2.5節 実験計画(♡)
雫の発言に完全に静止する峡。
「なんて。ドキドキしました? 好きだと勘違いしちゃいました?」
「待って。 俺は今ドキドキしたけど、そんなの全然吊橋効果だとは認められない」
「え、なんでです? というか昇先輩、今ドキドキしたって本…」
想定外に素直にドキドキを認めた峡に対して、雫も驚いた。追求しようとしたが、峡がそれを許さず語り出す。
「良いか? 今俺がドキドキしたのは雫に対してなんだから、吊り橋効果の肝である無関係の恐怖みたいなところは満たしていない。だから、仮にそれで好感を抱いても、それは吊橋効果じゃない。だって、俺がドキドキしたのは恋愛対象候補であるところの雫だから」
「胸張っていってますけど、恥じという感情を忘れましたか」
「吊橋効果などという怪しい効果を認めるよりも、自分の科学に従事するものとしてのプライドが勝った」
「それで良いんだ……」
何か見失っている気がする峡であるが、気にするのも時間の無駄であると判断した雫は華麗にスルーを決めた。
「でも、面白いですね。これまで一切恋愛から距離を置いていた昇先輩に、今回の遭難での共同生活をきっかけに私のことを好きになってもらおうじゃないですか」
「……双方得がなさそうだけど?」
「とんでもない!昇先輩は私のこと、好きになって良いんですよ」
「うーん」
「!……強欲な人ですね」
峡の名誉のために言うなら、彼は決してそれ以上を望んでいたわけではない。むしろ、雫の言った彼女のことを好きになって良いと言うのは、極端に恋愛面での自己肯定感の低い峡にとって、これ以上ない機会だった。彼がそれを自覚してなお、利点がないと言い切ったのは、その先のことを考えていたためである。つまり、「それで好きになったとして、どうなるんだ?」ということである。交際に至ったり、今よりも進んだ関係になれないわけだから、結局は自分が辛い思いをするだけになるのが想像に容易かったのである。
2人の認識には致命的な齟齬があった。雫としては、もはや告白まがいのことを、珍しく緊張しながら先程の発言をしていた。その余韻でいまだに鼓動が早く、しかも返事は芳しくない。雫の考えは以下の論理だ:(1) 好意を持っていない異性から好意を持たれることに利点がない(対偶を取れば、利点があるのは、好意を持っている異性から好意を持たれること)。(2)「峡が雫を好きになること」が雫にも得がある。以上の2つから雫は峡に好意があることが導かれる。
ところが、実際の峡の思考はその遥か手前で低い自己肯定感に妨げられている。2人は、齟齬に気づかないままだったが、雫が耐えられずに最後の切り札を切る。
「……吊り橋効果の検証として面白いと思いますよ」
「確かに!ちょっとオリジナルの吊り橋理論がどういう内容かわからないけど、自分が心理学系の実験対象となったと思うとちょっと楽しくなってきた」
「……ですねー」
なんとか自分の思った通りに事が進み、安堵する雫。別に、峡とどうこうなりたいわけではないのだ。4年間それなりに仲良くなってきたはずなのに、一向に知り合い以上友達未満関係が維持されているのが寂しいのだ。ただ、雫は自分だけが例外ではないのを知っている。峡は、どのサークルメンバーともプライベート——サークル活動とは無関係にという意味——で交遊はしていないだろう。それはそれで、逆に腹が立つのだ。サークルでも交遊もあり、しかも研究室だって隣にあるよしみで多少交流がある。それなのに、他のメンバーと同じ扱いのなのはいかがなものか? 今回の事件をきっかけに、なんとしてでもこの陰キャを落としたい。雫の密かな目標である。
「まぁいいや、この難攻不落の俺を落とせるならやってみるが良い」
「うぜぇ」
それきり、しばし訪れる沈黙。おもむろに峡が切り出した。
「……その、あれだ。疲れたなぁ」
「……寝ましょうか」
「うん」
「はい」
そう言って2人は瞼を閉じた。
「「虫うるさい!」」
平穏な夜が簡単に手に入るわけがなかった。ここはオセアニアの無人島なのだから。
xxx
パキン、パキン。木の折れる音で雫は目を覚ました。陽はすでに上がっている。時刻は6時くらいだろうか。雫がハンモックの上からから音のする方向へ目を移すと、先に起きた峡が枝を折って焚き火の用意をしている。よく働く人だと思う。雫の所属する研究室と峡の研究室とは隣同士だから、日頃からよく研究室の電気が夜遅くまで灯いているのを、雫は見ている。実際のところは峡が夜型なために夜遅いのだが、それを差し引いても峡は研究室にいる時間が長い。また、普段は数人で食堂で食事をとっているが、以前峡が1人で食堂で論文を読みながら昼食をとっているのを雫は見かけている。補足すると、数人で食事をとっていても話している内容は、その日に見かけた面白い論文の話である。
峡にその話をしてみたら、「そんなのみんなやっている」、「これでも足りない」、「他の才能溢れる人が努力しているときに、自分が休めるわけがない」そんな答えが返ってきた。本人はストイックだなんてこれっぽっちも思っていないのだ。
雫は起き抜けの頭でそんなことをぼうっと考えながら、峡の作業を見守る。そんなことに気づかない峡は、焚き火の準備が落ち着くと、今度はヤシの実の皮をむしって集めている。何に使うかは聞いていないが、おそらく火口に使うのだろう。素人には普通思いつかないだろうから、サバイバル動画による学習は存分に役立っていると言えた。火口集めも終わると、枝を一本持って周辺の砂にザリザリと何か書き始めた。書いている内容は雫からは見えないが、大方研究のアイデアでも思いついたのだろう。先日、構造空間を区切る方法に悩んでいることを聞いていたから、そのことだろうか?
