第167話 流石です、ヴィルヘルミネ様!
強引に話を戻したヴィルヘルミネによりランスとキーエフの両国は、講和に関して最低限の合意を成立させた。
もともと鋭い舌鋒により会談の場を支配していたヘルムートは、薄く笑って赤毛の令嬢に頷いている。彼にしてみれば、いつ自らの提案を双方に認めさせるか――そのタイミングを測っていたから、ヴィルヘルミネの言葉は正に絶妙だったのだ。
問題の多くは、領土を喪失するランス側にあった。とはいえ、既に議会の承認は得ている。強引に事を運んでも良かった。しかし、ここでバルジャンやアデライードといったランス側士官の反感を買うのは、余りにも愚策であった。
となれば彼等が納得せざるを得ない情報を開示してやるほか無く、そうした結果ヘルムートは話を戻すタイミングに苦慮していたのである。
そこで、あらゆる流れをぶった切るヴィルヘルミネの一言だ。ヘルムートは感動していた。
――流石はヴィルヘルミネ様。有無を言わせず、私の提案を認めさせてしまうとは……。
改めて主君の凄さ(勘違い)に、身が震える思いのヘルムートなのであった。
――しかし、ヴァレンシュタイン公は不気味ですね。自らの利益を一切顧みず、帝国にとっての建前だけを語るとは。それとも、現状を面白がっているのでしょうか?
ヘルムートはヴィルヘルミネの対面に座る朱色髪の名将に目をやり、表情を伺ってみた。しかし赤毛の令嬢に一瞬だけ見せた笑みも既に消え、今は冷たい鉄の仮面で顔を覆っているかの如き無表情である。
――流石は当世の名将。一筋縄ではいかない、といったところですか。それとも、何か別の要素があるのかも知れません……例えば誰かに見張られているとか。
ヘルムートは向かいに居並ぶ、ヴァレンシュタイン以外の面々を順に見た。まだ若い士官が頬を赤く染めながら、じっとヴィルヘルミネを見ている。イシュトバーンと名乗った少年だ。彼はヴァレンシュタインの異母弟だといった。ならば腹心であろう。問題はない。
問題は無いが何故かイラっとしたので、ヘルムートは久しぶりにヴィルヘルミネの頭を撫でてみた。
「流石です、ヴィルヘルミネ様。これほど簡単に交渉を纏めてしまうなど、そう出来る事ではありませんよ」
「や、止めよヘルムート。余はもう子供ではない。あ、あの頃のように頭を撫でられても、ちっとも嬉しくないのじゃ……ほ、褒めるなら言葉だけでよいから……」
「では、もう止めましょうか?」
「ま、待て――……もうちょっとだけ撫でるのじゃ。余は、良いことをしたのじゃろ?」
「はい、そうですよ。ヴィルヘルミネ様」
「――うむ、ならば褒めよ。余は褒められるの、好きじゃからして、して」
俯きながら顔を真っ赤にした赤毛の令嬢は、口元をモニョモニョと動かしている。最後は、余りにも小さな声であった。
目の前では、イシュトバーンがギリギリと歯を軋ませてる。ヘルムートは勝ち誇り、「フッフ」と笑みを浮かべていた。
――はっ!? こんなことをしている場合ではなかった。
我に返り、ヘルムートは参謀長と師団長へ視線を移す。
参謀長は全ての判断を指揮官に委ねているらしく、腕組みをして目を瞑っている。補佐役としては疑問に思える態度だが、しかし忠誠心は本物に見えた。
師団長は口をへの字に結んで、「閣下に全て、お任せ致す」と公言した男だ。陰謀に加担したり監視を担当するような人物には見えなかった。
最後に、「事務官のマティアス」と名乗った男へ視線を移す。緑色の制服を着ていた。彼は手元の書類を幾度も捲り、目を皿のようにして熟読している。ヴァレンシュタインの様子をチラチラ伺っている所からも、彼が最も怪しいと思えた。
――そういえば、緑色の制服は参事官のもの。事務官と名乗ったのは嘘で、彼が皇帝直属だとすれば、ヴァレンシュタイン公も迂闊なことは言えませんね。
ヘルムートは改めて状況を把握し、次の話題を持ち出すことにした。スムーズに話が進むのなら、それで良い。しかし帝国がフェルディナントの勢力拡大を快く思わないのなら、きっとマティアスが止めに入るだろう。
「では、双方の合意が取れたところで、捕虜交換について話し合いましょうか。人員名簿の作成、確認などに関しては後日、担当者レベルの協議で十分でしょうが、交換の日程だけは決めておいた方がよろしいかと存じます」
「お待ちください、シュレーダー殿。そもそも講和と仰るが、先に宣戦布告をしたのはランスの共和政府です。講和の条件はともかく、この点に関する責任の所在と、責任者の処分に関することは如何お考えか?」
やはり深緑色の制服を着た男が、片手を上げて発言をした。マティアスである。
紫眼をマティアスへ注ぎ、ヘルムートは自らの予想を確信に変えた。
ヴァレンシュタインが国公としての立場より帝国の重臣としての立場を優先して振舞っているのは、やはり、この男がいるからだ――と。
