第172話 苺を食べるタイミング
情報過多によりフリーズしたヴィルヘルミネであったが、実際に発熱もしていた。ヘルムートは慌てて彼女の額に手を当てると、すぐに野戦用のベッドへ令嬢を運び込む。
――何ということだ。ヴィルヘルミネ様の体調も考えず、私は――……。
ヘルムートが自責の念に駆られていると、宰相と令嬢を二人きりにしたくないエルウィンが、なんのかんのと理由を付けて現れた。そして顔面を蒼白にし、「これは一体!?」と狼狽えている。
「騒ぐなッ!」
宰相に一喝されて、エルウィンは頭を下げた。
「宰相閣下、ヴィルヘルミネ様は一体どうなされたのです? 朝食の折は健やかに、お過ごしあそばされておられたのに」
「何でもない。軍医によれば、疲労による発熱だろう――とのこと。あくまでも一過性のものだから、心配には及ばぬ」
「それなら良いのですが、しかし……」
「分かっている。一度本国へ帰り、ハドラーに診て貰った方が良いだろう。ランス南部の水が合わなかったのかも知れぬし、そもそも留学し他国で暮らすこと自体が、ご負担になっていたのやも知れぬからな」
「御意――……ヴィルヘルミネ様のお目が覚めましたら、僕からもご帰国をお勧め致します」
黒髪紫眼の宰相とピンクブロンドの髪色をした青年は、彼女が父フリードリヒの血を色濃く受け継いでいるのではないか、と心配をしていた。もしもフリードリヒと同じくヴィルヘルミネが不治の病に冒されたらと考えるだけで、心が千切れそうになる。
「まあ、どうせご帰国して頂かなければならんのだが……」
「と、仰ると?」
「いや……それよりもエルウィン、ヴィルヘルミネ様はショートケーキをご所望だ。天候の悪い中で済まないが、ニームの街へ行き、一つ買ってきてくれないか。上に苺が乗っているものだぞ」
「そのようなことで良ければ、喜んで。しかし熱があるのでは、買ってきたところで食べられるのでしょうか?」
「食べられるかどうかは分からんが、それでもヴィルヘルミネ様がお目覚めになられた時、がっかりさせたくはないのだ」
「――なるほど、僕も同感です。では」
こうしてエルウィンは小雨の中、外套を羽織って馬を駆る。陣営を抜けて街道へ至り、馬を飛ばしてニームの門を潜るのだった。
当時ニームのお菓子屋で働いていたメイドは、雨に濡れながらも必至の形相でショートケーキを買い求めに来た若い士官を、生涯忘れなかったという。
「あの時は驚いたわぁ。店に来るなり少尉さん、『一番おいしいショートケーキを! 必ず苺が乗っていなければならぬ! 金に糸目は付けんから、最高のものをッ!』なんて言うの。でも苺なんて時期じゃないし、植物園で栽培しているものを分けて貰わなきゃあいけないし、大変だったのよ。
でも本当に綺麗なお顔をした少尉さんだったから、私も頑張ったの。一緒になって親方に頼み込んで、植物園に行って――今となっては良い思い出だわ」
当時彼女がエルウィンを少尉だと思ったのには、理由がある。余りにも若いエルウィンが、まさか中佐の階級にあるとは思わなかったのだ。しかも使い走りだから、本当は下士官か兵卒だと思ったのだが――いちおう気を使い「少尉さん」と述懐したのである。
なおエルウィンが必死だった理由は、早くヴィルヘルミネの下へ戻りたかったからだ。いかに眠っているとはいえ、ヘルムートと二人きりにしておくのが怖かった。
流石に年齢差を考えれば、宰相がヴィルヘルミネに恋をするなどバカげた想像だ。しかしヴィルヘルミネは幼いころから彼を側に置き、宰相にするほど全幅の信頼を置いている。
