第209話 東の山の魔女


 紅蓮色の髪を振り乱して近衛連隊の先頭へ立つヴィルヘルミネの姿に、急襲された側のプロイシェ軍は狼狽した。

 橋の対岸を守っていたプロイシェ軍は一個大隊。指揮官たる少佐は手の甲で瞼を擦り、幾度も先頭に立つ人物を見て首を振っている。


「近衛連隊の軍服、赤毛で吊り目の美少女というのは……いや、まさかそんな事があるものか? かのヴィルヘルミネ本人が、突撃を仕掛けて来るなんてことが――……」

「少佐殿、敵指揮官の確認など後でよろしいッ! 今は弾込めの指示をッ!」

「い、いや待てッ! 敵の突撃が早い! 今から弾を込めても間に合わんッ! 総員着剣ッ! 突撃に備えろッ!」


 少佐が正常な判断力を取り戻した頃には時すでに遅く、ヴィルヘルミネの愛馬は立ち尽くすプロイシェ兵を吹き飛ばしている。

 こうして赤毛の令嬢は何なく石橋を占拠し、対岸の部隊を僅か数分で壊滅せしめたのであった。


 だが敵とて、ただ黙って拠点を奪われるばかりではない。少佐は部隊が壊滅する前に、ある重要な情報を伝令に持たせて第三師団司令部へ走らせている。


「――……ヴィルヘルミネです! ヴィルヘルミネ本人が、騎兵突撃の先頭にいました!」


 雪が舞い落ちる中、司令部の天幕へ駆け込んだ伝令は息を切らして報告をした。話を聞くや、現在フェルディント軍と対陣中の第三師団長が慌てて立ち上がる。

 

「ようし、それはいいッ! どういう意図があってのことかは知らんが、これは好機だ! 敵を半包囲するよう、歩兵部隊を展開させよ! 砲兵は敵の増援を防ぐべく、そのまま対岸への砲撃を継続――ここでヴィルヘルミネを仕留めれば、大手柄だぞッ! きっと大公閣下もお喜びになられることだろうッ!」


 拳を握り締め喜びに打ち震える第三師団長は、現在三十九歳。いわゆる地主貴族ユンカーの四男であり、親の跡目を継ぐことは出来ない。だから軍部で出世する他に道はなく、ここでヴィルヘルミネを討ち取ることが出来れば、大きな箔が付くと考えたのだ。その上でグロースクロイツの覚えがめでたければ、男爵くらいにはなれるだろう。

 そうした期待が心の中で膨れ上がり、彼は快哉を叫んだのだ。


 が――しかし。傍らに控えた目つきの悪い黒髪の女が、彼の晴れ晴れとした野心に水を差す。


「お止めなさい、師団長。ここでヴィルヘルミネを殺したところで、フェルディナントの統治が困難になるだけのこと。何より彼女が何らの策も無く突撃をしたとは、到底思えません」

「なにぃ? 俺がいつ、貴官に意見を求めたかッ!? 多少家柄が良いからといって、女が口を挟むな、バルヒェット中佐ッ!」

「――と、申されましても小官は第三師団の参謀であり、となれば意見具申は仕事であります。家柄のことは、関係ありますまい?」

「ちっ、ああ言えばこういう……嫌な女だ。ならば貴様は私に、一体どうしろというのだッ!?」

「はい。敵の意図は恐らく、総攻撃による我が師団の壊滅でしょう。ですからここは、あえて軍を転進なさるべきかと存じます。そうして敵を引きずり込み、第六、第七師団と連携して敵を包囲殲滅なさればよろしいかと。

 その上でヴィルヘルミネを生きて捕らえたならば、大公閣下もお喜びになりましょう。敗北から一転――……勝利を得られるのですからね」


 殆ど表情を変えず、バルヒェット中佐は言った。多すぎる黒髪が顔の三方を覆い、雪よりも白い肌が彼女の存在を不気味なものに思わせる。加えて余りにも冷笑的な緑眼が、古の魔女を彷彿とさせるのだった。


 指揮官たる師団長は、まるで自分を見透かしているかのようなバルヒェット中佐から顔を背け、参謀長を呼ぶ。


「参謀長――……貴官は部下である中佐の意見を、どう思うか?」

「どうもこうも、ありませんな。現在敵は目の前の一個連隊。ここにヴィルヘルミネがいるのですから、早々に囲み、捕えても同じでしょう」

「うむ、うむ」


 師団長は、「我が意を得たり」とばかりに頷いている。


「何より、その場合の功績は我が師団のみのもの。ならば、考慮する余地はありませんな」


 士官学校において師団長の後輩であった参謀長は、当然のように上官の後押しをする。彼もまた地主貴族ユンカーの三男だから、師団長の気持ちがよく分かるのだ。

 

 何よりバルヒェットは若い女性でありながら、伯爵家の当主でもある。それもあって、師団長と参謀長は彼女のことが嫌いなのだ。差別と言えば、差別であった。

 あるいはバルヒェットにもう少しだけ可愛げがあったなら、彼女の意見は取り上げて貰えたかもしれない。


 ともかく、こうしてヴィルヘルミネに対し現有戦力のみで当たることを決めた第三師団は、さっそく師団長の作戦に則り陣形の再編成を始めていた。

 ただしその中に、ブリュンヒルデ=フォン=バルヒェット中佐の姿は、どこを探しても無い。彼女は上官二人の無能に嫌気が差して、また自軍の敗北を予感して、さっさと逃げ出してしまったのだ。


「女伯爵なんて、なりたくてなったワケじゃねぇよ、あのクソ共がッ。バカバカしい。師団長バカ参謀長おおバカも――……ここで勝手にくたばりやがれッ。

 と、まぁそれは良いとして。これ、立派な敵前逃亡だわ……どうしようかしら? ジークムント王子がギュンダー少将を迎えたという噂もあるし、それなら私も庇護して貰おうかな。ううん、いっそ、ヴィルヘルミネに寝返るってのも、楽しそうねぇ――……フフ、アハハハハハァ」


 バルヒェットは一人、陣営を離れて山中を行く。少なくとも今のところ、グロースクロイツ大公の下へ行くという選択肢だけは無いのだった。

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悪役令嬢英雄伝説~欲望のままに進む令嬢、勘違いされて大陸最強の国を作る~ 安兎野まつり @atono_maturi

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