第1話 女神の愛するスポーツ

 フッーーーと大きく息を吐く。落ち着け、落ち着くんだと自分に言いきかせる。

 六回ツーアウト、ランナー一、二塁。六―〇でリード中。次のバッターは現在絶好調の中島さん。満塁でホームランを打たれれば逆転。それだけは絶対に避けなければいけない。

 マウンドのプレートから足を外す。それを見て一、二塁ランナーがそれぞれ慌ててベースへと戻る。

 少し間を置いて再度セットポジションへと入る。キャッチャーのサインは外角へのカーブ。またとないチャンスにバッターは打つ気満々。ストライクからボールへと変化させることができれば、バットは見事に空を切ることだろう。

 「女神様、お願いします」

 小さくボールに呟く。左足をあげ、右腕を力一杯に振る。右手から放たれたボールは女神の加護を受けることが出来ずにど真ん中へと吸い込まれていく。鋭い音と共に打球がレフトの頭の上を越えていく。それを見てランナーがゆっくり歩きながら進塁していく。バッターがベース上でガッツポーズをつくり、ボールがショートへと戻ってくる。

 ツーアウトながらホームランがでれば逆転のチャンスに今まで静まり返っていたレフトの外野席が一気に湧きかえる。

 五回までは完璧に抑えることができていたが、ファーボールと二本のヒットで満塁の大ピンチ。汗を拭いながらベンチへと目をやる。ピッチングコーチが遠慮がちに監督の様子を伺っている。監督は今までの機嫌の良さが嘘のように腕を組んで仏頂面をつくっていた。

 交代はなし、か。

 大きく息を吐いてショートからボールを受け取る。キャッチャーの梨田さんがタイムを取って駆け寄ってくる。

 「またいつものヤツか」

 うんざりとがっかりが混ざり合った口調。最近それまでどんなに調子が良くても急に崩れることが多く、シーズンが始まってからずっと勝ち星に恵まれていなかった。

 どう言葉を返すべきか分からずにただ黙る。

 「俺が監督ならお前を速攻で代えさせるんだが、監督の考えは違うらしい」

 キャッチャーミットでベンチを指す。意を決したのかピッチングコーチが監督に何やら話しかけているが、変わらず仏頂面を作り続けている。

 「というわけで、ここはお前に頑張ってもらうしかないわけだ」ベンチから視線を戻して再び向き合う。「分かっているとは思うが、一応状況を確認しとくぞ。六回、六―〇、ツーアウト満塁。バッターは四番でここ五試合で六ホームランと絶好調の中島。ホームランを打たれれば一気に逆転。あっちには盤石の勝利の方程式がいるためここでひっくり返されたらそのままゲームセットだろう」

 相手チームにはジョン、久保川、藤田と七、八、九回を投げるピッチャーが決まっており、リードがある状態で七回を迎えると負けを覚悟した相手チームのファンが帰りだすほどの圧倒的な存在感を誇っていた。

 「まっ、逆に言えばホームランしか打たれなければいいわけだ。そのために何球投じようとな」

 「分かっています」

 「よし!ストライクはいらないからな。我慢比べといこう」

 キャッチャーミットで軽く胸を叩いてくる梨田さんに「ハイ!」と気合を込めて返事をする。満足気に頷いてホームベースへと戻っていく。

 「逆転のチャンス。相手は絶好調。是が非でも打ちたいはず。だからこそストライクはいらない」

 自分に言いきかせてセットポジションに入る。

 一球目。外角へボール二個ほど外したストレート。反応せず、ボール。ワンボール。

 二球目。外角へストライクからボールになるカーブ。ぴくっと反応するもバットは振らず。ツーボール。

 三球目。外角へ再びボール。今度は反応せず。スリーボール。

 四球目。外角へストレート。まるでストライクが来ないことが分かっていたかのように見送ってボール。ファーボール。

 一打席目は勝負して来ないと見透かされていたか。審判がホームベースの前へと進み出る。胸からイエローカードを取り出してこちらへと提示する。満塁でファーボールを出したことによる一枚目のイエローカード。もう一度イエローカードが出されたら、イエローカード二枚でレッドカードとなり退場。レッドカードを受けるとと十日間の出場停止となるため、二打席目はストライクゾーンで勝負せざるを得なくなった。

 バッターと目が合う。絶好調の余裕からか涼し気な表情でこちらを見つめてくる。六―〇で勝っているのはこっち。中島さんだって打たなきゃというプレッシャーが絶対にあるはず。審判からボールを受け取ってマウンドへと立つ。満塁だからランナーを気にする必要はない。

 一球目。サインは外角のストライクゾーンへカーブ。大きく振りかぶり、左足を踏み出して右腕を振る。女神の加護を受けたボールを鋭い弧を描いて、真ん中から外へと曲がりながら落ちていく。待ってましたとばかりにバットを振るも捉えることができずにミットへと収まる。ワンストライク。

 二球目。外角へスライダー。少し甘いコースにいったものの読みと違ったからかバットは振らずにツーストライク。

 よし、追い込んだ!自信を持って中島さんを見やると変わらず自信あり気な表情を崩していない。追い込んでいるのはこっちなのになんだあの表情は。そんなに僕から打てる自信があるのか。

 芽生えかけた自信が一瞬にして崩れ落ちる。

 頭を二、三回振って嫌な考えを振り払う。気を取り直してサインを見る。インコースのボール球。息を大きく吐く。大きく振りかぶって腕を振る。ボールは要求通りに中島さんの体の近くを通り過ぎていく。悠々と見送る。

 梨田さんからボールを受け取る。カウントはツーストライク、ワンボール。ファーボールは許されない。なら勝負はここだな。

 外角のスライダーのサインに頷く。この状況ならストライクゾーンからボールゾーンに逃げるボールを投げることが出来たならいくら中島さんといえどもバットを振るだろう。

 ボールを口元へと近づける。「頼むよ、女神様」願いをボールへと込める。

 振りかぶり、投げる。放たれたボールはインコースからど真ん中へ、つまりバッターの最も打ちやすいコースへと緩やかな軌道を描いて中島さんのバットへと吸い込まれていった。

 キィーーーン!

 快音を残し、綺麗な放物線を描いたボールがレフトスタンドへと突き刺さった。一瞬の静寂の後、歓声が爆発する。

 手応えからホームランを確信していたのか、走り出すことなくボールの行方を見つめていた中島さんがゆっくりと走り始める。一塁ベースを回ったところでレフトスタンドを指さし、一際大きな歓声があがる。

 やられた。

 唇をかみしめ、その光景を見つめる。六―〇。ツーアウト満塁。一番避けなくてはいけない結果を招いてしまった。これで六―七。逆転……。

 中島さんがホームベースを踏み、監督、コーチ、ナインから手荒い祝福を受ける。ふとバックネットの観客席へと目をやると同じユニフォームを着たファンの多くが席を立ち始めていた。

 監督がベンチからでて、内野手がマウンドへと集まってくる。交代か。

 「ピッチャー中本に代わりまして松登。背番号十八」

 交代を告げるアナウンスを聞いて、マウンドを降りる。

 「おつかれ」

 ショートの田辺さんの優しい声が遠くに聞こえた。


 ロッカー前の椅子に座り、ボールを手に取って眺める。選ばれし者が選ばれし場所でだけ大きく変化させることができるボールを。

 「あーあ、途中までいい感じだったのにな」

 「味方が打たないとキッチリ抑えて、打つと次の回にはそれ以上に打たれる」

 「アレか、遠回しな野手批判か」

 試合が終わった後のロッカールーム。僕などまるでいないかのように野手の人たちが僕への批判を口にする。僕も何も聞こえていないかのようにボールを見つめ続ける。いいピッチングをして当たり前、打たれれば批判の嵐。それが試合後のロッカールームの日常。ショートの田辺さんのように優しい言葉をかけてくれるのはほんの一握りの人たちだけだった。

