第158話 ニーム攻防戦 20
翌、十月二十八日は静かに始まった。前日から続く晴天が、秋の爽やかな風を運んでいる。煌めく朝日が紅葉で赤く映える森の木々を照らし、起伏に飛んだ大地は黄金色に輝いて見えた。
そんな中、ヴァレンシュタインは前日の損害を鑑みて、敵軍を包囲下に置きつつも一部の部隊に休息の為、待機を命じていた。キュンネケ少将を失った師団である。
そもそも昨日の戦闘で、キュンネケ師団は二千もの損失を出していた。負傷者の数はそれほどでも無かったが、指揮官を失うという事態は部隊に容易ならざる敗北感を齎している。
また、問題は敗北感だけでは無かった。
師団司令部は復讐戦に燃えているが、兵の方は逆だ。暴虐の指揮官が死んだと、喜ぶ風潮さえあった。双方の溝を埋める為にも、今日のところは様子見に徹した方が良さそうだとヴァレンシュタインは考えている。
――ま、それでもキュンネケが師団長でいるよりは、扱い易い師団になるだろうさ。
皮肉っぽい笑みの中に、ヴァレンシュタインはこんな思いを潜ませていた。むろん、決して口に出しては言わなかったが。
ともあれ朱色髪の名将は、こうした事情から今日の予定に戦闘行為を含めていない。それに昨日の攻撃を見事に防がれた以上、入念に敵陣を視察して新たな弱点を探る必要にも迫られていた。
従ってヴァレンシュタインは午前七時より幕僚を引き連れ、前線の視察を開始したのである。
まずは第一高地を巡り、昼食までに第六高地の視察を終えると、朱色髪の名将は珍しく唸り声を上げていた。
「……ううむ」
「どうも信じがたい事ですが、敵は
本営に引き返す途中で、参謀長が言った。ヴァレンシュタインが今まで何も言わなかったからだ。馬上で朱色の髪を撫でつけ、名将は静かに頷いている。
「敵も思いの他、損害が多かったのだろう。恐らくは昨夜のうちに
「でしたら閣下、今こそ軍を進める良い機会では? 上手くすれば敵を迂回して、ニーム市へ侵攻することが出来ますぞ! 敵の補給路を寸断するのですッ!」
「それこそ、敵が手ぐすね引いて待っていよう。我が軍に対して攻勢に出る為にこそ、敵は兵力を集中させたのであろうからな」
「でしたら、如何なさるおつもりで? 対陣が長引けば、より補給線の長い我等の不利は明白ですぞ」
「分かっている。とはいえ、ここは正攻法しかあるまいよ。砲兵を並べ散弾を使い、圧力を高める。そうして前進し、敵を殲滅するのみだ」
「そ、それでは、しかし――……」
「ああ、悔しいが消耗戦だ。しかし、兵力に勝る我が方が確実に必ず勝つ方法でもある。ヴィルヘルミネもきっと、これを最も恐れていることだろうさ」
そうした会話を交わした後、ヴァレンシュタインが本営へ戻ると、皇帝ヨーゼフからの特使が天幕で待っていた。深緑色の衣装が特使の身分を顕著に表している。それは皇帝直下にあることを示す色であった。
■■■■
「これは勅命である」
天幕の中、使者は振り返り、たった今戻ったヴァレンシュタインを見据えて声高らかに宣言をする。手にした紙を縦に広げ、内容をすぐに読み上げた。
ヴァレンシュタインは慌てて膝を折り、跪いて拝聴する。顔を見れば使者は名のある法衣貴族で、文官としては大臣に次ぐ地位だ。いわゆる審議官という職にあり、次期外務大臣の候補でもある男であった。
「去る十月十七日、北方エーランド王国が我が帝国の国土を侵したり。十万の敵兵を率いたるは、かの国の第二王子クリストファである。
我が親愛なるヴァレンシュタイン公爵よ。速やかにランスにおける問題を処理し、余の名代として軍を率い、外敵の征伐に当たられたし――……キーエフ帝国皇帝ヨーゼフ」
ヴァレンシュタインの眉が、ピクリと動く。明らかにランス軍と対峙した状況にあり、この勅命だ。無茶と言わざるを得ない。しかし、彼には拒否権など無かった。
「御意。勅命、謹んで承ります」
宮廷儀礼に則り皇帝からの親書をヴァレンシュタインへ手渡すと、使者は声を潜めて彼に耳打ちをした。
