第178話 老人と罠


 一月十七日の早朝。頬や髪に煤を張り付けたエミーリアは、悔しさに下唇を噛んでいた。十一月の中頃、父の名代として北部ダランベル同盟軍の副司令官を拝命した時に感じた高揚感は、もはや無い。


「私はフェルディナントへ辿り着くどころか――ダランベルの諸侯領すら抜けられないのかッ!」


 燃え落ちた天幕の残骸を蹴飛ばし、エミーリアは吐き捨てた。

 彼女は今、一万五千の軍勢で、ボロヂノ子爵の居城を囲んでいる。それは人口八千、兵力も二千に満たない、ダランベル中部にある小都市の一つであった。


 ボロヂノ子爵は早くからフェルディナント公国に恭順の意を示し、ヴィルヘルミネ政権とも蜜月の仲だ。例年であれば子爵は今頃フェルディナントの公宮へ伺候して、赤毛の令嬢に新年の挨拶でも述べている頃であろう。


「孫娘にも等しい年齢の少女に伺候するなど、恥ずかしくはないのか?」


 ボロヂノ子爵を蔑む陰口は、だいたいがこのようなものであった。しかし日毎に勢力を拡大していくフェルディナントの姿に怖れを為した諸侯たちは、その後あっさりと手の平を返す。つまり子爵こそフェルディナント派の盟主であると、もて囃し始めたのである。


 だからこそエミーリアは、この街の四方を囲んだのだ。ボロヂノ子爵さえ下せば、自ずとフェルディナント派の諸侯は瓦解すると考えたからであった。


 とはいえ、手荒な真似をする気など無い。元はと言えば、同じダランベル諸侯の一員だ。顔見知りでもあるボロヂノ子爵の生首など見たくもないし、大国に翻弄される辛さだって理解できる。だから最初は降伏を勧告し、ついで街をぐるりと囲んだのだ。

 体裁さえ整えてやれば、ボロヂノ子爵もあっさり降伏すると考えてのことであった。


 ましてや頼みの綱たるフェルディナントには、プロイシェの本軍六万が迫っている。その状況下で一万五千の北部ダランベル同盟軍を相手にしては、ボロヂノ子爵に勝算などある訳がないのだ。

 

 それなのに子爵は降伏もせず、じっと城門を閉ざし徹底抗戦の構えを見せている。なぜ、そこまでしてヴィルヘルミネに忠誠を尽くすのか、エミーリアは理解に苦しんでいた。

 しかし、このままでは埒が明かない。だから彼女は涙を飲んで、ボロヂノ子爵に総攻撃を掛ける決意を固めたのである。


 そんな時だ、諸侯たちがフェルディナントと繋がっているのではないか――という疑惑が生じたのは。


 元々が日和見なダランベル諸侯ならば、それも十分にあり得ることだとエミーリアは思った。ましてや連戦連勝ならいざ知らず、ボロヂノ子爵に足止めをされている現状では、諸侯に迷いが生じるのも当然と言えた。


 だからこそ今日は断固として、エミーリアはボロヂノ子爵を攻めようと決めたのだ。


 しかし蓋を開けてみれば夜が明ける直前のこと、自身の天幕が襲撃された。火を付けられて、「反乱軍だ!」との叫び声が縦横から聞こえ、エミーリアは飛び起きたのである。


 冬の夜空に向けて赤々と燃え上がる炎は、エミーリアの心に根源的な恐怖を植え付けた。まだ何もしていないのに、自分が殺される――そういった恐怖だ。

 ましてや「反乱」であれば、味方の中に敵が潜んでいる。その恐怖に耐えられるほど、彼女の心は強靭に出来てはいなかった。


「どうして、私が狙われるのだ……? 一体誰が? 恨み? いや、そんな――……皆、ダランベルの仲間ではないか……」


 この反乱が真実かどうかなど、誰にも分からない。結局、火を付けた犯人も分からずじまいで、調査のしようも無かったからだ。


 ただ一つ言えることは、副司令官たるエミーリアの天幕がどの位置にあったのか――これを知っているのは同盟に名を連ねる諸侯、すなわち指揮官達だけであった。

 だからたとえ反乱が真実ではないとしても、指揮官達の側近くにフェルディナントの間諜が入っているのは、まず間違いの無いことである。


 このような状況で敵に総攻撃を仕掛けることは、自殺行為だと言わざるを得ない。だからエミーリアは悔しさに歯噛みしながらも、総攻撃を踏み止まったのである。


 ただ、エミーリアには一つだけ解せないことがあった。

 

 ――フェルディナント軍が狙うなら、私よりもオットーの方が効果的だったのではないか?


