至上、類を見ない大投手と言われていたから出来るんじゃないかと思ってね。でも、その彼でも達成できなかった。彼ができないなら誰もできないんじゃないか。そう思って何年か経った時、アナタが現れた。今まで誰も見たことのない変化球を投げるアナタが。アタシはアナタを、深夜のグラウンドで新しい変化球を完成させた瞬間を見て思ったの。女神がパーフェクト・ゲームを見るために、この選手に魔球を授けたんじゃないかって」
あの夜、バックネット裏で見ていたのは彼女だったのか。彼女と全く予期せぬ形で出会って、こうして喫茶店で向かいあってる。これはただの偶然なんだろうか、それとも運命なんだろうか?
「もし僕がパーフェクト・ゲームを達成したらどうなる?」
「女神の言葉が正しければ、ノタマ・パークでの女神の加護は失われてアナタ達は超人的な能力を発揮できなくなる。フツーの人になったアナタ達に今までと同じ喝采を向ける人は多くないでしょうね」
「僕らは失業しちゃうね」
乾いた笑いが漏れた。
「でも犠牲となる少女はいなくなる」
返す言葉は見当たらなかった。
「アタシの話はこれでおしまい。アナタの今までの誰にも並ぶことのない活躍を期待してるわ、じゃあね」
少女が千円をテーブルに置いて席を立ち、男もそれに続く。少女も男もアイスコーヒーには全く手をつけていなかった。少し減ったクリームソーダを見やる。ストローを取って勢いよく流し込んでいく。
僕はどうすればいい?
「スノー」
喫茶店をでて少し歩いたところでロックが話しかけてくる。その声には怒りがはっきりと感じられた。
「―――何?」
視線を前に向けたまま返答する。
「なぜ彼にあの映像を見せる前にしっかりと説明して選択肢を与えなかった!」
「時間がないのよ」
「時間?」
足を止めて、ロックと向き合う。
「彼らは、キラー・クイーンはここ最近で急に過激になってる。今までの彼らなら何人の人がいるか分からない工場の爆破なんて絶対にやらなかった。アタシの言葉はもう彼らには届かない。明菜ちゃんが選ばれてもうすぐ四年になる。いつ明菜ちゃんの命が尽きてもおかしくない。もし明菜ちゃんの命が尽きたら、今の彼が何をするか想像もつかない!」
「……スノー」
「アタシは彼に賭けた。彼なら明菜ちゃんを救ってくれると。そのためなら何だってアタシはやってみせる」
そう。もしこの手を汚すことが必要なら、この手だって汚して見せる。
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