第163話 ニーム攻防戦 25
ルイーズをヴィルヘルミネの陣営へ送り出したヴァレンシュタインは、断腸の思いだ。けれど娘が軍人の道を望むのなら、この程度の任務は達成して貰わなければ困る。
とはいえ獅子は我が子を千尋の谷へ突き落すと言うが、朱色髪の名将は、今がまさにそうした心境なのであった。
そうはいってもヴァレンシュタインはヴィルヘルミネに対し、一定の信頼を置いている。少なくとも彼女がルイーズを害する、とは考えていない。ではなぜ背筋に不安が忍び寄るのかと言えば、彼女に従わないランスの過激派将兵がルイーズを襲う可能性を、不毛だと知りつつも考えてしまうからだった。
そうした不安からヴァレンシュタインはよく眠れず未明に目が覚めてしまい、時間つぶしの為に天幕の外でコーヒーを飲んでいる。
冷えて済んだ空気の中、立ち上るコーヒーの湯気と香りは不安に燻る親心を、僅かだが癒してくれた。
――まったく。軍人など目指さず、平凡でもいいから安定した男の下へ、嫁いでくれれば良いものを……。
そんなことを思うヴァレンシュタインだが、しかし公爵令嬢ともなれば「平凡な男」など望むべくもない。ましてや彼女は一人娘だから、降嫁すら出来ないのだ。
となれば女公爵となって下位の者を婿に迎えるか、王や皇帝の妻になる他に道が無い。それもこれも戦地を転々として弟の一人も作ってやれない己の不甲斐なさだと思えば、ヴァレンシュタインは酒の一杯も飲みたくなってしまうのだが。
「ふぅ……」
ため息交じりに赤みが増した東の空を見つめていると、ヴァレンシュタインは後ろから声を掛けられた。イシュトバーンであった。
「どうやら、閣下も眠れなかったようですね」
「と、いうと卿もかね――イシュトバーン」
「ええ。ルイーズはやんちゃですからね……今頃どうしているのかと、心配にもなります」
「ハハ……まったくだな。とはいえヴィルヘルミネを信用させるには、ルイーズという札を切るしか無かった。こんな手を使う私を、イシュトバーン――君は軽蔑するかね?」
「まさか――親バカだな、と思うだけですよ、兄上」
「ハハ……ハハハハ! それは間違いない。なにせ、こんなところまで娘を連れてきているのだからな。お陰で軍務と天秤にかけ、苦しむ羽目になる。……にしてもお前、言うようになったなぁ、グラディス!」
「や、やめて下さい、兄上!」
椅子から立ち上がってイシュトバーンの髪をクシャクシャと描き回し、ヴァレンシュタインは笑っている。少しだけ気が楽になった。持つべきものは、やはり家族だ。
不意に手を止めると、朱色髪の名将は懐かしそうに言った。
「それにしても、
朝日が東の地平から上り始めた。その先にヴァレンシュタインの故国はある。姓と同じ国名、ヴァレンシュタイン公国だ。
しかし新たにエーランド軍を討伐しなければならない身としては、いつ故郷の土を踏めるのかなど分からない。
「まったくです。いつ帰れますことやら」
「皇帝陛下も人使いが荒い。グスタフ亡き今エーランドなど、私でなくとも十分迎撃出来るだろうに……などと、心を他の戦場へ飛ばしている余裕は無さそうだな、グラディス」
ついぼやきが出たところで、ヴァレンシュタインは目を細めた。朝日の下に蟠る、黒い影を見たからだ。イシュトバーンもどうやら、同じものを見ているらしい。
「兄上、見えますか? あの黒い影が……」
「ああ。東の地平に黒い塊が見える――どうも軍勢のようだな」
「援軍、でしょうか?」
「そうであれば心強いが、物事がそうそう都合よく行くとも限らぬ」
東から来る軍勢と言えば、本来なら味方のはずだ。だがヴァレンシュタインは妙な胸騒ぎを覚え、望遠鏡を覗き込んだ。頭を振る。そして溜息を吐いた。
「はぁ、やはり敵だ。ヴィルヘルミネには、してやられたよ――……敵はまだ川の先にいるが、しかしあれでは補給路を押さえられたも同然だ」
手にした望遠鏡をイシュトバーンに渡し、「覗いてみろ」と投げやりに言うヴァレンシュタイン。
「青と白の二色旗、中央に熊の意匠――あれはフェルディナント軍の『二刀』、ベーア=オルトレップの師団! しかも一万に近い数なんて……馬鹿なッ!」
「ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントは紛れもない天才だ、参った――到底、私如きの及ぶところでは無かったらしい」
「どういうことです、兄上? あの程度の数なら、まだまだ我等も戦えます!」
「いや――フェルディナントの国軍がここまで出張るなど、エーランド軍がキーエフ本国へ侵攻したことを知らなければ出来ない動きだ。なにせ本格的に帝国と、ことを構えようというのだからな。隙を突くのは当然だし、また逆に言えば隙を突かねば潰される」
