第179話 ジークムントの野望


 ジークムントは第五師団の陣営に着任するや、まず最初に負傷兵が横たわる天幕へと足を運んだ。そこでズボンが汚れるのも気にせずに跪き、彼は自ら兵士達の血が付着した包帯を、新しいものに取り換えていた。


「諸君は良く戦った。私は誇りに思うよ」

「し、しかし王子殿下……お、俺は……仲間を救うことも出来ずに撤退を……」


 肩を震わせ涙する負傷兵を抱きしめ、ジークムントは優しく言う。


「悔しいだろう、辛いだろう――けれど君達が何かを恥じる必要など、微塵もない。仲間を救えなかったことに理由を求めるのならば、それは偏に指導部の作戦が稚拙であったからだ。ゆえに諸君には、一ミリグラムの責任も無いのだよ。だから皆は傷を癒し、胸を張って堂々と帰国の途につきなさい」


 ジークムントの言葉に兵士達は感動し、負傷兵で溢れ返った天幕に場違いな歓声が上がる。


「「「第六王子ジークムント様、万歳!」」」


 両手を胸の前に出し、「気持ちは有難いが、安静にね」と苦笑を浮かべるジークムントは、まるで天から降臨した大天使のようであった。

 時ならぬ歓声に驚いた前任の師団長が慌てて駆け付け、ジークムントに敬礼を向ける。


「こ、これは――……殿下。司令部へお見えになられないので、どちらへ行かれたのかと思っておりましたが……」

「やあ、ギュンダー少将。先に損害の程を見ておきたくてね」

「貴重なる国王陛下の兵士達を、かくも損ねましたること、まこと慚愧に絶えませぬ」


 唇を戦慄かせて、前任者のギュンダー師団長が軍帽を握り締めた。

 彼は四十代に入っていたが、未だ日々のトレーニングを怠ったことは無い。従って中肉中背ながら、狼を思わせるしなやかな肉体を誇っている。また用兵においては野戦に定評があり、自ら騎馬を駆り敵中を突破する勇気にも恵まれた、プロイシェ有数の指揮官なのであった。


 しかしながら今のギュンダーは頬もこけ、目の下には隈が出来ている。疲労し憔悴しきっていることは、一見しただけでも明らかであった。


「そうか、まあ、そうだろうね。でも、ちゃんと食べて眠らないといけないよ? 暫く見ない間に、随分とやつれたじゃあないか。おおかた叔父上の命令を遂行しようとして、無茶を繰り返したってところだろうけど」

「……何を申し上げたところで、いまさら言い訳にもなりませぬ」

「そうか、そうだね。でも――……いいんだよ、ギュンダー少将。君が悪くない事は、私が知っているからね。よく頑張ったね」


 ジークムントは横たわる兵士の肩を軽くポンと叩き立ち上がると、今度は前任の師団長を優しく抱きしめた。


「お疲れ様、ギュンダー少将。何はともあれ、君が無事で本当に良かった。君ほど優秀な野戦指揮官は、そうそういない。忠勇なる兵士諸君を失った上に君まで失ったら、我がプロイシェの損失はいかばかりか――……考えただけで眩暈がしてくるよ。だからあえて、私は君の生存を祝福しよう」

「そう仰って頂くのは嬉しいのですが、しかし私は――……」

「だ、か、ら、ね、ギュンダー少将! くれぐれも責任を取って死のうだなんて、早まったことは考えないでくれよ? 何しろ私は、ここへ来る前に君の家に寄ってきたんだ。そして必ず父上を無事に返すと、可愛らしい兄妹たちに約束をしてきたのだからね。もちろん、美しい奥方にもさ! そんな私の顔に、まさか泥を塗るような真似は、君ならしないでいてくれると思うのだけれど?」


 四十絡みの元第五師団長は、自分よりも遥かに年少の王子に抱きしめられながら、ポカンと宙に視線を彷徨わせている。


「は、え? いや――……私の家に、殿下が足を運ばれた? どうして?」

「王国屈指の野戦指揮官を、つまらぬ戦で亡くさぬ為には、そうする必要があると思ったまでさ」

「え……殿下はいったい……何をお望みで……?」


 元第五師団長ギュンダーは下級貴族でありながら、弛まぬ努力で少将の地位まで上り詰めた傑物だ。それは「実力さえあれば、身分を問わぬ」という軍国ならではの人事制度のお陰であったが、逆に言えば軍国において信賞必罰は絶対であった。


 つまり成功を積み重ねればどこまでも上を目指せる軍国は、しかしただ一度の失敗で全てを失う可能性もあるという社会なのだ。


 そして軍人の義務は勝利であり、敗北は許されない。それも師団兵力の三割を喪失し、「味方の救出」という目標を完遂出来なかった指揮官など、軍国としては処罰の対象になる他に道が無いのだった。


