第194話 トリスタンとヴィルヘルミネ


 一月二十五日にヴィルヘルミネが東部戦線の本営へ到着した時点で、トリスタンは勝利に向けた全ての準備を終えていた。何なら令嬢の視察さえ、彼は作戦の中に組み込んでいたと言っても過言ではない。


 ――責任感の強いヴィルヘルミネ様のことだ。私が戦勝間近と報告すれば、これを完璧なものにする為にも、必ずやご自身で前線を視察なさるはず。


 このように、トリスタンは確信していた。

 むろんこれは彼が赤毛の令嬢を過大評価する余りに生み出した幻想であり、圧倒的な勘違いだ。

 だが確かにヴィルヘルミネは、前線を訪れた。お陰でトリスタンはヴィルヘルミネに対する幻想を一段と深めてしまい、もはや後戻り出来ない境地にまで達してしまったという次第である。


 もちろんヴィルヘルミネには自らの指揮で戦いを勝利に導こうなどという殊勝な気持ちなど毛頭無く、観戦気分で戦場に入っただけのこと。

 贔屓にしている騎士が馬上試合で「姫の為に絶対に勝ちます! 何ならもう、九割勝っています!」と言ったから、「じゃあ行くか」という程度の軽いノリなのであった。

 

 ちなみに参謀総長がヴィルヘルミネの出馬を願った理由は、勝利をより完璧にする為である。その具体的な方策は、ヴィルヘルミネの存在によって敵の目を引き付けようということであった。


 そもそもトリスタンは作戦の第一段階で、戦線の南端にある老朽化した要塞をわざと敵に明け渡している。その上で要塞を包囲し、救出部隊を散々に打ち破っていた。

 これ自体も敵の戦力を削ぐには、非常に有効な戦法だ。しかしトリスタンにとっては、この軍事行動さえも陽動だったのである。

 

 敵の目を南方の要塞へ釘付けにしている間に、トリスタンは三個中隊六百名を北側から敵の後背へ回り込ませていたのだ。この部隊の目的は敵補給部隊の奇襲撃滅であり、だからこそ敵の目から完璧に秘匿する必要があるのだった。


 だが要塞内の敵が降伏した今、プロイシェ軍は周囲の警戒を厳にして、奇襲部隊を発見する恐れがある。そこでトリスタンはヴィルヘルミネが到着したことを敵軍にも大々的に知らせ、フェルディナント軍の総攻撃を匂わせ敵の目を正面に、より強く引き付けようとしていたのだ。


 これを説明するべく、トリスタンはヴィルヘルミネが休息の為に向かった大天幕へ入る。主君を利用したようで心苦しいが、しかし彼女ならば恐らく、自分の意図を察していることだろう。迷わずそう思う位に参謀総長は、今や主君をしっかり過大評価しているのだった。


「現状の詳しい報告に参りました」


 天幕内にあるヴィルヘルミネ専用の区画へ入り、トリスタンは令嬢の背中に敬礼を向けた。


 ヴィルヘルミネは大天幕に入るなり暖かな山羊のミルクを所望して、火の前に置いた椅子に陣取り毛皮のマントに包まっている。考え事もしていた。なので後ろに立った参謀総長に、声を掛けられてもまだ気付かないようだ。


「うー、寒いのじゃ、寒いのじゃ」


 ――ああ、調子に乗って馬に乗ってくるのではなかった。古の英雄のように騎馬で山越え! みたいなことを考えた余が、愚かだったのじゃ。鼻が冷たい、赤くなっておるー! 痛い、痛いのじゃー!


 そんなことを思って顔を両手で覆うヴィルヘルミネは、全然トリスタンの存在に気付かない。流石にどうしたものかと悩んだ長身の参謀総長。恐る恐る足を前に出し、そっとヴィルヘルミネの肩に手を乗せて……。


「あの、閣下――……大丈夫ですか?」

「ぷぇ?」


 肩に手を置かれ、ようやくヴィルヘルミネは振り返った。目深に被った軍帽の影で金色の右目が勇気を湛え、緑色の左目が英知を湛えるトリスタンの美貌が、驚くほど間近に迫っている。

 

 赤毛の令嬢はドキリとして立ち上がった。その時、ハラリとマントが落ちる。

 ヴィルヘルミネは濡れた軍服を脱いで、下着の上からマントを羽織り暖を取っていた。だから白い肩や素足がはからずも露になって、トリスタンは一歩、二歩と後ずさる。


「こ、これはご無礼を――……!」


 天幕の中、赤々と燃える炎に照らされるヴィルヘルミネは幻想的なまでに美しい。トリスタンはゴクリと生唾を飲み、くるりと回れ右をした。

 心臓が高鳴っている。軍事の才能に関しては尊敬をしていても、今までずっとヴィルヘルミネは子供だと思っていた。けれどその認識が今、トリスタンの中で大きく変わろうとしている。まるでマントを落とした赤毛の令嬢が、蛹から羽化する蝶のように……。


 ――なんて美しい――……わ、私は一体、今までヴィルヘルミネ様の何を見ていたのかッ!?