 ある日からプロノタマ選手になることを運命づけられた者と不断の努力の末にプロノタマ選手となった者―――投手と野手の間の壁はこの世に存在するどんな壁よりも分厚かった。野手の人たちの気持ちは理解できる。それでもやるせない気持ちは残った。

 しばらくすると批判もやみ、一人、また一人とロッカールームを後にしていき、ロッカールームも静かになる。人がまばらになるまでボールを眺める。いつからかそれが試合後の儀式のようになっていた。そろそろ帰るか。ボールを置いて着替え始めようとすると「中本」と声をかけられる。声の方を見やると入口に星野ピッチングコーチが立っていた。

 「監督がお呼びだ。すぐ監督室に来るように」

 その一言で鼓動が一気に高鳴る。先発失格、二軍降格。考えられるよくない通知が頭の中を駆け巡っていく。

 「―――はい」

 声が震えたのが自分でも分かった。ユニフォーム姿のまま腰を上げて、監督室へと向かった。


 監督室の前に立つ。深呼吸し、気を落ち着かせる。ノックし、「中本です」と告げるとすぐさま「入れ」と低い声が返ってくる。ドアを開け「失礼します」と部屋に入る。部屋では林監督がメガネをかけて、何かの資料に目を通している。近づいていくと資料を置いてメガネを外す。

 「今日は、というか今日も残念だったな」

 「―――ハイ」

 打線の援護がないまま終盤にホームランを打たれて負けるか、打線の援護があっても次の回にそれ以上に点を取られてしまう。その繰り返しで開幕から五試合勝ちがついておらず、二軍落ちを命じられてもおかしくない状況だった。

 やっぱりか。顔を伏せて、手を握りしめる。

 「そんな顔をするな」

 こっちの考えていることを察したのか、優しい声が耳に届く。顔を上げると穏やかな表情をしていた。

 「今日お前はここに呼んだのは、お前の立場を変えようと思ってじゃない。ただちょっと話を聞きたいと思ってな。〇勝五敗。防御率二.三六。勝ち星はついていないが、開幕からのお前のピッチングは決して悪くない。いや、むしろうちのチームの中でもトップの出来と言ってもいい。お前自身は自分のピッチングをどう感じている?」

 「ハイ、開幕からずっと調子はいいと思っています。ストレートも走っていますし、変化球も思い通りにコントロールできています。開幕から一カ月ちょっとですので、体力的にも問題ありません」

 普通の時は問題なかった。

 「なるほど、じゃあお前が点を取られることの多い、味方が点を取った後のピッチングはどうだ?」

 そう、問題は味方が点を取ってくれた後だった。唇をなめ、息を小さく吐く。

 「―――考えてしまうんです」

 「考える?」

 「ハイ。〇対〇やリードされている時は目の前のこと、つまり自分のピッチングだけに集中できるんです。腕をしっかり振ろう、変化球を思った通りに曲げようとか。普段は目の前の事だけに集中できるんですが……」

 「味方がリードすると色々と考えてしまって集中できなくなると?」

 「ハイ。味方が点を取ってくれると打たれちゃいけない、この点差を守らなきゃいけないという考えが自然と浮かんできてしまうんです。それで甘い所に球がいって打たれるとまた打たれちゃいけないという思いが強くなって……」

 「なるほどな」体重を背もたれと預ける。「つまりはメンタル―――心の問題というわけだ」

 「―――ハイ」

 考えないようにしようと思えば思うほどそのことについて考えてしまう。

 「心技体、という言葉がある。お前はこの中でどれが一番向上させやすいと思う?」

 「体、でしょうか?」

 「そうだな。もちろん個人差はあるが、筋トレすれば誰だってフィジカルは向上する。じゃあ、向上の度合いはどうだ?」

 「向上の度合い、ですか?」

 「ああ。同じ時間をかけた場合、最も向上する可能性があるのはどれだ?」

 「―――技、だと思います」

 「俺は心だと思っている。技と体は時間をかければ、その分だけ向上していく。もちろん限界はあるし、スピードはまちまちだがな。だが、心は違う。一〇年かけても全く向上しないこともあれば、あるきっかけで飛躍的に向上することもありうる、と俺は思っている」

 一〇年かけても全く向上しない。その言葉が重くのしかかる。

 「それは―――」言葉を絞り出す。「監督の実体験からの考えですか」

 「ああ。長い監督経験からの考えだ。今まで色んな選手を多く見てきた。技、体は申し分ないにも関わらず、それに見合った活躍をできずに去っていった選手を数多く見てきた。そして、その選手の多くが心のどこかに問題を抱えていた」

 言葉を区切って真っ直ぐにこちらを見つめる。

 「中本」

 「ハイ」

 「俺やコーチは技や体のことならアドバイスをしてやることができる。だが、心の問題はそうはいかない。外からは見えないからな。だからお前が自分で解決するしかない」

 「分かって、います」

 分かってはいる。でもどうすればいいかが分からなかった。

 「今すぐお前を先発の座から降ろすことはしない。ただこのまま同じように結果を出すことができなければ、そのことについて考えなきゃいけなくなる。それは肝に銘じておいてくれ」

 「―――ハイ」

 「話は以上だ。お疲れさん」

 「ありがとうございました」

 一礼して監督室を後にする。


 ドアを閉めて、一息つく。ロッカールームに戻ろうと歩きはじめようとすると後ろから肩を叩かれる。振り向くと突然頬に衝撃を感じて倒れ込んでいた。何が起こったのか理解できずに見上げると伊森ヘッドコーチが憮然とした表情で立っていた。頬を押さえると熱さが伝わってくる。殴られたんだ。

 「何でお前が打たれるのか教えてやろうか?」

 状況に頭がついていけずにただヘッドコーチを見つめる。

 「それはお前のメンタルがたるんでるからだよ。お前がたるんだ甘ちゃんだから、それを鍛え直すために俺はお前を殴ったんだ。いいか、お前のためなんだからな」

 そう言い残して去っていく。呆然と小さくなっていく背中を見つめていた。


 「おーす、お疲れちゃん」

 ロッカールームに戻ると先輩ピッチャーである東口さんが椅子の背もたれに顎をのせて座っていた。

 「あれ、東口さんどうしたんですか?」

 「どうしたも何も中本ちゃんを待ってた……あれ、その左頬どったの?」

 東口さんの言葉に左頬を触る。左頬はまだ熱を放っていた。

 「あの、これは……」

 正直に起きたことに言うのに後ろめたいことはない。にもかかわらず正直に告げることはためらわれた。

 「あっ、分かった。どうせ伊森のヤローに殴られたんだろ?」

 こちらの表情で正解と分かったのか「やっぱりか」と苦笑する。

 「何で分かったんですか?」

 「このチームでそんなことするのは伊森のヤローしかいないからな。どうぜお前のためだとか言って殴ったんだろ?」

 首を縦に振る。

 「やっぱりな。アイツは何かと理由つけて選手を殴りたいだけのサイコ野郎なんだから気にすんなよ」

 「で、でも―――」

 「いいか、よく聞けよ。”本当”のヘッドコーチに殴られたんならそれは気にする必要がある。自分の日々の行動を省みて治すべきところはなかったのかってな」

 本当の部分だけ力を込めて言った。

 「だが、アイツは本当のヘッドコーチじゃない。ヘッドコーチという肩書を持ったただの精神異常者だ。目立った実績は何もなく、確かな指導理論もない。できることと言えば選手を殴るだけのクズ野郎。それがアイツだ。自分のチームのコーチをこんな風に言わなきゃいけないのは悲しいけど、これが現実なのよね」