日々美しく成長していく令嬢の魅力に、いつ黒髪紫眼の宰相が気付いてしまうか。そしてヴィルヘルミネの信頼が、いつ愛情に変わってしまうのか――エルウィンは気が気では無いのだった。
■■■■
ヘルムートやエルウィンの心配など他所に、朝九時に倒れたヴィルヘルミネは午後一時過ぎ、元気よく目を覚ました。ただの知恵熱だし夜更かしによる寝不足がたたっただけなので、それも当然であろう。よく寝ただけのことである。
だがこの発熱はヴァレンシュタインが撤退する直前という事もあり、ヘルムートと軍医、それからエルウィン以外に知る者はいない。全軍の精神的支柱たるヴィルヘルミネが倒れたなどと、公に出来る筈がなかったのだ。
目覚めたヴィルヘルミネは野戦用のベッドに身を起こし、手の甲で瞼を擦っている。しっかり眠って、お腹も減っていた。
「今は何時じゃ?」
「午後一時です、ヴィルヘルミネ様」
傍に控えて恭しく答えるヘルムートへ、赤毛の令嬢はジロリと紅玉の瞳を向けた。
なんということか、昼食を食べ損なっている。ヴィルヘルミネは「ちくしょう!」と心の中で毒づいた。しかし視線を少しばかり下げると、ヘルムートの手には、苺のショートケーキが乗った皿がある。まだた、まだ終わらんぞ!
――ていうか、我、勝てり! 並みの昼食より、ケーキのほうが良いわ!
ヴィルヘルミネはベッドの上で拳を高々と掲げ、謎の勝利に酔いしれる。
「急に倒れられて……心配いたしました。ご気分は如何ですか?」
「ん……む……まだ少し、ふらつくかの……」
もちろん嘘だがヴィルヘルミネは高々と掲げた拳を降ろし、神妙に胸元へ手を当てた。
実際のところ、ピンピンしている。しかし仮病の得意なヴィルヘルミネは、小さく首を振り不調をアピールしてみることにした。
体調が悪ければ、一日中ゴロゴロしていられる――そんな魂胆からだ。口の端は、微妙に吊り上がっていた。
「そうですか。でしたらこれは、残念ですが誰か別の者に……」
ヘルムートがショートケーキを遠ざけた。
「たった今、すごぶる気分がようなった。ケーキであれば、食べられる」
「はぁ……しかしたった今、ふらつくと……」
「否、むしろケーキしか食べられぬ」
――くっ、ヘルムートめ! このような時にどうでもよいことに拘りおって!
自分の姑息な考えを頭の隅に追いやって、なぜか宰相を悪者にする令嬢である。何かよい手は無いかと考えて、とりあえず「動けないけどお腹は減っている」アピールをしようと思い付いた。
自らの聡明さに感動しながら、赤毛の令嬢は「あーん」と口を開く。射貫くような視線でヘルムートを睨み、さあ、早く食べさせろ――という意思表示をした。こんなもの、絶対に聡明な人物が思い付く作戦ではなかった。
「やれやれ……甘えん坊ですね、ミーネ様は」
ヘルムートは戸惑いながらもショートケーキを小分けにして、フォークを使い主君の口へ運んでいく。
令嬢の作戦はどうあれ、目の前で美少女が「あーん」をする破壊力は凄まじい。ましてや今は二人きりだ。ヘルムートは年齢差も顧みず思わず頬を上気させ、令嬢と二人だけの時間に酔いしれた。
――ヴィルヘルミネ様と二人きりで、こんなことをするなんてなぁ。
その時ふと数年前の噂が脳裏を過り、ヘルムートは一人狼狽する。曰く――ヴィルヘルミネ様はヘルムート卿に恋をしておられる、という噂だ。
「あり得ない!」と自分に言い聞かせつつも、ヘルムートはヴィルヘルミネの瞳から目を離せずにいた。
「んむ! んまいの!」
そんな中ヴィルヘルミネは上機嫌で舌鼓を打ち、またも「あーん」。はやくケーキを寄越せと、ヘルムートの紫眼を睨んでいる。宰相もヴィルヘルミネから目を離さず、ケーキを口へ運び続けていた。
