第2話 石ころとダイヤモンド

 通知表を手に家へと帰る。「ただいま」と玄関をくぐり、リビングのドアを開けると母さんの姿が目に飛び込んでくる。母さんは心底退屈そうな顔で雑誌を読んでいる。ドアが開いたことには気付いたはずなのに、こちらを見ずに変わらず雑誌を読み続けている。

 「―――母さん」

 近づいて母さんに声をかける。雑誌に視線を落としたまま「何?」と苛立った声が返ってくる。その一言で喉がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚える。

 「あ、あの」喉を押さえながら必死で言葉を紡いでいく。「今日で学校終わりで、その……」

 鞄から通知表を取り出しておずおずと差し出す。雑誌から顔を上げ乱暴に通知表を手に取る。フンと鼻を鳴らして通知表を開く。

 俯いて母さんの言葉を待つ。今まで五段階評価で三ばかりだったけど、初めて国語で五を取ることができた。母さんはその事を褒めてくれるだろうか?

 「五が一個で他は全部三、ね」

 期待を胸に秘めて顔をあげる。が、そこにあったのは変わらない、うんざりとした様子の母さんの表情だった。

 「退屈な世界に産まれた退屈な子供の退屈な通知表。ホッントつまらない!」

 そう言い放ち、通知表を机に投げ捨てると再び雑誌を読み始める。期待していたものとは真逆の言葉に返す言葉も分からずにただ立ち尽くす。二人いるにもかかわらず、雑誌をめくる音だけが時たま聞こえてくる。

 「いつまでそうしてるわけ?」いらだちが増した声。「ずっとそうしていられると邪魔なんだけど」

 もし僕が空気のような存在だったら、ずっと母さんの傍にいることができるんだろうか?ただ優しい言葉をかけられることはなくても、ただ母さんの傍にいることはできる。

 一礼して母さんへと手をむける。

 僕が空気だったらよかったのに―――。


 ダイニングで一人昼食をとる。母さんはキッチンで何かを作っている。母さんは僕が食べ終わった後に食事をとるため、一緒にいるにもかかわらず、別々に食事することが当たり前となっていた。

 テーブルに置かれていた母さんのスマホが鳴る。キッチンからでてきて、スマホを手に取って電話にでる。

 「もしもし、アラ朋美。久しぶりね」

 明るく楽し気な声。僕には決して向けられることのない声。

 「どうしたの、今日は。えっ、今まで旅行に行ってて今日帰ってきたの。いいわねー、家族水いらずで旅行なんて。うち?うちは全然そんなのないわよ。旦那は夏の間中ずっと仕事。貧乏暇なしで、休みなしで働いている割に給料は少ないしねー。ホッントに働いてんのかしら。亭主元気で留守がいいっていうけど、もうちょっと稼いでくれないとねー」

 父さんは今日も仕事。僕が起きるよりも早く仕事に行き、僕が寝た後に帰ってくる。最後に父さんの顔を見たのがいつだったか思い出せないほどだった。

 「朋美ん家はいいわねー。旦那さんは優しくて稼ぎも多いし、子供も成績優秀だもんねー。えっ、そんなことないって?いやいや、全然あるでしょ。それに比べてうちのアレはねー」

 ちらと母さんが僕を見やる。母さんは僕のことをアレと呼び、決して名前を呼ばない。

 「いいところあるって?ないない、あるわけない。そこら辺に転がっている石ころと同じよ。えっ、同じものがないかけがえのない存在なんじゃないかって?」

 声から楽し気な様子が消え去り、いつものいらだちの色が増していく。

 「そうね、同じものがないってのは認めてあげる。この石ころと全く同じ石ころはおそらくこの地球上のどこにもない。つまり、この石ころは唯一の存在、オンリーワンってわけ。じゃあ、この石ころは尊いの?私がこの石ころをあげると言ったら手をあげてワーイと喜ぶ人がいると思う?いるわけない。つまり、オンリーワンってだけじゃ何の価値もない」