 「でも、ヘッドコーチに選ばれたんなら、何か―――」

 「アイツの嫁さんがいいとこのお嬢さんだから、コネかなんかなんだろ。まあ、そんなアイツの話はもういい、忘れよう、忘れよう」

 パンパンと手を二回叩く。

 「ハイ、忘れた。嫌なヤツのことは忘れたところで飲みにいこーぜ」

 「えっ、飲みですか?僕はこれからストレッチして今日のピッチング内容を見直そうと思って―――」

 「ハイ、だめだめ。今日は飲みですー」

 肩を抱かれて入口にひきづられていく。

 「中本ちゃんは真面目過ぎるから、そんなノタマのことばっかり考えてると頭パンクしちゃうよ。たまにはちゃんと息抜きしないと。というわけで今日は飲みに行こう。ハイ、決定!」

 ユニフォーム姿のままグイグイと引っ張られていく。

 「分かりました。行きますからせめて着替えさせてください」

 「えー、着替えちゃうの。中本ちゃんは謙虚だから、たまには俺はプロノタマ選手なんだぞ、スゴイんだぞ、称えよ!ってアピールしてもバチは当たらないと思うなー」

 「何のアピールですか、それ」

 「それじゃあ、しょうがない。じゃあ、出口で待ってるから早くきてねー」

 「分かりました。なるべく早く行きます」

 軽い足取りで出ていく東口さんを見送って着替え始める。


 もうすぐ日付が変わろうとする頃、ノタマ・パーク近くの個室居酒屋で東口さんと向かい合う。

 「ご注文は何になさいますか?」

 「とりあえず、俺はウーロン茶で。中本ちゃんはどうする……って、何その顔。鳩がガトリング砲くらったような顔して」

 東口さんの注文を聞いて思わず口が開いていた。

 「いや、ウーロン茶頼んだのが意外だったもので。てっきりお酒頼むものだと」

 「俺は試合前以外は飲まないんだよ」

 「そ、そうなんですか」

 「ああ。ほら、中本ちゃんも早く注文して」

 「あっ、はい。じゃあ、僕もウーロン茶で」

 「畏まりました。少々お待ちください」

 定員が一礼して下がっていく。それを見て話しを戻す。

 「さっきの話ですけど、試合前にしか飲まないって本当なんですか?」

 「本当も本当。東口嘘つかない」

 再度驚きの表情で見つめる。こちらの反応がよほど見慣れたものだったのか苦笑して続ける。

 「俺がこう言うと、みんなそういう反応するんだよな。酒に関する俺のイメージってどんなん?」

 「―――正直に言っていいですか?」

 「モチのロン」

 「一年三六五日。お酒を飲まない日はないもんだと思っていました」

 「まっ、スタジアムに顔赤くして来てれば、そう思われてもしょうがないか」

 「ウーロン茶二つ、お待たせしました」

 それぞれの前にウーロン茶が置かれる。

 「じゃあ、とりあえず乾杯といきますか。お疲れさん」

 「お疲れ様です」

 グラスが合わさって、小さな音を立てる。ウーロン茶を一口、口に含めると自然と安堵の吐息が漏れる。

 「いやー、ウーロン茶もうまいねー」

 CMのように大げさに息を吐く。

 「その、何かきっかけとかあったんですか?」

 「ん?」

 「試合前にお酒飲むようになったことです。最初から飲んでたわけじゃないですよね?」

 「そりゃ、流石の俺もプロになりたての頃は素面でスタジアムに行ってたさ」

 壁へと体を預けて、今ではないいつかを思い出しているかのように遠い目をしながら話を続ける。

 「今の中本ちゃんと同じだったのかもな」

 「僕と同じですか?」

 「ああ。今の中本ちゃんはどんなにいいピッチングをしても、急に崩れることが多くてメンタルに問題あり!って言われているわけだろ?」

 「そ、そうですね」

 ここ数試合の苦々しい記憶が蘇ってくる。

 「俺もプロになって二、三年はずっとメンタルに問題があるって言われていて全然活躍できなかったんだ」

 「東口さんがメンタルに問題ありって言われていたなんて、全然想像できないんですけど……」

 「監督、コーチ、ファン、マスコミ全てがやめろと言う中、それでも顔を赤くしてマウンドに上がり続ける男はメンタルが強いはずだって?」

 「そうですね」

 「―――本当にそうだったらよかったんだけどな」

 「えっ?」

 グラスに手を伸ばす。ウーロン茶を飲んで大きく息を吐く。

 「恐かったんだ」

 「恐かった?」

 東口さんの口から信じられない言葉が吐かれる。豪放磊落、どんな批判にも物おじせずにノックアウトされた試合のインタビューで使った監督が悪いと言い放ったこともある自分の道を行く東口さんの辞書に恐いという言葉があることが信じられなかった。少なくともノタマに関しては。

 「マウンドにあがるのがずっと恐かったんだ」一旦言葉を区切って言い直す。「恐かったじゃなく、恐い、だな」

 「今も、ですか」

 「ああ、昔も今も試合前には手が震えるんだ。まあ、今は別の原因な気もするが…」

 笑うべきなのか、呆れるべきなのか。どんな顔をして、どんな言葉を返すべきなのかは分からなかった。

 「そんな顔するなよ」苦笑して―いつもの豪快に笑い飛ばすイメージと違い、この居酒屋では苦笑してばかりだった―話を続ける。「試合前のブルペンではいつも調子がよかった。大体狙ったとこに投げられたし、変化球も思った通りに大きく曲がった。でも、いざ試合になると全然だった。ストライクが全然入らない。気付いたらノーアウト満塁。初回からイエローカードを貰うわけにもいかず、ストライクを取りに行くも満塁ホームランを打たれて七―〇。それ以降は何とか抑えるも、次の試合でも同じことの繰り返し」

 「その、その時マウンドでもどんなこと考えてたんですか?」

 「何でってずっと思ってた。何でブルペンでは思い通りに投げられたのに、試合では思い通りに投げられないんだろうって。何でストライクが入らない、何で狙ってところにいかない、何でこうなるんだってずっと思ってた。で、試合後にアイツによく殴られた。『たるんでるからだって』欲しいのは鉄拳じゃなくて、的確なアドバイスだったんだがな」

 口の端が吊り上がる。左頬に手を当てると、熱は収まっていた。

 「で、二軍落ち。と言っても俺らピッチャーは二軍でやることはあまりないからな」

 「そうですね。ノタマ・パークでしか色々と試せないのが辛いとこですよね」

 「バッターの連中からしたらそれが羨ましいらしいけどな。怪我や出場停止がでるのをひたすら待つ日々。まあ、上がっても同じことを繰り返してすぐ落とされてたわけだが」

 「そんなに思い通りに投げられなかったんですか?」

 「ああ、俺はずっと試合前のブルペンと試合のマウンドで同じ風に投げられていると思ってた。でも実際は全然違ってた。ノタマの事を考えても落ち込むだけだから、グラウンド以外ではノタマの事を考えないようにしてた。だから、自分のピッチングをビデオで見る事もしなかった。でも、ある日ふとしたことがきっかけで打たれた時の自分のピッチングを見る機会があった。もうビックリしたね」

 「そんなに違ったんですか?」

 大きく頷く。

 「足上げた時に体はぶれまくってるし、下半身で粘れないからリリースポイントもバラバラ。本人はいつもと同じように腕振ってるつもりでも土台がぐらつきまくってるからそらストライクも入らんわな」

 「で、その原因が恐さからだったんですか」

 「本当のところはどうなのは分からないが、少なくとも俺はそう思ってる」

 「東口さんは入団会見で『僕の名前をよく覚えておいてください。三年後には伝説になっている男ですから』と宣言したと聞いていましたので、その、そう聞くのがすごく意外です」

