第164話 三人の令嬢

 

 十月三十日の午前九時、ヴィルヘルミネの下にヘルムート=シュレーダーと老ロッソウがやってきた。赤毛の令嬢が幹部達と食べる朝食の席にルイーズを招き、ハマグリを食べさせ遊んでいた時のことである。


 天幕の外に置いた長机の上に、パン、スープ、ミルクの入った瓶などが置かれていた。上座を占めるヴィルヘルミネの側、右にゾフィー左にルイーズと、公爵家の令嬢達が集まっている。


「ルイーズ、この食べ物を知っておるか? ハマグリラプレールというのじゃが、ニームでは女が一人前と認められる為には、これを噛み砕かねばならぬらしい。ほら、見よ――ゾフィーなどいとも簡単に噛み砕いておろう? 大人の証じゃ」


 ヴィルヘルミネのとんでもない嘘に合わせて、ゾフィーがハマグリを口の中へ入れた。そのまま何事も無かったかのようにバリボリと殻を噛み砕き、彼女はスープを飲んでいる。


「――乙女の嗜みです」


 ルイーズは「はぁ!? それのどこがですの!」と思いっきり眉根を寄せたが、ゾフィーに負けるのは癪だった。対抗して殻ごとハマグリを口の中へ入れ、目を白黒とさせている。

 絶対に噛めない! と思ったが、諦めたらそこで戦争は終わりだ。退かぬ、媚びぬ、顧みぬの精神でルイーズは奥歯を噛み締めた。


「――い、痛いのだわ! 殻が舌に刺さりましてよッ!」


 どうやらルイーズは一応、ハマグリの殻を噛み砕けたらしい。意外な結果に、ヴィルヘルミネは冷や汗を掻いている。「噛めませんわ……」とでも言って項垂れるルイーズが見たかったのに、これでは意味が無かった。


「ちゃんと噛めるのじゃな……ルイーズは……つまらぬ」

「あったり前なのだわ! わたくしは大人なのですから!」


 フンスと小さな胸を反らすルイーズは、百五十センチに満たない身長だ。小柄なダントリクよりも更に小さいから、どう見ても子供に見える。それを意識してか、彼女は「大人」という言葉に過剰な反応をしてしまうのだった。


 とはいえ流石のルイーズも、ハマグリの殻を美味しいと思って食べた訳ではない。それに大人たちが殻を出しているのを見て、きっと嘘なのだろうな――とも思っていた。

 しかしヴィルヘルミネの無茶ぶりに、今は逆らえない。それは、三万にも及ぶフェルディナントの援軍が現れたからであった。


 度重なる戦闘でヴァレンシュタイン軍の兵力は、既に二万五千を下回っている。その状態で新たに現れたフェルディナント軍と戦えば、負けないまでも苦戦は必至だ。ましてやルイーズがここにいることは、父にとって完全な足枷となる。


 ――だったらわたくしのやるべきことは、ミーネを必ず会談へひっぱり出すことですわ! 約束を反故にさせない為にも、今この子の機嫌を損ねる訳にはいきませんの!


 ルイーズは、涙ぐましい決意をしていたのだ。


 そんなところへ老将ロッソウを連れて、黒髪紫眼の宰相が現れた。彼等の顔を知るエルウィンとゾフィーが立ち上がり、笑顔と共に敬礼を向ける。

 バルジャンやエリザ、ラメットやビュゾーは首を傾げ、「誰?」と言わんばかりの表情だ。

 ヴィルヘルミネは何故か「ヒェッ」と声を出し、首を縮めて「……怒られる」と小声で言うのであった。


 ■■■■


「ヴィルヘルミネ様、お食事中失礼いたします」


 涼やかな微笑を浮かべ、ヘルムートが言った。彼の小脇に抱えた書類の束が、ヴィルヘルミネの嫌な予感を増幅させる。


 ――勝手に兵を動かそうとした件で、方々からの書類でも溜まっておるんじゃろか? ていうか、どうしてヘルムートがここに居るのじゃ? ヒェェェ……。


 不安に押し潰されそうな赤毛の令嬢は、しかしおじいちゃんっ子だ。ヘルムートの少し後ろに立つ老ロッソウに縋るような視線を向けて、立ち上がった。彼女は現実から目を背け、癒しのじいちゃんに逃避したのだ。


「ロッソウ――……会いたかったぞ」


 ヒシッとロッソウに抱き付き、「さ、陣営の視察でもするか、ロッソウ。余の要塞はどうじゃ? なかなか良く出来ておるじゃろう?」などと言い、ことさらヘルムートを見ないようにしている。小言と書類は出来るだけ遠ざけたい、ヴィルヘルミネなのであった。


 このように姑息な令嬢の意図など知らない武人ロッソウは、感激の余り声を震わせて。


「おぉーー、ミーネ様。ワシもいつお会いできるかと、一日千秋の想いで待っておりました。それでこの度援軍に向かうとのこと、参謀総長や宰相殿に無理を言い、連れてきて頂いた次第です。

 ミーネ様の為に敵の一個大隊くらいは粉砕してやりたかったのですが、どうやらもう決着が付いたご様子――残念でござる。おろろ~~~ん」

 

 腕を瞼にこすり付け盛大に泣くロッソウは、既に六十歳を過ぎている。だというのに身体には一切の無駄な肉が無く、筋肉の鎧を纏っていた。軍服の上からでもそれと分かる程の張りは、彼がまだまだ現役で通用することを示している。なので、この有様を涙脆くなった老人の無様――と見る者はいなかった。