 「―――ごちそうさま」

 それ以上母さんの言葉を聞いていることは出来ずに、食べかけの昼食を残したまま席を立つ。母さんは構わずに言葉を続ける。

 「じゃあ、何も出来ない、何の能力もないただそこにいるだけの存在に私が価値を感じないのは当然でしょ?」

 その言葉は心の奥底に深く深く突き刺さった。


 「あっ、うん。夏休みどうするのかなって。えっ、おばあちゃん家に行く?そっか。いや、うちはどこにも行かないから、もし暇だったら一緒に遊ぼうと思って。あっ、うん。楽しんできて。じゃあね」

 電話を切って、ポケットに仕舞うと自然と大きなため息が漏れた。家のすぐ近くにある公園のブランコに一人で座る。いつもは賑やかな公園もお盆休み期間だからか閑散としており、それが寂しさを一層際立たせた。

 「折角の夏休み。フツーは家族水いらずでどっかにでかけるよね」

 うちと違ってという言葉は声にならなかった。寂しさを紛らわせようと手当たり次第に電話をかけてみたものの、みんな家族ででかけており、一人もつかまらなかった。

 大きなため息と共に俯く。すると足元に小さな石ころが転がっていることに気付く。拾い上げてじっと見つめる。平べったい、煎餅のような石ころ。この石ころと全く同じものを見つけてくるのは難しいだろう。じゃあ、この石ころは貴重なんだろうか?この石ころはこの世界に同じ物が二つとない、貴重な石ころなんですよと言っても誰も喜ばないだろう。

 世界に同じものが二つとない、ただの石ころを放り投げて空を仰ぐ。

 誰もが同じモノを持って産まれてくる。とびきり美しい者もいなければ、とびきり醜い者もいない。とびきり足が速い者もいなければ、遅い者もいない。頑張った者が報われる素晴らしい平等社会。母さんは僕のことを「何も出来ない、何の能力もない、ただそこにいるだけの存在」と言った。「そんな存在に何の価値も感じないのは当然でしょ」と。

 どれだけ努力すれば、どれだけのものを捧げれば母さんは僕のことを認めてくれるんだろう。

 「五、取るのに結構頑張ったんだけどな」

 泣きたくなるのを必死にこらえて上を向く。泣くもんか、自分に強く言い聞かせる。

 「名は体を表す」

 声がした。小さい時からずっと聞いてきた元気な声が。

 「翔人!飛びまーす」

 次の瞬間、背中に強い衝撃を感じ、ブランコが勢いよく前方へと弧を描く。

 「う、うわー」何が起きているのか全然分からず、ブランコから身を投げ出す。二メートルほどのところに着地すると、後ろから「おー、飛んだ飛んだ」と楽しそうな声。振り向くと短く刈り込んだ髪。ティーシャツにショートパンツ。ぱっと見、男の子にしか見えない幼なじみの茜が立っていた。

