第176話 トリスタンの罠


 一月五日、フェルディナント公国東方国境の山脈地帯では、静かに雪が降っていた。例年であれば深々しんしんと降り積もる雪が春までの長い眠りへと誘い、山に生きる動植物にひと時の休息を与える時期のこと。

 しかし今年に限っては、いささか人間どもが騒がしく。冬眠中の動物たちが片目を開けて迷惑そうに、鼻をヒク付かせることもしばしばなのであった。


 フェルディナント軍とプロイシェ軍は公都バルトラインの東側に聳える山脈の中ほどで、渓谷を挟み対峙をしている。この渓谷は深さ百メートル以上、幅も広いところでは三百メートル以上と、容易に渡れるような代物ではない。


 だから平時は谷の幅が比較的狭い場所にある、二つの橋を使い人々は往来をしていた。北側にあるつり橋と、南側の石橋だ。


 この橋と橋の間は、直線距離にして五キロほどもある。だから両軍が対峙しているといっても、渓谷を挟んでずらりと兵が並んでいる訳ではない。そもそも中間地点である渓谷は、どう考えても渡れないからだ。

 このような事情から両軍とも北と南の橋の側に兵力を重点的に配置し、対峙しているのだった。


 北のつり橋の側には人口三百人程度の小さな村がある。つり橋は、この村人が往来の為に作ったものだ。従って大軍が通過するには、いささか心もとない橋であった。


 トリスタンは、敵がここを攻撃目標にするとは考えていない。だから橋も落とさず、二千の守備兵力を置くに留めていた。敵が攻めてくるとするならば陽動に違いなく、それに対応する為であった。


 ただし万が一のことを考えて、住民はバルトラインへ避難させている。敵に突破を許す気など無いが、戦場では何が起こるか分からないからであった。


 一方南側にある石橋の側には、古ぼけた砦がある。こちらはキーエフと繋がる正式な街道だから、砦は国境を警備する兵の駐屯所でもあった。

 もっとも、この砦に近代的な防御設備などはない。従って雨風と、辛うじて銃弾が凌げる程度の代物である。


 トリスタンはここに、オルトレップ指揮下の三千を駐屯させていた。主戦場として、こちらを設定した結果である。主力の各部隊も砦周辺に配置し、敵の侵攻に備えていた。


 ただし一月五日現在、この砦はフェルディナントからプロイシェへと持ち主が変更されている。年が改まる直前、戦果を欲したプロイシェ軍が攻勢を仕掛けてきた為に、フェルディナント軍は撤退を余儀なくされたのであった。


 と――プロイシェ軍は信じたいところであろう。だが真実は違った。


 フェルディナント軍は砦を奪取されるや、すぐに主力を割いて援軍を派遣したのだ。

 ロッソウ少将が北から、オルトレップ少将が南側から挟み込むと、プロイシェ軍はたまらず砦に千名余の兵を残したまま橋の手前まで後退し、そのまま戦闘は終了した。


 形の上では砦を奪取したプロイシェ軍の勝利かも知れない。そこへフェルディナント軍が手痛い逆撃を加え、何とか体裁を保った――という所だろう。


 プロイシェ側としても、一度は獲った砦である。もう一度総攻撃を仕掛ければ、砦に残された仲間を救い出すことは容易だと考えていた。だからそう悩むことなく、撤退命令を出したのである。

 しかしこれこそ、敵にそう思わせることまで含めて、トリスタンの計画通りなのであった。


「しかし参謀総長よ、本当に敵は乗ってくるのか? わざわざ砦をくれてやらんでものぅ――……守っておったオルトレップの部下が気の毒じゃて」


 雪が降りしきる中、敵を潰走に追い込みフェルディナント軍本営に戻ったロッソウは、出迎えの為に天幕から姿を現したトリスタンに問うていた。手には未だ血濡れのハルバードが握られている。


「乗って来ざるを得ないでしょう。千もの兵を見殺しにしたとなれば、プロイシェ軍の威信は地に落ちますからな。敵は味方を救出する為にも、ここへ戦力を集中せざるを得なくなります」


 トリスタンは頷き、ロッソウが下馬する為に手を貸している。


「私の部下は、案外楽しんでおりましたよ。『逃げるふりなら、お任せあれ!』、などと申しておりましたからな。損害も出しておりませんし」


 後からオルトレップも帰還すると、下馬してすぐにロッソウへ敬礼を向けた。それからトリスタンにも敬礼を向けて、ニヤリと不敵な笑みを見せている。


「それより参謀総長、これを見てくれ。私の頭は、どうやら銃弾よりも固いようだぞ。フフ、フッフッフ。これでまた、ミーネ様に楽しい土産話が出来たという訳だな」


 オルトレップがペシペシと己の禿頭を掌で叩いている。敵の銃弾が掠めたとかで、頭頂部が少しだけ赤くなっていた。


「ぬぅぅぅぅ、オルトレップめ! ミーネ様に楽しい土産話を持っていくのは、ワシの仕事なんじゃもん!」


 妙なところで対抗心を燃やす老将を見て、トリスタンは珍しくも苦笑するのであった。


 ■■■■


 一月二十日の正午過ぎ、プロイシェ陣営に百名ほどの部隊が到着した。「砦に残された味方を救う」という任務を立て続けに失敗した第五師団長を更迭した結果、新たな師団長がやってきたのである。