「たしかに、それはそうでしょうが……しかし、ヴィルヘルミネはどうやって情報を掴んだのでしょう?」
「おそらくあの娘は、情報を掴んだのではあるまい。むしろ率先してエーランドを扇動し、対キーエフの尖兵に仕立て上げたのであろうさ。あの国には一人、そういう芸当が得意な男がいたはずだからな」
「フェルディナント公国宰相、ヘルムート=シュレーダー……」
イシュトバーンは望遠鏡から目を離し、下唇を噛んでいる。
「あれもあれで、化け物だからなぁ」
「それではつまり、我等はずっとヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントの掌の上で踊っていた、ということですか?」
「まさに、そういうことだ。ハハ、ハハハハ。しかも最悪なことに終幕近くで、ずいぶん盛り上げようとしているらしい。ならば――……ここからが本番だ」
ヴァレンシュタインが肩を竦めると同時に、周辺を監視していた兵が次々に叫ぶ。「北より敵! 数、およそ一万!」「北東より敵! 数、およそ一万!」
「ほらみろ、来たぞ」
「こ、この数は……!?」
「ほぼ全軍を繰り出したのだろう。私だって、可能ならそうした作戦を立案する。つまりな、ヤツの狙いは我等の包囲さ。グラディス――昨日のヴィルヘルミネは、奇妙な消極戦法をとっていただろう?」
「は、はい」
「それで我等の突出を誘い、この地に釘付けにする。最初から包囲することが目的だったとしたら、全て合点がいかんかね?」
「まさか――……そんな!?」
「ま、しかし――……この際は会談を申し込んでいたことだけが、我等にとっては救いだな」
「ですが兄上であれば、包囲を突破して帰国することも可能では……!?」
「不可能ではないが、半数の兵を失うだろう。それでは後でエーランド軍と、どうやって戦えば良い? つまりヴィルヘルミネは我々から、おおよそ理性的と言える全ての選択肢を、既に奪っているのだ。だから私は、素直に負けを認めるしかない――という訳さ。
ことここに至れば、潔く会談の時間を待つとしよう。もはや我等に有利な条件を、などと悠長なことは言っていられないがね」
片目を瞑り悪戯っぽく笑うヴァレンシュタインは、むしろ状況を愉しんでいるかのようであった。
■■■■
北から現れた軍勢の中に、ひときわ豪奢な馬車が一台混ざっていた。車内には大きな机があり書類が山積みになっていて、一人の宰相と三人の秘書官が黙々と仕事を続けている。
馬車が止まり、外から扉が開けられた。長身の男性士官が宰相に敬礼をして、これから全軍の布陣を行う旨を告げる。
「布陣予定地に到着致しました。閣下の天幕は後方へ設置させて頂きますが、よろしいでしょうか?」
士官は軍帽を目深に被って、双眸を隠そうとしているらしい。彼は右目が金、左目が緑色のオッドアイだ。誰にも言わないが、彼にはそれがコンプレックスなのである。
年齢は三十を少し過ぎたばかりで、名工の手による彫刻のように美しい容姿だ。けれど感情の浮かばないその表情は、完全無欠の精密機械のようでもあるのだった。
「――ああ、そうですか。
ただできれば、早急にヴィルヘルミネ様と連絡を取って頂けませんか? エーランドを動かすのに、少々手間取りました――お詫びをしておきたいのです」
「分かりました」
「どのくらいで、連絡が取れますか?」
「……早々に可能でしょう。リヒベルグ少将の密偵が齎した情報によりますと、ヴァレンシュタイン公はヴィルヘルミネ様に講和を申し出たそうです。ならば我等の通行に、何ら支障はないかと」
「ああ、それでしたら私が直接、ヴィルヘルミネ様がいらっしゃる高地へ行きましょう」
「しかし宰相閣下自らとなれば、危険です。敵が暗殺を狙うやも知れません」
「なに、どうせ私が陣営に居た所で役には立ちませんし、ヴィルヘルミネ様に決済して頂きたい書類も沢山あるのです。どうしてもダメですか?」
「――でしたら、ロッソウ少将と百の騎兵を護衛にお付けしましょう。敵を刺激しない、最低限度の護衛です」
「ありがとう、参謀総長。そういえばロッソウ殿も『ミーネ様不足じゃああああ! だぁぁぁぁああ!』なんて言ってましたから、丁度良いかも知れませんね」
柔らかな微笑を浮かべる黒髪紫眼の宰相、ヘルムート=シュレーダー。彼は未だ三十歳に満たぬ身でありながら、エーランド王国を操り大国キーエフを手玉にとっている。
オッドアイの参謀総長トリスタン=ケッセルリンクは、三万もの兵を巧みな分進合撃によってキーエフ軍の目から晦まし、今、鮮やかに出現させて見せたのであった。
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