 「茜!急に何すんだよ!」

 怒って詰め寄るも茜は一向に意に介さない。

 「落ち込んでいるみたいだったから、元気づけようと思っただけなのに……。全く幼なじみの優しさが分からないのかなー」

 やれやれ、これだからといった感じで両手を広げて首を左右に振る。すぐ言い返そうとするも、ある事実に思い当たって言葉が止まる。

 「―――いつから見てたの?」

 にたぁと心底愉快そうな笑顔を見せた後、ポケットから携帯を取り出して耳にあてる。

 「あっ、渉?明日、暇?よかったら一緒に遊ばない?えっ、家族で出かける?そうなんだ。そんな気にしなくていいよ。うん、じゃあ、またね」

 ポケットに携帯を仕舞って、はあと大きなため息をつく。

 「っていうのを五回くらい繰り返したところから」

 「それ、僕が公園にきてからずっとってことじゃないか。何で声かけないで黙って見てるんだよ!」

 「いや、黙って見送るのも幼なじみとしての務めかなって思って」

 「どうせ面白がってただけでしょ。で何?何の用?」

 ささくれだった心から自然と口調がきつくなる。が、茜は気にした様子もなく顔をぐいっと近づけてくる。

 「な、何?」

 顔が赤くなっているのが自分でも分かる。顔を近付けたままじっと見つめてくる。

 「何か嫌なことあった?」

 「べ、別に何も…ないよ」

 言葉がうまくでてこない。「ふーん」と意味あり気に呟いて顔を離す。

 「我が幼なじみに何が起こったのか、そしてどう感じているのか。それをこの茜ロック・ホームズが見事当ててご覧にいれましょう」

 「だから、何も―――」

 「一つ!」人差し指をピンとたてて叫ぶ。「翔は頑張って国語で五の成績を取ったのに叔母さんは褒めてくれなかった」

 思わず唾を飲みこむ。

 「二つ!叔父さんは今年も忙しく、どこにも連れていってくれそうにない。この二つの事実から我が幼なじみは落ち込んでいると考えられます」

 いつも、こうだった。

 僕に何かあった時、茜はまるでずっと僕の傍にいるかのようにぴたっと正確に事実を言い当てる。父さんも母さんも茜の十分の一も僕のことを知らないだろう。

 「―――そうだね」

 茜に嘘はつけない。

 「あっ、じゃあ翔、国都で五取れたんだ。ずっと頑張ってたもんね、おめでとう!」

 「あ、ありがとう」

 真っ直ぐな言葉に再び顔が熱くなる。

 「そっかあ。それでも叔母さんは褒めてくれなかったんだ。翔の叔母さん厳しいもんねー」

 「うん」

 「叔父さんは今年もずっと仕事なんだ?」

 「―――うん」

 「じゃあ、しょうがない。頑張って見事結果を出した翔に優しくて綺麗な幼なじみから素敵なプレゼントをあげよう」ポケットに手を突っ込む。「じゃーん!これ、何だ」

 茜が右手で何かのチケットを高々と掲げている。眉を寄せて、チケットをじっと見つめると『プロノタマ』と書かれているのが分かる。

 「嘘ッ!それプロノタマ公式戦のチケットじゃん。一体どうしたの、それ?」

 プロノタマ公式戦のチケットは発売後すぐソールドアウトになり、プロノタマを見に行ったと言えばクラス中の注目を一身に集めるほど全国の少年たちの羨望の的となっていた。僕の学校でも実際に見に行ったという話は全く聞いたことがなかった。

 「パパが取引先の社長さんからもらって翔と一緒に行ってきなさいってくれたの。だから、明日一緒に行こう!」

 「え、いいの?」

 「モチのロン」

 「そんな事言って、このチケットオール五の人限定なんだ悪いな、とか言うんでしょ?」

 「言わない、言わない。幼なじみ嘘つかない」

 「ホントにホント?」

 「ホントにホント」

 プロノタマをノタマ・パークで見ることができる。その事実を消化できるようになるまで時間を要する。きちんと消化できるようになると喜びが爆発した。

 「うわっ、信じられない。ノタマ・パークでノタマを実際に見れるなんて。ああ、ヤバい。もう何かヤバい!これで一生分の運、使い果たしちゃった気がする。でもいいや」

 「流石にそれは大袈裟じゃないの?」

 「全然大袈裟じゃないよ。だって、ノタマだよ。クラスの誰よりも素晴らしい夏休みになるって断言できるもん。茜、ホッントにありがとう!」

 チケットを持っていない茜の右手をぎゅっと握りしめる。

 「ど、どういたしまして」

 茜の声が上ずる。

 「で、明日どうするの?試合何時からだっけ?」

 「試合は夕方の六時からだから、四時にノタマ・パークの前で待ち合わせにしよっか?」

 「分かった。夕方四時にノタマ・パークの正門前ね」

 「ちゃんと遅れないできてよ」

 「遅れない、遅れない。雨が降ってもやりが降っても絶対に遅れない」

 「やりが降ってきたら試合は中止だろうけどね。じゃあ、明日ね」

 「うん、また明日」

 家へと変える茜を笑顔で見送る。

 プロノタマをノタマ・パークで見れる。ここ最近の嫌なことが全て吹き飛んでいた。


 目がさめて、目覚まし時計を手に取る。午前〇時。ベッドに入ってからまだ一時間しか経っていなかった。

 プロノタマが見れる。女神様の加護を受けた地で、女神様が愛した選手のプレイを見ることができる。それを思うとまだ半日以上時間があるにもかかわらず、この胸は高鳴りっ放しだった。