 今まで軍務にのみ邁進し女性を近付けることさえしなかったトリスタンは、主君の美しさに眩暈さえ覚えている。


 実際ヴィルヘルミネは、多少目が吊り上がっていたりはするが、悪人顔という点さえ除けば絶世級の美女なのだ。年齢差という問題さえ取り除けば、女性経験の浅いトリスタンを篭絡するなど、さほど難しいことではない。


 だから、もしもここでヴィルヘルミネが、


「まぁ。裸を見たという訳でもないのに、トリスタンときたら取り乱して。可愛いのね」


 とでも言ってやれば、フェルディナントの誇る参謀総長は爆死を免れなかったであろう。


 しかし――ヴィルヘルミネ自身も男性経験など無かった。それどころか倒錯した性癖のせいで、自分の価値に全く気付いていない有様だ。

 なので赤毛の令嬢に気の利いたセリフなど言える筈もなく、自身の素肌が露になってテンパっている。今までどんな男にも、下着姿なんて見せたことが無かったからなおさらだ。


「はわ、はわわわわわわ! め、目に毒じゃぞ、トリスタン! よ、余の下着姿など、見ても良い事など、一つも無いのじゃからして、して!」


 お陰でヴィルヘルミネはトリスタンの三倍は慌て、その場でぐるぐると回り、慌ててマントを身体に巻き付けていく。

 そこへゾフィーが温めたミルクを持って戻り、顔を真っ赤にして背中を向け合う二人を見つけ、小首を傾げるのだった。


 ■■■■


 渓谷を挟んで対陣するグロースクロイツ大公は、フェルディナントの大天幕に一角獣旗ユニコーンが翻る様を見て、驚愕に声を震わせている。どころか野戦用の長机を囲む諸将の前で、自らの杯を地面へ叩きつけ、怒りすら露にしているのだった。


「くそッ! 我等が手をこまいている間に、あの小娘が出てきおったぞ! 全軍、敵の総攻撃に備えよ! ヤツはヴァレンシュタインすら舌を巻く用兵巧者、決して油断するなよ!」

「「「「御意!」」」


 グロースクロイツの声に、プロイシェの諸将が声を揃えて頷いた。しかしその中で一人、薄笑みを浮かべて眠そうに欠伸を繰り返す人物がいる。美しい顔立ちをしているが、常に上半身を揺らす軟体動物のようなジークムント王子であった。


「叔父上ぇ~~」

「なんだ、ジークムント!」

「そのようなことより、そろそろ補給部隊が到着するのでしょう? でしたらそっちに兵を割きませんか? 万が一これを敵に奪われるなり燃やされるなりしてしまえば、総攻撃に耐えるどころではありませんよぉ~~?」


 このときジークムントは、トリスタンの作戦をほぼ正確に読んでいた。ゆえにヴィルヘルミネが到着したことも当然別の意味で警戒すべきだと主張し、敵が背後に回っているだろうことを叔父に指摘している。


 だがグロースクロイツは甥の意見を取り上げず、蔑むような視線と共にこれを拒絶した。彼は自らの実力に絶対的な自信を持っていたし、ジークムントのいかにも柔弱に見える外見から、彼の軍事能力を全く評価していなかったのだ。


 事実、この軟体王子には実績らしい実績がまだ無い。だから諸将からも「王子は警戒しすぎです」だの「補給部隊とて三千の補充兵に守られている以上、容易く撃破されるものではありませんぞ」だの「敵がそんな軍事的常識から逸脱する行動など、するわけが無い」だのと散々な言われようであった。


「しかし叔父上。実際、補給が滞ればどうなさるおつもりです? ここに集積してある分だけでは、あと一週間ももたないでしょうに。最低でも補給物資を守る為に、一万は兵力を割くべきです」

「愚かなことを申すなッ! ヴィルヘルミネは寡兵にして大軍を破る名手である。ならば今、ヤツの正面から兵を僅かでも減らすのは愚策――……奴等とて元々数の少ない兵を、どうして我等の背後へ回せようか。だいいち、私はそのような隙など、奴等に与えておらぬわッ! もうよい! 戦を知らぬ者が、いたずらに用兵を語るなッ!」

「――はぁ」


 ――アンタが馬鹿正直に要塞を攻めている間、こちらの背後はどうせ、隙だらけだったんでしょうが。その間、敵が何もしていないとでも思っているのなら、叔父上の頭こそ隙だらけですよぉ。そもそも、今ここで大軍たる我々を破る手こそ、補給部隊を叩くことじゃあないですか。


 ジークムントは内心で思ったことを、もう声に出すことは無かった。何を言ったところで自分の案が取り上げられることは、もはや無いと割り切ったのだ。


 ――やれやれ。師団長になって最初の戦が負け戦とは、私も運が無いねぇ。けれどまぁ、せっかく預かった第五師団だ。これだけでも、きっちり守ることにしますかぁ。


 ジークムントは師団司令部へ戻ると、兵達へ支給する糧食を通常の半分に減らした。それからシカやウサギを捕らえるべく幾つかの小隊を山へ放ち、これに索敵も兼ねさせるのであった。

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