 たとえ処刑を免れても、恐らくは閑職に回され、一生日の当たる場所に出ることはあるまい――ギュンダー少将は、そう予測していた。

 

 こうした処遇に甘んじる者も、それなりにはいる。だがギュンダーの矜持が、それを許さないだろうことをジークムントは察していたのだ。


 実際、更迭されたその日のうちに責任を取り、命を絶つ指揮官達も多かった。

 指揮官が作戦を失敗するということは、それだけ多くの味方の命を奪ったということだ。その責任は、閑職に回される程度で償えるはずがない。そう考えることが、むしろ人間としては当然といえた。


 つまり良い指揮官は、誰に言われるでもなく自らの失敗に押し潰される。味方殺しの汚名を背負って、残りの人生を歩もうとは思わないのだ。


 だがジークムントは、それを知った上でギュンダーに死ぬなと言っている。元第五師団長は王子から離れると、目だけで「なぜ?」と問うていた。むしろ、そちらの方が拷問に近いのだ。いっそ、死なせて欲しかった。


「ギュンダー――……君は今のプロイシェを、どう思うかな?」

「どう、と申されましても」


 ギュンダーは言い淀む。かつて最強の軍事国家と云われた、その遺産を食い潰すが如き今の現状に、忸怩たる思いならば抱いていた。

 今現在もしもプロイシェが本当に最強の軍事国家なら、目の前のフェルディナントに苦戦などするわけがない。しかしそれを第六王子たるジークムントに言えば、国家反逆罪に問われるかもしれない。言える筈が無かった。


「言えないか。うん、それもそうだよね。では――私から率直に言おう。父は優柔不断で兄たちは惰弱。軍国を謳いながら兵器は老朽化し、戦術ドクトリンの進歩も止まっている……だろう?」

「王族の皆さまを論ずることなど、私には出来かねますが――……少なくとも現在の軍国を支えているのは、グロースクロイツ大公の武威のみであると認識致しております」

「そうさ、その通りだよ、ギュンダー少将。今かろうじて我が国が強国足り得ているのは、ひとえに軍権の一切を握るグロースクロイツ大公の武威によるものだ。逆に言えば、もしも彼に万一のことがあれば、すぐにも我が国は立ち行かなくなるだろう。そして叔父上の軍事的才能は、どう考えてもヴィルヘルミネに及ばない。もっと言えば、彼女の部下達にも――だ。この意味が分かるかい、ギュンダー少将?」

「いずれ我が国がフェルディナントに飲み込まれると、そう仰るのですか?」

「ま、そうなる可能性は多分にあるだろうねぇ」

「そ、それは、だとしても――……」

「しかーし! 私なら、そんな状況でも何とか出来るんじゃあないかと思ってね。だからさ――私はこれから、プロイシェ王国を頂くつもりなのだよ」


 人差し指を立てて片目を瞑るジークムントは、少女かと見紛う程に美しい少年であった。だが、口の端に乗せた言葉は、どこまでも毒々しいものである。

 

「王太子殿下は、いかがなさるおつもりで――……」

「大丈夫、兄上を殺そうなんて、思っちゃあいないさ。もちろん、簒奪しようなどという下賤な話でもない。だいいち今はまだ、叔父上も健在だしね。

 けれど第六王子に過ぎない私には、万が一の時に後ろ盾がないんだ。だから軍部の――それも優秀な将軍に目を付けた、という訳さ」


 ジークムントはギュンダー少将の耳元に口を近付けると、金色の瞳で射すくめるように元師団長の横顔を睨んだ。


「つまり私に、殿下個人への忠誠を誓えと?」

「流石はギュンダー少将だ。物分かりが良くて、大変よろしい」

「……見返りは、あるのですか? 味方をこれほど死なせてまで、なお私が生きるに値する見返りが」

「あるさ。ギュンダー少将――……卿には、とびきりの死に場所を用意してやろう」


 無茶苦茶なことを言われているにも関わらず、ギュンダーの胸の内には熱い塊が湧き上がってきた。今まで軍人として奉職した二十数年間で、もっとも熱い塊だ。


「御意。では、その日を楽しみにすることと致します」

「よろしい、ではギュンダー少将。卿も胸を張り、堂々と本国へ帰りたまえ」


 ジークムントはニッコリと微笑み、雪が解けて濡れたギュンダーの肩をポンと叩く。この時には元第五師団長の瞳にも、すでに力強い輝きが宿っていた。

 

 ――たとえ泥水を啜ることになったとしても、この人のことを信じてみるか……。


「でわでわぁ~~またねぇ、ギュンダー少将ぅ~~!」


 くるりと踵を返し、ジークムントはフラフラと去って行く。

 一見すると美しい軟体動物のような第六王子が、ギュンダーの目には誰よりも頼もしく見えている。それが奇妙におかしくて、元第五師団長は胸を張り帰国の途につくのであった。

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