第160話 ニーム攻防戦 22


 十四時を過ぎると戦場には大粒の雨が降り出し、両陣営ともに大砲、マスケットが使えなくなった。


「砲兵隊を下げ、歩兵部隊を展開させろ。騎兵部隊はそのまま両翼を固め、敵の迂回に備えておればよい」


 雨音に交じり、よく通るバリトンの声が響く。ヴァレンシュタインの命令であった。

 こうした天候の変化も、朱色髪の名将は織り込み済みだ。そして彼の命令は、ヴィルヘルミネが予測した「最悪の事態」へ進行する為の序曲でもある。


 とはいえ、既に戦う気の無いヴィルヘルミネのこと――いくら朱色髪の名将が歩兵を展開させたり攻撃を命じたところで、のれんに腕押し状態になるだけだ。

 要するに「最悪の事態」さえヴィルヘルミネにとっては、予定調和に過ぎないのであった。


 そんな中で両手を広げて雨を受け、テンションマックスな美少女がいた。自軍が圧倒的に優勢だから、完全に気をよくしたルイーズだ。

 彼女は兵達と同じく灰色のレインコートを着て、ヴァレンシュタインの隣で馬に乗っていた。馬は迷惑そうな表情かおで、「ぶるる」と頭を振っている。


「神様もお父様の味方をして下さっているのですわッ! 吹き荒れよ嵐ッ! 地を穿て雷ッ!」

「嵐は困るよ、ルイーズ……それでは流石に、兵を退かなければならない」

「あらあら、当世の名将であらせられるお父様でも、怖いものがありますのね! あははははっ! 雨よ降れーっ!」


 両手を広げ、ルイーズは嬉しそうに笑っている。中二病と大雨は、どうやら相性が相当に良いらしい。

 だがその瞬間、辺り一面が白く輝き、轟音が鳴り響いた。

 大砲どころではない。大気を切り裂き地を穿つ天の裁き――雷であった。


 ピシッ――ドドォォォォン!


「ヒェッ!」


 ルイーズは慌てて首を竦め、本当に地を穿った落雷に狼狽している。ワタワタと両手を振り回し、ヴァレンシュタインの周りをグルグルと回っていた。竿立ちにならない馬の方が、よほど度胸がある。

 相変わらずルイーズは、何一つ役に立たない美少女なのであった。


 ヴァレンシュタインは苦笑して娘を見たが、雷が近いとなれば兵も戦争どころではない。いったん身を低くさせて、暫時、全軍に待機を命じるのであった。


 ■■■■


 天幕の中で椅子に座ったままのヴィルヘルミネが、ぴょんと弾んだ。

 朝から砲撃を繰り返していたヴァレンシュタインがやっと大人しくなり、被害状況の報告を受けた直後のことであった。


 幸いにして死者は一人も出ず、重傷者が三名と軽傷者が十四名とのこと。赤毛の令嬢は「で、あるか」といつものような返答を繰り返し、降り始めた雨の音を聞いていた。すると大雨から突如として落雷――結果、ぴょんと弾んだ次第である。


 ――びっくりしたのじゃ! 心臓が脳天から飛び出るかと思うたのじゃ!

 

 幸い皆、本営たる大天幕の中を慌ただしく駆け回っていた。なのでヴィルヘルミネの珍妙な行動は、誰にも見られなかったのである。


 いや――正確には見ていた人物が一人だけいた。ゾフィーだ。

 しかし彼女はただ「ヴィルヘルミネ様、可愛い」と思い「ハァハァ」していただけなので、とくに実害は無かった。


 よってヴィルヘルミネは、何事も無かったかのようにランス軍の司令官を呼んでいる。


「バルジャン」


 敵の総攻撃直後――という危機的状況にあり、なぜかテキパキと命令を飛ばすランスの英雄が振り返った。


「あ、ミーネ様。なんでしょう?」

「少し話があるのじゃが、じゃが……」

「ちょっと待ってください――……うん、うん、ニーム市からの補給が滞るのは、この天候だ、仕方あるまい。うん、分かった――よし、行けッ」


 部下から報告を聞き命令を下すと、バルジャンは栗色の髪をポリポリと掻きながらヴィルヘルミネの側へやってきた。


 軍事の天才がランスの英雄を呼び、新たな作戦計画を練る。周囲で働く士官達には現状が、そのように見えた。

 肝心要のところでヴィルヘルミネは、バルジャンを高く評価している。そんな風に皆が勘違いしても、おかしくはない光景だ。


 実際、バルジャンの部隊運用は名人芸の域に達している。ヴィルヘルミネが指示した通り絶妙なポイントまで砲を下げ、兵達が塹壕に籠る位置を調整して、被害を最小限に抑えたのは彼の手腕であった。少しでも見る目のある人物なら、バルジャンの能力を高く評価することだろう。


