第159話 ニーム攻防戦 21


 十月二十九日は早朝から鉛色の雲が空を覆い、いかにも重苦しい空気であった。そのうえ寒風も吹きすさび、ニーム市の周辺はランス南部とは思えない程に気温が下がっている。


 この日ヴィルヘルミネは、とっくに起床の時間を過ぎたというのに意地汚く、野戦用のベッドから出ようとしなかった。それどころか毛布の上に胸甲騎兵用の正装である真紅のマントまで乗せ、プルプルと震えながら小さくなっている。


「さ、寒い……余は、死ぬのか……?」


 むろん死なない。急に冷え込んだから、ベッドから出ない為の言い訳であった。

 しかしすっとぼけた令嬢の妄言を信じたゾフィーはオロオロとして、ヴィルヘルミネが蹲るベッドの周りを歩きながら「どうしよう、どうしよう」と困り果てている。


 さすがに赤毛の令嬢も見かねたのか、「砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲めば、余、少しは良くなるやも知れぬ」と、毛布から目だけを出した状態で要求を伝えていた。


 ゾフィーが温かいコーヒーを差し出すと、ヴィルヘルミネはムックリと起きだした。カップを両手で包み込むようにして持ち、フーフーと一生懸命に中身を冷ましている。


「外はまるで、冬が来たかのような寒さです」

「――で、あるか」


 ゾフィーの言葉に頷いて、ヴィルヘルミネは天井を見上げた。びゅうびゅうと風の音が聞こえ、ちょっと怖い。

 

 コーヒー飲料を飲み終えて着替える気になった令嬢は、ようやくゾフィーに手伝ってもらい身支度を整えた。ちょっと寒すぎるので、いつもの軍装の上にオコジョの毛皮で出来たマントを羽織った。いかにも王侯貴族といった出で立ちで、令嬢は何故か照れている。


「の、のう、ゾフィー。これ、似合うじゃろか?」

「はい、とても似合います。可愛いです」

「む、む……?」


 依然鳴りやまない風に胸騒ぎを覚えた令嬢は、天幕の外に出た。ヴィルヘルミネの第六感が「危険」を告げている。

 といっても女の勘とか、そういう洒落たモノではない。天災を前にして動物たちが森から逃げ出すような、そういった野性的な勘であった。


 外は、今にも雨が降り出しそうなほど暗い空だ。天幕の上にたなびく一角獣旗ユニコーンを見上げれば、風は北から南へと吹いているらしい。いつもなら西からの風がちょうど良い気温の空気を運んでくるというのに、これでは寒いわけである。


 もっとも、ヴィルヘルミネが怯えた理由は寒さなどではなかった。彼女は風の強さと方位を知るや、突如として訪れた胸騒ぎの理由に一人納得をし、口をへの字に曲げている。


 ――これでは敵の砲弾の飛距離が伸び、相反して我が軍の砲弾の飛距離は縮まってしまうのじゃ。不味いのぅ……。


 ヴィルヘルミネの思考は砲兵科の士官として、当たり前のものだ。しかし当時、砲兵科は不人気で、非常にマイナーな兵科であった。

 人気で言えばダントツが騎兵科で、普通は歩兵科へ行く。それらの選考に漏れた者が止む無く工兵科へ進み、それすら漏れたら「もういいや……」となるのが常であった。


 だからランスの幼年学校で砲兵科といえば学費が免除され、士官学校に至っては二割増しの給金が支払われる。こうして地方の困窮した下級貴族や平民から、何とか人員をかき集めているのが砲兵科の現状だ。ゆえに将官クラスの人材で仰角と火薬の量から、弾道計算が出来る者など皆無なのであった。


 そんな中ヴィルヘルミネは、楽そう――という謎の理由で砲兵科に進み、無駄に数学が得意という廃スペックぶりを発揮した。

 したがって令嬢は大砲の着弾予測を――オーギュストには若干劣るものの――かなり正確に、しかも速く、それを脳内で完結することが出来るのだ。

 これが為に幼年学校では普段寝ているにも関わらず、皆に一目も二目も置かれているのであった。

 

 そうはいってもヴィルヘルミネ本人は、これを宴会芸の一種だと思っている。授業で正確無比な着弾予測を披露すると、皆が「おお~~! 流石はヴィルヘルミネ様!」と褒めてくれるから、「えっへん!」という程度の感覚なのであった。