 「まさかプルペンエースなんて呼びれることになるなんて想像してなかったからな」その日の事を思い出しているのか寂し気に笑う。「なあ、中本ちゃん。ヤクザって、どういう人間なんだと思う?」

 「ヤクザ、ですか?」

 全く予期せぬ方向からボールが飛んできた。

 「ああ、八と九と三のやっちゃん」

 左頬を指でなぞる。

 「社会のルールになじめない腕っぷしの強い人、ですかね」

 「なるほど。じゃあ、メンタル面は?」

 「恐いもの知らず」

 「ふむふむ」こちらの答えに大袈裟に頷く。「なるほどね。俺は中本ちゃんとは全く反対だと思ってるんだよね」

 「反対ってことは、恐いものだらけってことですか?」

 「ああ。モチロン俺も会ったことないから想像なんだけど、色んなものが恐くて、それを覆い隠すために強がっていきがる人間の成れの果てって気がするんだよな。ハリネズミみたいなもんだな」

 「近づきたいけど、針が邪魔して近づけない……」

 「まあ、俺の捉え方も『ヤクザはビビらない相手が一番嫌』って話を聞いたからだから、合ってるかどうか分かったもんじゃないけどな。思っていることと実際の行動、内と外が素直に反映される人間ばかりじゃないのは確かだと思うが」

 グラスへと手を伸ばしてウーロン茶を口に含む。頭に浮かんだ質問をすべきかどうか、一瞬迷ったが思い切ってぶつけてみることにした。

 「東口さんもですか?」

 「ん?」

 「試合前に大きなことを言うのは、覆い隠すためですか?その、弱さを……」

 グラスを置いて、ふぅーと大きく息を吐く。

 「さて、どうかな」

 声のトーンからそれ以上の事を聞くのははばかられた。

 「すいません、変なこと聞いちゃって」

 「気にすんな。で、話を戻すと恐怖心が原因だろうと目星はついた。けど、どうすればいいかが分からない。で、時間だけが過ぎていってとうとう告げられた。『次の登板で改善が見られないなら来年お前の席はない』ってな」

 「ラストチャンスってわけですか」

 「まあな。バッターに比べてピッチャーが特別だと言っても、とうとう堪忍袋の緒が切れたらしい。登板する度に初回から失点してれば当然と言えば当然だが」

 このままの成績が続けば、僕にもそう告げられる日が訪れるんだろうか?

 「俺の場合は、三年間ずっとそんな調子だったんだから、中本ちゃんはまだ慌てるような年齢じゃないよ。ただ、いつまでもチャンスが与えられるわけでもないのも事実だから、少しでも参考になればと思ってね」

 心遣いに目頭が熱くなり、気付いたら「ありがとうございます」と頭を下げていた。

 「そんな大したことじゃないから、いいよいいよ。で、最後のチャンスに賭けなきゃいけなくなったわけだが、その頃の俺は『どうせ次もダメなんだろうな』と思って何もしなかった。前日になってもそれは変わらず、軽く体を動かす以外は何もしなかった。

 そこへ中学時代の友達で地方に引っ越したやつから仕事で久しぶりにダブルディに行くから飲まないかと連絡が入った。

 これからの人生が決まる登板の前日だ。普通なら明日登板だからと断るところだろう。でも、その重圧に一人では耐えられそうになかった俺は、明日登板である事を隠して朝まで浴びるように酒を飲んだ。今までの人生で一番酒を飲んだ夜だっただろう」

 「うわあ」

 思わず変な声が漏れる。

 「一緒に飲んだアイツも俺が登板するって知った時にそんな反応してたんだろうな」

 昔を懐かしむ、暖かい声。

 「そりゃ朝まで一緒に飲んでた人間がその日に登板してたらビックリするでしょ。で、そのままの状態で登板したんですか?」

 「昼からの試合だったんで、一睡もせず、酒も抜けきらないまま登板した。頭はガンガンするわ、気持ち悪いわで何か考える余裕なんて全くなかったわけだが、逆にそれがよかったのかもしれない。その試合で初勝利をあげ、そして辞められなくなった」

 「そうだったんですか」

 「中本ちゃんの抱えているものと俺が抱えているものが同じかどうかは分からないし、俺の方法を薦めようとは少しも思わないが、何かの参考にでもなればと思ってな」

 「ありがとうございます。今日の話を参考にもう一度自分と向き合ってみたいと思います」

 「うん。まあ、あんま根を詰め過ぎないようにな。じゃあ、今日はこれでお開きにしますか」

 「そうですね」

 東口さんが立ち上がり、合わせて立ち上がる。

 「あっ、そう言えば一つ聞きたいことがあったんだ」

 「何ですか?」

 「ボールなんだけど、ボール何か変わってね?」

 「ボールですか?投げてみてあんま変わったっていう感覚はないですね」

 「いや、俺も投げてる感覚は変わらないんだけど、やたらボールが飛ぶようになった気がしてな」

 「確かにそう言われると全体的にホームランが出やすくなったような気はしますね」

 「だろ?何か今までの感覚だと打ち取ったって打球がホームランになったりするんだよな」

 「アレじゃないですか?女神様の気が変わってホームランが出やすくなってるとか」

 「女神様は気まぐれだからなぁ。ピッチャーにしてみたら勘弁してほしいが」

 「子供たちは喜びそうですけどね」

 「ライバル(予定)が増えるな」

 「そうですね」

 顔を見合わせ苦笑し合う。

 「女神様に愚痴ってもしゃーないから、与えられた環境で頑張るとしますか」

 「頑張っていきましょー」

 こうしてウーロン茶でのノタマ談義はお開きとなった。


 快音を残してレフトスタンドへと突き刺さるボール。それを見てぐったりと肩を落とす画面上の自分。映像を見た限りでは、抑えている時と打たれた時に大きな違いは見当たらなかった。

 恐怖心、か。

 ベットに寝転がって天井を眺める。

 僕は何かを恐れているんだろうか?打たれること?打たれるとどうなる?チームは負ける。チームが負けることが恐いこと?それとも東口さんのようにラストチャンスだと告げられ、それでも活躍できずに去らなければいけないことが恐いこと?

 『アレは石ころみたいなものなのよ。だったら私が愛してあげなきゃいけない理由もないでしょ?』

 ふいに頭に浮かんだ言葉に息が詰まる。すぐ息苦しさを覚えて必死に酸素を求める。

 石ころだった僕はある日を境にダイヤモンドだと見られるようになった。今の僕は石ころなんだろうか、ダイヤモンドなんだろうか?もし石ころだったとしたら、僕は石ころとしてうまくやっていくことが出来るんだろうか?