 この疑問が、背中から這い上る黒い影のようにエミーリアへ絡みついていた。


 もしもオットー=フォン=ボートガンプが死ねば、北部ダランベル同盟はフェルディナントへ侵攻する大義を失うのだ。フェルディナントとしては、願ったりでは無いかとエミーリアは考えた。


 一方そうした事態ともなれば、エミーリア自身の未来も閉ざされてしまうだろう。だからオットーが狙われなかったことは、彼女にとっても不幸中の幸いなのである。


 しかし、そうすると自分が狙われた理由が分からないのだ。副司令官を殺したところで、後任が現れるだけである。

 エミーリア自身の自負はともかく、彼女の名声はヴィルヘルミネに遠く及ばない。だから死んだところで、さしたる影響など無いのだ。


 ――今回の件がフェルディナントの仕組んだことだとしたら、やはり狙いはオットーになるはずだ。しかし現実に狙われたのは、この私――……。


 自身が疎まれていることは、エミーリアも察している。だから彼女の思考は一つの指向性を持ち、当然の帰結に達していた。


 ――ハハ、ハハハ……やはり、裏切り者がいるのだな。私さえいなくなれば、自らが主導権を持ってフェルディナントと交渉が出来る。おそらくは、そのように考えたのだろう。浅ましいことだ。


「連隊長以上の各指揮官を、即座に集めよ! 早急に裏切り者を炙り出す。見つけたら、もはや容赦などせぬ。出頭せぬ者は直ちに斬首だ――皆に、そう申し伝えよッ!」


 こうしてエミーリアはさらに深く、疑心暗鬼の闇の中へと落ちていくのであった。


 ■■■■


「なるほど。エミーリア殿はついに、いもしない裏切り者を炙り出しに掛かったか」


 ツヴァイクシュタインにある師団司令部で、諜報部隊を取り仕切る部下から報告を聞き、リヒベルグはつまらなそうに言った。

 自らが計画して実行したことが、最高の成果を齎している。だというのに暗い顔をした上官を、部下は訝し気に見つめていた。


「これで暫くの間は、また足止めが出来るでしょう。結果は上々です」

「そのようだな」

「嬉しくは、ないのですか?」

「他人の足を引っ張って、何が楽しいものかよ。私はな――……どちらかと言えば上から蹴落とす方に、楽しみを覚える性質タチなのだ」


 執務机の上に長い足をドンと乗せ、リヒベルグは目を瞑る。本来なら彼は、東方で戦場を駆けまわりたかったのだ。なのに今は、暖炉に火を入れた暖かな部屋で報告を聞いている。そのことが、やや不満なのであった。

 

「はぁ。ところで、ボロヂノ子爵の件は、如何なさいますか? いかに時を稼いだところで、援軍を送らねば守り切れませぬぞ。最悪、処刑される恐れもございますが……」

「いいのさ、あのご老人は。むしろヴィルヘルミネ様の為に自らが犠牲になることで、お家の安泰を計ろうというのだろう。ヴィルヘルミネ様は悲しむだろうが、我等が宰相殿は既に承知している」

「存外シュレーダー閣下も、冷たいお方なのですね」

「国家を切り盛りするのだ、情だけでは立ち行かぬよ。ああ、そうだ――……ルードヴィッヒ、八十二年モノの葡萄酒ワインを手に入れたのだが、どうだ、今夜はお前も付き合わんか?」


 突然の誘いに、若く秀麗な顔の部下が僅かに口元を綻ばせる。が、すぐに厳めしい顔を作り直し、上官の端正な顔をジロリと睨んでいた。照れ隠しのようだ。


「私は人妻ではありませんが、よろしいのですか?」

「ぬかせ。人妻どころか、お前は男だろう。他人ひとより、見栄えは良いがな」

「閣下のような美貌の持ち主に言われても、皮肉にしか聞こえませんよ」

「皮肉を言っているつもりは無いのだがな」

「しかし、よろしいのですか? 閣下には家で帰りを待つ女性が、ダース単位でいらっしゃるでしょうに」

「いや――……今はおらんよ。一人侘しい我が家、というやつだ。うっかり人妻や未亡人に手を出すと、怖い参謀総長に叱られるのでな、それも仕方がない」

「ハハ、そういうことでしたら、喜んでお付き合い致しましょう。しかし気になる女性も、今はいらっしゃらないのですか?」

「うむ、まあ……それは、な」


 言いながら、リヒベルグは一人の女性を思い浮かべている。それは頬から首にかけて抉れたような傷があり、深淵を思わせる暗い瞳の女性であった。


 ――エリザ=ド=クルーズ。彼女と酒を酌み交わせたら――……。


 しかしすぐに「あれは、嫌な女だ」と考えなおし、リヒベルグは首を左右に振るのだった。

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