第208話 進撃のヴィルヘルミネ
灰色の空から綿菓子のような雪が降り出した。しかし長閑な天気とは打って変わり、戦場は阿鼻叫喚の地獄絵図である。
双方の撃ち出す砲弾が大地を穿つたび、雪交じりの土砂が巻き上がった。吹き飛ばされた兵達は無力にも宙で二転三転し、地面へ着地した時には命を失っている。あるいは命を失わないまでも、手足を吹き飛ばされて泣き叫ぶ姿が、そこかしこに見えるのだった。
「救護兵! 救護兵を呼べ! コイツはまだ生きているぞッ!」
「馬鹿野郎! 軍曹! コイツが救護兵だ! 運べッ! 絶対に死なせるなよッ!」
砲弾の炸裂音に耳をやられながらも、額から血を流した曹長が叫ぶ。同時に指揮官の少尉は「撃ち返せ! 怯むなッ!」と反撃を命じていた。
「ふむ、ふむ――……士気は高く、今のところは互角か。すると、トリスタン。前線で指揮を執っておるのは、ロッソウじゃな?」
「御意」
「とはいえロッソウがおらぬ時間は、敵が優勢になると?」
「然様にございます、ヴィルヘルミネ様」
「フハハ。やはりここは、余の出番じゃの」
意外なことだが赤毛の令嬢は、戦場を視認しても怯えなかった。それどころか、相変わらず全軍の指揮を執ろうと言う気概すら見せている。
確かにヴィルヘルミネは幼い頃から戦場を往来し、普通の令嬢に比べれば遥かに鉄火場も馴れているのだろう。それゆえに「軍事の天才」などと呼ばれ崇められているのだが、それにしたって彼女は元来が臆病なのだ。この余裕は、おかしなことであった。
ましてや今、赤毛の令嬢はニンマリと笑い、形の整った桃色の唇をペロリと舐めている。傍から見れば、まるで「戦争を愉しんでいる」ようだ。
当然ながら幕僚達はそんなヴィルヘルミネの姿に、「流石は軍事の天才であらせられる」と、底冷えのする頼もしさを覚えているのだった。
しかし無論、彼女は「軍事の天才」などではない。どころか、「ちょっと数学が得意なポンコツ」である。にも拘わらず自信満々な姿であるのには、ちょっとした理由があるのだった。
それは、こんな理由だ――――
ヴィルヘルミネは道中トリスタンに戦況を聞くうちに、「なぁんだ、余、勝てる」と思ったのである。世間の評判により過剰した自信に基づく、狸並みの皮算用であった。
よって今も「フフフーン」とドヤ顔で戦況を見渡し、トリスタンに「分かりきった」質問をしている。
「して、トリスタン。やはり敵も味方も、橋へは砲弾を撃ち込まぬようじゃの?」
「はっ。プロイシェ軍の目的が我が国領内への侵攻である以上、橋を破壊するような攻撃は出来ますまい。一方我が方としては橋が健在であることで、敵戦力をここへ集中させることが出来ますから、あえて破壊命令は出しておりません」
「ふむ、ふむ……やはりの。今こそ我が軍が、圧倒的に有利な状況じゃ!」
ズビシッ! と右手人差し指を前方に突き出し、ヴィルヘルミネは言い切った。そりゃあ敵軍の補給部隊を叩いたのだから、そうに決まっている。
だがトリスタンは余りにも自信満々な令嬢の態度に、自分が何かを見落としていたのではないかと勘違いし、優秀過ぎる頭脳を空転させるのだった。
■■■■
戦況は一本の石橋を挟んで両岸から、大砲を撃ち合っている状態だ。双方共に橋の手前へ歩兵を並べ、敵の突破を阻止すべく縦陣を敷いている。
縦陣と言っても、決して深くはない。大砲に狙われれば簡単に撃砕されるから、あくまでも牽制といった様相だ。
展開している兵力はプロイシェの三万に対し、フェルディナントは一万八千。これを両軍とも三つに分けて、昼夜を問わず攻撃、防御を繰り返している。従って現在戦場でぶつかっているのは、敵軍の一万に対して味方が六千の兵力であった。
このような事情から、フェルディナント軍は基本的に劣勢である。
しかし今はロッソウ少将が陣頭指揮を執っている為、フェルディナント軍は数の劣勢を跳ね返し、何とか互角に戦っているという状況であった。
と――いう理解に基づき、ヴィルヘルミネは「チャーンス」とばかりに悪い笑みを浮かべている。
つまり彼女はこれを、「各個撃破」の機会と捉えたのだ。まったく短絡的で進歩を知らない、浅はかな赤毛の令嬢なのであった。
――我が右翼の総力は、一万八千。ならば正面の敵勢一万を破るなど、容易きこと。なにも部隊を三つに分け、敵に付き合ってやる必要など無いのじゃ!