 分からない。分からなかった。


 よく晴れた午後の昼下がり。緑あふれる公園にはカップル、家族連れなど多くの人々が行きかっており、その顔には多くの笑顔で溢れていた。そんな人々を一人沈んだ顔―体は筋肉痛であちこち痛み、心は解決方法が分からずに沈んだままだった―で眺める。

 時計を見ると午後二時三五分。約束の時間まで後二十五分。

 時計から視線を上げると、十メートルほど離れたところにいる少年と目があった。少年は僕を指さして傍にいた母親と思われる女性に話かける。女性は何か言葉を返すと少年の手を掴んでそそくさと立ち去っていってしまった。

 今の僕は他の人々からはどんな風に映っているんだろうか?いつまで経っても待ち人がこない振られた男だろうか?思考は自然と暗い方、暗い方へと流れていってしまう。

 背もたれへと体を預けて空を眺める。誇り、喜び、充実感。プロノタマ選手になったら、そういったもので心が満たされていくと思っていた。けれど、待っていたのは今までと変わらない欠落感。何かが足りない、欠けている。でもそれが何かが分からなかった。

 今まで幾度となく繰り返してきた自問自答は隣のベンチから聞こえてきた悪態で打ち切られた。ちらと隣を見やると四○才くらいの男性が不機嫌そうにスポーツ新聞をめくっていた。新聞の一面には昨日の試合で満塁ホームランを放った中島さんの写真がでかでかと掲載されていた。

 「ったく毎度毎度バカスカ打たれやがって!情けねーヤローだな」

 被っていた帽子を深く被り直してその場を後にした。


 約束の時間になるまでぶらぶらと公園内を散策して時間をつぶし、時間になったところで待ち合わせの喫茶店へと向かう。

 「いらっしゃいませ、おひとり様ですか?」

 「えーと、待ち合わせで……」

 店内を見渡す。すると窓際に座っていた女性が勢いよく手を挙げる。

 「あっ、翔!こっちこっち」

 店員に頭を下げて手をあげていた女性、幼なじみである清水茜が座っている席へと近づいていく。

 「久しぶり」

 一声かけ、帽子を取って席に着くと、正面から「ほっ、ほっー」と低い声が聞こえてくる。

 「ご注文は何になさいますか?」

 「あっ、すいません。アイスティーでお願いします」

 注文を済まして茜を見ると、ジト目でこちらを見つめてきていた。

 「何、その目?」

 「いやー、そんな帽子目深に被ってアイスティーなんておしゃれなもの頼んじゃって変わったなーって思って。きっとクリームソーダちゃんは思ってるよ。『あんなに注文しておいて、アタシのことは遊びだったのね!』って」

 「小さい頃の話でしょ、それ。っていうか帽子目深に被ってたのによく僕って分かったね」

 ふっふーんと自慢気な顔で胸を張る。

 「幼なじみだからね。何年一緒に過ごしてきたと思ってるのよ」

 「ホントぉ?」疑いの目を向ける。「約束の時間に男が入ってきたから、自信なかったけど適当に声かけたんじゃないの?」

 言葉を失って、口に手を当てる。

 「ちょっと!」

 「ホント、ホント、そんな訳あるでしょ」

 「そこは『冗談、冗談、そんな訳ないでしょ』って言うところでしょ」

 再度口に手を当てようとする。

 「もうそれはいいから」

 呆れた顔をすると、嬉しそうに笑う。

 「こうしたやり取りも久しぶりだね」

 久しぶりに会ったにも関わらず、会うと時間と距離は一気に縮んで昔と同じように笑い合うことができる。それが嬉しかった。

 「変わったって言ったら茜も変わってるじゃん」

 「そう?」

 両手を軽くあげて自分の恰好を見つめる。白い薄手のショートコートに黒のワンピース、黒いストッキングと随分大人っぽい恰好をしていた。こっちはティーシャツにジーパン、帽子と子供の頃と大して変わらない恰好をしているというのに―――。

 「そうだよ、今日初めて見た時、どこの淑女かと思ったもん」

 「ふっ、ふーん」再びの胸張り。「まっ、私も大学三年だからね。少しは大人っぽい恰好の一つもしますよ」

 そこで言葉を区切って、口に手を当ててぼそぼそと付け加える。「翔に久しぶりに会うから頑張っでオシャレしたんだよ。言わせんなよ、恥ずかしい」

 「いや、何で声小さくしたの?」

 「アイスティ、お待たせしました」

 「あっ、ありがとうございます」

 目の前にアイスティが置かれ、店員さんに一礼する。

 「……綺麗だよ」

 ぼそっと聞こえてくる。声がした方を見ると茜が穏やかに微笑んでいる。しばらく無言で見つめていると人差し指で机を三回軽く叩く。顔をちょっと背け、口に手を当て「綺麗だよ」と呟く。その後、何事もなかったかのように微笑みながらこちらを見つめてくる。

 アイスティーに口をつける。それを見て再び顔を背けようとする。言ってもらいたい言葉を言ってもらうまで同じ行動を繰り返し続けるいつものパターンだった。

 観念して一回深呼吸する。

 「―――綺麗だよ」

 「ありがとう」

 恥ずかしさのあまり、明らかな棒読みにも関わらず満面の笑みが返ってきて余計恥ずかしくなってくる。

 「だ、大学の方はどんなの?」

 恥ずかしさを誤魔化すために慌てて話題を変える。

 「楽しいは楽しいんだけど、三年にもなると就活の話が姿を見せ始めるからねー。ああ、楽しいモラトリアムの時間は終わり、現実と闘わなきゃいけない時間がやってくる。恐いわー、就活という悪魔が恐いわー」

 「何か進みたい方向とか決まってんの?」

 全て拾っていくと話がどこまでも脱線していくので、要点だけ拾っていくことにする。

 「ないんです!」

 三度の胸張りに「いや、そんな自信満々に答えなくても……」と呆れた声を返す。

 「いやー、ホントにないんだよねー。好きなこととか興味ある分野は色々とあるんだけど、『お前はそれをずっとやっていくのか?あん、ずっとやっていく自信があんのか、ああん?』と胸ぐらつかまれて問い詰められると言葉に詰まっちゃうんだよね」

 「念のため聞くけど、想像の話だよね、それ」

 「オフコース!」グッと親指を立てる。「だから、ゴーイング・マイ・ウェイを行く翔が羨ましいんだよね」

 「いや、こっちはこっちで大変なんだけどね」

 「そうそう、私の話はいいから翔の話よ。二年目のシーズン後半にチャンスをつかみ、怒涛の五連勝でシーズンを終えて飛躍の三年目。ダブルディのスーパーノヴァ、ついに爆誕かと思ったのに!」

 「スーパーノヴァって、星が一生を終える時に起こす大規模な爆発のことだからね?終わっちゃってるよね、それ」

 「なのにどうしたのよ!」返答なんて何もなかったかのようにスルーされる。「いくら好投しても途中で人が変わったかのようにパカンパカン打たれて!そんな幼なじみが心配過ぎて夜しか寝れないじゃん」

 「いや、夜眠れれば充分でしょ」

 「いやいや、昼も、高坂先生の授業中も寝たいよー」

 「授業はちゃんと聞きなさいよ」

 「で、ホントのとこはどーなの?」

 声のトーンが変わる。アイスティーを一口飲んで背もたれによりかかる。

 「分からない、っていうのが本当のところ」

 「分からない?」

 人差し指を顎にあてて、軽く首を傾げる。その仕草は可愛かった。

 「うん。自分としては何も変わっていないつもりなんだけど、急に打たれ始めちゃうんだよねー。一回だけならたまたまで済むんだけど、こう何回も続くと何か原因があるんだろうけど、それが何かが分からない」

 「うーん」

 「先輩から恐怖心から思い通りにピッチングできなかったって話を聞いたりしたから、もしかして僕も恐怖心からどこかおかしくなってるのかもしれない」

 「急に恐くなるってこと?」

 「僕は五回に崩れることが多いのね。最初は目の前のバッターにしっかり投げようと思ってるんだけど、五回になって、ここを投げ切れば勝ち投手になれる、あっ、先発投手って五回投げ終わった時にリードしてたら勝ち投手の権利を得ることができて、そのまま逆転されずに試合が終わったら勝ち投手になれるのね」