 だがもちろん、ヴィルヘルミネが評価しているのはバルジャンの顔面点数だ。八十点を超えているから、「髭さえ剃れば、そこそこじゃの」と思っているだけであった。


「すんません、ヴィルヘルミネ様。砲撃が終わったから、補給やら何やらの話が色々来てまして……いやでも、今日は本当に助かりましたよ。ヴィルヘルミネ様の指示が無ければ、とんでもない被害が出ていたでしょうから」


 バルジャンは恭しく敬礼をし、素直に礼を述べた。彼は小物で小心だが、部下の命を軽んじたことだけは無い。今日のことを心底から、ヴィルヘルミネに感謝しているようだ。


「戦闘は、まだ終わったわけではないぞ――バルジャン。ヴァレンシュタインは恐らく、この雨に乗じて白兵戦を仕掛けてくるじゃろう。急ぎ備えよ」

「えっ……まさか――……雷雨ですよ?」

「雷など、すぐに収まろう。雨で砲も銃も使えぬとあらば、数に勝る敵軍が有利。じゃによって、備えよ――と、申しておる。余の言葉が、卿は信じられぬのか?」


 ヴィルヘルミネは剣呑な表情を浮かべ、静かに語る。軍神の姫巫女たるに相応しい、冷淡ながらも覇気に満ちた声で。


「備えよ――と、申しますと?」


 バルジャンは表情を引き締め、乾いた唾を飲みながら問いかけた。


「敵の狙いは、我が軍の外周部を崩すことにあろう」

「ってことは――敵は第四、第五高地へ突撃を仕掛けて来るってことですか?」

「うむ、間違いなかろうの」

「それは、随分と回りくどいやり方ですね。第二高地の重要性に敵が気付いているのなら、どうしてそっちを狙わないんです?」

「敵の意図は、我が軍の戦意を挫くことにあると思われる。であれば自軍も兵力の多大なる損耗を覚悟せねばならん第二高地を狙うより、比較的奪取の容易な第四、第五高地を狙うが必然じゃ」

「なるほど……そういうことなら早速兵を派遣し、防備を強化します」

「いや、それには及ばぬ」

「……は?」

「第四、第五高地へ意図的に穴を作れと申しておるのじゃ。それで敵の主力を誘導できるじゃろうが」

「なるほど」

「重要なことは砲を鹵獲されず、兵の損耗を防ぐこと。敵が高地を欲するならば、くれてやればよいのじゃ」

「それって、戦いつつ上手いこと兵を退けってことですかね?」

「そうじゃ。第四、第五高地を餌にして、兵の損耗を避けつつ時間を稼ぐのじゃ。そのくらいなら、卿にも出来るじゃろ?」


 バルジャンは首を傾げつつ、了承した。中々に難しい命令オーダーだが、「死守せよ」と言われるよりは余程マシである。

 しかし戦線を維持しつつ後退し、負けたフリをする――こんなマネが出来る将軍は、そうそういない。それを、「そのくらいなら」ときたものだ。


 バルジャンは頭を掻きながら、「参ったなぁ……頑張るしかないなぁ」とボヤいている。


 もちろんヴィルヘルミネは相変わらずバルジャンの能力を低く見積もっているし、本気で「そのくらい」と思っているだけだが、バルジャンはヴィルヘルミネの信頼が嬉しかった。何としても期待に応えたいと思ってしまう。それはそれで、彼もポンコツなのであった。


 とはいえ戦線が後退することは明らかだから、「これで勝てるのか」との疑問もある。だからランスの英雄は踵を返す前に一言、ヴィルヘルミネに質問をして……。


「あの、ヴィルヘルミネ様。朝からずっと退いてばかりですが、これで本当に勝てる――というか、十一月まで、ここを守り切れるんですか?」


 当然、今夜にも降伏する気マンマンの令嬢は答えなかった。彼女はもう、守ることも勝つことも考えていないのだ。だから横にした三日月のような口で、ニタリと笑っただけである。

 

 だが同じ降伏するにしても、味方が一兵もいないのと十分な余力を残しているのでは、扱いが全然違う。だからこそ彼女は負ける為に、超が付くほど真剣であった。なるべく無傷で負けたいのだ。

  

 結果として彼女は、名将ヴァレンシュタインの意図を完璧なまでに読み切った。その上で負ける為の最善手に辿り着いたのだ。

 もしもここで反撃の一手を思い付けたなら、本当の意味で軍事の天才と言えるだろう。だがもちろん、そんなことは無いのであった。


 バルジャンはヴィルヘルミネの笑みを自信の表れと受け取り、敬礼を向けた。踵を返して足を止め、最後にもう一つ、問う。


「チェス――……また出来ますかね?」

「明日の夜には、きっとまた勝負が出来よう。楽しみじゃの。フフ、フハハ、ファーハハハ!」


 もちろんヴィルヘルミネは、「安全に降伏したらチェスくらい出来るじゃろ」と思っただけだ。しかし彼女の発言を聞いた士官達はバルジャンを筆頭に皆、笑みを浮かべて頷き合っている。

 ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナンドが勝利を確約した――そう思えたからなのであった。

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