ふふふーん! と、ヴィルヘルミネがルイーズよりは少しだけ成長した胸を、ぐぐいと反らしている。単純な数の計算であった。こうして令嬢は「我、勝てり!」と思ってしまったのだ。
だが念には念を入れて(本人の中では、そのつもりで)、トリスタンに問うている。
「橋の長さは五十メートル、幅は十メートルといったところじゃの?」
ヴィルヘルミネが得意なことの一つに、「人間を基準にして距離を測り、ものの大きさを目算で割り出せる」ということがあった。砲兵科なので当然と言えば当然なのだが、それでも今回はトリスタンのお墨付きが欲しかったのだ。
赤毛の令嬢は敵軍を破るにあたり、石橋に対する騎兵突撃を念頭に置いていた。ゆえに騎兵を何列で展開して突撃させるべきか、その点を考えていたのである。
そして恐るべきことにヴィルヘルミネは敵の歩兵が銃撃する速度も計算し、絶対に弾が当たらないよう兵を動かすつもりなのだ。
ある意味で、これは本当にすごい。彼女が下級指揮官なら、これを実行して成功させれば、間違いなく叙勲ものであろう。しかしヴィルヘルミネは最高司令官であり、そんなことに脳を使っている場合では無いのだ。本来……。
「御意――それが、何か?」
トリスタンが不安そうに、ヴィルヘルミネの横顔を見つめている。
「よろしい。急ぎ右翼全軍を、敵に気付かれぬよう集結させよ。今日――決着を付けるのじゃ。なぁに、オルトレップにも既に進撃命令を出しておるし、挟撃のタイミングもバッチリじゃ!」
令嬢は唇の両端を大きく吊り上げ、横にした三日月のように笑っていた。今こそプロイシェ軍へ鉄槌を下し、血祭りに上げる時だ。
「な、何をなさる、おつもりですかッ!?」
「攻めるのじゃ、総攻撃じゃ」
トリスタンは慌てた。このまま耐えれば敵軍は必ず退く。ここで無理に攻撃を仕掛け、味方に要らぬ犠牲を強いる必要は無いのだ。
たとえ主君にいかな神算鬼謀があろうとも、軍事を冒険的ロマンチシズムに委ねる訳にはいかない。ならば参謀総長としては、止めることこそ仕事であった。
「お止めなさい! 無駄に兵を死なせるおつもりかッ!?」
「今のままでも、削られておるのじゃろう? 一日に何人が死んでおる? 百か二百か――もっとかの? しかし今日、余が決着を付ければ結果として、死なねばならぬ人数も減る道理じゃ!」
自信満々に言い切るヴィルヘルミネは、十日間現状が続くことを想定している。それ自体は正しいのだが、そもそも彼女に今日勝つ為の作戦など無いのだ。無策なのだ。
それなのに自信満々の令嬢は、さらに言い切った。
「卿と議論する気など、余には無い。攻めるのみじゃ」
「――はっ? え?」
「橋が五十メートル程度であれば、敵が撃つよりも速く我が騎兵ならば斬り込めよう。ましてや橋の上に砲撃は無く、ならば安全地帯も同然である」
「確かにそうですが、しかし後方には無傷の二個師団、そのうえ敵の本軍が控えているのです」
というトリスタンの言葉も、血気に逸っちゃったヴィルヘルミネの心には届かなかった。
「ファーハハハハハッ! 安全地帯じゃと申しておる! それを余、自らの手で証明してみせよう! さあ、近衛連隊の勇士たち、余に続けッ! 一挙に敵を粉砕するのじゃ! 今こそプロイシェ軍に、正義の鉄槌を下そうぞ!」
ヴィルヘルミネは
――ふぁぁぁ、余、やっぱり天才かもしれぬ。
ヴィルヘルミネは酔っていた。「天才」という虚構に踊らされ、己に酔いしれる赤毛の令嬢は今、絶好調なのである。
こうしてヴィルヘルミネは軍神の如く、近衛連隊の先頭に立ちプロイシェ軍へと突撃を敢行した。そこが「安全地帯」と信じ切っているからだ。
当然その先に何が待ち構えているのか、トリスタンの話をしっかり聞かなかったからこそ出来る、これはトンデモ行動なのであった。
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