「して、ヴァレンシュタイン公。目の前の敵は、如何なさるおつもりか?」
「使者殿には、その件も陛下へ報告の義務がおありかな?」
立ち上がり、むっつりとした視線で使者を見下ろし、ヴァレンシュタインが逆に問う。声を潜める気も無く、よく通る声であった。身長はヴァレンシュタインの方が十センチほど高い。使者は肩を竦め、首を左右に振っている。
「いや、個人的な興味ですよ。敵は噂に名高いヴィルヘルミネ。これに対するのが名将ヴァレンシュタイン公とあっては、この勝敗――私でなくとも皆、気にしております」
「戦の勝敗よりも、陛下の勅命が優先だ。となれば此度の戦――決着を付けるのは難しいですな。早々に撤退しなければなりません」
「なんと……それでは帝国の威信を示せませぬぞ。必ず勝つと仰せ下されば、皆も安心できようものを」
「……異なことを仰る使者殿だ。卿は個人的な興味と言ったが、それは偽りか?」
「いやまさか、そのようなことは。――しかし公爵閣下がフェルディナントの小娘に懲罰を与えぬとあらば、それは、噂が真実であると公言するようなものになりましょうぞ」
「……噂? なんの噂かな?」
ヴァレンシュタインの目が、ギロリと使者を睨み据えた。そのまま歩き出し、天幕の外へ向かう。使者も慌てて付いて行き、上目遣いで名将に問うた。
「おや、ご存じありませんかな? いやなに、根も葉もない噂ですが」
「根も葉もない噂であれば、卿が気にする必要など無かろう?」
「いやしかし、近頃は帝都で広まっていましてな、陛下のお耳にも入っているのです。知らぬとあらば、一応閣下のお耳にも入れて進ぜるが、如何か?」
「ふん――……流石は使者殿、よく口の回ることですな」
「お褒めにあずかり、光栄の至り」
「褒めてはおらぬよ、皮肉だ」
「はは……存じておりますとも。さて、その噂とは、このようなものです。曰く――ヴァレンシュタイン公爵家とフェルディナント公爵家が結託し、いずれは帝都を東西から挟撃する――と」
使者はニタリと笑い、肩を竦めている。
「……なるほど。だから卿はヴィルヘルミネに懲罰を与えよと申すのか」
「さようにございます、閣下」
「ヴィルヘルミネに懲罰を与える為、数多の兵を損ねても構わぬと仰るのであれば、彼女を確実に倒してご覧に入れよう。しかし本国に戻りエーランド軍の侵攻を食い止めねばならぬとしたら、兵の損耗は極力抑えねばならぬ」
「しかし――果たしてそれで、世論が納得しましょうや?」
「私の記憶違いでなければ、幸い我が国は帝国だ。となると皇帝陛下お一人に納得して頂ければ、多少の世論など無視できる制度だったはずだが?」
「はは、閣下も手厳しい。その通りですな」
歩みを止めると、ヴァレンシュタインは使者を正面から見据えて言った。
「だが撤退に際しヴィルヘルミネへ、手痛い一撃を入れることは約束しよう。その上でランスには、未だ我が軍の占領下にあるアルザスを正式に譲渡させるのだ。
フェルディナントに対しては、ランスとの同盟を破棄するように条件を付そう。ヴィルヘルミネには、これらのことを認めさせれば、十分に懲罰足りえるのではないかな?」
「なるほど。しかしそれでは、公爵閣下はヴィルヘルミネと交渉をなさると?」
「総攻撃の後、我が軍に有利な条件を認めさせるだけだ。何か問題が?」
「いえ、問題などありません。ただ私もその席に、同席させて頂いてもよろしいですかな?」
「べつに……好きにすれば良かろう。私には何も隠し立てすることなど、無いのだからな」
「では、暫く滞在させて頂くことに致しましょうか。それでは、失礼いたします」
天幕の外へ出ると、使者は一礼して音も無く去り。
ヴァレンシュタインは空を見上げ、口の端を吊り上げる。
「明日は北からの風が吹き、午後からは雨となろう――……どうやら神の御心は、私の上にこそあるようだ」
そして翌日、ヴァレンシュタインは早朝より総攻撃を開始した。
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