第170話 リヒベルグと未亡人

 

 十一月三日、午後二時――空には鉛色の分厚い雲が垂れこめ、大地を細かな雨が濡らしていた。そんな最中、キーエフ軍は整然と隊列を整え去って行く。

 名将ヴァレンシュタインは最後に見事な指揮ぶりをフェルディナント及びランスの将兵に見せつけて、完璧に撤退を終えたのである。


 フェルディナントとランスの両軍は、一時的に第二高地を共同の本営としていた。

 いかに講和が成立したとはいえ、つい数日前まで銃を突きつけ合った敵軍の撤退だ。油断は出来ない。だから一時的にヴィルヘルミネを総司令官としてバルジャンが指揮下に入り、両軍の指揮系統を統一したのである。


 といっても、この連合軍に課せられた任務はキーエフ軍の撤退を見守るだけ。それが果たされた今、誰の表情も皆、明るいものであった。


 もっとも、例外はどこにでもある。例えばキーエフ軍の撤退を望遠鏡で見守っていたリヒベルグ少将は神妙な顔つきで、隣に立つ参謀総長トリスタン=ケッセルリンクに「残念な報告をせねばならん」と語っていた。


「どうした、リヒベルグ少将。キーエフ軍が反転して、陣形でも整えているのか? 肉眼では、そういう素振りは見えないが――……」

「逆さ。ヴァレンシュタインは残念ながら、約束を守って撤退を完了させた。戦いを嗜む稀代の用兵家たる我が参謀総長としては、当世随一の名将と一度で良いから勝負がしたかったのではないかと思ってな」


 リヒベルグはヴァレンシュタインとの同盟を知っていた。だからこそ、このような発言をしたのであろう。


「リヒベルグ少将。貴官は二つ誤解をしている。私は稀代の用兵家ではないし、戦いを嗜んだことも一度として無いぞ」

「どうかな……私はあながち間違っているとも思わんが。もしもヴァレンシュタインが反転したら、貴官はどうするつもりだったのだ?」


 トリスタンは色の違う瞳をリヒベルグへ向け、さも当然という顔で答えた。


「この状況下で敵が我が軍を撃滅しようと思えば、この本営に対する騎兵突撃しかあり得ぬ。ならば我が方は砲兵の集中運用により、これを撃滅するだけのこと」

「砲兵の集中運用など、まだ実績の無い戦法だぞ?」

「だからこそ、かの名将ヴァレンシュタインの攻撃に対しても、一定の効果を発揮するはずだ」

「ほらみろ。そんな発想が出来るのは、稀代の用兵家だけであろう」

「そんなことはない、私はヴィルヘルミネ様に遠く及ばぬ。しかし参謀総長たる大任を拝命したからには日々研鑽を繰り返し、我が軍を必勝たらしめることこそ責務なのだ」

「好きこそモノの上手なれ――というやつだ。貴官は酒も女もやらぬから、きっと用兵を愉しんでいるのだろうさ。フッ……」


 リヒベルグの笑みは、いかにも冷笑的であった。とはいっても類まれなる美貌は三十五歳になった今も健在で、女性が見れば十人中八人は彼に見惚れてしまうであろう笑みである。

 茶化された形のトリスタンは軍帽のつばを指で持ち、角度を調整しながら反論をした。


「貴官は遊びが過ぎる。色々と愉しむのは結構だが、せっかくの才能を己が不徳で潰されてはたまらんぞ。身を固めろとまでは言わんが、立場があるのだ。妙な女に手を出すのはよせ」

「ふむ。貴官がそういう忠告をするからには、何か問題のある情報でも得たのかな?」

「ああ――……リヒベルグ少将はボートガンプ侯爵の残党を愛人として囲っている、という報告があった」

「それは少し、話が違うな。残党ではなく、ただ単にボートガンプの邸で働いていた使用人の女だ。ただ、あの戦いで夫が戦死したらしくてな」

「それで気の毒に思い、囲ったのか?」

「そうではない。その女は私が裏切ったせいで、自分の夫が戦死したと思っていたらしい。それで、私は命を狙われた。だから――……」

「だから?」

「抱いた」


 しれっと言い切るリヒベルグに対し、トリスタンは珍しく首をコテンと横に倒した。言っていることが、まるで理解出来なかった。


「どうして、そうなる?」

「うむ――……未亡人というのに惹かれてな。だがなに、心配するな。抱いた後は、金を渡して追い出した。愛人になどしていないぞ。世界には未亡人がごまんといるし、一人に固執する私ではないからな」

「うむ、なるほど。確かに涙にくれる未亡人というのは背徳感があって良い――……いや待て違うぞリヒベルグ、そういう話ではないのだ」

「なぜだ。参謀総長もたった今、私の趣味に理解を示したではないか」

「いいか、リヒベルグ。重要な点は、そこではない。命を狙われたということだ。そういう時は警察を呼べ。抱くな。貴官はヴィルヘルミネ様の重臣なのだ、まずは、その自覚をもってだな――……」

「分かった、分かった。これからは大人しくして、参謀総長には迷惑が掛からんようにするから……」


 リヒベルグは形勢不利と見て肩を竦め、踵を返す。キーエフ軍が撤退したことをヴィルヘルミネに報告する必要があったし、いつまでも立ち話という訳にはいかなかった。


 ■■■■


 天幕へ戻る道すがら、一人の女性がリヒベルグに声を掛けた。エリザ=ド=クルーズだ。彼女もキーエフ軍の様子を見ようと、先程までリヒベルク達が居た場所へ向かう途中であった。