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
「寝れました?」
「寝れませんねぇ、虫が多いよ」
「私も、変なところ刺されちゃったみたいで……ほらここ、見えます?」
そう言って、雫はパーカーを少しずらして脇腹の部分を峡に見せる。明らかなトラップ。峡は思案する。プラン1:凝視する。Pros(長所)言わずもがな。Cons(短所)紳士像の崩壊。プラン2:無視。Pros 紳士像の維持。Cons 機会損失。鍛え上げられた峡の脳は瞬時に2つのプランの整理を行う。そして即座に判断を下す。
(チラッ)
折衷案、チラ見。峡はその刹那に命をかけて観察する。陶磁器のような肌、引き締まったお腹、そこから続く思ったよりも大きな……
(やばいやばいやばい!なんだこれもっと見たい目が離せない)
雫は混乱した。彼女の予想では、峡に凝視する度胸も余裕もなく、だからといって無視することもない、結果として姑息にもチラ見するだろうと考えていた。その姑息さを揶揄ってやろうと思っていたのだ。しかし、実際には横目でじっとりとみているではないか。見ているのがバレていないと思っているのだろうか? 雫はさらに追い討ちをかけることにする。
「ほら、ここ。ここですよ」
自分の脇の少し下の部分、女性経験の乏しい男性からすればかなり際どい部分を指差しながら、ついでに腰にしなを作るように骨盤を傾けた雫。面白いように峡の視線がつられる。まだいけるか、と雫が次なるアクションを画策していたところ、ようやく視線のセルフコントロールを取り戻した峡は、手元を見ながら呟くように言う。
「焚き火の準備は一通り済んでるから、今からちょっと試してみよう」
手元には、ヤシの実の火口、乾いた細い薪、それから長く燃えそうな太い薪が用意されている。何事もなかったかのような峡の口調に、雫も応じる。
「今からですか? 陽が高くなるのを待って試した方が良いんじゃないですか?」
「それはそうだけどね」
「?」
「もし仮に。救助の人が探しに来るとして、俺たちの場所を伝えなきゃならないかなって」
「なるほど。狼煙」
「そういうこと。救助も早く来るかもしれないって思ったら、明け方から用意しとかなきゃって焦ったよね」
「なんかすみません、ぐっすり寝ていて」
「それは大丈夫。俺の方が体力あるしね」
「ついでに、水着姿で寝ているかわいい後輩も視姦できましたしね」
「は? んなことしてねーし」
「……口調の乱れがすごい! さっきの脇ばら凝視事件の犯人のくせに、大層な自信ですね」
「……」
「完全にダンマリですか。そこの脇フェチさんは日本語お話しできなくなっちゃいましたかぁ〜?」
「……バレてたの?」
「こいつアホだ」
「ごめんなさい、本当にゆるしてください」
「はあ、こういう時に言うのはごめんなさいじゃないでしょう?」
「申し訳ございません」
「もうそれでいいです」
峡は、本当に正解がわからないという顔をしている。それをみて、昨晩のことを思い出す雫。この人の自己肯定感をどうにかしなければ。そう強く思い直した。
「さて、それではご覧ぜよ」
峡は、先程のことなど忘れて、キラキラとした瞳で海水の入ったペットボトルを掲げている。それをみて思わずかわいいと思ってしまう雫は、かなり心の広い女性である。
峡は、自分の体が陽を遮らぬように注意しながら、火口の近くにかがみ込んでペットボトルの高さと位置を調整する。しかしながら、一向に変化は訪れない。
「やっぱりダメですか?」
「うん、しょうがないかな、だって全然日光が暑くないし」
「気長に待つとしましょうか」
「そんなこと言って、ヘリでも突然来たりして」
「大草原生えますよ」
「……」
「……」
2人の会話が途切れる。途切れさせたのは、遠くからかすかに聞こえるバタバタという人工物の音。
「「ヘリだ!!」」
一級フラグ建築士の面目躍如である。
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