 平坦な毎日だった。朝目覚める時、今日の一日に期待することはなく、一日を終えて眠りにつく時、振り返って満足を覚えることもない。心の底から求めているものが手に入らないことが分かっているかのように毎日過ごしてきた。この気持ちをごまかす装置もなく―なぜならみんな同じものを持って産まれてくるならたどり着ける範囲もおのずと定まってくる―否応なく見つめ続ける日々。一部の例外を除いて。その例外に明日会える。

 こんなにも明日を待ち焦がれたことは恐らく、いや確実になかっただろう。

 早く試合の時間になればいいのに―――。そう願って目を閉じた。


 ダブルティの街。その中心に建てられたノタマ・パーク。この国唯一のノタマが行われているスタジアムとして日々熱戦が繰り広げられている。正門のすぐ傍に立って行き交う人々を眺める。大人、子供、男性、女性―――年や性別は違えど、みんなの顔には一様に期待に満ち溢れた笑顔があった。

 「おーい、翔!」

 茜の声。声がした方を見ると頭に帽子、ティシャツの上にユニフォーム、首にはバットメガホンをかけた茜がこちらへと駆け寄ってきていた。

 「お待たせ―。いやー、寝坊はしなかったみたいだね、偉い偉い」

 「夕方四時で寝坊はしないよ」

 「いやー、てっきり夜眠れなくて、昼寝してそんなこともあるかなーって思ったんだけど……」

 意地悪そうな顔で聞いてくる。

 「そ、そんなことないよ」結局、夜はあまり眠ることができずに昼寝をして三時半に飛び起きてノタマ・パークへと来ていた。「それよりフル装備だね」

 慌てて話題を変える。

 「パパが折角行くんだからって色々と揃えてくれたの。どう、似合ってる?」

 腰に手を当てて胸を張る。いつもの恰好に帽子とユニフォームを着ただけだったけど、いつも以上に魅力的に見えた。

 「うん、とてもよく似合ってるよ」

 「うむ、正直者でよろしい。そんな正直者の翔にプレゼント!」

 茜が背負っていたバックアップからドルフィンズのロゴが入った袋をこちらに寄越す。

 「僕に?」

 「モチ」

 受け取って中を覗いてみると、茜が身に着けているものと同じ帽子、憧れていた川原さんのユニフォーム、バットメガホンが入っていた。驚いて茜を見やる。

 「パパからのプレゼント。目一杯楽しんできなさいって」

 プレゼント。両親から最後にプレゼントをもらったのはいつで何だっただろう。思い出せなかった。

 「何してるの。さっ、早く着てみて」

 「う、うん」嫌な考えを頭から追い出す。今は現実のことを考えるのはやめよう。叔父さんの言葉通り、この貴重な時間を目一杯楽しむことだけを考えよう。ユニフォームに袖を通し、帽子をかぶってバットメガホンを首にかける。

 「ど、どうかな?」

 上目がちに尋ねると「うん、よく似合ってる」と満面の笑顔と共に答えが返ってきた。

 「さっ、行こう」

 茜に手を引かれて、ノタマ・パークへと入っていく。


 「さあ、さあ、さあ!ピッチング体験コーナーやってるよ。大人も子供も誰でもタダで体験できるよー。さあ、やってこー、やってこー」

 二人並んで歩いていると威勢のいい声が飛び込んでくる。見るとネットで囲まれた中にマウンドとホームベースが設けられており、ホームベースの横に球速を示すモニターが置かれていた。