 とはいえ、今日の問題は切実だ。何しろ敵の砲門がこちらに向いており、ヴィルヘルミネの誇る宴会芸が、恐るべき着弾の予測をはじき出してしまったのだから。


 ――第二から第五高地には、敵の砲弾が中腹まで届くじゃろう。対してこちらの砲弾は、火薬を増やさねば敵の大砲まで届くまい。さりとて火薬に余裕がある訳でもなし……。

 幸い本営は北側を第二高地に守られておるゆえ、まあ問題なかろ。しかし雨が降りだせば、別の厄介な問題が出てくるのじゃ――……さて、どうしたものかの。


 令嬢は今日の風が自軍に不利であることを看破すると同時に、これを防ぐ方法は無いかと必至で考えた。

 

 結果として「自軍の大砲を敵の砲撃が届かない地点まで下げ、兵員は塹壕内へ籠れば良いのじゃ!」と思い付く。

 これを余裕で「名案じゃ!」と思う令嬢であったが、余りにも恐ろしい消極策に、話を聞いたゾフィーの顔は若干引き攣っていた。


「皆に通達せよ。今日は敵の砲撃が、ひと際激しくなるであろう。じゃによって第二から第五の各高地は砲を頂上付近まで後退させ、これに備えよ。また兵士は塹壕陣地を死守し、決して攻撃に転ずることの無きように。ええと、あれじゃ――籠って出るなということじゃ」

「は? え? ――……は、反撃をしないのですか?」

「敵が塹壕へ強行突入を目論んだ場合にのみ、その殲滅を目的として射撃は許可しよう。それ以外は皆、塹壕の奥にに隠れ、敵の砲弾を凌いでおれば良いのじゃ」

「は、はいっ!」


 とにもかくにもゾフィーは頷き、急いでエルウィンの下へ向かった。珍しく具体的な指示をヴィルヘルミネが出したから、余程のことだろうと考えたのだ。


 実際、ヴィルヘルミネは「超やばいのじゃ、急げ!」と思っていた。もしも自分がキーエフ軍を率いていたなら、今こそ千載一遇の好機、ありったけの砲弾を雨あられと降らせたあと、降伏勧告の一つもするだろう。


 それにヴィルヘルミネは、雨も心配であった。

 大雨が降り大砲や銃が使えなくなれば、敵は白兵戦を挑んでくるかもしれない。そのとき本営に敵が戦力を集中させてきたならば、果たして守り切れるだろうか。


 ――あと二日耐えれば良いだけだというのに、どうしてこんなことになったのじゃ。神は余を見捨てたもうたのかッ!?


 ヴィルヘルミネは半べそで、地面をゴロゴロと転がりたい衝動に駆られていた。


 しかし本人も気付いていないが、彼女は今、凄いことをしている。なんと名将ヴァレンシュタインの作戦を、かなりの部分まで看破していたのだから。


 ヴィルヘルミネは悩みに悩んだ末、「そうじゃ……」と小さな呟きを漏らす。


 ――余なら攻撃のあと、必ず降伏勧告をするじゃろう。明日もこの風が続くとは限らぬからの。ん? ……あれ? もしかして、そこで余が降伏をすれば万事丸く収まるのではないかの――……そうじゃ、そうしよう!


「フフ、フハハハ、ファーハハハハハ!」


 燃えるような赤毛を北風に靡かせ、辺りに哄笑を響かせるヴィルヘルミネの姿は、曇天で下がるランス軍の指揮を爆上げさせた。しかし彼女の心中が激しく後ろ向きであったことは、誰一人として知る由もない。


 ■■■■


「大砲を下げよと――ヴィルヘルミネ様が?」


 エルウィンは本営の天幕内でゾフィーの話を聞くと、秀麗な眉を怪訝そうに寄せた。


「なにか?」

「あ、いや、先程ランベール少佐からも同じような意見具申があったのでね、何事かと思って」

「そう言えば、ヴィルヘルミネ様は風を気にしておいででした」

「風? ああ、いや――なるほど、そういうことか」


 エルウィンは一人納得し、「分かった。急いで全軍に通達するよう、バルジャン閣下に進言をする」と確約をした。

 彼も貴族の出身であり砲兵には余り良いイメージを持っていなかったが、愛するヴィルヘルミネが選んだ兵科のこと、それなりに研究していたのである。だからこそエルウィンはヴィルヘルミネの言葉の意味を理解し、即座に対応することを決めたのだ。


「デッケン中佐。これは一体、どのような意味なのです?」

「高位に位置する我等の優位を、北からの風が無効化する――つまり敵の砲弾がこちらまで届くぞ、ということだ、ゾフィー=ドロテア。ましてや砲兵科の二人が共に警鐘を鳴らしているとなれば、確実なのだろう」


 表情を引き締めエルウィンが伝令を呼ぼうとした刹那、ドォォォォン、ドォォォォン――という凄まじい爆音と共に、敵の総攻撃は始まった。

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