第2話 ニガズィローヴァンナヤ

 太陽が私の頭上で微笑んどるし、この空で邪魔しそうなもんは、なんもないわ。あったかい大気が街をぐわっとおおっとる。唇が少しひりひりするんを感じたから、あせって胸ポケットに手を当てがって、リップクリームがしまっとるんを確かめといた。コートは部屋に置いてきたけど、なんも心配いらへん。麗らかな午後の昼下がりです。私は市内を散歩してました。

 田舎の小学校の校舎や見間違えてもしゃあないなって思うユジノサハリンスクの空港に降り立ったんは昨日の夕方で、はるか彼方ん地平線に馬鹿でかい夕陽がぶつかっとんねん。ほんでそのお日さんがや、どろっどろに溶けていくんをちょうど見届けれたわ。その日は指定されとったホテルに一直線で、着くなりさっさ夕食を取って、そいから部屋に戻ってすぐ寝たわ。朝になって、市内の外れにある大学寮に移りました。こんな手間かけさせられるっちゅうんや。ここの大学のやつら、なに考えてんねやろね。ぐわぐわ、そんな疑念、湧いてきたから、寮母のイレーナに問いただしてみたわ。イレーナは、朝っぱらから窓口にやってきた私の、不機嫌な顔を見てもなんも動じんかった。そんな顔はしこたま見慣れとる、っちゅう感じなんよ。彼女、見るからに大きな図体しとって、マトリョーシカがそんまま動き回っとるように見えました。管理人室の出入り口で腹がつっかえそうになっとって、私は腹からこみ上げるもんがあったんよ。まあ、私も他人様のこと、笑えへんけど。

 そんで、今に至るわけやけど、ユジノサハリンスクの市内を散策してます。<ピェールヴィ>っちゅう、えらい業務的で無機質な名前のスーパーがあって、この由来を考えているんね。こうかしら、ああかしら。二つ、三つと思いついたけど、どれも違いそうな気配がしてます。

 本通り沿いの、ひときわ大きくて賑わいのある<ピェールヴィ>に入ってみることにしましょか。道路から階段を5段くらい登りました。きっと、これは積雪のためやね。もう2か月くらいしたら、このへんはどっさり雪が降り積もって、しゃんしゃん雪を踏み抜きながらにね、買い物客がぞろりと集まってくるんよ。きっとそう。店の入り口にはスーツ姿の背の高い男がどっしり立ってます。ナニモンか知ってるん。教えたろか。これは警備員やで。店が雇ってんねやろね。日本にも店に警備員はおるけど、あれは制服着とるのが多いです。こっちはスーツ姿でね、なんか要人警護の人らに見えてくるんよ。白系外国人の風貌は、見慣れてもやっぱり怖さを感じてまうことがあるね。

 店の中に入ると、雰囲気は私らが思い描くスーパーそんままやね。当地で収穫できる果物や野菜はみんな大ぶりです。バナナの甘ったるい匂いがつんと鼻ん奥に忍び込んできました。特に買うもん決めとったわけやないけど、ふっと、水が欲しいなと思いました。日本もユジノサハリンスクも、スーパーっちゅう限りは、店のどの辺になんの棚を置くかってことに共通性を見いだせます。私は通路を奥の方にずんずん進みました。肉、魚、どれも大きいね。お菓子はパッケージが見慣れん文字です。キリル文字だけやなくてね、ユジノサハリンスクは韓国とも近いから、ハングルも見えました。値札の方でどんな味のなんちゅう品目か確かめれるんやろうけど、ここの人はごく自然にハングルも読めてはるんかしらと思いたくなるね。

 冷蔵棚に水がありました。ペットボトルです。蛍光灯の色かしら。青みがかって見えます。水らしくて、おいしそうでええやん。ちょうどええサイズも見つかって、ひと安心といったところ。いや、待ってえな。なんやろう。どないしよか。

 水のペットボトルがずらり並んどる。ちょっと多い。見かけにはなんも変わりよらん。でもよう見たら、ラベルの文句が違うんよ。


<ガズィローヴァンナヤ>

<ニガズィローヴァンナヤ>


 おんなじ水やろうに、なんでちゃうねん。なにがちゃうねん。私はその場で調べる道具を持っていません。まあ、わからへんけどね、でもね、私が飲みたいんは、オーソドックスな水です。ありふれた、<アブィクナヴェーンナヤ>な水やねん。それにね、私には知識がありますから。<ニガズィローヴァンナヤ>の最初にちょこっと付いとる<ニ>は、これは否定を意味するんですね。つまりですね、<ガズィローヴァンナヤなやつ>(これがなんのことかは知らへん)と、<ガズィローヴァンナヤやないやつ>ってこと。私が飲みたいのは、普通の水。そいだら、ヘンな<ニ>なんて付いとらへん、純正<ガズィローヴァンナヤ>を選ぶのが筋ってもんでしょう。私は<ガズィローヴァンナヤ>を手に取って、のどの渇きを潤したい、今日は乾燥気味やから、なんていう風に思って、レジを通りました。不愛想なレジ係にも、私はなんも感じへんかったね。

 スーツの警備員の横を颯爽と通りすぎて、店の外、駐車場の隅に立ちました。

 実は、ちょっと私には心配事があるわけよ。それはね、つまるところ、この水が仮に炭酸水だったらってことなんよ。舌の上でパチパチして、喉奥が焼けるような感覚がするあの炭酸水だったら、私はもう一滴も飲めへん、とこうなるわけよ。

 私はペットボトルのキャップをひねりました。

 駐車場、澄み切った9月の青空の下、あったかい大気で包まれとるユジノサハリンスクに、パシュッ、と軽快な音色が響き渡りました。

 口からあふれ出る気泡と水、また気泡、そいから水、水、水。

 私は、口から、「ああ」と一声、出た。


 寮に戻って、窓口から管理人室をのぞいたら、寮母のイレーナがお昼間のドラマを見とった。私はイレーナを呼び止めて、ペットボトルの水のことをいろいろ聞き出した。まだ言葉に慣れとらんかった。だからイレーナがあの手この手で説明してくれはったことも、きちんと理解できてるかは知らへん。

 ペットボトルで売っとる水は、<炭酸水=ガズィローヴァンナヤ>らしくって、<炭酸抜き水=ニガズィローヴァンナヤ>っちゅうことなんやと。

 知らんがな。

 

 


 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

炭酸抜き水 委員長 @nigateiru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る