 「初めてノタマ・パークに来たけど試合以外にも色々やってるんだね」

 「ホント何か縁日みたい」

 マウンドでは次々と参加者がボールを投げて示される結果に一喜一憂していた。

 「翔もやってみたら?」

 「えっ、僕はいいよ」

 「いい機会だからやってみようよ。ほらほら」

 こちらの返答を待たずにぐいぐいと背中を押される。「ちょ、ちょっと茜」「いいから、いいから」問答無用で列の最後尾まで連れていかれる。

 「じゃあ、しっかりと翔の雄姿を見てるから頑張ってねー」

 茜が離れていき、一人取り残される。一人また一人とピッチングを終えて列が進んでいき、それに伴って鼓動が高鳴っていく。前の人がピッチングを終えてとうとう僕の出番がやってきた。

 「ハイ、坊や。頑張ってね」

 係の叔父さんからボールが手渡される。初めて手にしたノタマのボールはイメージしていたよりもずっしりと重かった。

 「これ、試合のボールと同じものなんですか?」

 「そうだよ」

 選手たちと同じボールを手にしている。それだけで無性に誇らしい気持ちになった。

 「翔、頑張ってねー」

 茜が笑顔で手を振っている。茜の声に背中を押されてマウンドへとあがる。約十八メートル。普段の生活では大したことない距離だけど、マウンドから見るとすごく遠く感じる。

 息を一つ吐いて振りかぶる。頭の中に今まで何度も見てきた憧れのピッチャー、川原さんのピッチングフォームをイメージする。左足を精一杯踏み出して右腕を振る。山なりのボールがホームベースを通過していく。

 「おー、ストライクストライク!」

 茜の喜ぶ声。モニタを見ると九〇と表示されていた。

 「ナイスピッチング!はい、これ参加賞。この世界の創世者にてノタマの女神、クイーン・オブ・ノタマ様のピンバッチだよ」

 「あ、ありがとうございます」

 ピンバッチを受け取る。ボールにキスする女性の横顔が描かれていた。

 「このボールで二〇〇キロ近いボール投げるなんてやっぱりプロの選手はすごいですね」

 「そりゃあ、プロだからね。でもプロでもここで投げたなら一二〇キロがやっとじゃないかな」

 「えっ、そうなんですか?」

 「ああ。プロの選手が持っている力を全て出し切る唯一の場所。それがノタマ・スタジアムだからね。だからこそ多くの人が見に来るわけよ。じゃあ、次の人待ってるから」

 「あ、すいません。ありがとうございました」

 係の人にお礼を言って茜の元に戻る。

 「お疲れ、お疲れ。いやー、見事なストライクだったよ。これは女神様にも気に入られちゃうんじゃないの。今日の席もちょうど外野席だし」

 「そうだといいけどね」茜の言葉を軽く受け流す。「さっ、そろそろスタジアムに行こう」

 「うん」

 二人でスタジアムへ、この世界で唯一の超人がいる場所へと向かう。


 入場口を抜け、様々な売店が立ち並ぶ廊下を歩き、階段を登り、観客席へでるとそこは別世界だった。輝かしいライトに照らされた先では、プロの選手たちがシートノックを受けていた。外野の選手がフライを取ると、ホームベースのキャッチャーへ向けて矢のような返球を行い、スタジアム全体から大きな歓声があがる。それを見て自然と「うわあ」と感嘆の声が漏れる。普段決して触れることのない、感嘆すべき対象が目の前にたくさんいた。

 「翔、そんなぼぉーとしてないで早く席探そうよ」

 「あっ、うん」

 一瞬も見逃すことなくずっと見ていたい。後ろ髪をひかれる想いで茜の後を追う。

 「えーと、七列の二〇と二一だから……あっ、あった。翔、あそこだよ」

 レフトスタンドの前から七列目、バックスクリーン寄りの席だった。既に席に座っている人の前を断りながら通って席へと座る。周りを見渡すと、母親に子供という組み合わせが多く、父親の姿はあまり見受けられなかった。隣の席に座っていた女性は子供に「明ちゃん、アナタは選ばれた者なのよ。今日それを証明するのよ」と呪文のように何度も何度も一方的に話しかけている。子供は迷惑そうにしながらも母親には逆らえないからか黙って聞いている。見ると同じように子供に一方的に話しかけている母親が多く見られた。何か異様なものを感じながらも、バックから近所の浅村お兄ちゃんから借りたグローブを取り出す。

