第169話 ヴィルヘルミネと父二人


 デルボアの処刑を確約すると、ようやく捕虜交換についての話し合いとなった。この話し合いは事務的な手続きや移動にかかる日数を逆算するだけなので、比較的はやく済んだ。

 こうして来年の一月中旬に捕虜交換を行うことで双方が合意すると、正午から始まった会談は午後三時三十分、ようやく終わったのである。


 ヴィルヘルミネは机に突っ伏し、液状化したかのようにだらけていた。公爵令嬢にあるまじき体たらくだが、連日の緊張が一気に解けたのだろうと、誰もが温かい目で彼女を見守っている。

 ここに至るまでの経緯において、ヴィルヘルミネの果たした役割は限りなく大きい――などと皆が誤解しているからなのであった。


「ヴィルヘルミネ――……少しいいか? 個人的なことで話がある。君の父君のことだ」


 紅い泥のようなヴィルヘルミネを、ヴァレンシュタインは呼んだ。天幕の外に出て、少し話をしようと言っている。


 参事官のマティアスは既にキーエフ陣営に戻っているから、この場でヴァレンシュタインの行動を咎める者はいない。ヴィルヘルミネは怪訝そうな表情で顔を上げ、「ふぅむ」と眉根を寄せていた。


 ――面倒くさいのじゃ。


 と、ヴィルヘルミネは思ったが、無下にも出来ない。父とヴァレンシュタインが友人であることは、十分に知っていたからだ。


 とはいえ令嬢は半年以上、父と会っていない。そもそもここ数年、父の事は避けてきたのだ。ラインハルト=ハドラーに全てを託し、見ないようにしていたと言っても過言ではない。

 だから赤毛の令嬢は父について聞かれても、たいしたことは答えられないのだ。それで余計に困惑し、無言になってしまった。


「敵である私とは、個人的な話などしたくはないか?」


 ヴァレンシュタインが、重ねて問う。


「――いや、そうではないのじゃ。余は父の病状について詳しくないゆえ、医学にも詳しいヘルムートを伴ってよいか?」

「ああ、構わんよ」


 ■■■■


 ヴィルヘルミネは今、黒髪紫眼の宰相と朱色髪の名将の三人で、天幕から少し離れた平地をゆっくりと歩いている。病状の重い父について話す為であった。


 ヴァレンシュタインが足を止めて振り返る。後ろを歩いていたヴィルヘルミネとヘルムートを正面に見て、口を開いた。


「フリードリヒの病は、どれほど重い?」


 数秒の沈黙。沈みかけた太陽が、東へ向けて三人の長い影を作っている。


「会っておらんから、余は知らぬ」


 赤毛の令嬢がぶっきら棒に答え、すぐにヘルムートが補足した。


「一時は、お命が危ぶまれることもありました。今は小康状態にありますが――……」

「小康状態と言うが今年に入ってから一度も、奴から手紙が来ておらぬ。それは、どういうことなのか?」

「残念ながら今年に入り、首を動かすことすらままならなくなり……手紙を書くことなど到底叶いませぬ。使用人に代筆させることは出来ましょうが、きっとお嫌なのでしょう。美しい文字を書かれるお方ですから……」


 答えるのはあくまでもヘルムートで、ヴィルヘルミネはむっつりと黙り込んでいた。


 寝たきりの父は今や、骨と皮で出来たミイラのような有様だ。赤毛の令嬢は、そんな父が純粋に怖かった。あれほど美しかった人が、病によってかくも醜く変わるとは。

 だからヴィルヘルミネは、ここ数年父の部屋を避けている。自分でも親不孝な娘だと思わなくも無いが、動物が火を怖がるのにも似た感覚で、どう頑張っても令嬢は父に纏わりつく死のオーラに恐怖し、避けてしまうのだ。


「フリードリヒが、そこまで悪くなっていたとは。友の苦境に何もできず、その娘と戦うなど――……すまなかった、ヴィルヘルミネ」

「べつに……卿は貴族として、当然のことをしたまでじゃ。逆に父は病の為に、貴族としての務めを果たせておらぬ。気に病むべきは父であり、卿ではなかろ」

「ヴィルヘルミネ、そのようなことを言うべきではない。父君とて望んで病に伏した訳では無く、今も必至で病と闘っているのだから」

「ふん――ヴァレンシュタイン公は父を見ておらぬから、そんなことが言えるのじゃ。一度我が国へ来て、無様な父上の姿を見てみれば良かろう。あれはもう負け戦じゃ――……ハドラーがどう頑張っても、そう長くは持たぬじゃろうて」


 ヴァレンシュタインから顔を背け、ヴィルヘルミネは言う。渇き、冷たい声で。紅の瞳に映る草花も、凍土の中で固まっているかのようだ。


「ヴィルヘルミネ、もう一度言うぞ。父君は――フリードリヒは、望んで病を得た訳ではないッ! 二度と、そのようなことを言うなッ!」

 

 ヴァレンシュタインは拳骨を作り、ヴィルヘルミネの頭上へ落とす。ゴイーン!