「ああ、リヒベルグ少将かい、ちょうど良かった。キーエフ軍の様子はどうだい?」

「これは、第一海軍卿ファースト・シー・ロード。撤退なら完了しましたよ。これからその旨を、ヴィルヘルミネ様にご報告申し上げるところです」

「なるほど、分かった。ところで参謀総長は?」

「擬態であった場合に備えて、まだ監視を続けているのでしょう。そんな可能性など無いことは、本人が一番分かっているでしょうが」

「ふぅん――……そうかい。アンタと違って真面目な男なんだねぇ」


 リヒベルグの眉が、ピクリと動いた。

 深淵を思わせる暗い目をした、頬から首筋にかけて大きな傷のある謎の女。それがリヒベルグにとっては第一海軍卿ファースト・シー・ロード、エリザ=ド=クルーズの印象だった。

 

 聞くところによれば、果敢な突撃戦術を駆使する勇将らしい。本人の武勇も相当なもので、ゾフィーやエルウィンでも勝てないという。


 ――だが、だからなんだ? 私が真面目かどうかなど、貴様に分かる訳がなかろう。


 普段であれば、どうでもいいと聞き流すところだ。しかしリヒベルグは今、なぜかそれが出来なかった。余りにもエリザの瞳が、挑戦的に見えたからである。


 それにリヒベルグとエリザは、別の陣営からヴィルヘルミネの陣営に鞍替えした、という共通項がある。悪く言えば「裏切り者」だ。

 

 けれどリヒベルグはあの時、命を捨てる覚悟でボートガンプを裏切った。

 対してエリザは利害を優先して、ランスを見限っただけのこと。命惜しさと言い換えてもいい。少なくともリヒベルグはそう思っていたから、彼女の同類とは看做みなされたくなかった。そんな風に思っていた矢先に、この出来事である。


「なぜ私が真面目では無いと、閣下に評されねばならないのです?」

「簡単さ。漁色趣味の裏切り者――アンタのことは、そう聞いているからね。ま、裏切りに関しちゃ何も言わないよ。アタシだって同じ穴のむじなだからね。

 けど気に入らないのは、その香水だ。いかにも女が好みそうな匂いを漂わせて、それがアタシは不愉快なんだよ。アンタ戦場に来てまで、女の尻を追いかけ回したいのかい? まさか、ヴィルヘルミネ様の気を引きたいんじゃあないだろうね?」


 リヒベルグは拳をギュッと握り締め、眉間に皺を寄せた。漁色家であることも裏切り者であることも、事実である。たとえどのような事情があったにせよ、彼は否定しない。

 エリザが自分を同類と思っていることも、リヒベルグは耐えられた。人にはそれぞれ考えがあり、同一のものではあり得ないからだ。


 しかしヴィルヘルミネへの忠誠心だけは、リヒベルグにとって神聖にして不可侵なものであった。これを茶化されては、流石に我慢がならなかったのである。


「私の香水はともかく、第一海軍卿ファースト・シー・ロードこそ、戦場でも見事な美しさを保っておられるではありませんか」

「はぁ? 化粧のことを言ってるのかい? そんなもの三十路を過ぎた女なら、当然の嗜みだよ」

「ほぅ。ならば、もっと近くで見せて頂こう」


 リヒベルグは無音でエリザとの距離を詰めた。彼女ほどの達人をして、彼の接近を阻止できなかったのだ。

 驚くエリザを左腕で抱き寄せ、リヒベルグは大半の女性が蕩けるだろう微笑を浮かべている。だが、心の中は怒りで沸き立っていた。

 

「……何のマネだい、アンタ?」

「女の尻を追いたいのか――と聞かれたので、追ったまでだが?」

「アンタ、アタシを女扱いするのかい? 上等だよ」

「猛将だろうと一騎当千だろうと第一海軍卿ファースト・シー・ロードだろうと、あなたは女性に違いない。つまり、この香水はあなたの為のものだ」

「へぇ……そいつは嬉しいねぇ。顔にでっかい傷のある、こんなアタシをアンタが女扱いしてくれるなんて。そうまで言うなら、アタシを抱けるんだろうねぇ?」


 衣服のボタンをいくつか外し、エリザは胸元を大きく露にした。生々しく肉の抉れた傷が無数にあって、常人であれば目を背けたくなるような有様だ。けれどリヒベルグは、その傷口――胸の上部にある――にキスをした。


「――当然だろう」


 とたん……エリザの顔が赤くなる。すぐに衣服を整え、回れ右をした。


「な、ちょっ!? そ、そうだ、リヒベルグ! ヴィルヘルミネ様が皆を招集した。会議を始めるそうだよ! そ、参謀総長も呼んできなッ!」

「どうして私が、伝令のような真似をしなければならないのだ?」

「つ、つべこべ言うんじゃあ無いよ! さ、さあ、早くお行きッ!」


 リヒベルグはエリザの傷跡にキスをした時、彼女の不幸の一端に触れた。あれは間違いなく戦場での傷跡ではない。拷問で付けられたものだ。

 とはいえ傷の理由を問える間柄でもなく、だからリヒベルグは奇妙な蟠りを抱え、怒りはいつの間にか霧散していた。


「まあいい、承知した」


 リヒベルグは頷き、踵を返す。それを肩越しに見つめ、エリザは「はぁ」と妙に熱っぽい息を吐いていた。


 ――驚いた。今までどんな男も、この傷を見たら尻込みしていたのに。あれが筋金入りの漁色家ってやつなのかね。

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