 「おっ、さっきはアタシの言葉を軽く受け流してたくせに準備万端じゃない。心の底では僕が、僕こそが選ばれし者にふさわしいって思ってたんじゃないの?」

 このこのーと肘でつついてくる。

 「ま、まあ世の中には万が一ってことがあるからね。それにしても何か異様な雰囲気だね、ここ」

 一瞬怪訝そうな顔を見せるも周りを見渡して「ああ」と納得する。

 「去年新人賞を取った金子選手の影響じゃないかな」

 「金子選手の?」

 金子選手はフォールカーブと呼ばれるバッターの頭の高さから急降下するカーブを武器にルーキーながら十勝をあげて見事新人賞に輝いていた。その金子選手と目の前で呪文を繰り返している母親たちがどう結びつくのかさっぱり分からなかった。

 「シーズンオフに金子選手のインタビューがテレビで流されたんだけど、金子選手が女神様に選ばれた試合で、金子選手はお母さんと一緒に見に来てたんだけど、試合前にお母さんはずっと『アナタが選ばれるのよ』ってずっと話しかけてたんだって。その話を聞いた、息子をプロに入れたい世のお母様方はお父さんを押しのけて息子と一緒にスタジアムにはせ参じるようになったってわけ」

 「へえ」

 茜の説明を聞いて、再度周りのお母様方を眺める。そこで繰り広げられていたのは、迷惑そうにしながらもじっとそれに耐える息子と、そんな息子の様子などお構いなしに自らの願望を押し付ける母親の姿だった。形を違えど、僕と母さんとの似た関係があり、無性に悲しくなった。

 「レディース!アンドジェントゥルメーン!アンドチルドレン!ようこそ、ノタマ・パークにおいで下さいました」

 アナウンスの声にスタジアムのいたるところから歓声があがる。

 「この世界を創ったと言われる女神クイーン・オブ・ノタマが眠ると言われるここノタマ・パークで女神に勇姿を見せるべく熱い熱い熱戦が繰り広げられることでしょう。しっかーーーし、血沸き肉躍る熱戦となるためには必要不可欠なものがあります。それはみなさんの熱い熱い声援でーす!」

 周りから歓声があがり、嫌な考えを振り払うためにあわせて大声を、今まで出したことがないような大声を腹の底から絞り出す。

 「できるかー?」「できるー!」

 「できんのかー?」「できるー!」 

 アナウンサーの煽りにスタジアムのボルテージは早くも最高潮へと達しようとしていた。

 「熱い熱い返事ありがとう!試合中もさっきの返事に負けないくらいの熱い熱い応援をよろしくー。じゃあ、プレイボールまでもうちょっと待っててくれー」

 大声を出すと嫌な気持ちが吹き飛んですっきりした。周りの母親たちのことは忘れ、早く試合が始まらないか、そのことだけを考えられるようになった。

 「すごい熱気!やっぱりテレビで見るのと、スタジアムで見るのじゃだいぶ違うね」

 興奮した様子で茜が話しかけてくる。

 「そうだね」こちらも負けない口調で言葉を返す。「テレビじゃ試合の内容は分かっても、スタジアムの空気までは分からないもんね」

 期待に胸を膨らませて待つこと約三十分。待ちにまったプレイボールのかけ声がスタジアムに響きわたった。

 先攻のイーグルスの攻撃。マウンドに二メートルを超える長身から振り下ろすように投げられる二〇〇キロ近い豪速球が武器の須々木選手がマウンドにあがる。左足を胸の近くまで高々とあげ、人並み外れた高さからボールが放たれる。静まったスタジアムにパーンとボールがキャッチャーミットに収まった音が響く。バックスクリーンの電光掲示板には二〇一キロの表示。いきなりの二〇〇キロごえに溢れんばかりの歓声が沸き起こる。須々木選手は九球、一度もバットにかすらせることもなく三連続三振で一回の表の投球を終えた。