 話の邪魔をしたくないと思ったのか、声を出さずに首を縦に二回大きく動かす。

 「だから五回になったら勝ちを意識し始めて、目の前のことに集中できなくなっておかしくなっているのかもしれない」

 「でも、二年目の時にはそんなことなかったんでしょ?」

 「二年目は急に一軍への昇格が決まって、いつ投げるかも分からずにあっという間にシーズンが終わってたって感じだったからね。今はいつ投げるかも大体分かっているからね」

 「ふーん。余裕があるのは大体いいことだと思うんだけど、そういうこともあるんだ」

 「相手はこっちのことをよく知らず、こっちもよく分かってないから恐いもの知らずで二年目は活躍できたけど、三年目は相手もこっちのことを知っている。こっちも流石に周りが見えてくるから二年目のように無心ではいけない。二年目のジンクスみたいなものなのかもしれない」

 「もしくはイップスとか?」

 「イップス?」

 「そう、精神的なことが原因で思い通りにプレイすることができなくなること。今年初めての登板で五回にホームラン打たれたよね?それがプロになって初めて打たれたホームランだったと思うんだけど……」

 「そうだね」

 今年の初登板。五回裏ツーアウト。バッターはルーキーの清井。初対決は見逃しの三振。二回目の対決もツーストライク、ワンボールと追い込んでいた。サインはストライクからボール、左バッターへと向かっていくスライダー。サインに頷き、振りかぶって投げたボールは女神の加護を得て思い通りの軌道を描いた。バッターがスイングを開始する。

 内角のボール球。仮にバットに当たったとしてもファールゾーンにしか飛ばないはずだった。次の瞬間、真芯で捉えられたボールはファールゾーンへと切れることなくライトスタンドへと飛び込んでいった。

 湧き上がるスタジアムでただ一人、信じられない気持ちでライトスタンドを見つめていた。自分が自信を持って投げたボールを完璧に捉えられた。後からビデオを見返すと腕を見事に畳んで打ち返しており、打ったバッターを褒めるしかない。そう、自分の中では消化できているつもりだった。でもショックが尾を引いたままなんだろうか?

 「で、確か次の試合はエラーやらファーボールやらで大量失点。今までちゃんと抑えられていたのに、たまたま五回に点取られたことが重なって無意識の内に苦手意識を持っちゃってるんじゃない?」

 「無意識の内に、か。だとしたら乗り越えるのは大変そうだな。どうしていいか分からないし……」

 「壁は、何のためにあると思う?」

 腕を組み、大仰そうに問いかけてくる。

 「何かを止めるため?」

 例えば、ダイヤモンドの振りをした石ころを弾くためとかね。

 「違う」はっきりとした、確信に満ちた声。「ヒトをより大きくするために壁はあるの。そして、乗り越えた後に分かるの。あれは壁なんかじゃなくて、もっと大きな自分になるはずの扉なんだって」

 「もっと、大きな自分……」

 なれるんだろうか。僕はあの日夢見た、なりたいと思った僕に。

 「翔、右の手の平見せて」

 「手の平?」

 「うん」

 おずおずと右の手の平を見せる。そこに茜の手が重ねられる。茜の体温を感じる。

 「できるよ」茜の声が体に染み渡っていく。「翔ならできる。この大きな手で、きっと乗り越えられる。私はそう信じてる」

 「何で、そう思えるの?」

 声が突っかかって上手くでてこない。

 「だって、幼なじみだもん。小さい頃からずっと見てきたんだもん」

 「―――ありがとう」

 「いえいえ、どういたしまして」

 手が離される。

 「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けば分かるさ。というわけでレッツ、メタモルフォーゼ!」

 メタモルフォーゼのかけ声と一緒に拳を突き上げる。何してるんだろうという顔で茜を見やると、茜も何してるんだろうという顔でこちらを見つめてくる。

 「ちょっとちょっと、何してんのよ?」

 「何してるって……メタモルフォーゼって何?」

 「メタモルフォーゼはドイツ語で変化、変身の意味。メタモルフォーゼのかけ声と共に拳を突き上げることで、『俺はこれからより大きな自分に変身するぜ』っていう決意表明でしょ?わざわざ言わせないでよ、恥ずかしい」

 「いや、言ってくれないと分からないんだけど……」

 「翔なら言わなくても分かってくれると思ったんだけどなー。付き合いだって長いんだからさー」

 テーブルに文字を書くまねをしてすねていたが「まあ、いいや」と飽きたのか十秒ほどですぐやめる。

 「考えまいと考えている時点で既に心は囚われている。考えちゃダメだと思っても考えてしまうなら逆に考えまくってみるとか?」

 「あえて?」

 「そう、あえて。考え抜いた果てにきっと答えはある。それではご起立お願いします」

 黙って見つめることで抵抗の意志を示してみたが、「ご起立お願いします」と繰り返すのみでやはり通じなかった。従うまで繰り返されることは分かっていたので、しぶしぶ立ち上がる。

 「それではご一緒に。レッツ、メタモルフォーゼ!」

 「め、めたもるふぉーぜ」

 喫茶店の片隅で拳を突き上げる二人。

 「さて、新たな決意表明も終わったところで、翔はこれからどうするの?アタシはこれからバイトだけど……」

 「僕はもうちょっとここにいるよ」

 「そう?じゃあ、アタシはもう行くね」

 そう言って、伝票は手に取る。

 「あっ、僕が払うよ」

 「いいの、いいの。誘ったのはアタシなんだから。じゃあ、頑張ってねー」

 「あっ、茜」

 手をひらひらさせてレジに向かおうとする茜を慌てて呼び止める。

 「うん?」

 「ありがとう、今日は話聞いてくれて。自分の中で整理できたような気がする」

 「いえいえ、どういたしまして。でも、次は翔の活躍話が聞きたいな」

 「が、頑張ります」

 「うむ。じゃあねー」

 茜を見送って腰を下ろす。

 メタモルフォーゼ、変身か。

 今まと同じことをするのならば、同じ結果が待っているだけだろう。だったら変えなければならない。でも何を?しばらく、一人でそのことを考えていた。


 一礼して練習用グラウンドに入る。練習用グラウンドでは二つのグループ、ホームベース付近でバッティング練習に精を出す野手陣とバックスクリーンの前、センターの守備位置にネットを張り、ストレッチしている投手陣に分かれていた。野手陣の間には活気と監督が熱心に熱い視線を送っているからか緊迫した空気が流れているのに対し、投手陣の間には弛緩した空気が漂っていた。

 投手陣の方に向かおうとすると、練習を終えたサードの村田さんが近づいてくる。「おはようございます」と声をかけようとするも冷たい視線に言葉が途切れる。こちらを一瞥しただけでベンチ裏へと消えていく村田さんを複雑な気持ちで見つめていた。

 気を取り直して投手陣の方に向かおうとすると「おっーす、中本ちゃん」と東口さんに勢いよく背中を叩かれる。少しむせながら「あっ、東口さん、おはようございます」と挨拶を返す。

 「あれ、中本ちゃん何か落ち込んでない?この前の試合のことまだ気にしてんの?」

 「いや、変わらず溝は深いなぁーと思いまして」

 「溝?」一瞬怪訝そうな顔をしたものの、すぐ何のことを言っているのか察しがついたらしい。「ああ、村田に挨拶したら冷たい視線をぶっかけられたってとこか」

 「ええ」

 「そんなん気にすんなって」

 「でも野手の人たちって僕たち投手陣にあんまりいい心象持ってないですよね?同じチームなのに―――」

 「まあな」

 理解を示す深いため息。東口さんも若い頃に同じようなことを思い、そしてアルコールの力で恐怖をやり過ごせるようになったように何かしらの方法でやり過ごせるようになったんだろうか?