 と、いうか――未だにフェルディナント軍における個人的な武の双璧といえば、「鬼人」ロッソウと「二刀」ベーア=オルトレップの二人なのだ。

 彼等にはトリスタンやリヒベルグも五回に一回勝てるかどうか――という程度であり、エルウィンやゾフィーに至っては、十回に一回勝てれば良い方なのだった。


 ともあれヴィルヘルミネに無視された形のヘルムートは、少しだけ傷付いている。それと同時に、「やはりヴィルヘルミネ様は、私に対してお怒りか……」と奇妙な納得をしているのだった。

 

 黒髪の宰相は紫眼に謝意を込め、ヴィルヘルミネの背中に片膝を付く。


「この度は閣下のご意思を忖度しきれず、誠に申し訳ございませんでした。お陰でエーランド王国を動かすのに手間取り援軍が遅くなりましたこと、お詫び致します」


 ヘルムート=シュレーダーの言葉に、赤毛と朱色髪の少女がギョッとした。


 とはいえ赤毛の少女は、「ヘルムート!? エーランド王国を動かしたって、卿は一体何をしたのじゃ!? 余の意志の忖度って何!?」と思っただけだ。しかし朱色髪の少女の驚愕は赤毛の少女を遥かに凌ぎ、巨大で高密度のものであった。


 ――それってつまり、ヴィルヘルミネがエーランド王国を動かせと彼に命じたというの!? ていうか彼がフェルディナントの宰相、ヘルムート=シュレーダー――……? なんですの!? この名工の手による大理石の彫刻のような男は! 優秀でカッコ良過ぎなんて、どうなっていますのッ!?


 ルイーズはヴィルヘルミネの天才性をちょっとだけ畏怖し、あとはだいたいヘルムートをハート型にトランスフォームさせた瞳で見つめていた。胸はドキドキするし顔が熱くなって、朱色髪の令嬢は途端にモジモジとしている。


 一方ヴィルヘルミネは、ヘルムートに内緒で兵を動かそうとしたことを怒られると思っていた。

 けれど彼は何らかの方法で令嬢の命令を知り、それをどう忖度して勘違いしたのか、結果としてエーランド王国を動かしたらしい。その上で国軍のほぼ全てを率い、援軍に駆け付けたのだ。

 そこで手間取ったと言われても、ヴィルヘルミネには「何のことやら?」である。


 だが赤毛の令嬢にとってヘルムートの勘違いは、天祐であった。ならば、彼女のやるべきことはたった一つ。「すっとぼけ」だ。大得意であった。


 赤毛の令嬢はゆっくりと振り返り、跪くヘルムートを見下ろした。闇を溶かしたような黒々とした髪と、その間から覗く艶然たる紫色の瞳が見える。


 やっぱりヘルムートはイケメンじゃのう――なんて思ったら、早速デレそうになってしまった。心を鬼にして、ヴィルヘルミネは「すっとぼけ」の為に口をへの字に曲げていく。


「このような失態、卿らしくもないの。じゃが他でもないヘルムートのこと、此度は許そう。いや、此度も――じゃな。余が卿を許さなかったことなど、今まで一度としてあったかの?」


 最後に微笑を付け加えて、ヴィルヘルミネの「すっとぼけ」は完遂された。


 もしも本当にヘルムートが失態を犯していたなら、これは見事な名君の裁きだろう。しかし実態は黒髪の宰相に非など無く、彼が勝手に詫びたことにヴィルヘルミネは乗っかった。それをよく分かりもしないのに、許しちゃっただけのことである。


「ありがとうございます、ヴィルヘルミネ様」

「面を上げ、立つがよい。のう、ヘルムート。卿も朝食はまだであろう? 席を用意させる――ロッソウもな」


 ヴィルヘルミネとヘルムートのやり取りを見ていたルイーズは、頬を真っ赤に染めていた。心臓の音が煩くて、なのに視線は黒髪紫眼の宰相から外せない。


 ルイーズは思わず立ち上がり、自分でも意外な言葉を口走っていた。


「ミーネ、ミーネ! へ、ヘルムート様のこと、わたくしにも紹介して頂けないかしら!? こ、高名なフェルディナントの宰相様でいらっしゃるのよね? だ、だったら、お、おお、幼馴染として、わたくしもご挨拶をすべきかなって思いますの!」

「ふむ――……まあ、構わぬが。なんじゃ、ルイーズ。顔が真っ赤じゃぞ?」


 ヴィルヘルミネがヘルムートに頷くと、彼は優しく微笑みルイーズの側で片膝を付く。そのまま彼女の手の甲に、そっと口づけをした。


「ヘルムート=シュレーダーと申します、公爵令嬢フロイラインヴァレンシュタイン。以後、お見知りおきを」

「あ、あなたのお噂はかねがね……た、たいそう優秀な政治家だと伺っておりますわ、ヘルムート卿」

「優秀かどうかは存じませんがヴィルヘルミネ様のお陰で、今のところは大過なく宰相職を務めさせて頂いております、公爵令嬢フロイライン

「そう――なのね。そ、それより堅苦しい呼び方は、およしなさい。あ、あなたにはルイーズと呼ぶことを、特別に許しますわ! だってあなたはわたくしの大切な親友ミーネの、その宰相閣下なのですもの! 仕方がありませんわ!」


 完全に逆上のぼせせあがったルイーズは口づけされた手をそっと胸元へ置き、席に座る。胸の鼓動は未だ収まらず、どうやら彼女は生まれて初めての感情を持て余しているらしい。


「のう、ゾフィー。余、いつからあやつの親友になったのじゃ?」

「さあ? でも何だかイラっとしますので、とりあえずルイーズを殴ってみましょう。口から変な妖精が出てくるかも知れません」

「――かも、知れぬの」


 赤毛と金髪の美少女二人は、ジトッとした目でルイーズを奇行を見つめているのだった。

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