傍から見れば赤毛の少女の目つきが少々悪いものの、美形の年の差カップルが見つめ合い、イチャついているようにしか見えないであろう。
だがヘルムートも一国の宰相。ましてやヴィルヘルミネは、まだ十三歳だ。メロメロになりそうな心に喝を入れ、令嬢が倒れる前に話していたことを、再び口にした。
「ところでヴィルヘルミネ様――……先程の件ですが、これは良い機会でもあります。今回プロイシェを撃退すれば、北方諸侯の大半を我が国の影響下に置くことが出来ますから。とはいえ――……」
「あ――……」
ヴィルヘルミネは、その話が原因で知恵熱を出したのだ。なので今、そんな話は聞きたくなかった。何より今は、口を開きっぱなしである。早くケーキを持ってこい。
だが令嬢の心情も知らず話し始めたヘルムートは、言葉を濁し目を伏せている。ケーキだって一向に運んでこないから、「むきー!」令嬢はついに怒った。
「遅いのじゃ! 早くせよ! あーん!」
「も、申し訳ありません」
ヘルムートは平身低頭し、急いで話の続きに入った。
ヴィルヘルミネの要求はあくまでもケーキであり、話の続きなどではない。だから相変わらず令嬢は口を開きっぱなしで、涎が出そうである。「あぁ……ん」ついでに涙も出そうであった。
「まさかプロイシェが、北部ダランベル同盟などと手の込んだ策を仕込むとは考えておりませんでした。これを許したことに関しては、まさしく私の落ち度と申せましょう。
ですからこれに対しいかが対処すべきか、ヴィルヘルミネ様の御判断を仰ぎたく。むろん打ち破るなど容易いことと存じますが、しかし彼等に流血を強いれば更なる結束を生み、後の統治政策に影響を及ぼす可能性もござりますれば、その点もご考慮頂きたく存じます」
ヴィルヘルミネは話を全く聞かず、ショートケーキの上に乗ったイチゴを見つめている。問題はコレを、どのタイミングで食べるべきか――なのであった。
ここでようやくヘルムートもヴィルヘルミネにケーキを食べさせていないことに気付き、苺の乗った部分を切り分け口へ運ぼうとして。
「それは――……最後までとっておくのじゃ! ばらして取っておくのじゃ! 先に大物を平らげる! わかったか! あーん! あーん!」
「なるほど、流石はヴィルヘルミネ様。御意にござります」
ヴィルヘルミネは思案の末、苺だけを最後に食べたいと思っていた。だから、こう言ったのだ。つまりケーキの上からそれ(苺)をばらし、先にスポンジ部分(大物)を平らげる――と。
しかしヘルムートは、「北部ダランベル同盟を、バラして残せ」と命じられたのだと思い、その上でヴィルヘルミネは、先にプロイシェ(大物)を平らげようとしているのだと誤解した。
結果としてケーキに関する要求には一切気付かず、ヘルムートは苺とスポンジ部分を一緒に令嬢の口へ運んでしまい――……。
モグモグモグ……。
だが美味しかったので、ヴィルヘルミネは奇跡的に文句を言わなかった。
それどころか、これでようやく糖分が頭へ回ったらしく、お陰でヘルムートの意見がやっと理解できた。
――う、プロイシェと北部諸侯が攻め込んでくるじゃと? ランスもどうにかせねばならん時じゃというのに、なんで問題ばっかり増えるのじゃ!?
「ともあれ、事態は深刻じゃ。ランスの問題も含め、協議する必要があろう。フェルディナント、ランス両軍とも、佐官以上の者を招集せよ」
こうして他力本願の本領を発揮し、ヴィルヘルミネは皆に頼ろうと幕僚達を呼ぶのであった。
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