 「でも、しょうがないんじゃないの?同じ職業、同じチームだったとしても俺らとアイツらじゃ立場もそこに至るまでの経緯も全く違うんだから。そんだけ違ったら、同じ場所にいても物事の捉え方、感じ方も違って当然だろ?」

 選ばれた者と至った者の違い、か。

 「そんな中で俺らに出来るのは、自分に与えられた仕事を全うすることだけだ。全うした先に優勝という結果まで辿り着くことができたなら、分かりあうことができる。戦友としてな」

 「シャンパンファイト。その一瞬だけですか?」

 「全くないよりはマシだろ」

 「まあ、そうですね」

 「というわけで今の俺らにできるのは監督の目の前で必死にアピール合戦をしている野手陣を尻目に体をほぐすことのみ。さあ、レッツゴー」

 東口さんに肩を抱かれて投手陣の方に歩いていく。すぐ近くまで行くと「おーす」「ちぃーす」とあちこちから緩い挨拶がなされる。

 試合が組まれていない月曜日の練習。三時間の練習でゲージバッティング、シートノックとメニューが組まれている野手陣に対し、明日先発予定の東崎さん以外の投手陣はストレッチ、ランニングと軽めのメニューのみになっていた。

 輪から少し外れたところに座り込んでストレッチを開始するも意識は昨日から考えていた、新しい自分へと向かっていった。すぐ近くに転がっていたボールを手に取る。コルクやゴムの芯に糸を巻き付け、それを牛革で覆い、縫い合わせて作られた公式ノタマ球。投手はこのボールに回転を加えることにより、女神の加護を受けたボールを大きく変化させることができる。

 「どうしたんだ、中本。そんなボールじっと見つめて?」

 みんながストレッチしている中、一人でボールを見つめているのが気になったのか先輩の小沼さんに声をかけられる。

 「いや、新しい変化球を考えてみようかなと思いまして」

 その一言で近くにいた投手たちの視線を一心に集める。

 「やめとけ、やめとけ」

 「努力なんてバッターがすることだぞ」

 各々否定の言葉を投げかけて興味なさそうにストレッチへと戻っていく。その反応を驚きの目で見つめていると「中本」と諭すような口調で言葉を紡いでいく。

 「努力には二つある。一つは正しい努力、もう一つは間違っている努力だ。正しい努力とは何か?それは結果へと繋がる努力だ。間違った努力は結果へと繋がらない努力、つまりお前が今からしようとしていることだ」

 正しい努力と間違った努力。小沼さんはさらに言葉を続ける。

 「絶対的に正しい努力もなければ、絶対的に間違っている努力もない。何が正しいかは人によって異なる。向上とか改善という言葉はアイツらにとっては正しい努力なのかもしれない」ホームベース付近で熱心に練習に励んでいる野手陣を指さす。「でも、俺たちは違う。選ばれた俺らはな」

 言いたいことは分かった。でも「はい、そうですね」と頷くことはできなかった。

 「絶対的に正しい努力がないのなら、僕にとっては正しい努力かもしれないじゃないですか?」

 「―――中本」

 小沼さんが困った顔を見せる。

 「小沼、ほっとけよ。そんなヤツ。向上とか改善の果てに女神様の加護を失った時に初めて気づくんだろーよ。自分が間違ってたってな。女神様のご加護を得ることのできる回転は偉大なる先達によって全て解明されている。その回転こそが全てだ。俺たちはその回転をボールに与えることだけを考えればいいんだ。そうすれば女神様は微笑んでくれる」

 先輩の大野寺さんが冷たく言い放つ。小沼さんもそれ以上は何も言ってこなかった。

 回転こそ全て、か。僕たちピッチャーはいかにボールに多く回転を与えることができるかをずっと考えてきた。そうすればボールは女神様の加護を受けてより大きく曲がるから。

 頭にある考えが浮かぶ。あえて。そう、あえて逆にできるだけ回転を加えなかったとしたら女神様はどう答えてくれるんだろうか?

 思わず息を呑む。ピッチャーが一番恐れること。それは女神様の加護を得られなくなること。変えるべきか、変えないべきか。僕は―――。


 ノタマ・パークから歩いて十分ほどの場所に建てられている高層ビル。そのビルの三十三階の一室に設けられているプロノタマコミッショナー室からダブルティの町を見下ろす。いつもならノタマ・パークで試合が行われている時間帯のため、ノタマ・パークを中心に熱気に溢れているはずだったが、試合のない月曜はその熱気が嘘のように静まり返っていた。

 窓に手を当てて目をこらす。いつからか試合のない月曜に他の曜日なら試合が行われている時間帯に街を見下ろすようになっていた。街を見下ろす時、決まって浮かんでくるものを何と表現すべきかはよく分からなかった。誇り―プロノタマコミッショナー。プロノタマを運営するプロノタマ機構の頂点。引退後の身の振り方としては比肩なきものだろう。プロノタマの人気にも陰りが見える中、引退した後に安定して職に就ける者は少ない―か、後ろめたさか―物事には表と裏がある。試合中の熱気があれば、試合がない日の静けさがあるように、プロノタマの華やかさの裏には直視することができない耐えがたい醜さがある―か。

 『大きな勢力の腐敗を正すことができないなら、その腐敗に自分から身を染めるべきだ』

 あの日、今の自分へと続いていく階段を登る決断をしたあの日、ある人から言われ今もひっかかり続ける言葉。その言葉に背を向けた友は何を想って、手を汚し続けているんだろうか?

 「―――コミッショナー」

 「何だ?」

 視線を街へと向けたまま声だけで応える。

 「もうすぐ定例会見のお時間です。今日のスーツはどうなさいますか?」

 定例会見。コミッショナーとして記者を集めて月内に最も活躍した選手の表彰と質疑応答をするのが習わしになっていた。振り向くと白いスーツに身を包んだ秘書がネイビーとグレイ、二着のスーツを持って立っていた。

 「どちらでもいい」

 そう告げようと思ったが、思い直してズボンのポケットへと手を伸ばして一枚のコインを取り出す。ノタマ殿堂入り―秀でた功績を残した者のみに与えられるプロノタマ選手最大の名誉―を記念しプレゼントされたコイン。表にはクイーン・オブ・ノタマのエンブレム、裏にはノタマ・パークが描かれていた。

 「表ならネイビー、裏ならグレイだ」

 左手の親指でコインを弾き、左手の甲で受け止めて右手をかぶせる。少しの間を置いて右手をどけると女神のエンブレムが姿を見せた。

 「ネイビーだ」

 何かしらの決断をしなければならなくなった時、選択肢を二つまで絞り込んでコインに選択肢を委ねる。それが私の決断方法になっていた。些細なものから重大なものまで全て―――。


 「今月の月間MVPを発表します。今月の月間MVPは……ダブルディ・パイレーツの清井和喜選手になります」

 呼び上げられた選手の名前に集まった記者から驚きの声が上がる。清井和喜、今年の野手ドラフト一位のルーキーで一年目から月間MVPに選出された選手は今までいなかった。

 「コミッショナー、よろしいでしょうか?」

 ベテランの記者が声をあげる。ちらと司会のスタッフに視線を送る。

 「はい、ではこのまま恒例の質疑応答に移らせて頂きます。質問のある方は挙手をお願いします。ではまず報日の吉川さん」

 指名された吉川がマイクを受け取って立ち上がる。

 「報日の吉川です。私の記憶が確かならばルーキーイヤーに月間MVPを受賞した選手はいなかったと思います。今回、前例のない決定に評議会も揉めたのではないかと推測されますが、どうだったのでしょうか?」

 少し間を置いて話し始める。

 「そうですね、吉川さんの言われていた通り、今までルーキーイヤーに月間MVPを受賞した選手はいません。評議会も前例がないという理由から反対意見があったのも事実です。ただ最終的にはノタマの本来の目的、この世界の創世の女神であるクイーン・オブ・ノタマに自在にノタマを操ることができるようになったことを示す祭事という観点から最も表彰されるべき選手は誰なのかということを考え、私の一存で決定させて頂きました」