 後攻のドルフィンズの攻撃。マウンドには一六〇と小柄ながら、クロスカッターと呼ばれる切れ味鋭いスライダーが武器の森吉選手があがる。森吉選手は投球のほぼ全てがスライダーながら変化量を自在に操ることができ、変化量を最大にすると右打席のバッターにあたると思われたボールが外角のボールゾーンまで曲がる、ボールを切るようにして投げられたボールがホームベースを横切っていくことからクロスカッターのあだ名がついていた。

 一球目。マウンドの右端に足を置き、サイドスローから放たれたボールはバッターに当たると思われたところから外角一杯まで鋭い軌道を描いた。森吉選手も三者凡退で初回を終えた。

 試合はいつものようにスコアボードに〇が連なる投手戦として進んでいき、八回の表を迎えた。

 最初はスタジアム全体で同じ反応を示していたが、回が進むにつれてばらつきが出始め、八回になるとはっきりと二つのグループに分けられていた。一つのグループ、ホームランゾーン以外の観客は最初と同じように一つ、一つのプレイに熱い声援を送っていた。もう一つのグループ、ホームランゾーンの観客は最初は他の観客と同じように熱い声援を送っていたものの、試合が進んでもホームランがでない展開に業を煮やしたのかバッターに対するブーイングが増えていき、八回になると苛立ちは頂点に達していた。

 「ストライーク!バッターアウト!」

 須々木選手が今日一五個目の三振を奪い、観客席から拍手が起こるが、ホームランゾーンからの怒号がそれをかき消す。

 「三振ばっかしやがって、このへぼバッター」

 「それでもプロか!恥ずかしくないのか!」

 三振をしたバッターに容赦ない罵声が浴びせられ、ホームランゾーンは殺気立っていた。僕の膝に手が置かれる。隣を見ると茜が怯えていた。

 「翔……なんかみんな恐いね」

 「茜、大丈夫?もし恐いんだったら帰ろうか?」

 「ううん、大丈夫。折角来たんだから……」

 いつもの元気な声とは打って変わって弱々しい声。茜の手に自分の手を重ねる。

 「我慢できなくなったらいつでも言ってね。僕のことは気にしなくていいから」

 「うん、ありがとう」

 茜の手を優しく二回叩いて、フィールドへと視線を戻す。キィン!と乾いた快音。ボールがこちらへとぐんぐんと伸びており、悲鳴に近い歓声があがる。ボールはフェンスを直撃し、悲鳴がため息へと変わる。

 須々木選手の球威が落ちているのを察したのかベンチからピッチングコーチがでてきて、マウンドを中心にして輪ができる。

 「変えんなよー、変えるんなよー」

 「そうだー、須々木のままでいけー」

 試合の勝敗より何よりもホームランを望むホームランスタンドからは続投を願う声があがる。その声が届いたのかは分からないが、ピッチャーの交代はなく試合が再開される。バッターは三年目ながら四番に座る落村選手。

 「落村、頼むぞー」

 「お前しかいないんだー」

 球威が落ちてきてホームランが期待できる状況に一番ホームランが期待できるバッターの登場とあって、ホームランスタンドからの声援も一層熱を帯びていく。

 須々木選手がセットポジションから投げる。ストライク。一八〇キロのストレート。落村選手は悠然と見送る。須々木選手がキャッチャーからの返球を受け取って大きく息を吐く。セットポジションから二球目。快音と共にボールがレフトスタンドへ、僕の方へと飛び込んでくる。

 くる、と思った瞬間には何かに誘われるかのようにグローブを構えていた。ボールが一直線にこちらへと向かってくる。次の瞬間―――

 「明ちゃん、アナタが捕るのよ」

 母親に引っ張られ、背中を押された少年が僕の前に躍り出る。ボールが見えなくなり、はっきりとした失望を感じ、構えていたグローブを下ろす。

 「し、翔……」

 震える茜の声。見ると小刻みに震える指で僕のグローブを指さしている。見るとあった。僕のグローブの中にボールが、うっすらと光り輝くボールが。捕りにいったわけじゃない、入ったわけでもない。まるでそこにあるべきだったかのように気付いたら僕のグローブの中に収まっていた。

 この日、この時から女神様に選ばれし者として、ノタマのピッチャーとしての道を歩き始めることになる。

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