――参りましたね。あの男が目の前にいては、ヴァレンシュタイン公と腹を割って話せません。とんだ足枷です。
「ふむ、なるほど。責任の所在と仰るが――しかしランス領に侵攻したのは、紛れもなくキーエフ軍でありましょう? ゆえにランスは宣戦布告せざるを得なかった、と考えることは出来ませんかな――参事官のマティアス殿」
「なっ……シュレーダー殿……私が参事官であることを、いつ――……?」
「いつでも良いでしょう。それよりもランスに責任ありとするならば、先に侵攻を企てたキーエフ側の責任は如何するのです?」
「それは知れたこと――我が軍は侵攻したのではなく、同胞を救済する為に止む無く軍を進めたのです。ですからランス新政府が宣戦布告をしなければ、すぐにも軍を退いていたでしょう」
自らの弁舌に陶酔するかの如く、立ち上がって目を瞑り、胸元に手を当て朗々と語るマティアス。
ヘルムートは冷笑を浮かべて彼を見つめ、「つまらん男だ」と思っていた。
「ではお聞きするがキーエフ軍はどこまで、ランスの国内を進むつもりだったのですかな?」
「それは、私が答えよう。アルザスまでだ。実際、アルザスを占領したからな」
ヴァレンシュタインが口の端を歪めて答え、マティアスは表情を引き攣らせている。
「ふむ――トゥール州の領有権はこの時、誰のものでありましたかな、マティアス殿?」
「そ、それはランス王国です」
笑いを噛み殺して、ヘルムートがマティアスを問い詰める。しょせん彼如きがフェルディナントの宰相に、抗しえるはずもないのだ。
「マティアス殿が侵攻という言葉をどのように考えておられるかは、存じません。しかし世間一般では、武力をもって他国に攻め入ることを侵攻と言う。そして攻め入られた側には当然、これを排除する権利があるのですよ」
「し、しかし、そうだとしても先に宣戦布告をしたのは、ランスですぞ! シュレーダー殿!」
「なるほど、それは然り」
ヘルムートが大きく頷いたことで、マティアスは俄然勢いを取り戻した。
「あの宣戦布告さえなければ、我らとて穏やかに事態を収拾するつもりだったのです。ですから、この責任の所在は明らかにしなければなりません。さらに申せばフェルディナントが我が国の軍隊を囲んだことも、必ずや問題になりますぞ。
このことをフェルディナント公国は皇帝陛下に対し奉り、どのように申し開きをするのです! さあ、返答や、いかに?」
ヘルムートは暫し沈黙し、思案をしていた。
マティアスなど、どうとでも料理できる。しかし彼をこの場に留め置けば、ヴァレンシュタインと腹を割った話など永遠に出来ない。
ゆえにヘルムートはマティアスを、この場から遠ざける方法を探していた。だから「――ふぅむ」と顎に手を当て、悩んだのである。
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マティアスは弁舌により、ヘルムートを抑え込んだと思っていた。しかし黒髪紫眼の宰相が言葉を控えたのには、理由がある。
それはそれとして赤毛の令嬢が、肩をプルプルと震わせていた。明らかにお怒りであった。
「黙れ――……」
ボソリ――令嬢の薄く整った唇が動いた。僅かに施した薄化粧が、彼女の美貌を冷たく彩っている。
ヴィルヘルミネが動いた。まるで止まった世界の中で、彼女だけが動いたかのようだ。それ程に令嬢の行動は悠然として美しく、絶対的であった。
ヴィルヘルミネは目の前に置かれたグラスを掴み、中身をマティアスの顔にぶちまけた。令嬢はそれでも飽き足らず彼の後ろに回り込み、さらに頭からもう一杯水をドバドバとかけている。
「な、何をするのです……!?」
「黙れ、三十点」
「三十点? ぷえっぷ! い、一体何のことですか!? 皇帝陛下の参事官たる私に水を掛けたことも、きっと問題になりますぞッ!」
「ふん……ずぶ濡れのクセに、騒ぐでないわ」
「そ、それはヴィルヘルミネ様が今、グラスの水を私に掛けたからでしょう!?」
ヴィルヘルミネの右手が閃き、濡れた男の頬を叩く。
ぱちこーん!
振り抜いた右手を返して――ぱちこーん!
赤毛の令嬢は、二連撃を繰り出した。
「やかましい――余のせいにするとは何事じゃ! 貴様が緑色でガマガエルのような顔をしておったから、水を与えてやったまでじゃ! さあ、者共! この三十点を摘まみ出せ! 何かにつけて皇帝、皇帝と言いおって! カエルに呼ばれて皇帝陛下も、さぞや不憫なことじゃろうて!」
――ふぬー! 緑色じゃし濡れとるし、まるでガマガエルのような男じゃ! 目が腐る! 最悪じゃ!
こうしてヴィルヘルミネは特有の理不尽により、ヴァレンシュタインを監視の目から解放した。一方ヘルムートはまたも、「流石です、ヴィルヘルミネ様!」と唸るのだった。
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