 「ハイ!」

 「読日の松永さんお願いします」

 「読日の松永です。コミッショナーの一存で決定したとのことですが、ノタマ人気低迷が囁かれる昨今、新たなスターを作り出そうとした意図はなかったんでしょうか?」

ノタマの人気低迷、か。コミッショナーとしてはノタマの人気低迷は由々しき事態だろう。だが、私個人としては?分からなかった。だが、心とは関係なく口からはすらすらと言葉がでてくる。

 「新たなスターにでてきて欲しいと思っているのは事実ですが、その想いと今回の決定は無関係です。純粋に先月最も活躍した選手がルーキーで今までルーキーが受賞したことはなかった。それだけの話です」

 月に一回、コミッショナーに直接質問できる貴重な機会だからか雨後のタケノコのように次から次に手があがる。時計を見る。午後八時十五分。約束の時間が迫っており、そろそろ幕を引く時間だった。再び司会のスタッフへと視線を送る。

 「申し訳ございません。そろそろ時間が迫って参りましたので、次の質問で最後とさせていただきます。えーと、では朝売の古賀さん、お願いします」

 「朝売の古賀です。シーズンが開幕してから約一か月半。ノタマの醍醐味がホームランであることに異論を挟む余地はないかと思いますが、そのホームランがここ五年と比較して飛び抜けて今年は多くでています。そのことに関してコミッショナーはどうお考えですか?」

 「古賀さんが言われている通り、ノタマの醍醐味はホームラン。そのホームランが増えたことはコミッショナーとしてとても嬉しく思っています」

 「今までボールの配給会社は四社でしたが、今年から一社、タマノ社のみに変更されました。また一部選手の間ではボールがより飛びやすいものに変わったんじゃないかという話も聞かれます。これらのことについてはどうお考えですか?」

 「頂いた質問に対して一つずつお答えします。まずボールの供給会社を一社にしたのはなるべく均一の条件にしたかったからです。いくら規格を定めても会社が違う以上ばらつきはでますからね。次にホームランが増えているのは各バッターの技術向上の結果だと私は思っています」

 「技術向上の結果、ですか?」

 「ええ。今の選手たちの競技に対する意識の高さは本当に素晴らしい。私の現役時代の時は明日試合があっても食べたいもの、飲みたいものをとり、次の日にふらふらした状態でスタジアムに姿を見せるものが多くいました。でも、今の選手にはそんなことをする選手はほとんどいません。まあ、一人例外はいるみたいですが……」

 こちらの息がかかった記者たちから笑い声があがる。

 「真摯にノタマに取り組み続けている選手の努力がホームランの増加に結び付いた、と私は思っています」

 「しかし、今年になって急に増えるのはどう考えても―――」

 「技術は!」古賀の質問を途中で遮って自分の言葉をぶつける。「右肩上がりには向上していきません。筋力はやればやるほど向上していきます。確実に成果を感じることができます。でも技術は違います。いくら必死に頭を使って練習しても成果を感じられない日が続くことも珍しくありません。でも、成果が感じられないからといってその努力は無駄なのかと言えばそんなことはありません。植物が寒く厳しい冬を経て、春に花を咲かせるように技術も長い潜伏期間を経て急に花開くことがあります。

 努力すれば必ず報われるのであれば、誰もが努力するでしょう。報われる保証がない中、それでも努力し続け、見事結果を出した選手たちをプロノタマを運営する者の代表として誇りに思います」

 息がかかった者から始まった拍手が野火のように記者全体に広がっていく。それに満足して司会のスタッフに視線をやる。

 「それでは定例記者会見は以上を持ちまして終了とさせて頂きます。本日はお集まりいただき、誠にありがとう御座いました」

 「ありがとう御座いました」

 一歩下がり、深々と礼をして会見場を後にした。


 「お疲れ様でした」

 会見場をでると、すぐさま秘書が影のように寄り添ってくる。まるで監視しているかのように。

 「ああ」

 短く返答し、メガネを外して渡す。

 「会長がお呼びですが、いかが致しましょうか?」

 予想されていた言葉にも関わらず、漏れそうになったため息を必死にこらえる。

 「すぐ行こう」

 重い足をひきづって、会長、私をコミッショナーへと導いてくれた人物の元へと向かう。


 とあるマンションの一室。男二人、女一人がじっとコミッショナーの定例会見が映されたテレビを見つめている。

 「―――努力すれば必ず報われるのであれば、誰もが努力するでしょう。報われる保証がない中、それでも努力し続け、見事結果を出した選手たちをプロノタマを運営する者の代表として誇りに思います」

 「誇りに思います、か」

 サングラスの男がリモコンに手を伸ばしてテレビを消す。

 「流石はコミッショナー様。見事な切り返しだな」

 皮肉気に呟く。

 「スノーはどう思う?」

 スキンヘッドの男が銀髪の少女に問いかける。

 「どっちが持ちかけたのかは分からないけど、ボールは変わってるでしょうね。よく飛ぶものにね」

 「観客はホームランが多く見れる。女神に選ばれし者も増える。プロノタマ選手になれる者が増えれば、プロノタマも盛り上がる。いいことづくしだな」

 帽子の男が唇を歪ませて、ソファに体を沈みこませる。

 「少女の消耗が早くなることを除けばね」

 その一言で帽子の男から表情が消える。入れ替わるようにスキンヘッドが女へと身を乗り出す。

 「どうする、スノー?この事実で攻めていくか」

 男の問いかけに女は大きなため息で答える。

 「そうしたいのはやまやまだけど、おそらく無理でしょうね。今のボールを合法、非合法含めて手に入れることは難しいでしょうし、仮に手に入れることができたとしてもノタマ・パーク以外では実証する方法がないからね。結局、終わらせる者がでるのを待つしかない」

 女の言葉にスキンヘッドが頭を掻きむしる。男の頭皮にはうっすらと血が滲んでいた。

 「ホームランがでやすくなれば、終わらせる者がでてくる可能性も低くなる。本当の狙いはそっちなのかもな」

 「本当にあの人は変わっちまったんだな」

 男たちが感心したように呟く。

 「今の私たちにできるのは待つこと、そして決して諦めないこと。私たちは秋人たちとは違うんだから」

 その言葉は男たちというより、自分に言い聞かせるかのようだった。


 定例会見が行われていた会場があるビルの最上階。白髪をオールバックにした初老の男が皮張りの椅子に座って満足気な表情を浮かべていた。男の机の上にはノートパソコンがあり、ホームランシーンだけが次々と映し出されていた。

 「―――美しい」

 男が恍惚として見入っている。そこに「失礼します」と会見を終えたコミッショナーが入ってくる。初老の男が視線を移す。

 「おお、松原か。まあ、そこに座れ」

 男が机の前に設けられているソファーを指さす。松原が一礼して腰を下ろす。男もソファーへと移動して腰を下ろし、松原と向かい合う。

 「さっきの会見を見ていた。コミッショナーとして誇りに思うのくだりは見事だったな」

 「ありがとうございます」

 松原が頭を下げる。

 「口うるさい記者どもも殿堂入り選手からの言葉とあっては反論もできまい」

 「いえ、私は事実を言っただけです」

 「事実、か」 男が可笑しそうに松原の言葉を繰り返す。「まあいい。今日お前をここに呼んだ理由は二つある。一つ目。タマノの社長が礼を言っていた。近いうちに会食があるからその時はおって連絡する」

 男の言葉に黙って頷く。

 「二つ目。キラー・クイーンの奴らがまた動き出したという情報が入ってきている。事前に防げとは言わない。だが対応を誤るなよ」

 「分かっています」

 「話は以上だ。いけ」

 松原は立ち上がり、深々と礼をして背を向ける。男との面談中、松原の顔には仮面のような無機質な表情が張り付いていた。

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