「ぴぎゃッ! い、痛いのじゃ! 何をするのじゃ! おのれ貴様! やはり余の暗殺を目論んでおったな!」

「この馬鹿者がッ! お前を殺そうと思えば、いくらでも別の方法があったわッ! だが私はお前を殺さなかった! 殺す気も無かった! 何故だか分かるか!? ――……人はな、一度死ねば二度と還らんからだ!」

「そのような当たり前のこと、説教されるまでもないわッ!」

「当たり前だと思うのなら、なぜ父君を大切にしない!? ましてや長くないと知っているなら、今すぐ国へ帰り父君と対話しろ!」

「なぜ貴様に、そのようなことを言われなばならんのじゃ!」

「私はな、父の死に目に会えなかった。父が死んだとき、私は戦場で敵と戦っていたのだ。国へ戻ったとき、父は既に墓の下にいた。不思議なものでな、私は生前の父が嫌いだった。だというのに死んだあと、話したいことが山ほど湧いてきてな。だからつまりヴィルヘルミネ、お前は私と同じ轍を踏むな」


 ヘルムートはヴァレンシュタインに頭を下げた。家族の問題に立ち入るなど、元家庭教師と言えども出来なかったからだ。

 

「ヴィルヘルミネ様、ヴァレンシュタイン公の仰る通りです。死者は何も語りません。会話とは、生者にのみ許された特権なのですから」


 ヘルムートはヴィルヘルミネの頭を撫でつつも、この機に乗じて説得をした。

 彼自身、フェルディナントの宰相として幾度もヴィルヘルミネの父には会っている。その度に黒髪紫眼の宰相は赤毛の令嬢がいかに天才かを、フリードリヒに語るのだ。

 するとフリードリヒは不自由な口で静かに笑い、「ミーネは自慢の娘である」と必ず言った。だがその後、決まって寂しそうに、こう付け加えるのだ。「といっても、私が育てた訳では無いのだがな」と。


 そんなことはない、とヘルムートは思うのだ。

 フリードリヒがいたから、ヴィルヘルミネがいる。

 彼が自由を尊ぶ教育を施したからこそ、箱入り娘にならずに済んだのだ。


 何よりフリードリヒは、貴族らしからぬ人だった。だからこそヘルムートは平民でありながらヴィルヘルミネの隣に部屋を与えられ、家庭教師になることが出来たのだ。

 つまり黒髪紫眼の宰相には、フリードリヒに大きな恩義があるのだった。

 

 ヘルムートはヴァレンシュタインへ向き直り、右手を胸元へ置くと静かに言う。


「ところで、ヴァレンシュタイン公。フェルディナント公爵フリードリヒ様より、ご伝言がございます」

「伝言?」

「はい。私がヴィルヘルミネ様の援軍に参りましたのは、この伝言を託されたからでもあります」

「……聞こう。卿に託すほどだから、よほど重要なことなのであろう?」

「はい。では、申し上げます――私にもしものことがあった場合、ザガンにはヴィルヘルミネの後見人になって貰いたい。友として、最後の頼みだ――とのことです」


 ヴァレンシュタインはその場でしゃがみ込み、下草ごと土を掴んで握り締めた。


「後見などと……弱気なことを……!」

「引き受けて頂けなければ、死んでも死に切れぬ、と」

「――それがフリードリヒの最後の頼みなら、私に否は無い。だが奴は本当に、もう助からんのか?」


 朱色髪の名将が、肩を震わせている。


「残念ながら……」

「――そうか、分かった」


 ヴァレンシュタインは立ち上がると、今度はヴィルヘルミネの頭に手を乗せた。「ヒェッ」と首を縮めた令嬢は、また殴られると思ったらしい。


「ヴィルヘルミネ――……そういうことだ。以後、私をもう一人の父と思うが良い」

「え……そんなの嫌じゃけども」

「え、なぜ? 今の話、聞いていただろう?」

「嫌なものは、嫌なのじゃ」


 微笑みを浮かべるヴァレンシュタインの手を払い退け、ぴゅーと逃げ出す赤毛の令嬢。ヘルムートは引き攣った笑みを浮かべ、ヴァレンシュタインの横顔を見つめている。

 

 暗く深い眼窩の奥で、琥珀色の瞳が白く輝いた。「あっ、ヴィルヘルミネ様が殺られる!」と思ったヘルムートは、しかし次の瞬間、安堵する。ヴァレンシュタインが首を振り、溜息を吐いたからだ。


「ふぅー――……。幼い頃に母を亡くし、今また父を亡くそうとしているのか。思えば不憫な子だな」

「それはそうと、よろしいのですか?」

「何がだ?」

「ヴィルヘルミネ様の後見人となれば、嫌でもフェルディナントとヴァレンシュタインの繋がりが帝国内に知れ渡る。面倒な勢力に狙われるのでは――と」

「フン、そんなものが怖くて、友との約束が守れるか」

「はは――大した度胸ですが、しかし、それは蛮勇というもの」

「なんだ、賢しげに。だったら、どうするというのだ?」

「簡単なことです。ならばいっそ、同盟を結んでしまいましょう」

「フ、フハハ……流石は策士と名高い、フェルディナントの宰相閣下だ。むしろ、そちらが本当の狙いだったのだろう?」

「然様、仰る通りにございます」

「よかろう、乗ってやる。しかしなぜ――……同盟の相手に私を選んだのだ? 私がフリードリヒの友であったから、というだけではあるまい?」

「閣下が野心よりも、義によって動かれる方だから――と申せば信じて頂けますか?」

「よく言う。政治が苦手なだけだよ――私は。それを卿は、見抜いたのだな……」


 帝歴一七八九年十月三十一日、こうしてフェルディナント公国とヴァレンシュタイン公国は同盟を結んだ。けれどヴィルヘルミネはこの報告を聞き、ものすごく嫌そうな顔をしたのであった。

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