 新師団長はプロイシェ王国第六王子ジークムントだ。若干十七歳で少将の地位にあるが、軍事の経験といえば国境の小競り合いが精々で、それも大隊を指揮した程度。実戦でいきなり師団の指揮を任せるなど、無茶というものであった。


「兄上は一体、この戦争をどう考えておられるのか。この私に、手足を縛って戦えとでも……?」


 到着した新師団長の名を聞くや陶杯を握りつぶし、王弟にして遠征軍総司令官のグロースクロイツ大公が呻き声を上げる。

 彼は天幕の中、執務机の上に地図を乗せ、戦術を再検討している所であった。杯を手にしていたのは、身体を内から温める為の蒸留酒を口にしていたからだ。


 グロースクロイツ大公は、この年五十三歳。しかし肉体は三十代かと見紛う程に頑健で、筋肉も隆々だ。青い瞳は射貫くように力強く、彼と目を合わせても平然としていられる者は、大陸広しと言えども十人といないであろう。質実剛健を絵にかいたような人物で、短く刈り込んだ黒髪と、右目の横にある小さな刀傷が特徴的であった。


「やあやあ、お久しぶりです叔父上。苦戦していると聞き、心配しておりましたよ」


 天幕に入ったジークムントは執務机を前に座るグロースクロイツに対し、大仰な身振りを交えて敬礼を向ける。さらさらとしたプラチナブロンドの髪が軍帽から溢れ、煌めいていた。

 ジークムントの女性と見紛う程の細面と、白樺の枝を思わせる華奢な手足にグロースクロイツは眉を顰めている。

 

「なに、ジークムント――卿に心配される謂れなど無い」


 ジロリと甥を睨み、壮年の大公は軽く敬礼を返した。


「そんなことを仰らずに。私が来たからには、大船に乗ったつもりでご安心あれ」

「泥船の間違いであろう?」

「泥船だなんて、そんな――もしかして、私は頼りにされていないのですかねぇ?」

「当然だろう――実績の無い者を頼る理由が、一体どこにあるというのだ」

「確かに。私は士官学校を卒業したばかり。だというのに王族という立場から、いきなり連隊長――そして今度は、何もしていないのに師団長です。父上のお考えを疑いたくもなりますよねぇ? それならいっそ、私も更迭なさいますか?」


 手を後ろに組んで、くるくると回るジークムント。

 相変わらずこの甥は、何を考えているか分からないと叔父の方は思っていた。


「いや。とにかく第五師団を前任者から引き継ぎ、さっそく指揮を代わってくれ。損耗率は三十パーセントにも及んでいるから、最初の仕事は再編成になるだろう。その程度の仕事はできるな? むろん、増援も要請してあるが……」

「わっかりましたぁ! その後の任務は、前任者を引き継げばよろしいですか? ええと、砦に入った味方の救出――でしたっけ?」

「まさかな――……貴官に、その任務を与えるつもりはない」

「それは私が前任者以上に頼りにならぬ存在だから、ということでしょうか?」

「それもあるが、もっと現実的な問題だ」

「叔父上、酷い。そんなにハッキリ言わなくても……ホヨヨヨ……。で、もっと現実的な問題とは?」


 がっくりと肩を落として見せ、それからすぐにジークムントは顔を上げた。顔には満面の笑みを張り付けている。


 グロースクロイツ大公は、額に手を当てながらも一応は答えた。


「――……砦に入った兵の食料が、もう間もなく尽きるころだ。馬を食い凌いだとして、もはや彼等に戦う力は残されていまい」

「なるほど。彼等に降伏を許可なさる、と。懸命なご判断ですねぇ。このジークムント、感服致しました。アハッ」


 余りにも軽い甥の口調に、グロースクロイツは机を手で打った。無性に腹が立つ。


「賢明なものかッ! ――……全く前進しようとせん北部ダランベル同盟の連中といい、第五師団といい、味方が不甲斐ないせいで、したくもない決断を迫られたのだッ! しかも更迭した男の代わりが卿などとッ!」

「まぁまぁ……冷静になって下さいよ、叔父上。これがもし味方の不甲斐なさによるものではなく、敵の術中にはまっているのだとしたら、どうですかねぇ? 叔父上の知る第五師団長は、そこまで無能な男でしたかぁ?」


 ニィ――と端正な口を横に広げて、第六王子ジークムントが笑う。そこはかとない薄気味の悪さを感じ、グロースクロイツは追い払うように右手を振った。


「ふん――……着任ご苦労。追って指示を出すまでに、第五師団の再編成を完了させろ。話は以上だ、下がれ」

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